1. 概 要
昭和44年に数学者岡潔は著書*1 で次のように指定している。「世界は間違った思想の洪水です。これから逃れなければ人類は滅びてしまう。」 そして、「一番怪しいのは自然科学だ」と述べている。
そこで岡潔の著書と講演録*2 *3 *4 を参考に「時間とは何か」について考察した上で、自然科学の問題点を明確にした。
なお、本論は、拙ブログに記した時間に関する考察をまとめたものである。
2.観念としての時間
自然科学者は自然を「時間・空間」といった。これは自然そのものではなく簡単な模型である。
自然科学は、「わけることによりわかる(図1)」とする要素還元主義である。要素のどれかは有限でなければならないから、還元主義である自然科学は孤立系の科学であることを意味する。 岡潔によれば、人は時間の中に住んでいるのではなくて、「時」の中に住むという。 時には現在、過去、未来がある。時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。
図1
その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間である。
時間は物質あるいは物体の運動から作る。これが物理的な時間である。しかし、時間は運動そのものではない。 自然科学者は、運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っている。
時間は、過ぎ行く運動の記憶あるいは経験からくる観念である。つまり、時間は現在を含まない過去である。 だから定時の時報は過ぎてからしか知り得ない。
図2 時間は現在を含まない
ブラジル・アマゾナス州に住むピダハン族が話すピダハン語には、時制がないという。*5 しかし、我々から見てピダハン族は、我々と同じ「時」の中に住んでいる。彼らに時間の観念が無いだけなのである。 また、子どもの頃と大人になってからでは、時間の経過に違いを感じたことは誰しも経験することである。
3. 五感でわかるもの
岡潔は著書で次のように述べている。「物質は、途中はいろいろ工夫してもよろしい。たとえば赤外線写真に撮るとか、たとえば電子顕微鏡で見るとか、そういう工夫をしても良い。しかし、最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない。」
人の肉体に備わった五感でわかる範囲を大きさのスケールで表わしたのが下表である。
人が持つ五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)でわかる範囲を括弧で括った。ことに五感でわかる範囲の基本となる原子の大きさの位置に矢印を入れた。
岡潔の指摘した「時間は運動から作る(物質的な時間)」について補足すると、時間は「人の肉体に備わった五感でわかる物質の運動から作る」。 具体的には、太陽の運行による日時計、機械装置の運動による時計、水晶の振動による時計、セシウム原子の運動による時計などがある。 これらはいずれも人の五感でわかる範囲(括弧で括った範囲)にある物質あるいは物体の運動である。
続いて岡潔は、五感でわからないものについて次のように述べている。 自然科学者は、『どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。 五感でわからないものはないというのは、既に原始人的無知です。しかも、自分がそう仮定してるということにさえ気付かない。』と言う。 また、岡潔は「西洋人は五感でわからないものは、無いとしか思えない。これが唯物主義です。」とも述べた。
自然科学者は、自らが唯物主義という仮定をしていることに気付かず、「わけることによりわかる」という要素還元主義の終点に気付けない。だから上表の極大・極小の方向へ進むうちに自身の限界に気付けない。 観念としての時間は、人が持つ五感でわかる範囲にある運動によってもたらされるものであって、人は経験することのできない「物や事」に時間の観念を持つことはできない。
4. 物理的な時間は運動から作るが、量を伴わない
岡潔は、あるとき「数は量のかげ」と言ったという。*6 人の五感でわかる「物や事」には、量や嵩(かさ)がある。 例えば、机には縦・横・奥行きという長さや体積、あるいは重さがある。 材質やおかれている環境によって温度や湿度あるいは圧力など様々な量が伴っている。
