「 神 」は如来の内

様、仏様の「 神 」は如来の仕組みの内ですし、ユダヤ教、キリスト教の 神 も同じです。

神の字義

漢字の「神」の字義は、示偏に”申”です。「申」は雷いかずちです。「示」は神饌(お供え物)をのせる机を言います。雷は、天空から地上へと落ちる稲光の光の軌跡の形を表しています。(神の定義とは何か?)つまり、祭壇の向こう側にある超自然的な何かを指して神と言います。いわゆる唯一絶対の神を言います。ただし、日本では、八百万の神として、唯一絶対とは考えていないです。

如来とは

仏教における如来は、悟りを開いた人をいいますが、本来の意味は字義の通りです。

  • ~の如し、の如し、の如し・・・・

人がわかるすべて如来の仕組み(構造)を持っています。

  • 善は悪の如し、悪は善の如し
  • 右は左の如し、左は右の如し
  • 真は偽の如し、偽は真の如し
  • 男は女の如し、女は男の如し
  • 天国は地獄の如し、地獄は天国の如し
  • 神は悪魔の如し、悪魔は神の如し
  • ・・・・

 

神は如来に含まれる

「神は悪魔の如し、悪魔は神の如し」ですから、如来の仕組みの内だということです。如来とは、言葉の仕組みが持つ特性を的確に言い表した言葉です。

 

如来は物と事の相対性を言い表している

如来の仕組みにおいて物と事のすべては、相対的であるという意味です。上に示した如来の例は、意味づけであって、それぞれのが持つ価値観(絶対的)とは何の関係もありません。律儀な人は、真実とか真理とかに拘りますが、すべては相対的ですからあまり拘らない方が仕組みに気付きやすいです。

 

”神”は人が持つ価値観の表れ

宗教の要件に信仰があります。過去の記事で述べましたように、自己の表れ自然界ですから、”神”は、自己の価値観に対応した信仰ということになります。

 

信仰は絶対ではない

言い換えますと、如来という言葉が持つ仕組みによる意味づけが理解できれば、神という絶対的という対立構造から抜け出せるはずです。二項対立二元論無意味だということがわかってきます。

 

ならば、全員が仏教徒になればよいのか

いいえ違います。

日本語の元となる大和言葉の大元は、ヨソヤコヱ:48音です。ヨソヤコヱを七五調に詠んだのがアワウタです。

アワウタは人がわかる5つの母音10の子音にあてて、意味づけして創られています。

図1 出典:日本ヲシテ研究所

つまり、物の初めであるから、事の終わりであるによって、すべてを覆っているのがアワウタなのです。アワウタは一で一意味を表す表音表意文字です。ヲシテ文献にみるアワウタの役割

  • 初めは終わりの如し、終わりは始めの如し

ですから、日本語を話す日本人は、初めから如来の仕組みを会得しているのです。だから、日本語は最強なのです。別の表現では、これを日本教と言います。

  • 何でも飲み込むが元のものとは似ても似つかぬものにしてしまう。

 

アワウタは、理論的にキリスト教もユダヤ教も飲み込む

過去記事にも書きましたが、アワウタは仏教の如来もキリスト教徒、並びにユダヤ教の核も飲み込みます。

  • キリスト教(新約聖書)「アルファでありオメガである」
  • ユダヤ教(聖書)「私は在る。」

勿論、アルファはオメガの如しですし、オメガはアルファの如しです。また、初めは終わりの如しであり、終わりは始めの如しですから、始めも終わりも無いという意味で、「在り続ける」のは、ユダヤ教の核に同じです。そういう意味では、彼らの神も如来の仕組みの内であり、アワウタの内なのです。

 

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物質科学 のヒントは多い(「接する」とは: 折りたたまれた次元: 同軸二重反転単極モーター: 熱電対: 浮揚ディスク)

3つの科学

弧理論は、3つの科学(精神科学、弧理論による社会科学物質科学 )にわけられます。これまで考察は、主に精神科学弧理論による社会科学に関するものが多かったのですが、ここらあたりで、物質科学についてまとめます。今後の考察に資するように、これまでに得られた 物質科学 へのヒントを列挙して考えます。

