右サイドに表示してある「国鉄標準型時計」の説明文を以下に変更しました。
『人の五感で分かるのは運動だけ。 時間とは時計という機械装置の「位置」であり、時間という「量」は無い。だから時間という物理量は存在しない。』
ちょっと余談です。
時間について長く考えてきましたけれど、漸く何が問題なのか分かってきました。 しかし、時間もお金も何ら「量」を伴っていないにもかかわらず、「時・分・秒」や「円・ドル・€」などの単位を付けることによって人々を誤魔化してきました。 罪なことです。
数学者岡潔「数は量のかげ」
例外もあるということです。
そういえば「量」を伴わない時間をパラメーターに持つ
写真1
写真2 出典:「神の数式」はディラック方程式から始まる。
神の数式にも当てはまるということ?
- 素粒子を大量に浴びても人の感覚で分からない。仮に分かった場合は火傷として認識されるだろう。
- 仮にクオークなど素粒子の寄せ集めが基本粒子であったとして、岡潔の云うように「運動が時間に比例して起きるかどうか」分からない。
- 時間は過ぎ行く運動の記憶あるいは記録であって、時の現在と未来に適用できるかどうか分かっていない。
1.と2.について、神の数式は「宇宙の全存在」を時間軸に沿って、記述しようとしているという事でしょうか。それだと失敗していると云えそうです。 素粒子と人の感覚とに隔たりがあります。人にとってほとんど有害としか云えない素粒子の寄せ集めにより人ができているというのは違和感があります。単独で取り出せないから無害だというのも変です。
3.について、時間は、
図1
運動の現在と未来に適用できるかどうか不明ですから、前回記事に示した「古典的な決定論」としての人は、そもそもあり得ないということになります。 量子脳など考える必要はないように感じます。
というか、神の数式により宇宙の全存在が記述できたのだから、後は人の意識の記述だと考えてのことで量子脳に行き着いたということでしょうか? 「未来は確率によって決まる」というのは何というか、どこか欺瞞?っぽいなああ。 それだと岡潔が第1の心として述べた「私わたくしというものを入れなければ金輪際動かん心」ができる訳がありません。もっと積極的な能動的な何かがあるはずです。
天気予報の精度が上がってきたと実感しますけれども、100%になり得ないのは観測点の数に比例するとともに確率によって決まるという部分はある程度納得します。(数値計算の基礎に時間というパラ-メタを持っているからともいえます。) しかしながら、人は物質の集合であって、それら集合の内に確率によってたまたま、ほんとにたまたま人という意識を持った生物ができたというのは、どうも違うように感じます。 そうやってできた人は、ただの骸むくろです。
矢張り、日月神示の一部が気になります。参考になる部分を次回、記します。
それから、これまでの考察の結果、空間と物質並びに真空のことが分かってきました。そこで、これまでM軸について、3次元物理空間などの呼称を用いてきましたが、これからはM軸を「物質空間」と呼ぶことにします。
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