ここ3年近くの間、数学者岡潔の言葉を参考に考察を進めてきました。岡潔思想研究会の資料より主に【2】自然科学者の時間空間 並びに 【3】五感でわかるもの を参考に考えてきました。
岡潔は唯物主義について次のように述べています。【3】西洋の唯物主義より引用します。
西洋人は五感でわからないものは無いとしか思えない。これが唯物主義です。
下線は管理人による。 「ない」という否定語を3回も使っています。
図1
で云えば、半径無限大の円ということになります。 そして、【3】五感でわかるものにおいてこの唯物主義を痛烈に批判しています。
物質は、途中はいろいろ工夫してもよろしい。たとえば赤外線写真に撮るとか、たとえば電子顕微鏡で見るとか、そういう工夫をしても良い。しかし、最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない。こう思ってます。
それじゃあ、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。
五感でわからないものはないというのは、既に原始人的無知です。しかも、自分がそう仮定してるということにさえ気付かない。それについて考えるということができないというのは、実にひどい無知という外はありません。
下線は管理人による。 物質を観察するに拡大する工夫をしてもよいけれど、最後は人の肉体に備わった五感で分かるものでなければならないと述べています。 それは
表1
の赤い括弧で括った範囲外の現象について、おおよそ1020倍ほども拡大することによって、例えば
表2 出典:ヒッグス粒子「発見」へのカウントダウン
のようなグラフが得られます。直接人の五感でわかるものではありません。
で、自然科学者たちのこのような考え方は、「分ける」ことから来ています。これが要素還元主義です。 その歴史を見ると古代ギリシャにまで遡ると云われます。 世界の全てのものを「アトム」や「元素」に還元しようとするものでした。
五感でわかる
図2
「何か=ブラックボックス」を要素に
図3
分けることにより「分かると思っている」のです。では、五感でわからないものはどうかというと、そういうものは無いと思っています。「無い」と言っているのではありません。無いとしか思えないのです。
そうやって唯物主義たる自然科学者、ことに物理学者は物質について
図4 出典:ヤンミルズ理論におけるクォーク閉じ込めと質量ギャップ問題 奈良女子大近藤慶一氏資料より抜粋
要素に還元することによって元素→分子→原子→原子核→陽子→クオークに到達しました。
図5 出典:同上
人の肉体を構成する感覚器官による
図6 出典:ヒトの感覚器官
五感は、図4に示す分子あるいは原子から来ています。 (当サイトでは原子、即ち陽子・中性子・電子を基本粒子と呼んでいます。以下、基本粒子) ですから、基本粒子より小さな放射性物質からの放射線は無味無臭であることはよく知られている事です。 人の五感は表1の赤い矢印の辺りに基本があるからです。 ですから、素粒子も放射線と同様、大量に浴びれば火傷を負うだろうと思えます。
ここで、問題があります。図5のクオークは単独では取り出せないことです。これを「クオークの閉じ込め」といいます。 管理人は、過去記事2014年4月9日「書きたいことはあるけれど」のその2及び2016年4月12日映画「パーティクルフィーバー」と弧理論において、
写真1 出典:ATLAS Records First Test Collisions at 13 TeV
陽子衝突実験について、陽子衝突→崩壊→素粒子生成 ではなくて、「陽子衝突→消滅→素粒子生成」 なのではないか、と記しました。 当時は、単純に弧理論の考え方において基本粒子は内部構造を持たないからでした。 管理人がうんと若い頃、クオークについて「単独で取り出せないのに物質と云えるのか」という議論があったと何かの本で読んだ記憶があります。
実は、図4に示すヤンミルズ理論におけるクォーク閉じ込めと質量ギャップ問題 を見つけたのはクオークの閉じ込めについて調べたからです。近藤慶一氏がpdfのなかに於いて、「クオークは存在しない?」と疑問を呈しているのも面白いです。
冒頭ご紹介した岡潔の言葉、【3】西洋の唯物主義を全文引用します。
大正9年に亡くなった山崎弁栄という上人がありますが、その人は心について大変詳しく云っていますが、その人の云うところによると、本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない。そう云ってるんです。
