最近、物質とその運動P並びに情報との関連について 弧理論 の考え方を元に考察しています。
その過程で量子脳理論という分野があることを知りました。よくわからないのですが、人が人であることの理由を唯物主義たる自然科学者が追い求めて行きついた先なのだろうと思います。 今回は、管理人が量子脳理論は奇妙だと感じることを記した上で、岡潔の【1】2つの心、ならびに弧理論の考え方と比較検討します。
(1) 近年とみに人工知能(AI)の研究が進んできました。
動画1
有名なチェスや将棋プログラムだけでなく、クイズの回答でも人に迫る、あるいは越えるものが出てきました。 古くは人口無能のELIZAやエキスパートシステムなどの研究がなされたことの記憶があります。
(2) 一方で、従来のスパコンを越えるものとして、
写真1 出典:量子コンピューターの種類と原理
量子コンピューターが作り出されています。
岡潔の云う「五感でわからないものは無いとしか思えない」唯物主義者たる自然科学者たちが、(1)人工知能やこれから発達するだろう(2)量子コンピューターにより「人の能力を超えてきた場合」は、人の尊厳をどこに求めるのだろうかと考えました。
そこで思い出したのが2月に聴いた某脳科学者が云った言葉でした。2017年2月20日の記事、自然科学から「岡潔の思想」は、「あっち系」「そっち系」と見られるを参照ください。 彼が述べたのは、正確ではありませんが概ね次のようでした。
これまでの社会は、「多くを記憶し、素早く記憶を吐き出す能力が高い人」即ち、試験の成績がよい”偏差値の高い人”が指導的立場に居ました。 しかし、人工知能やスパコンでのビッグデータの処理により、記憶の多さや入出力の素早さは、誰でも機械を用いることによりできるようになった現在、偏差値の高さは優位ではなくなった。 これからは人とは異なる発想をできる人が尊重されるようになるはずです。
事実、人工知能についてテレビ番組で放送される際にコメントされるのは、「人は人工知能に負けてしまう」という感じのものばかりでした。そこで気になったのは、次のような疑問です。「唯物主義たる人は、人の人らしさを、もしかしたら量子理論に求めるのではないか」ということでした。 そこで、検索サイトにて「脳 量子状態は関係するか」と検索して出てきたのが冒頭の量子脳理論でした。
量子脳理論とはどういうものかよくわかりません。ただ、検索に引っかかったもので(正しいかどうか別にして)わかりやすかったものを「人間の脳と量子力学の関係について」から回答No.1の一部を引用します。
もし脳が古典力学のみに支配されているとしたら,「初期条件」でその後の運動がすべて決定されてしまいますよね.ある物体の位置,初速度,その物体にかかる力を求めることができれば,その後の運動は完全に計算可能,というのがニュートンの運動力学ですから.脳にそれがあてはまるとすると,自由意志は全く存在しないことになり,人間の一生は生まれたときに決まってしまいます.(そう考えている人もいますが) けれども,脳のメカニズムは複雑な化学反応によるものであって,原子ひとつひとつの運動に対しては古典力学は適用できませんね.(質量が小さすぎるので)
なので,脳のメカニズムは原子レベルの運動を記述できる量子力学によって支配されていると思います.
と回答者は答えています。下線は管理人による。 基本粒子たる陽子・中性子・電子で構成されている人は、古典的な存在だとすると生まれから死に至るまで決定されているはず、だから人に自由意志は無いと云うことです。 これでは人の尊厳は見いだせません。だから原子の振る舞いの集合である脳は量子理論によっているだろうということです。 ただ、上記の脳量子理論リンクには以下の文章もあります。
量子脳理論と呼ばれるものの全体を物理学的な言葉で特徴づけることは難しいが、一般的な特徴としては量子力学的な効果が効いてくる範囲として、普通の物理学者が考えるよりはるかに大きい時間的・空間的スケールを考えている点が挙げられる。 ヒトの脳はおおよそ20cの大きさを持っておりその内的構造は非常に複雑である。そして脳はおよそ常温(一般に体温である37℃、つまり310K程度)で動作している。こうした系においてマクロスケールで量子力学的な性質が効いてくると考えることは中々難しいが(量子的効果をマクロスケールで発現させるためには普通、規則性のある構造や非常に単純な系を、かなりの低温、例えば絶対零度近くまで冷やさなければならない)、一般に量子脳理論と呼ばれる理論の提唱者においては、この点で強い考え方を持つ。
量子脳理論に共通するのは、意識の基本構成単位としての属性が、素粒子各々に付随するという考え方に基づいており、波動関数の収縮において、意識の基本的構成単位も同時に組み合わされ、生物が有する高度な意識を生じるとしている
下線は管理人による。*20cは20cmの誤りでは?
