数学者岡潔の言葉を散々考えてきました。 先日、参考になるかもと、
写真1
のような手巻き式の懐中時計を購入しました。内部の機構が見えるものです。裏面は、
写真2
のようになっています。 懐中時計の裏面をデジカメのスーパーマクロで微速度撮影(240fps)したデータを元にGIFを作ってみました。ちょっとデータが大きいので表示が遅いです。
GIF1
岡潔は、自然科学における「時間」を問題視していました。(自然科学者の時間空間)
自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。
時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。
人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。
時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。
が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。
下線と強調は管理人による。 写真の懐中時計を眺めても何処にも時間はありません。あるのは時計という機械装置の運動だけです。表面の板に円形に描かれた数字が時間だということですけれど、装置の運動を数字に読み替えることの意味がよく理解できません。
(1) 観測者→時計という装置の運動→12の倍数に読み替える
(2) 観測者→前を通過する自動車(スタート~ゴールまで距離を基準にする)
自動車の速度は観測者の手元にある(1)を使って(2)と比較することにより算出できます。当たり前のことです。しかし、(2)が光の速さに近くなってくると怪しくなります。※「時間」で検索して過去記事を参照ください。
こうして得たのが
表1
です。面白いことに人の五感でわかる範囲(赤い括弧)を越えた辺りから(1)の12の倍数に読み替えた数と(2)の運動との比例が怪しくなります。
巨大な距離は光年という時間を用いた単位で表します。素粒子の質量はGeV/c2という分母に時間を含む光速度を用いています。 でも、元はと言えば(1)の運動を12の倍数で読み替えたものに過ぎません。もっと云えば、表1の極大極小の世界について、手元の運動を光の速さに近い運動に適用していることになります。 時間に置き換えることが自明のこと、あるいは当然のことのように感じますけれど、よく考えると『五感でわかるのは物質の運動』しかありません。 懐中時計を眺めてみて、素直に感じるのは、時間など何処にもないということです。
ちなみに、弧理論の考え方においては、E軸上の実体Cが投影される事により質量mの物質が位置を伴って現れます。
図1
観測者に対して静止している場合(投影角が90度のとき)は、実体が持つ真のエネルギーがそのまま質量mとして現れます。 観測者に対して運動している場合は、投影角が小さくなるとともに質量が観測者に対して見えにくくなります。(次第に次元を失う。) 特に光の速さの場合は投影角がゼロになり観測者に対して質量が測定できなくなります。 どうもこのとき「運動は時間に比例しない=手元の運動と光速度の運動を比較できなくなる」ようです。五感でわかるのは物質の運動(と波による運動)だけだからです。
以上は、十分な説明とは云えませんが、自然科学が無視している点は以下だと考えます。
1.機械装置の運動を12の倍数に置き換えること。2.五感でわかる範囲を無視していること。3.12の倍数に置き換えた数字と光の速さに近い運動とを比較すること。
※もしかしたら意図的に無視しているのかも知れません。
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