当ブログにおいて、初めて地球の自転がファラデーの単極誘導モーターとして起きている可能性を示したのは、2013年5月10日の地球の自転はなぜ維持されるのか(地球は単極モーターである。)という記事でした。 この頃は単極誘導モーターの実験により同軸反転型単極誘導モーターを作っていませんでしたので、考察を進めることができませんでした。 その後の関連記事を揚げますと
ジェット気流と単極誘導モーターの類似性 2015年5月28日、地球は単極誘導モーターに似ている 2016年8月22日、地球は同軸反転型の単極誘導モーターか? 2016年11月14日 があります。
その後、水銀を用いた同軸反転型の単極誘導モーターの追加実験を含めてまとめた記事を同軸反転型単極誘導モーターによる「反作用のない回転運動」実現の可能性について(動画)2017年2月2日に記しました。 それで金属リングを用いることによって、反作用を相殺する単極誘導モーターが実現できそうなことに気付きました。
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動画1
それは、
図1
の同軸二重反転であるか、あるいは
図2
の様な、同軸三重反転型の単極誘導モーターです。
地球の大気の働きについて、ある科学者の言葉を引用します。
地球の技術者が貨物または乗客の輸送用の乗物を作る場合、彼らは推力として乗物自体の中にエネルギー発生装置を備える必要があると考えている。しかし地球人の祖先は数千年間船に乗って地球のあらゆる場所へ旅行した。この船というやつは内部にエネルギー源を持たないので、全く大気のエネルギーによって動かされるんだ。これは頼りになるエネルギー源ではないのだが、結構うまくいったものだから、自然界では多くのタイプのエネルギー発生源がいつも利用できるのだということを地球人に気付かせたはずだ。だから望ましい結果を生み出すためにエネルギーの流出を見るような方法を講じさえすればよい。
ジェット気流が
図3
地球の自転方向と同じであることを不思議に思うようになったのは、ある科学者の言葉が切っ掛けです。
太陽風は、
図4 出典は太陽風と磁気圏より
電気を帯びた陽子や電子などの荷電粒子の流れです。もし地球の自転が単極誘導モーターの仕組みにより自発的に起きているならば、エネルギー源として考えて良さそうです。
例えば、プラスの電荷を持った陽子が太陽風として
図5
地球の両極より進入し、図4の亜寒帯あるいは亜熱帯にあたる地域より上空に抜けるとします。その際に、電子と結合することにより、水素原子となって空間に放出されます。もし、このような同軸反転型の単極誘導モーターとしての条件が整えば、次のように考えることができます。
図1(再掲)
と図5を比較して考えます。極付近から入った陽子は、「核、マントル」を経て、亜寒帯あるいは亜熱帯にあたる地域へ抜けます。経路は極付近の地殻~マントル~核~マントル~亜寒帯あるいは亜熱帯の地殻です。図1で云えば、電源(-)~中心電極~金属リングA~金属リングB~外側電極となります。 核あるいはマントル、または地殻が金属リングA並びに金属リングBと同等の働きをするならば、核、マントル、地殻の内どれかが二重反転をすることになります。勿論、地表(地殻)とジェット気流は西から東への自転となります。そして、地球内部の核あるいはマントルが東から西への流れとなります。 これで当初の疑問は解けます。
ここで大事なのは、亜寒帯あるいは亜熱帯にあたる地域から荷電粒子が上空へ抜ける際に、図1の外側電極にあたる「成層圏あたりの空間」が反作用を受けられないことです。 この点についてかなり悩みました。 気付いたのはリングAとリングBの質量比が適当であれば、反作用は相殺することによりゼロになり得るということです。図2で云えば、(3)がゼロということです。その場合、外側電極は固定されている必要はありません。陽子は電子と結合し水素原子となって宇宙空間に放出されてよいことになります。 逆に云えば、宇宙空間に放出されることにより、原理的に反作用を受ける電極が存在しないという条件を満たすように、地球内部において、二重反転構造が決まるとも云えます。(地球内部の二重反転の質量比が決まるということです。)