自然は映像

物質科学の核となる考え方は、自然は映像だということです。自然は映像ですから、画素に相当するのは3つの基本粒子である陽子・中性子・電子の3個です。基本粒子未満の量子力学は除外されます。量子力学は、いわば液晶画面にあるドットの性質をあれこれ探求することに相当します。液晶画面に映写された映像こそが、私たちの置かれる環境、即ち自然界だということです。

写真1 オレンジとドットは無関係

映像であるオレンジとドットは無関係です。

そして、自然は映像であり、映像(現象)はすべて差分です。言い換えますと、現象は相対的ですし、差分しかわかりません。

 

回転運動こそ最重要

映像である空間に固定された点はありません。絶対静止はありません。それ故、回転運動こそが重要な意味を持ちます。 続きを読む

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阿弥陀仏のアミダと 阿弥陀 如来のアミダは、全く異なる

Buddha(仏)と如来関係をわかりやすく説明するに苦心しています。仏も如来も”量れない”という意味では同じですが、そのわからなさ(量れなさ)には、決定的な違いがあります。

如来のわからなさは、論理的な結論として決して量れませんし、仏のわからなさは、何もかもを越えた(論理を越えた)わからなさがあります。2つのわからなさに違いを見つけるヒントに「 阿弥陀 」があります。

阿弥陀とは

阿弥陀仏や 阿弥陀 如来と言います。 阿弥陀 とは、サンスクリット語の「量れない:無量」という意味の漢字への当て字です。

  • コトバンクより「阿弥陀はamitabha(無量光),amitayus(無量寿)の音略。」 a-mita(否定-量る)→(量れない)→阿弥陀

仏や如来がどう量れないのかというお話です。そのわからなさの違いです。

 

仏とは(他資料との比較)

一般にブッダ、あるいは仏陀といいます。仏陀とは、お釈迦さまのことを「ブッダ」と呼びますが、サンスクリット語で「目覚めた者」という意味のようです。しかし、人を指す言葉ではありません。

a-mita-Buddhaであって、決して量れないBuddhaです。”目覚めた者は量れない”というのでは、意味が通りません。そのほかの資料では、どうなのかを比較します。

善導大師は、Buddhaを漢字の音に当てて「仏」としました。その意味を漢字で「覚」と名付けました。管理人が調べた心の仕組みを図で示します。

図1 各資料による心の仕組み

注)昨年の段階で、善導大師が示したとおり、仏(Buddha)=覚としていますが、その後、Buddhaの部分が「覚」であることがわかっています。「Buddha>覚」となります。次の項目で説明します。

図でわかるとおり、人はすべからく本質的な「わかる」という働きを持っています。岡潔はこの心を無私の心と言いました。これが第2の心です。その心をと言います。また、岡潔の情も心の働きの部分であることがわかっています。

ヲシテ文献においては、心の本体をタマと言います。比較すると肉体につながるすべてを下支えしているという意味において、善導大師のに同じです。つまり、自や感は、特別の人のみがもつものでは無いということです。誰もが持つ心の働きであって、それを情やタマあるいは覚と名付けただけです。

では、覚という働きを含むBuddhaとは何かということになります。

仏(自然は自己の現れ)

人がわかるのは物と事です。「物がわかる」であり、事、即ち「動きがわかる」です。弧理論では、事を(運動)と呼んでいます。 続きを読む

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「 二河白道の譬え 」の解釈は間違いかも知れない

過去に浄土信仰を促す「二河白道の譬え」を採り上げたことがあります。

どうも、極楽浄土を願う信仰を二河白道に例えるのは、間違いかも知れません。

「二河白道」とは

図1 出典:法話

出典元の解説から一部を引用します。

「二河白道の譬え」とは、七高僧の第五祖である中国の善導(ぜんどう)大師が『観経疏(かんぎょうしょ)』「散善義(さんぜんぎ)」に示されるものでこの譬えは貪瞋(とんじん)二河の譬喩(ひゆ)ともいわれ、浄土往生を願う衆生が、信を得て浄土に至るまでを譬喩によって表したもので、その内容は以下のようです。(略)

図の左上が対岸で、弥陀(仏)が居る浄土で、浄土往生を願う民衆の目的地です。右下の民衆の居るところが現世?で、悪獣がいわゆる煩悩のようです。そして、こちら側に居るのが実在の人物である釈迦です。

