弧理論による 空間 は、後述のとおり誰にでもわかるのですが、自然科学においてはそうでもありません。いろいろ調べてみましたら、養老孟子氏が動画で興味深い解説をされていましたので、メモします。
岡潔による自然科学での時間と空間については、過去にご紹介した通りです。【 2】 自然科学者の時間空間、【5】情の特色より。
- 自然科学者は初めに時間、 空間 というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。
- 時はありますが時間という計量的なものは無い。また、空間は量的に質的にありません
調べた限りにおいては、次のようです。
- 始めに空間がある
- 空間の部分を場という
- 場の最小単位を素領域と言う
参考資料
「ニュートンは、空間を3次元のユークリッド空間、すなわち、3方向に無限に拡がるものとする数学を用いてニュートン力学体系を構築した。そして「(空間は)そのnature(本性)において、外界のいかなるものとも関係がなく、常に同じままで(不変)、不動」と記述した。」
「場(ば、英: field)とは、物理量を持つものの存在が、その近傍・周囲に連続的に影響を与えること、あるいはその影響を受けている状態にある空間のこと。 」
「素領域理論:四次元時空を分割不可能な最小領域 (素領域という) に区分し,エネルギーが加わって励起された素領域が素粒子であるとみなして,素領域間のエネルギーの授受によって素粒子の生成・消滅などを論じようとした試論。 1966年湯川秀樹により提唱された。 」
それでも空間とは何なのか不明です。
養老孟子氏による解説です。
動画1 【公式】養老孟司 時間と空間① 〜脳から見た概念〜
動画2 【公式】養老孟司 時間と空間② 〜ややこしいことは簡単にはならない〜
動画1から少し文字起こしをしました。全部ではありませんけれど、以下です。
言葉は、文字で読んでも、耳で聞いても、同じ内容になる。喋っている内容は耳から入っている、読んだ内容は目から入っている。目から入って理解した内容と耳から入って理解した内容が同じになるのが言葉。ふつうはあり得ない。目で見るものと、耳で聴くものは本来全く違うもの。我々は本来違うものとは考えていない。同じと考えるのは言葉のせい。目からの情報処理と耳からの情報処理は、同じ規則が成り立たねばならない。目で日本語の文字を追っても中身がわかる。耳で日本語を聞いても中身がわかる。目と耳がそこで折り合っている。
「言葉は目と耳を平等に使う」
物理的に関係ないものを脳の中で同じにしていかねばならない。目は耳を理解しなければならない。耳は眼を理解しなければならない。そこで、出来てきたのが時間と空間。
眼は時間を理解しない。目は瞬間しかない。耳は空間を理解しない。運動とか耳で聞くことは、時間がないとできない。眼は、それがないから、コマ撮りして合わせるしかない。
時間を作らねばならない。眼にとって、時間は作るもので、耳は空間はあるかというと方向と距離しかない。空間とは耳にとって必要な概念であるし、時間は眼にとって必要な概念である。
だから、「目と耳が折り合うために、時間と空間という概念があらかじめ必要である」
何故か知らないが脳みそは、初めからやっている。時間を時計で量れる理由がよくわからない。時間も空間も世界に備わっていると考える。
とても興味深いです。
言葉は互いに規定しあって成り立つ繰り返し、ネットワークですが、「理解した(わかった)」と感じたならば、思考はそこで止まります。かなり不思議です。匙とスプーンの例です。
写真1
目で見て、これが何かを言葉にします。
図1
何度か辞書を引いて作りました。問題は、言葉は繰り返しなのに写真1を視て「洋風」だとか、「液体や固体を掬いとる小さな道具」などとは考えないことです。繰り返しを延々考え続けることはしません。動画のとおり、「スプーンを出してきて」と耳で聞いて、棚の引き出しを開けて、目で見て、「スプーン」だと確認します。どこにも図1の繰り返しを延々と続ける人はいません。第2の心があるから、そこで止まるのでしょうか?どの段階で納得するのでしょうか、よくわかりません。