ただ、現時点で地球に自転を促し同方向にジェット気流を起こすエネルギー源が何であるかはわかりません。 太陽風くらいしか候補がありません。
上記のある科学者は、「自然界では多くのタイプのエネルギー発生源がいつも利用できるのだということを地球人に気付かせたはず」と述べています。 これはフリーエネルギーのことを示しています。エネルギー保存の法則は経験則です。ならば、帆船やヨットが経験則の例外であることは事実です。開放系の理論は、総量が保存しないのと孤立系で保存するのを両立させます。
地球の自転が太陽からの放射エネルギーにより起こるとするならば、太陽のエネルギー源は何かというと銀河系からと考えます。また、銀河系のエネルギー源は、宇宙の大規模構造(暗黒エネルギー、暗黒物質、原子)からくると考えます。縄文哲学で云えば「アウワ」の構造です。ウは弧理論(Ark Theory)による原子のことです。 カミとは、「アとワはつながり、ウをもたらし、ウよりヒトを生じさせる。ヒトはアのもの、ヒトはウなり。」であり、カミとは宇宙の仕組みを意味します。
それにしても、一時は宇宙に絶対静止があるのかと考えました。例えば、大規模構造の内に、ベクトル・ポテンシャルあるいは、スカラーポテンシャルのようなものが存在するとか。 そして、そのような存在が単極誘導モーターとしての地球に自転を促しているのだろうかと考えました。謂わば反作用を宇宙の絶対静止にかかる部分が受けているのかとも考えました。結論は簡単で、反作用を相殺するだけでした。 単極誘導の研究を続けたステファン・マリノフ(Stefan Marinov)の辿った道かも知れません。
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「彼(モーツアルト)の死に続く、浪漫主義音楽の時代は音楽家の意識の最重要部は、音で出来上がっているという、少なくとも当人にとっては自明な事柄が、みるみる曖昧になって行く時代とも定義出来る様に思う。音の世界に言葉が侵入してきた結果である。個性や主観の重視は、特殊な心理や感情の発見と意識とを伴い、当然、これは又己の生活体験の独特な解釈や形式を必要とするに至る。そしてこういう傾向は、言葉というものの豊富な精緻な使用なくては行われ難い。従って、音楽家の戦は、漠然とした音という材料を、言葉によって、如何に分析し計量し限定して、音楽の運動を保証しようかという方向を取らざるを得なくなる。和声組織の実験器としてのピアノの多様で自由な表現力の上に、シュウマンという分析家が打ち立てた音楽と言葉との合一という原理は、彼の狂死が暗に語っている様に、甚だ不安定な危険な原理であった。ワグネリアンの大管弦楽が口を開けて待っていた。この変幻自在な解体した和声組織は、音楽家が、めいめいの特権と信じ込んだ幸福や不幸に関するあらゆる心理学を、平気でそのまま呑み込んだ。」
「音楽の代わりに、音楽の観念的解釈で頭を一杯にし、自他の音楽について、いよいよ雄弁に語る術を覚えた人々は、大管弦楽の雲の彼方に、モオツアルトの可愛らしい赤い上着がチラチラするのを眺めた。勿論、それは、彼等が、モオツアルトの為に新調してやったものだからであったが、彼等には、そうとはどうしても思えなかった。あんまりよく似合っていたから。時の勢いというものは、皆そういうものだ。上着は、優美、均斉、快活、静穏等々のごく僅かばかりの言葉で出来ていたが、この失語症の神童には、いかにもしっくりと見えたのである。其処に、《永遠の小児モオツアルト》という伝説が出来上がる。」
「浪漫派音楽が独創と新奇を追うのに疲れ、その野心的な意図が要求する形式の複雑さや感受性の濫用に堪え兼ねて、自壊作用を起す様になると、純粋な旋律や単純な形式を懐しむ様になる。」