煩悩は、悪いことではありません。ヒトが必然として持ちますから。

  • ヒト=タマ+シヰ+ウ(渦)

ヒトは、心の本体であるタマ生命維持の欲求であるシヰに物質であるが組み合わさってできています。欲しいしいのシヰ、強いるのシヰは、当然です。牛や馬、あるいは野菜を殺さねば、身体を成長、維持するための食物として栄養を摂取できません。過剰が悪だとも言えます。

 

浄土論(地獄と極楽)とユダヤ教・キリスト教の神(天国と地獄)

管理人の古くからの疑問でした。仏教にある地獄と極楽は、西洋のキリスト教にある天国と地獄に余りに似ています。というか、まったく同じです。その理由として挙げられるのは、シナには古くからトルコ人、ペルシャ人やインド人がユダヤ教あるいは原始キリスト教、仏教をもたらしていたと言う事実があって、日本に伝わった仏教にも色濃く反映されていたに違いないことがわかりました。

やはり、仏教にある(地獄と極楽)は、ユダヤ教やキリスト教にある(天国と地獄)におなじだということです。シナに浄土信仰がもたらされた過程がわかる資料として、浄土論と世尊府世論があります。世尊とはイエス・キリストのことです。

図2 出展:浄土論(著者:菩提留支、刊行年:慶安元刊)(売却済みになるとリンク先は消えます。)

世尊府世論については、次にあります。

ユダヤ教あるいはキリスト教はインド経由か直接にシナにもたらされたということになります。しかし、(地獄と極楽)と(天国と地獄)という対称は成り立ちません。過去記事で示したように日本人には原罪がないからです。

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弧理論による 質量 とは何か

勿論のこと、物質質量 です。その前に、物質という用語が気になっています。

人がわかるのはです。

  • 物には量
  • 事には質

弧理論では事の質を運動と呼んでいます。数には2種類ありました。

  • 物の量にかかる数
  • 事の質にかかる数

この結論は、岡潔の言葉が発端でした。

 

弧理論においては、物と事(運動)は一つの実体の異なる面に過ぎません

図1 事を運動と言う 「物がわかる」は現在で、「事がわかる」は過去

常に物の運動に直交して基軸があります。ですから、任意に運動する物にかかる基軸の方向は、特別の場合を除いてわかりません。

図2 xy平面で回転運動する場合のみ回転軸(z軸)に基軸(旧E軸)は重なる

物の回転運動(渦)の結果が物の量として現れます。ただし、弧理論の前提(仮説)として次があります。

少し余談です。電磁気現象についての説明です。 続きを読む

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知識の限界 (抽象&外のない内) 小賢しい知

先日、「小賢しい知」について書きました。

ある科学者は地球の科学者について、次のように述べています。

我々は君の国の多くの一流科学者の精神を調べてみたんだ。大抵の場合、我々は科学者たちの精神が既成概念という鋳型で固められていることを知った。彼らは遠くまで進みすぎている。その結果遠い道のりを後もどりしなければならない。私の言う意味を比喩によってもっと優しく言ってみよう。科学知識を求める人間は木に登るアリのようなものだ。自分では上方へ動いていることがわかっていても、その視野は狭すぎて幹全体を見通せない。そのために幹を離れていることに気づかないで下方の枝の方へ移動するかもしれない。いっときは万事がうまゆく。自分ではまだ上方へ登れるし、進歩という果実を少し摘み取ることもできる。だがその枝が急に無数の小枝に分かれていろいろな方向に葉が散らばっているために本人はまごつき始める。

基本的法則は今や分かれ始めて反対の方向に散らばり始めていることに気づく。すると科学者は心によって受け入れられる  知識の限界  に近づいていることや、あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになるという結論に達する。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

正しく眺めれば、基本的な真理は常に簡単で理解が容易なのだ。

だから幹の上から眺めれば、枝は”枝″として簡単な、理解の容易なものになる。てっとりばやく言うと、君らの科学が進歩し続けるために必要なのは、君たがとまっている枝から枝との分岐点まで降りて、ふたたび登り始めることだ。

君たちの科学は一本の低い枝を知識という全体の樹木に変えていて、そのために科学がひどく複雑になっているんだ。そこでこの科学が実用面で応用されると、できあがった装置は手が出ないほどに複雑になるんだ。

