時間 は独立した物理量ではない 空間の性質に依存したものである

前回の続きです。  時間 と云う言葉は曖昧です。 岡潔の言葉を出発点として得たのは

  1. 時間とは、過ぎ行く運動の記憶、あるいは記録である。
  2. 時間とは、位置であって量ではない。
  3. 運動は 時間 に比例して起きるかどうかわからない。

というものでした。 これまでに時計(という機械装置)の運動を

図1

のように直線に直して考えたりしました。 前回わかったのは、

ア) 時刻は時計という機械装置の示す位置である。

イ) 正午から15時までには、3時間ある。という場合の時間距離(長さ)である。

としました。上記.と(ア)を比較してみて、2.について訂正が必要だとわかります。正確には「時刻は位置である」となります。

また、アナログ時計の時針・分針・秒針の長さは決められておりませんから、距離(長さ)そのものではありません。では時計という機械装置は何を表しているのでしょうか。

 

道路などの

写真1 出典:ロードカウンタ

直線や曲線の距離を測る機械にロードカウンタがあります。人が手に持って押して歩くことにより道路などの距離を計る装置です。写真1のホイールは直径約19.7cmです。ホイールの回転数から距離を割り出します。

 

国鉄標準型時計

時計はというと針の長さに決まりはありません。 時計の針の半径を決めれば、一定の距離を求めることができます。 ただし、その場合において時計という機械装置の運動が「時間」に比例して起きることが求められます。 (管理人は古典的な範囲に於いては、1.時計という装置の運動は、人の観念としての時間と比例している。2.時計という機械装置と被測定物の運動との間には比例関係が成り立っている、と考えています。このことは、前回書きました。)

アナログ時計であれば、歯車を使った回転機構ですが、電子式のデジタル時計であれば素子の往復運動であったり振動の機構を持っていて、その往復運動が「観念としての時間」に比例している必要があることになります。

難しいのは岡潔が、人が持つ時間と云う観念を指して議論していることです。 管理人はこれまで、時間と云うものについて、観念から物理的な側面に向かって考察を進めてきました。  結果として云えるのは、時間とは独立した物理量ではなくて、空間の性質に依存した性質、あるいは付随した、もしくは派生したものだということです。

その空間の性質というものが何なのかいまいち理解できませんけれど、少なくとも

時間・空間という自然科学の枠組みは誤り

です。 別の言い方では、「時間は、空間とは別の基本物理量ではない」ということです。 個人的には、時間は物理量ではないと感じます。何故なら、人の感覚(五感)で分かるのは、「物質が持つ質量にかかる位置運動だけ」だからです。紡錘図形からは、力も因果性も時間も読み取れません。

人の持つ感覚(五感)で分かる範囲、

表1

の赤い括弧の範囲から外れる領域にある現象は、時間を適用できないだろうということです。 当たり前ですが、自然科学の限界は、人の感覚の限界に等しいと考えます。岡潔曰く「五感でわからないものは無いとし思えない」のですから。(自然科学者は自覚なしに、そう理論を組み立ててきました。)

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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