「無用な装飾を棄て、重い衣装を脱いだところで、裸になれるとは限らない。何も彼も余り沢山なものを持ち過ぎたと気が付く人も、はじめから持っていなかったものには気が付かぬかも知れない。ともあれ、現代音楽家の窮余の一策としてのモオツアルトというものは、僕には徒な難題に思われる。雄弁術を覚え込んで了った音楽家達の失語症たらんとする試み。――ここに現れる純粋さとか自然さとかいうものは、若しかしたら人間にも自然にも関係のない一種の仮構物かも知れぬ。」
小林秀雄 モオツァルトからの引用
ここからは小林秀雄のモオツァルトと縄文哲学、宇宙哲学、岡潔との照合です。私の独断と偏見と妄想が多く含みます。
想念①、縄文哲学のタマ、縄文哲学のカミ、縄文哲学のトノヲシテ、
G.アダムスキーの宇宙哲学のセンスマインド、岡潔の第2の心
古典主義音楽、音の世界、音楽、
「音楽家の意識の最重要部は、
音で出来上がっているという、少なくとも当人にとっては自明な事柄」
失語症の神童、永遠の小児モオツアルト、
純粋な旋律や単純な形式、裸
想念②、縄文哲学のシヰ、縄文哲学のロノヲシテ、
G.アダムスキーの宇宙哲学のソウルスマインド、岡潔の第1の心、自然科学
ロマン主義音楽、言葉、音楽の観念的解釈、
「音の世界に言葉が侵入してきた結果」
「漠然とした音という材料を、
言葉によって、如何に分析し計量し限定して、
音楽の運動を保証しようか」
個性や主観の重視、特殊な心理や感情の発見と意識、
自他の音楽について、いよいよ雄弁に語る術を覚えた人々、
独創と新奇、野心的な意図、形式の複雑さや感受性の濫用、自壊作用
無用な装飾、重い衣装、沢山なもの、
雄弁術を覚え込んで了った音楽家達、
一種の仮構物としての純粋さや自然さ、
シューマン、ワーグナー、
音楽と言葉との合一という原理、大管弦楽、
変幻自在な解体した和声組織
現代クラシック音楽が複雑化、難解化して自壊した原因は
ベートーヴェンが「音楽」に「言葉」を取り込んだことだと
思います。その証拠が交響曲第9番第九や交響曲第5番運命などに見られると私は見ています。
縄文哲学で言えば、ベートーヴェンが
音楽をタマからシヰに移したということです。
ベートーヴェンが生きていた時代は
「フランス革命」の真っ只中であり、
確か近代国家、近代思想、義務教育、
国民皆兵制、近代科学が登場する頃です。
モーツァルトは彼自身の音楽、彼自身の生涯、小林秀雄のモオツァルトを見ると想念①によって音楽を作曲、演奏していたのだろうと思われます。
しかしベートーヴェン以降の音楽家は
想念②によって音楽を作曲、演奏していたのだろうと思われます。これは前述の通りに時代背景が大きな原因の一つです。
要するに西欧クラシックの音楽家たちも
遠くまで進みすぎていて、
その結果遠い道のりを
後戻りしなければならないのでしょう。
西欧クラシック音楽にも
近代自然科学が孕んでいる病理と
全く同じものが存在するのですね。
異星人科学者アラン、岡潔、
G.アダムスキー、古代縄文人の指摘は
西欧クラシック音楽にも通用するわけです。
まあ当たり前と言えば当たり前ですが。
千島学説の生命弁証法について調べていました。
基本は以下の通りです。
・凡ての事象は時と所の変化に応じて絶えず流転、変化する。(万物流転)
・広く永い目でものごとの全体を観て判断を下す。
・凡ての事物は矛盾対立を内包し、その対立抗争が進歩や変化の原動力となる。
・限界領域を重要視する。形式論理の排中律的考えを排除し、限界領域にある漠然とした移行途中型を重視する。そして生命と自然・環境との連続性、事象の連続性を重視する。
・生命現象の可逆性(繰り返し原理)自然、ことに生命現象は繰り返しを原則とする。
・量の蓄積によって質的転換が起きる。
・AFD過程を重視。生命や自然の生成・発展・進化は、集合(Aggregation)、融合(Fusion)、分化発展(Differentiation)の過程をたどる。逆AFD過程は退化・衰退・死ヘの過程である。
・共生(相互扶助・共存共栄)は進化発展の大原則である。
・唯物弁証法と唯心弁証法を止揚統一した心身一如の生命弁証法の必要性。
・生命現象の波動・螺旋性を重視する。生命は肉体と精神の調和、自然は物質とエネルギーの不可分な一体であり、そして自然も生命も絶えず波動(リズム)と螺旋運動的な変化を周期的に繰り返している。