実際科学をみましても、自然科学は素粒子を発見した。その素粒子には、安定な素粒子と不安定な素粒子とがあって、不安定な素粒子は生まれてきてまたすぐ消えてしまっている。そうすると、自然は存在じゃないんですね。少なくとも、一部は映像と云ってよい。
また安定な素粒子、安定な素粒子の代表は電子ですが、電子には絶えず不安定な素粒子が衝突している。だから安定してみえるのは位置だけであって、内容は刹那に変わっているのかもしれない。そうも考えられる。もしそうだとすると、山崎弁栄上人が自然は映像であると云っているのと同じになるんですね。今の自然科学では、自然は存在でないことはわかっているが、安定な素粒子というものがあるから、全体が映像かどうかはわからない。そういう状態です。
西洋人は五感でわからないものは無いとしか思えない。これが唯物主義です。この仮定のもとに調べてきた。それが自然科学です。そうすると、とうとう素粒子というものにいき当った。不安定な素粒子というものがあって、生まれてきてまたすぐ消えていってしまっている。無から有が生じるということは考えられない。そうすると、五感でわからないものは無いという仮定は撤回しなければならない。それで西洋の学問は、一番始めからもう一度調べ直さなければならないところへきているんです。
岡潔は、寿命の短い不安定な素粒子をさして「少なくとも一部は映像だ」と述べています。 ここで、管理人は安定な陽子も映像だと考えることによってうまく理解できると気付きました。
誰も陽子が壊れたところを見た人はいませんし、内部構造をなすという要素も単独で取り出せません。 何より我々の持つ感覚器官が基本粒子からできている以上、意味を成さないように思えます。 つまり、素粒子は基本粒子未満の破片でしかないのです。
岡潔は、「不安定な素粒子というものがあって、生まれてきてまたすぐ消えていってしまっている。無から有が生じるということは考えられない。そうすると、五感でわからないものは無いという仮定は撤回しなければならない。それで西洋の学問は、一番始めからもう一度調べ直さなければならない」と述べました。
陽子を映像だと考えるならば、質量が陽子に近い中性子も映像だろうと推測することができます。
では、安定な電子はどうかということです。
- 質量を持つ
- 位置を持つ
- 運動する
- 形状は真球に近い(10年以上におよぶ研究の末、電子の正確な形が明らかに)
- 電荷を持ち運動することにより磁場を持つ
- 運動の一つの形態として波の性質を持つ
- 波の性質により、障壁を通して現れる(トンネル効果)
- 波の性質により、もつれを生じる(量子もつれ)
それぞれについて、それぞれに特化した実験によって得られた結果があり、かつそれぞれに応じた理論があります。(理論に基づく予想と、実験結果が一致するということです。)
では、電子とは何か、と問われたとき何と答えたらよいのでしょうか? これも映像だと考えることによって理解できそうです。つまり、それぞれに特化した条件に於いてそれぞれの状態が返ってくる要素であると考えるのです。 電子とはいろいろな状態を持つ要素だと。
話しは変わりますが、管理人は年に何本か邦画を中心に映画を観ます。最近の映画はデジタルです。調べてみたところデジタルシネマは、DLP方式が多いようです。DLPプロジェクタの仕組みが参考になります。 使われる素子はDMDチップと呼ばれ、拡大した写真が
写真2 出典:DMDと蟻の足
です。 各々は小さな鏡であり、輝度と明度とともに3原色を高速に投影することができます。 最近のデジタルシネマは2K(1920×1080)や4K(3840×2160)が多いようです。 つまり、1画素(ピクセル)でカラーであって、例えば4Kであれば、8,294,400画素で表示されているということです。
1画素においては、その状態が変化するのであって、画素単体では意味を持ち得ません。当たり前ですが、映画とは画素の状態の変化と多くの画素の組み合わせを云います。
最近、某局のAI超入門というのを偶々観ました。 AI(人工知能)の解説により、人の
図7 出典:ニューラルネットワークを用いた手書き文字認識
ニューロンを思い出しました。図7は人のニューロンを模した人工ニューロンでパーセプトロンというようです。 このパーセプトロンを組み合わせた人工のニューラルネットワークが
図8 出典:同上
です。
ここで、図2と図3及び図8を比較することにより、興味深いことがわかります。 つまり、人工知能の研究者は知能の源泉をニューロンに求めていないということです。ニューロンはあくまで状態を変化させるだけです。ネットワークにこそ知能を模す意味があると考えていることがわかります。
