数学者の岡潔は、 唯物主義 を次のように述べています。
- 五感でわからないものは無いとしか思えない。【3】五感でわかるもの
例えば、完璧な論理で思考するならば、神仏どころか、オカルトや占い、あるいはスピリチュアルなどあり得ません。通常、論理的思考に長けた人は、オカルトなどは一笑に付すものです。ところが、これまでの考察によって、言語の多さや宗教の多さの理由は、「人が物や事について、言葉でわかっているのではない」からだということがわかりました。
- 2022年11月21日 日本は十字架の国ではない アワウタ は何でも飲みこんでいく
これまた同じ理由で、オカルトや占い、心霊などのスピリチュアルが存在します。ただ、これらに意味があるかどうかはわかりません。
ですから、自らを科学的思考に長けており、自分は論理的人間だと自任している人、あるいは唯物主義者は、オカルトや占いが存在することを説明できません。
岡潔は、人に心が2つあって、その第1の心は、「意識を通し言葉で言える心」と言いました。言葉で言えるというところがミソです。言葉は互いに規定しあって成り立つ、繰り返し循環です。ですから、第1の心も繰り返し循環です。
岡潔は、自然科学者の考える自然を物質的自然と名付けています。岡潔は、「(第1の心は)物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。」と述べています。【1】2つの心
(注:自然科学者は、物質的自然を時間・空間と言いいました。この時間・空間は簡単な模型であって、自然そのものではありません。)
この「すべてを覆っているが、外へは決して出ていない。」を外のない内と呼んでいます。その理由が上記の「互いに規定しあって成り立つ繰り返し循環、ネットワーク」だからです。
図1 第1の心(言葉で言える心)は、すべてを覆っているが、外へは一切出ていない
ですから、幾ら論理的に思考する唯物主義者であっても、以外の何かが存在することは当然なのです。何しろ人は言葉でわかっているのではありませんから。その何かが、宗教であったり、スピリチュアルであったり、占いであったりするという訳です。 続きを読む
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