千島学説の生命弁証法と対立する
現代生物学の形式論理についても以下に引用します。
・固定的・静的・峻別的に考える。AはAでありBたりえない。
・部分に捉われ、近視眼的、また早急に判断を下す。
・生命弁証法的観方を否定又は無視する。
・明確を尊び、事物をはっきりと峻別し、AからBへの漠然とした中間移行型の存在を原則として認めようとしない。
・熱力学第2法則(エントロピー増大の法則)を遵守し、時の逆戻り、事象の繰り返しを原則として認めない。
・量の蓄積によって質的転換が起きることを認めない。
・AFD過程の存在を認めない。
・進化の主要因を弱肉強食主義において考えている。
・唯物形式論理を重視している。
・生命現象の波動・螺旋性に無関心。
・固定的・静的・峻別的に考える。AはAでありBたりえない。
これは、以下に引用する「ある科学者の言葉」と
一致すると思います。
「我々は科学者たちが既成概念という鋳型で固められていることを知った。」
・部分に捉われ、近視眼的、また早急に判断を下す。
これは、以下に引用する「ある科学者の言葉」と
一致すると思います。
「科学知識を求める人間は木に登るアリのようなものだ。自分では上方へ動いていることがわかっていても、その視野は狭すぎて幹全体を見通せない。そのために幹を離れていることに気付かないで下方の枝の方へ移動するかもしれない。いっときは万事うまくゆく。自分ではまだ上方へ登れるし、進歩という果実を少し摘み取ることもできる。だがその枝が急に無数の小枝に分かれていろいろな方向に葉が散らばっているために本人はまごつき始める。」
・明確を尊び、事物をはっきりと峻別し、AからBへの漠然とした中間移行型の存在を原則として認めようとしない。
これは
五感による刺激によって感じる「物や事」を
「分ける」ことによって、「分かる」ようにする
自然科学の目的と一致します。
岡潔の第1の心であり、
縄文哲学のシヰであり、
G.アダムスキーの宇宙哲学のセンスマインドです。
千島学説はよくわかりません。岡潔の言葉の方がより本質的に見えます。弧理論の考え方は、もっと簡単です。
私にとっては簡単です。
というより文章として(小難しい漢語が問題なのか?)
起こしてしまうから難しいだけのように見えます。
それと、千島学説は
命や変化そのものを扱ってるから
難しいのだと思います。
自然界に存在する
川の流れや風の流れを捉えるのが難しいのと
同じです。
弧理論が簡単なのは言うまでも無いですが。
あと、岡潔は「死」に関しての指摘が薄いのが
非常に惜しいです。私としてはこの点に関しては
岡潔の言葉は本質的ではないと思います。
「死」に関してはイエスキリストの言葉の方がより本質的だと思います。
弧理論が簡単とはね。今のところ、Φさん本人以外はこれが言えるはずがない。対人と対自然、互いに理解しようと努力すべきだろうけど、理解したふりこそすべての不幸の元凶だ。
「首から上」の発想だと
そうなるんでしょうね。
そこは頭でっかちの餓鬼め、と言うところ。しかし面白い。弧理論のどこをどう解釈して簡単と言うのだろう。
「自然は物質とエネルギーの不可分な一体」と
千島学説は簡単に言ってます。
まあアインシュタインや弧理論のように
数式化、図式化してるわけではないですが、
・固定的・静的・峻別的に考える。AはAでありBたりえない。
・部分に捉われ、近視眼的、また早急に判断を下す。
・明確を尊び、事物をはっきりと峻別し、AからBへの漠然とした中間移行型の存在を原則として認めようとしない。
などと合わせて検討すると
恐らくは
ある科学者が言った
「物質とエネルギーの簡単な同一性」や
弧理論の根本と同等だろうと思います。
すごい!! よくわかりました! Φさんがどういう視点なのかも。
これはスケールを変えても同じでですね。原子レベルでも同じ。
>地球に自転を促し同方向にジェット気流を起こすエネルギー源が何であるか
円盤の機構を考えていると、AからBへの作用と仮定したのに、いつのまにかBからAへと作用向きが逆になっていることがあります。思考の堂々巡りで、エネルギーフローが成立しない、設計不可能な機械を考えてしまっている。この場合は全体を見直す必要があります。