君たちにとって最も必要なのは、自然の基本法則または事実がまったくかんたんだということを発見することだ。

地球の科学者を例えて、木を登るアリのようだと言います。アリは木のどの位置に居るかわかりません。科学はひどく複雑で、心で受け入れられる 知識の限界 に達しています。進歩に必要なのは、枝から分岐点まで降りて、ふたたび登り始めることだと言います。

管理人は、これまで分岐点が何処にあるのかを求めてきました。ア)心の仕組みと働きについては、岡潔やヲシテ文献にまで遡ることによって基礎を得たと実感しました。イ)自然科学の問題点についても深く考え、複数の問題があることを指摘してきました。そうして、知の限界がわかってきました。

 

前回の記事において、発見の方法は幾つかあると書きました。その追記において、ヒトに心(わかるという働き)は2つあるとしました。 続きを読む

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発見 の方法

発見や新しい知見を得るにはいくつかの方法があることがわかっています。

  1. 岡潔 「わからないものに、まだわかってないものに、関心を集め続ける。」「Xに関心を集めつづける」「精神集中をつづけていると、いつしか努力感を感じない精神統一になっている」
  2. 個の不思量底、いかんが思量する
  3. G・アダムスキー「弛緩と関心」

管理人は、随分と昔から3.の方法を知っていました。

研究を始めてから岡潔の「努力感を感じない精神統一」と言う表現を知りました。以下、参考記事です。

動画 17創造と発見の仕組み(3)創造と 発見 は「弛緩と関心」の外からやって来る

 

数学の分野にフィールズ賞があります。次の記事を見ていると受賞者が 発見 について興味深いことを述べていたのでメモします。 発見 の方法として4つめに入ると考えます。

数学嫌いこそ読んでほしい! フィールズ賞を受賞した4人の数学者のインタビュー」から、「相転移の確率問題を解明したのユーゴ・デュミニル-コパン氏」のインタビューの一部です。


質問者:「ひらめき」が降りてきた瞬間はありますか?

デュミニル-コパン氏:はい、今でも鮮明に覚えています。その日はごく普通の日でした。

友人であり長年の共同研究者であるタシオン氏と雑談をしていると、突然、当時私が取り組んでいたものとは全く別分野の式証明が頭に浮かんだのです。

このときの証明は後に、現在統計物理学の教科書に記載されるほど有名になりました。

この話で注目すべきは、無目的ですが知的な言葉のラリーが、まったく新しい発見につながったということです。

それ以来、私は味をしめてしまい、無目的な議論を積極的に行うようになりました。

幸い、無目的な議論はその後何度も、新しい「ひらめき」をもたらしてくれました。

私にとって研究とはグループ体験です。

仲間と一緒に仕事をすることで得られる知的な体験が、私がこれまで手掛けてきた研究成果の大部分を占めています。


下線は管理人による。氏は「無目的だが知的な言葉のラリー」、「無目的な議論」によってひらめきをもたらしたと応えています。

 

管理人は、研究に際して、常に弛緩関心を心がけていますが、実際のところ思考のほとんどを復習に使っています。その途上において「気付かされる:他力」のです。

「わからないX」をある程度言葉にできるならば、家族に聴いてもらいます。(家族にとってはいい迷惑ですけれども)これは上記の無目的な議論に相当するとも言えます。併せて、ブログに書き綴っています。

 

残念なことに、ブログ記事以外にまとまったものはありません。弧理論を一言で言い表せるにもかかわらず、詳細はあまりに広くて深いです。

  • 自然は別の次元軸からの投影による映像

一つのテーマについて、何十件もの記事を書いてきました。年月が経つにつれて、テーマの内容は次第に詳しく簡潔に書けるようになってきます。しかし、全体をまとめたものは存在しません。かろうじて、動画サイトにある程度まとめてあります。隣のタブ(動画での解説)にありますのでご参考に。

年単位で見ると研究は進んでいます。今年も2月末に真のエネルギー値の意味がわかりました。これは大きいです。

余談です。

上の動画の解説です。例として、火星金星を取り上げます。地球から見た火星の運動(自転公転etc)と金星から見た火星の運動は全く異なります。しかし、自然(M軸)が別の次元軸(基軸)からの投影による映像ならば、火星が持つ基軸上の値(真のエネルギー値という。)は、観測者が誰であろうとも不変です。これは近い銀河から見ても変わりません。運動の相対性を考慮に入れて、真のエネルギー値は変わらないというのが凄いところです。E=mcは正しいように見えて実は間違っています。