原子の振る舞いに量子理論は適用されようが、巨視的な組織(脳)として量子力学的な性質が効いてくるとは考えがたいということです。また、波動関数の収縮が、意識の構成単位の組み合わせを通して、高度な意識を生じるとしています。 正直、結構ムリがあります。 量子コンピュータとも相容れないような直観があります。
以下、不自然な点です。
脳神経にのみ量子脳理論を適用する強い必然性がありません。つまり、原子の振る舞いが量子理論的な意味で決定されていて、かつマクロなスケールで効果が発現すると主張するならば、何も脳の神経系だけに限らないということです。骨格系、内蔵系、循環器系、消化器系、感覚器系がいわゆる「情報処理」の組織形態をとっていなくても、「マクロなスケールで効果が発現する」はずです。普遍的にこのような効果があり得ると考える方が自然です。 それどころか、自然界のありとあらゆる有機物、無機物でも有りです。 何でもありです。
膨大な原子が集まり、元素を構成し、元素があらゆるアミノ酸、タンパク質等を構成し、人ができていて、その結果として「人が古典論的決定論的なものとなってしまう」ならば、人工知能と何ら変わらない。 その代わりに量子脳理論だということです。
人の意識は量子理論的な作用により成り立っているというのは、奇妙です。 簡単にいえば 人の意志とその決定・行動は、確率により決まると云っているに等しいです。 人なんて「サイコロを振る」ようなものだと云っているに等しいです。 奇妙を通り越して珍妙です。
数学者岡潔は、「心そのもの、命そのもの」の内の【1】2つの心で、次のように述べています。
心が2つある。心理学が対象としている心を第1の心ということにしますと、この心は前頭葉に宿っている。それから、この心は私というものを入れなければ金輪際動かん心です。その代り、一旦、私というものを入れたら、「私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」と、丸で笑いカワセミのようにうるさい。
それから、この心のわかり方は意識を通さなければ決してわからない。それから、ここまで来ればもう心理学は知らないんだけど、この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。物質的自然界というのは、自然科学者が研究の対象としている自然です。
一部省略
欧米人はこの第1の心しか知らない。しかし人にはもう1つ心がある、第2の心。心は2つしかないのです。1つじゃない、もう1つある、第2の心。この第2の心は前頭葉に宿っている。この心は無私の心です。私のない心。どういう意味かと言うと、いくら入れようと思っても私というものは入れようのない心です。それから、この心のわかり方は意識を通さない、直にわかる。
それから頭頂葉に宿るというのは、中心が頭頂葉だという意味ですが、この心は頭頂葉から広がって肉体の全部を覆い、更に広がって物質的自然界の全部を覆い、更にその外に出て、およそ時というもののある所、現在、過去、未来の如何を問わず、時のある所にはこの心は必ず広がっている。こういう第2の心というのがある。
岡潔は、第1の心について、「私わたくしというものを入れなければ動かない」と云います。そして、第1の心は「意識を通さなければわからない」と云います。また、第1の心は「物質的自然界の全部を覆っている」と云います。 自然科学者が研究の対象としてる自然を物質的自然界といいます。
岡曰く、第2の心は無私の心です。私のない心です。いくら入れようとしても私というものは入れない心です。 第2の心の分かり方は意識を通さず、直じかにわかります。 また、第2の心は、物質的自然界全部を覆い、かつその外に出て時ときのあるところには第2の心は必ず広がっています。
