神様、仏様の「 神 」は如来の仕組みの内ですし、ユダヤ教、キリスト教の 神 も同じです。
神の字義
漢字の「神」の字義は、示偏に”申”です。「申」は雷いかずちです。「示」は神饌(お供え物)をのせる机を言います。雷は、天空から地上へと落ちる稲光の光の軌跡の形を表しています。(神の定義とは何か?)つまり、祭壇の向こう側にある超自然的な何かを指して神と言います。いわゆる唯一絶対の神を言います。ただし、日本では、八百万の神として、唯一絶対とは考えていないです。
如来とは
仏教における如来は、悟りを開いた人をいいますが、本来の意味は字義の通りです。
- ~の如し、の如し、の如し・・・・
人がわかる物と事のすべては如来の仕組み(構造)を持っています。
- 善は悪の如し、悪は善の如し
- 右は左の如し、左は右の如し
- 真は偽の如し、偽は真の如し
- 男は女の如し、女は男の如し
- 天国は地獄の如し、地獄は天国の如し
- 神は悪魔の如し、悪魔は神の如し
- ・・・・
神は如来に含まれる
「神は悪魔の如し、悪魔は神の如し」ですから、神は如来の仕組みの内だということです。如来とは、言葉の仕組みが持つ特性を的確に言い表した言葉です。
如来は物と事の相対性を言い表している
如来の仕組みにおいて物と事のすべては、相対的であるという意味です。上に示した如来の例は、意味づけであって、それぞれの人が持つ価値観(絶対的)とは何の関係もありません。律儀な人は、真実とか真理とかに拘りますが、すべては相対的ですからあまり拘らない方が仕組みに気付きやすいです。
”神”は人が持つ価値観の表れ
宗教の要件に信仰があります。過去の記事で述べましたように、自己の表れが自然界ですから、”神”は、自己の価値観に対応した信仰ということになります。
信仰は絶対ではない
言い換えますと、如来という言葉が持つ仕組みによる意味づけが理解できれば、神という絶対的善と悪という対立構造から抜け出せるはずです。二項対立、二元論は無意味だということがわかってきます。
ならば、全員が仏教徒になればよいのか
いいえ違います。
日本語の元となる大和言葉の大元は、ヨソヤコヱ:48音です。ヨソヤコヱを七五調に詠んだのがアワウタです。
アワウタは人がわかる物と事を5つの母音と10の子音にあてて、意味づけして創られています。
図1 出典:日本ヲシテ研究所
つまり、物の初めであるアから、事の終わりであるワによって、すべてを覆っているのがアワウタなのです。アワウタは一音で一意味を表す表音表意文字です。ヲシテ文献にみるアワウタの役割)
- 初めは終わりの如し、終わりは始めの如し
ですから、日本語を話す日本人は、初めから如来の仕組みを会得しているのです。だから、日本語は最強なのです。別の表現では、これを日本教と言います。
- 何でも飲み込むが元のものとは似ても似つかぬものにしてしまう。
アワウタは、理論的にキリスト教もユダヤ教も飲み込む
過去記事にも書きましたが、アワウタは仏教の如来もキリスト教徒、並びにユダヤ教の核も飲み込みます。
- キリスト教(新約聖書)「アルファでありオメガである」
- ユダヤ教(聖書)「私は在る。」
勿論、アルファはオメガの如しですし、オメガはアルファの如しです。また、初めは終わりの如しであり、終わりは始めの如しですから、始めも終わりも無いという意味で、「在り続ける」のは、ユダヤ教の核に同じです。そういう意味では、彼らの神も如来の仕組みの内であり、アワウタの内なのです。
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