 

追記 ヒトに心(わかるという働き)は2つあります。

  1. 意識を通し言葉で言える。わけることによりわかる。理解、物の理。
  2. 意識を通さず言葉で言えないがわかる

上の1.について、人は物と事を”対”としてわけられるから言葉で言えます。しかし、言葉は互いに規定し合って成り立つ繰り返し循環・ネットワークです。意識知識でわかっているのではなくて、2,でわかっているのです。新しい知見や発見は2.により成されます。

  • 関心を集めるうちに、言葉で言えないが、しかし、何となくわかる。
  • 何となくわかる段階を経て、(岡潔が言った、”情的にわかる”を経て)
  • 物と事が”対”となる。こうして既知の知識ネットワークに組み込まれる。
  • それから、言葉で言える。これが知識。

1.の機能しか持ち合わせていないAIは、基本的に発見の仕組み働きもありません。”知”は、ネットワークですから、「すべてを覆っているが、それより外へは決して出ていません。」これを外のない内と言います。自覚はないけれども、ここに知識の限界があります。発見はこの限界を超える手段です。

 

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基軸上の実体がわかり、物と事がわかる 空間は結果に過ぎない

前回の記事の補足です。弧理論ではヒト基軸に求めます。基軸は気軸とも言います。

  • ヒト=タマ+シヰ+ウ

タマは心の本体です。シヰは生命維持の欲求です。強いるのシヰです。ウはであり、物(物質)です。ウをM軸(物質面、物質軸、物質的自然)とも言います。

  • 大宇宙の中心であるはつながり、をもたらし、よりヒトを生じさせます。ですから、ヒトハノモノです。

これをカミの仕組みと言います。図にすると次です。

図1 カミの仕組み(弧理論による原子模型)

ヒトがわかるのは物と事です。最初に「気(キ)付く」があります。何に気付くのかというと「物がわかり、事がわかる」のです。物と事がわかり、それから言葉で言えます。

物と事は、基軸上にある実体の異なる面に過ぎません。ただし、物(陽子・中性子・電子)にはそれぞれ2つの実体があります。

図2 基軸(旧E軸)上にある実体A、B、CとG、H、I

ヒトは心の働きによって、本当にわかる(気付く)のは実体です。その実体の差分が物(陽子・中性子・電子)です。それぞれの投影角の違いによって、それぞれに応じた事(運動)が現れます。ですから、物と事は実体の異なる面に過ぎません。

図3

物の動き(運動)がわかるのは、過ぎてからしかわかりません。ですから、事は過去です。現在を含みません。時間は運動から作りますので、過去です。

 

大宇宙の中心、アとワの境界にウとして、物と事が現れて、それがヒトにわかります。ヒトは物と事がわかるから、空間がわかります。これを境界空間と言います。模型を示します。

gif1 境界面に泡が現れる

gif2 境界面での渦

模型に示すように、がわかりわかるのは、水と油の存在があるからです。そもそも境界面は存在しません。つまり、水と油が図1に示すアとワにあたります。境界面が空間です。

  1. 実体がわかり
  2. 物がわかり
  3. 事(運動)がわかる (動きがわかる)
  4. だから、存在しない空間がわかる

最初に実体がなければ、差分としてのは無いし、すべては存在しません。実体はアとワから来ています。ですから、ヒトハノモノなのです。 続きを読む

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弧理論  見方によっては「次元が折りたたまれている」と言える

超ひも理論において、「世界は11次元であり、残りの次元は小さく折りたたまれている」と考えられています。

一方で、 弧理論 の骨子は「自然は映像である」というところにあります。この自然は映像だという考え方は、見方を変えれば「余分な次元が折りたたまれている」と言えそうです。折りたたまれている仕組みを説明します。かなり難しいです。

 

1)弧理論の「自然は映像」を詳しくすると次になります。

  • 自然は別の次元軸からの投影による映像である。
  • これは、山崎弁栄上人の言葉「自然は心があるために映写される映像に過ぎない。」に等しい。【3】西洋の唯物主義