長さや重さの基準(モノサシ)に対する「数」である。だからおおよその目分量でしかわからない「量」をモノサシと比較することによって数に置き換えることができる。 これが岡潔の言う「数は量のかげ」である。 そして、基準(モノサシ)を用いることによって量や嵩(かさ)のうちに見いだした「数」にはメートルやキログラムといった単位がつく。これを物理量という。
ここで、アナログ時計を用いて、電車がA市からB市へ移動する場合における時間の性質を考える。
図3
距離(長さ)を計るには長さの基準となるモノサシが必要である。 ある長さの変わらない物の2箇所に印を付ける。位置と位置の隔たりが「長さ」である。これをモノサシに使う。(図3下) するとA市と隔たった位置にあるB市までの距離がわかる。
図4 図5
外周に1~12の数字を配した円板の中心に針を取り付けたアナログ時計を用意する。図4では短針が7の位置にある。これをA市からの出発時間とする。 図5では短針が10の位置にある。これをB市への到着時間とする。電車はA市からB市へ移動するにおよそ3時間かかるということである。 アナログ時計を用いた数直線を以下に考える。
図6
図4と図5について、短針を下に直線に接するように置く。(図6)すると時の経過とともに円板は、右から左へ直線に接しながら転がって左に到達する。その間に図3に示した電車はA市からB市へ移動する。
図6の直線を眺めるとわかるように、時刻は「位置」に過ぎない。位置はA市、B市と同じく住所地番に等しい。住所どうしを差し引くことはあり得ない。例え位置を数字に置き換えて計算は可能だとしても10から7を差し引いた「3」は、量ではない。 運動から時間を作るが、運動そのものではない。2つの位置を数字に置き換えて差し引きしているに過ぎない。つまり、物理的な時間は物理量ではない。
ただし、電車の運動に関して、時計という機械装置の運動に比例するとみて差し支えない。何故なら、表に示すように「電車の運動」も「時計にかかる運動」も人に備わった五感でわかる運動だからである。 2つの運動はいずれも表の括弧の範囲内にある。電車の運動も時計の運動も人の記憶と経験による時間の観念が伴う。
問題は、表の両端にある。 右端の加速度的に膨張する宇宙の運動も左端の光速度に近い運動をする素粒子も「原子を元に出来上がった人の肉体」にとって五感でわかる範囲を越えている。 ビッグバン理論や素粒子を紹介するいずれのTV番組でも資料のほとんどがコンピューターグラフィックスで構成されているのは、理論や現象が人の五感でわかる範囲外であることによる。
時間は、量を伴っていないにもかかわらず時分秒といった単位をもっており、基本物理量として扱われているが、適用の範囲はおおむね表の括弧で括った範囲に限られる。
自然科学者は「わける」手段として「運動から作った時間」を用いて計算する。精度をもって計算は可能であるけれども、「時間・空間」とした自然科学の適用範囲は限られていることになる。
言い換えると、量を伴わないが計算可能な物理的な時間は、観念としての時間に制約される。物理的な時間は、物理量ではないし現在を含まない。
5. 自然科学は循環論法
以上をまとめると次図になる。
図7
岡潔は自然科学者の言う「時間・空間」という模型を物質的自然と名付けた。 空間にある(かつ五感でわかる)物質の運動から時間を作る。この時間を用いて測定対象の物質にかかる運動を規定している。 図7でわかるように自然科学の全体は循環論法になっている。 前述の通り、五感でわかる運動にかかる古典的範囲においては、時間を用いて理論計算し、計測の結果と合致するだろうが、極小の世界を扱う素粒子物理学は適用の範囲外になる。 大事なのは図2に示す様に時間は現在を含まないことである。従って古典物理を含む自然科学は、決定論になり得ない。これは精度や確率の問題ではない。
尚、相対性理論は、光速度を不変な物理量とした。そして、時間を光速度に置き換えて、光速度を用いて時間と空間を定義し直した。*7 しかし、その前に時間を作るための運動が必要だから相対性理論もまた循環論法になっている。 驚くことに、自然科学は古代インドの宇宙観とまったく変わっていない。
図8 古代インドの宇宙観
6.自然科学の問題点
時間は、質量をもった物質の運動から作る。物質は位置を持ち、位置の変位、即ち運動がある。時間は空間と別に存在する訳ではない。従って、自然科学者の言う「時間・空間」という枠組みは誤りである。