言葉はさておいて、自然科学においての時間と空間は、いまだ不思議です。これまでの考察の結果を記します。岡潔の言葉を参考にしました。
- 時間と言う計量的なものはない。時間とは、過行く運動の記憶に基づいて、人が抱く観念に過ぎない。
- 空間は量的に質的に無い。
時間については、養老孟子氏の動画と矛盾はないように思います。問題は空間です。
- 山崎弁栄上人 本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写される映像に過ぎない。
空間は映像です。弧理論では別の次元軸からの投影による映像です。別の次元軸を基軸と言います。映写された映像をM軸といいます。M軸は、物質的自然、あるいは物理空間、物質軸、または、宇宙と言ってもよいかも。
図2
では、M軸、空間とは何かということです。基軸上には中心が2つあります。これをアとワと言います。M軸を2つの中心アワに対して「ウ」といいます。アウワです。ウのことをウズ(渦)とも言います。M軸には物と事(運動P)が現れますが、物はウです。渦です。物質である基本粒子(陽子・中性子・電子)や銀河系、太陽系、地球や、衛星である月もウです。で、空間はアとワの境界にできます。次に模型を示します。
gif1 境界空間の模型
あるのは水(青色)と灯油です。境界面は「質的量的に」ありません。一つ次元を挙げたのが空間です。
- 人が空間の存在をわかるのは、基軸上にある2つの中心、アとワから出ている(何か)がわかるからです。空間はありません。アとワの境界だからです。
本当に人の心でわかるのはアワです。物質(ウズでありアワ)がわかるのです。アワがなければ境界である空間も存在しません。
自然科学は、空間とは何かという問いに応えることはできません。実に単純な仕組みなのです。自然は映像に違いありません。
それと、ウであり、アワである基本粒子(陽子・中性子・電子)に内部構造はありません。上の模型では、アワは水の泡か、灯油の泡の2種類です。2種類の泡に内部構造はありません。ただし、基本粒子は何故か3種類あります。理由はわかっていません。たぶん、2つの中心であるアとワは、少しだけ非対称です。それが原因かもしれません。
追記6/27 目と耳は折り合いをつけているという話で思い出したことです。数には2種類ありました。
- 物の量にかかる数 質量、長さ
- 事の質にかかる数 運動P、速度、加速度、時間、波、波動、熱、エネルギー、素粒子、エントロピー、確率、統計etc
過去の記事で、「リコーダーの音をマイクで拾い、音の強さ(運動、周波数、波形)を質量に換算している。音に質量があるなどと誰も言いません。」と書きました。
それと、同じ事を下の動画でご紹介しました。ピアノの音の強さを計って、ピアノの重さと大きさはわかりません。
養老孟司氏の話「目は空間はわかるが動きはわからない。耳は動きはわかるが空間はわからない。折り合いをつけているのが言葉、そのために時間と空間という概念が必要?」
置き換えると次になります。
- 目では事の質はわからない。
- 耳では物の量がわからない。
自然科学は物と事の区別がないというのは致命的です。電磁波や宇宙線を測って、遠くの銀河系の質量に換算するのは間違っています。クオークや超ひもの質量や大きさを云々するのも間違いです。弧理論では、運動Pが大きいと物は次元を失いますから。
再掲
自然科学のおかしい点です。
- 運動→時間→光速度→「E=mc2」を使って質量やエネルギーを求めている。
↑←←←←←←←↓
光速度がわかるためには時間がわかっている必要があります。時間は運動から作ります。全体が循環です。勿論、相対性理論の原因となったのは、電磁気学が成立過程において、歪められたからです。時間を光速度に置き換えたのが間違いです。本当は時間を使わずに実体の投影角に置き換えるべきだったのです。投影角を使えば、物と事の関係を正確に記述できるはずです。
いやぁ養老孟司氏は凄いです。岡潔が知ったら喜ぶでしょう。
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