ということで、第1の心が冒頭の自然科学者が目指している量子脳理論に相当することが理解できます。 ただ、岡潔は第1の心に「確率」なんて云ってません。もっと能動的で積極的な意識的な「私わたくし」です。 この違いは大きいです。 そして、自然科学者は、岡潔の云う第2の心は、まったくわかっていません。
岡潔は第2の心は、私わたくしという意識を通さず直じかにわかると述べています。第2の心は物質的自然界を全て覆い、かつ外側に広がっていると述べています。 このままでは、第1の心も第2の心もよくわかりません。
これらを踏まえて弧理論の考え方による「宇宙=縄文哲学に云うカミの仕組み」と比較検討します。カミの仕組みについては、9月5日の記事、空間とは何か?真空とは何か?五感でわかる空間が3次元と認識できる理由を参照ください。
弧理論の考え方を元にして描いた図が
図1
です。この宇宙の仕組みは、横軸をM軸(物質空間)とし、縦軸を真のエネルギー値を示すE軸です。
図1右の想念の経路(1)が岡潔の云う第2の心に相当します。想念の経路(2)が岡潔の云う第1の心に相当します。そして、自然科学者が研究の対象としている物質的自然界の内に人の意識を量子脳理論を構築しようとしています。 つまり、M軸(物質空間)の内に物質的自然界があり、その内に量子脳理論があると考えます。 第2の心は、物質的自然界の外に広がっているという事です。
真のエネルギー値を別の次元軸に求める理由は過去に書きましたけれども、再度記します。ある科学者は次のように述べています。
物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる面にすぎない
これが式 E=mc2 の正しい解釈です。(当サイトにおいて、時間tは使えませんので、エネルギー[ML2T-2]は運動Pと表現しています。) 上記を言い換えると
物質は運動Pに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質も運動Pも一つの実体が持つ真のエネルギーの異なる面にすぎない
ということです。 図2のE軸からの実体がM軸上に投影されることにより、M軸(物質空間)に質量を持つ物質が位置を伴って現れるということです。これが
図2
弧理論の考え方の基本形です。 ここで、投影の定義について、元の発想は右リンク先にある第3起電力のエネルギー源についてに定めた「積分を伴う回転投影」にあります。 積分なる言葉は意味不明ですけれども、M軸上にて質量として「現れる前の状態が持つ何らかの値」くらいの意味です。それを真のエネルギーと名付けています。
ここで、想念の経路(1)及び(2)を分かり易く説明したのが
図3 訂正:想念の経路(1)はE軸上の実体より来るのではない。図1右に示す宇宙の中心「ア」より発する。
です。 想念の経路(1)について、現代日本人に最も分かり易い表現としては、「気(キ)付く」が適当です。想念の経路(2)について、最も分かり易い表現は、「分かる」です。 人の五感を通してわかる事を「分ける」ことによって「わかる:理解する」ということです。当然のこと私わたくしの意識を通します。これが自然科学に通じることは云うまでもありません。 想念の経路(1)は、意識を通さずにあるとき、突然「気(キ)付く」のです。
ここで問題があります。このような仕組みによって人の意識と無意識が併存しているとき、E軸上に在る宇宙の中心である「ア」が持つ真のエネルギーの正体は何だろうかということです。
我々が気(キ)付くべき事とは何なのだろうか?