図4と図5が鍵かと。
似たようなことを考えていました。太陽と地球、地球の自転、そして地球の重力の発生について。この作用順は工学的に決まるはずです。
図4。太陽風が公転面を太陽から外側に吹いているとする。地球の磁気によって弾かれるが、局付近では流入・放出がある。すなわち磁気軸方向に電流が流れる。
図5。この図のように流入電子が磁力線の周りを螺旋を描いているとする。地球全体でも磁気軸に対して同心円状に渦電流が流れる。(特定の円を取り出すと同軸反転として見える) 地球は体積を持つ為、内周と外周で差が生じ、磁気と渦電流が直交して電磁力で自転する。
つまり、図4では向きを持たない荷電粒子を磁気で揃えて電流にすること。
図5では磁力先方向に電流が流れ、全体では同心円状になること。結果として自転すること。
そしておそらく、地球内部が流体ならば、内周と外周の差で静電気を発生し、地表鉛直方向に放射される。太陽風による磁力線の振動と静電気の周期的放射は太陽と地球の素材その他によると思われる。その2つの微少振動が結果、重力として働くのではないか。
ただ、これだと、磁気とは何か?が解けてないですね。もうひとつ何かある。
磁気軸方向に電流を流すことについて、どのようにお考えでしょうか。
円柱形磁石の軸方向。電流は導体表面を流れるとしたら、軸中心と表面の間に何か起きるのではないか。
また、別のことを思い出しました。佐野千遥氏はエネルギーの方向性を無くさないように微分ではなく差分で扱うことを書いてました。エネルギーが方向を持つ/持たない、あるいは、エネルギーに方向を持たせる/持たせない。というのは磁気と電気の基本的な制御方法のことだと思いました。
>スケールを変えても同じ
井出さんのトランスの考察で得た発散トーラスは、原子単位から銀河系単位までの「流れ」として存在するように感じます。だが何がエーテルかはわかりません。
>磁気と渦電流が直交して電磁力で自転する。
それが単極誘導モーターと同じと考えます。地殻並びにジェット気流と内部構造(流体)は回転の向きが逆だろうということです。二重反転であっても歳差運動は起きるだろうと思います。
>磁気とは何か?が解けてないですね。
>磁気軸方向に電流を流すことについて、どのようにお考え
アランの重力制御に関する言葉につながります。キーワードは、「単極誘導、重力、磁場、フリーエネルギー、デファレンシャル・アキュムレーター」あたりにあると感じます。全てがごく近い関係にあると感じます。特に同軸反転単極誘導とデファレンシャル・アキュムレーターは何かある。フライの本p52とp53です。
>軸中心と表面の間に何か起きるのではないか
むしろ、両極間に生じるようです。その仕組みがわからない。E-M軸との関係も不明です。パワーリストボールの運動解析の感じでは、強制的な歳差運動をさせることによって、回転運動の加速がおきます。二重反転機構において、見た目ではなくて電子的に歳差運動に等しい動作を単極誘導モーターに起こすことができれば、歳差運動の傾き分に相当する真のEの変化ΔEがM軸上にΔP_として回転を加速する(のではないか)。同時に電子を加速(発電)できるのではないかと妄想しています。
>佐野千遥氏は・・
云っていることの意味は分かります。ただ氏はお金の問題を抱えているようです。近づかないが吉。
電気電子電力の各工学は、すべて電子単体の振る舞いです。陽子中性子電子の観点が抜けています。とても不自然です。化学があるじゃないか、というのは見方が違うと思います。アランの云っていることは、電気電子電力の各工学とは異なる意味を示しています。彼の云った内容は原子力に近いはず。単極誘導は微弱だけど原子力の一種だと感じます。電子雲という観点からは出てこないです。もっと古典的なベタな発想です。「五感でわかる」つまり原子の構造から来る現象が「ごっそり」抜け落ちているようです。
さらに重力が、細胞の分裂や生物の成長の話になると直観しています。
>何がエーテルか