自然科学は、大きさのスケール(上表)によっておおよそ3つの分野にわけられる。素粒子物理学の極微の世界、化学・ニュートン力学を代表とする古典的世界、そして天文学等の極大の世界である。
極微の世界は量子力学で記述され、極大の世界は相対性理論により記述されている。 知られているように量子力学と相対性理論は極めて相性が悪い。しかし、表に示した人の五感でわかる古典的世界と素粒子物理学との間にも不整合が存在している。
物質の原子核はクオークという素粒子からなるとされる。 実際の素粒子は200種類ほど見つかっている。* 興味深いことに唯物主義である自然科学者は、単独で取り出せないクオークを物質と認めている。 例えば、水(H2O)は、氷点下で六角形をした雪の結晶をつくる。 しかし、素粒子群から雪の六角形を説明できない。素粒子群と水の物性の間に相関は見られない。
このように、自然科学の分野間に整合性が無いだけでなく、他にも幾つかの問題が未解決のまま放置された状態にある。また、解決済みとされる現象も誤っている事があると考えられる。
・ジェット気流はなぜ地球の自転方向に吹くのか。
・マイケル・ファラデーの発見した単極誘導の現象はなぜ放置されてきたのか。
・未だに重力が統一されないのはなぜか。
・相対性理論が誤りならば、重力レンズの観測結果はどう理解すればよいか。
・量子もつれの突然死* は理論が複雑すぎて理解不能に陥っている。
・実験で実証することが見込めない理論が多数提唱されていて、自然科学はむしろ混迷を深めている。
・相対性理論にある E=mc2 の式には五感でわかる運動から作られた時間が含まれている。 従って、自然科学者が扱っている組立物理量であるエネルギーは誤りである。また、素粒子の質量であるGeV/c2並びに星間の距離を表す「光年」も正しくない。
自然科学の限界と混迷を打開するには、時間を用いずにエネルギーの量を正しく求める方法を確立するしかない。 そのための方策として孤立系循環論法の状態にある自然科学から開放系の理論へ転換を計るべきと考える。開放系理論とは、別の次元軸が存在するという理論仮説である。筆者は、別の次元軸の存在を実験にて検証すべきと考える。
7. 参考文献
*1 数学者岡潔思想研究会 講演録(4)「自然科学は間違っている」(1)岡潔著 【1】このままでは人類は滅びる
http://www.okakiyoshi-ken.jp/oka-shizen01.html
*2 数学者岡潔思想研究会 講演録(4)「自然科学は間違っている」(1)岡潔著 【2】自然科学者の時間空間
http://www.okakiyoshi-ken.jp/oka-shizen02.html
*3 数学者岡潔思想研究会 講演録(4)「自然科学は間違っている」(1)岡潔著 【3】五感でわかるもの
http://www.okakiyoshi-ken.jp/oka-shizen03.html
*4 数学者岡潔思想研究会 講演録(2)「2つの心」 【3】西洋の唯物主義
http://www.okakiyoshi-ken.jp/oka-futatsuno03.html
*5 ピダハン語 https://ja.wikipedia.org/wiki/ピダハン語
*6 岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(47) 龍神温泉の旅の話
http://reuler.blog108.fc2.com/blog-entry-553.html
*7 相対論物理学者に捧ぐ その4
http://www5b.biglobe.ne.jp/sugi_m/page254.htm
*8 素粒子の周期律表?高エネルギー加速器研究機構
https://www2.kek.jp/ja/newskek/2003/sepoct/hadron.html
*9 量子コンピューティングを脅かす「量子もつれの突然死」 https://wired.jp/2009/02/13/ URL省略
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2018/09/18 全面改訂
2017/04/02 修正
2016/06/22 修正
2016/03/29 訂正
2015/12/04 訂正
2015/11/26 訂正
2015/11/25 掲載
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