元々の定義に従えば、「積分を伴う回転投影」されることによってM軸(物質空間)に現れる情報の「元となる何か」であるはずです。 ここでE-M軸平面の模式図を
図4
に示します。 この図は、真のエネルギー値を持つE軸上の実体が投影によりM軸上に物質○と運動P(エネルギー)□として現れるという「多面性」を表現しています。 このAが持つある種の値を「情報の元」と呼んでいます。物質と運動Pに含まれる情報をBとします。前述の通り、運動Pは物理学でいうエネルギー[ML2T-2]を意味します。
宇宙の模式図
図5
に示した「情報の元」の意味がここにあります。我々が意識を通さず気(キ)付くべきは岡潔の云う第2の心であり、何らかの意志です。決して確率などで言い表せるものではありません。
分ける事により分かる情報には限りがあります。
表1
五感の範囲が限られているからです。 だからこそ、人工知能に追いつかれ追い越されて負けると感じるのです。 これも自然科学の限界の一つです。
では、情報(記録・記憶・知識)とは何なのでしょうか? 情報を記録・記憶するには僅かばかりのエネルギー(運動P)が必要です。メモリーであれば電気エネルギーです。紙媒体であれ、脳であれ、何らかの形で必要です。 だから図4の情報Bを物質と運動Pとの破線で結んだのです。
かたやネットには 次のような実験技術があります。
技術や発見の詳細はわかりませんが、物質と運動Pは密接な関係にあることは確かです。 ここで、
図4 再掲
のAとBの根源が同一ではないかという事に気付きます。 分ける事により分かる情報と気(キ)付くことにより得られる情報に区別はありません。つまり、宇宙の中心である(ア)は物質空間の全ての大本であり、気(キ)付きの元であるということです。 言い換えると宇宙の中心に在るのは、気(キ)の元であると云えそうです。
人は物質的存在であるとともに、見えない何かから来るものによってできています。これがカミの仕組みです。 カミとは、
「ア」と「ワ」はつながり、「ウ」をもたらし、「ウ」よりヒトを生じさせる。ヒトは「ア」のもの。ヒトは「ウ」なり
です。 偶然(確率)のようなものではありませんし、人工知能とは異なります。 人工知能に気付けと云っても無理な話です。
最後に、岡潔は「数は量のかげ」と云いました。 しかし、基本粒子(陽子・中性子・電子)のそれぞれが完全に無個性だからこそ、量の内に数を含む概念が入り込む余地が生まれます。
例えば、水素原子は、
図6
基底状態を含む幾つかの状態があります。けれども電子は別の電子に置き替えても区別することができません。陽子もそうです。 仮に基本粒子が全て異なり同一ということが無いとするならば、1個2個と数えることすらできません。電子という名称・概念が成り立たないからです。
図7 出典:ランダムドット
ドット自体が各々に全部異なるならば情報が入り込むことはできません。混沌(カオス)でしかありません。 たった3つの無個性な基本粒子があるからこそ、複雑な世界ができ、その隙間に情報が入り込めるのだと考えます。 数を含めた概念が生じ得るのはこの様な理由のようです。
追記 2018/2/20
図4はわかりにくいので別の図を参考に掲載します。
図8
特殊相対論のE=mc2について、物質とエネルギーは等価と解釈されますが、本当は物質もエネルギーも別の次元軸にある実体の投影による映像です。エネルギーは時間を用いずに表現する方法がありませんので、運動Pと表現しています。また「波」は、運動の一形態です。そして、発散トーラスは波の一種です。
ニュートリノに質量があるかどうか議論になりますが、GeV/c2という質量を表す表現は、質量とエネルギーを混同しているのですから、変なことです。物質が光速度に近いとき運動Pとして現れており、このとき質量はM軸において次元を失い測定不能です。 ニュートリノに質量があるかどうかは問題ではなくて、別の次元軸上にある実体が持つ真のエネルギー値を求めることが必要だということです。 ニュートリノやその他の素粒子が波の性質を持つならば、波の質量を云々していることになります。これは奇妙なことです。
ついでながら一般相対論において、重力は質量による空間の歪みが原因だと説明されています。
図9
質量がエネルギーと等価だとするならば、その解釈で良いですが、質量が原因だというのは間違いです。上記の通り質量は実体が持つ真のエネルギー値が投影されることによって現れますし、実体の投影角が変化することによってエネルギー(運動P)となりますから、投影角によって質量はM軸上で見えなくなります。質量は運動Pによって見え方が変わるのですから質量、即重力というのは間違いです。
弧理論 においては、発散トーラスの重ね合わせにより物質が持つ真のエネルギー値が決定します。物質が持つ真のエネルギー値によって重力が決まります。つまり、物質の運動Pの状態によって重力は変化するということです。 この辺の解釈は2018年2月14日の記事「発散トーラスによる重力の理解」を参照ください。
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