弧理論の考え方に置き換えれば、
図9
図10 宇宙の中心は2つある 2つの中心からの投影によりM軸(物質空間)は出来ている
M軸(物質空間)がE軸からの投影であるならば、基本粒子(陽子中性子電子)には、その時々の状態の変化こそあれ、そこに知能の本質はないということです。(勿論のこと、破片である素粒子にもありません。) そして、基本粒子→原子(元素)が出来、炭素・水素・酸素など元素の組み合わせにより、人の感覚器官やニューロンが出来ているのです。
まとめますと、基本粒子は映像であり、我々自身も映像です。そして、自然科学の先端である物理学者たちは、唯物主義なるが故に「要素に分ける」ことの終端に気付くことができないのです。 陽子、中性子、電子を基本粒子とすることと、感覚器官が持ち得る「五感でわかるもの」の間には整合がとれています。
そういえば過去記事に「匙とスプーン」のことを書きました。 国語辞典で匙を調べれば、説明の最後に「スプーン」と記されています。また、スプーンを調べれば、説明の最後に「匙」と書かれています。 これは言葉や物に本質が無いことを意味します。 例えばプラスチックや植物の繊維で出来ている籠(カゴ)という物はありません。プラスチックや植物の繊維もありません。それぞれを構成する元素の元、即ち基本粒子の組み合わせに過ぎません。いずれも映像だからです。 匙もスプーンも互いに規定しあっています。同じく全ての「物や事」は互いに規定し合っていて、恐らくその本質は映像の投影元に在るだろうと考えます。
追記 デジタルシネマのDLP方式に鑑みて、M軸(物質空間)が投影による映像であるならば、微細な現象の現れが確率による離散的であることは至極当然だと理解できます。単純なデジタルとは異なりますけれど「何故」という多くの疑問に答えられるようになると感じます。
文中に引用した岡潔が述べた山崎弁栄上人という人について、調べましたら岐阜県岐阜市に山崎弁栄記念館というのがありました。先日行って参りました。
写真3
宗教絵画が多く達筆な文字で書かれていますが、何を書いてあるのか素養が無くてわかりませんでした。(達筆かどうかもわかりかねます。) 唯一分かったのが「無量壽」という掛け軸でした。壽という字はわかりませんが、無量は、数の単位である「無量大数 1068」を思い起こします。
「本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない。」という言葉は岡潔が山崎弁栄上人のあれこれの資料を読み込むことによって、分かり易く説明されたから、管理人にもわかるのです。 いずれにしても「本当の実在は心のみ」だということを言ったという山崎弁栄上人という人は、何をどういう手がかりで、そう行き着いたのか興味があります。
記念館では平成22年から23年にかけて山崎弁栄展というのが開かれたようで、その際の資料を買い求めました。 とても興味深いことを見つけましたので別途記事にしたいと思います。参考。
追記 ある科学者はE=mc2について次のように述べています。
君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる面にすぎないのだ。
下線は管理人による。 当サイトでの考察の結果、時間は使えません。エネルギーの次元解析は[ML2T-2]で、時間を含みますから代わりに運動Pとしています。 そして、実体が存在する次元軸をエネルギー軸とし実体は真のエネルギーを持つとします。すると
図11
のように示すことができます。 このとき、下線部分を言い換えると次のようになります。
物質も運動Pも真のエネルギーを持つ実体の異なる面である。
上記の電子について、同様に表現することが出来ます。
- 質量も運動Pも一つの実体の異なる面
- 電気も磁気も一つの実体の異なる面
他にも似ていると感じる現象がある場合、上記のように整理することによりうまく理解することができるかも知れません。 例えば、運動Pと波は一つの実体の異なる面と云えるかも知れません。
2017/11/07追記 よく知られているように情報とエネルギー[ML2T-2](ここでは運動P)の間には密接な関係があります。 どうも、M軸上の我々にとっての情報や知識は、E軸上の実体から来ているように思います。その情報の元とでも言うべきものがE軸上の実体が持つ真のエネルギーだと感じます。 情報あるいは知識の元はエネルギー(運動P)そのものより遙かに重要だと感じます。
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