電磁気特性を持つ仮想的な空間格子ではなく、普通の物質だと思います。あとは密度が地表>地球圏>太陽圏と小さくなっていく。密な領域の原子間、粗な領域の原子間で波の伝搬の仕方は同じでしょう。原子間に”何もない空間”は無いという前提です。
>デファレンシャル・アキュムレーター
’16/4/4の記事とこれですね。ttp://www.gasite.org/library/white/index06.html
アキュムレーターの図イメージが出てきません。サール円盤のような遊星ギアなのでしょうか。
遊星が差分を吸収するというよりは、図5の螺旋状電流を遊星として、遊星群が複数集まって全体のマクロ作用(渦電流)になるように見えます。原因は遊星の方。
>両極間に生じるようです
従来の注目点としてはそうですが、やはり磁石の中央(磁気赤道)が渦電流の影響が最大化されるのでは。遊星=ミクロ、渦電流=マクロ。極と赤道の役割は別と思う。
>電子的に歳差運動
これは実験3の逆をすることですね。これと、
>陽子中性子電子の観点
を組み合わせると、Φさんは私と同じ発想があると思います。すなわち「電子はもともと回っている」。実験3の電流方向は中心から円周。しかし、図5の渦電流は円周接線方向です。「流れ=圧力がかかる向き」ならば、渦電流のどこか線分に注目すると、そもそも圧力というものはかかっているのか。それとも荷電粒子が磁気軸方向を貫通することで起きる遊星的な動きが、結果、渦電流として見えるのか。従来の発想では「圧力をかけて流す」ですが、「抵抗なく流れが発生して、両端には圧力差があるように見える」のかもしれません。それで、荷電粒子が内部を通っていくために、極付近が穴になり、さらなる荷電粒子が穴に落ちる。ただ、通り抜けた荷電粒子は再び太陽に還っていくと予想されます。
単極誘導モータで中心と円周に電圧をかけることは、軸対象の電磁気空間に傾きを与えている。おそらくΦさんの仰ることは、電子だけでなく、原子核や原子全体の振る舞いのことでしょう。(これは磁力線が磁石に接続されているかという疑問にも似てます) 原子自体が発電し、並べることで力を取り出そう。つまり、従来のやり方では原子の発電機能を阻害している、と。
>原子間に”何もない空間”は無いという前提です。
そう思います。投影されることで空間が生じるとも云えます。
>アキュムレーターの図イメージが出てきません。
同軸反転の各リングに差動をつけるとうことであって、イメージは今のところありません。遊星でもありません。
>「電子はもともと回っている」。
波で粒子を説明するに電子だとスピンとしています。スピンと云っても「回っている」ではない「演算子」だという主張である内は、次へ進めないように思います。
>電子だけでなく、原子核や原子全体の振る舞いのこと
視点が電子に偏っているということです。波で粒子と考えている内は、+の陽子と+-の中性子をまとめて考える視点が出てきません。
>原子の発電機能を阻害している
そうとも云えます。水素よりヘリウムは安定です。物質は化学的な変化だけでなく、核と周囲の電子との極わずかな差があり、それが磁石周囲に現れていると考えています。それが単極誘導の現象だと考えています。現象は微弱だけど、重要な意味があると。
>視点が電子に偏っている
電子が何らかの挙動を示すものとして教えられたから、そう考えてしまうのか。磁力線が磁石に固定されているかどうかと同じ話と思いました。とすると、原子の発見経緯とはなんなのか。波と粒子は電子にしか適用されていないように一般に流布されてますが、陽子や中性子にはなぜ適用しないんでしょうね。
トムベアデンの手紙にあるように、電磁気現象を学者が学生の教科書へ「工学」として定着させるとき、偏らせたように思います。原子核と周囲の電子との相互作用が「原子核物理」の範囲を越えて何かの現象として存在していてもよいと考えます。単極誘導の現象にかかる実験をやってみて感じることです。何より電磁気学の教科書に単極誘導の記述が極端に少ないですし、浅いです。水銀による単極誘導モーターで、磁石が原因で現象が生じているのに、磁石は力学的に孤立しているのは、電磁誘導しか知らねば思いつきません。教科書自体、何か変です。