別の次元軸を基軸と言います。映像をM軸と言います。M軸とは物質軸、岡潔の言った物質的自然を言います。基軸はM軸に直交しています。

ここで、人がわかるのはです。事を言い換えると「動きがわかる」です。ここでは運動と呼んでいます。

  • わけることによりわかる。わかるの語源はわける。

これを図にします。

図1 自然は基軸からの投影による映像(物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない)

基軸は、任意に運動する物体あるいは物質に対して常に直交しています。ですから、私たちにとって、基軸はどの方向にあるかはわかりません。ここで、人がわかる(運動)を整理します。物は陽子・中性子・電子の3種類だけで、それには長さと質量があります。事(運動)には次があります。

  • 速度、加速度、流速、運動量
    エネルギー
    波、音、波動、孤立波(ソリトン:素粒子)
    電磁波、光子
    圧力、熱、温度
    角度、時間、
    知識、記憶、情報、統計、確率
    エントロピー
    お金 etc

角度から作る時間はです。物の量ではありません。時間は事の質です。ですから、時間を含むエネルギーは運動の一種です。また、多数観測される素粒子群は、粒子とは言いますが、波(孤立波)の一種で”事”です。なぜならば、図1に示すように運動が大きくなるにつれて、物は次元を失うからです。運動が大きくなると質量は観測されません。例えば、電子光子は一つの実体の異なる面に過ぎません。

 

2)さて、宇宙を観測すると遠くの銀河は加速度的に遠ざかっています。宇宙の大機構造のほとんどはボイド(超空洞)であり、その隙間に銀河などの物質があります。つまり、宇宙は泡構造をしています。加速度的に遠ざかっていますから、観測の限界があります。 続きを読む

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「小賢しい知」を乗り越える 如来 の仕組み

ここ何か月か「ユダヤ人は小賢しい」と感じてきました。ノーベル賞も金融も科学も何もかもがどこか浅いのです。すべては何処かの誰かに優位をもたらす為に存在する小賢しい仕組みだという気がします。これは陰謀論につながります。

正直、「小賢しい」という言葉を書きたいと思ってきましたけれども、書きませんでした。ちょっと下卑た言い方だからです。しかし、ここにこの言葉を使っている動画がありました。

動画1 小賢しい知がもたらす死の予感に気づき出した人たち

動画の概要欄から引用します。

こうした手法に段々と私たちの本能が気づき出しています。今、私たちを騙そうとする小賢しい知と生まれ持った日本人の本能が、せめぎ合っているのかもしれません。なぜなら、小賢しい知に踊らされて行けば、先には死しかないことを、徐々に人々は本能によって気づきだしているからです。

正か邪か、善か悪か、真か偽か、上か下か、右か左かなどどうでもよいことです。を区別しつつ、一見、良いことのように吹聴されることを疑いの目をもって慎重に判断すればよいことです。

 

現代においては、善悪をわきまえて、知識が多く、素早く反応し、複雑な思考に立ち向かえる人が優秀だとされます。その行き着く先は抽象であり、混乱です。破滅です。

緊張を強いられながら絶対の善を妄信している人たちに未来はありません。

特に宗教家や信心深い人は注意が必要です。真実や真理という言葉が好物である人は、余計に嵌りやすいです。

今回のイスラエルとハマス(イラン)の戦争は、信仰や信念が基にあります。彼らは 如来 と言う仕組みの存在を知りません。例え善良で穏やかなユダヤ人であっても同じです。超えるべきは「小賢しい知」です。

  • 岡潔の言ったとおり「情・知・意」順に働く

岡潔の情、善導大師の覚という心の仕組みと働きがなければ、一切は存在しません。知識、意識はその次です。善とか悪とかなどは、知識・意識の領域です。こういった陰謀論的な行いは、知識・意識の領域から出てきているようです。絶対の神など特に問題です。陰謀を暴露したら解決する訳ではありません。私たち日本人は、何となくヤバいと感じれば十分です。

  • わかるの語源はわける。知の領域でわかると信じてやまない人たちは自滅する。

この知こそが小賢しいです。不自然科学の知です。そういえば、昔、「地獄に落ちるぞ。地獄に落ちるぞ。」というのがありましたね。 続きを読む

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