意味のある 情報 と本質のない情報

以前、情報に本質はないと記しました。

弧理論での前提を考えます。

  • 人が肉体に備わった器官でわかるのは、物と事である。
  • 自然は別の次元軸からの投影による映像である。

別の次元軸を基軸(気軸)と言います。映像としての自然をM軸と言います。自然が映像ならば、その表れであるM軸上にある物と事の全ては結果に過ぎません。

図1

前提からして、次になります。

  • 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。
  • 物と事は互いに規定しあって成り立つ繰り返し、循環である。
  • 人にとって、”物がわかる”というのが時の現在である。
  • 人にとって、”事がわかる”というのが時の過去である。
  • 物と事は同時に決まらない。

上記の「わかる」というのは、「何となくその趣おもむきがわかる」というのであって、岡潔の言う”情的にわかる”に相当します。”わかる”には、順があります。

  1. 情的にわかる
  2. 知的にわかる
  3. 意識を通してわかる

1.がなければ一切は存在しません。2.と3.をもって理解、あるいは物の理ことわりと言います。これが知識です。岡潔は情的にわかるという心を第2の心とし、下2つを第1の心としました。【4】情のメカニズムより。

自覚するといえば情の目で見極めること。知や意では自覚できない。大体、「知、知」と知を大事にする。中国人もそうだし、印度人もそうだし、西洋人だってそうです。今の教育なんかもそうだけど、知ということについて少し深く考えてみた人、あるだろうか。私はないだろうと思う。

 知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。

 理解というのは、その「ことわり」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「おもむき」がわかるんでしょう。

 松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。

 それから先が知ですが、その基になる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。人は情の中に住んでいる。あなた方は今ひとつの情の状態の中にいる。その状態は言葉ではいえない。いえないけれども、こんな風な情の状態だということは銘々わかっている。

 言葉ではいえない。教えられたものでもない。しかし、わかっている。これがわかるということです。だから知の根底は情にある。知というものも、その根底まで遡ると情の働きです。

つまり岡潔は、情・知・意の順に働くと言っています。話を戻します。

図1のとおり、自然が映像ならば、基(気)軸上にある実体が、投影されその結果物と事として現れるということになります。それがM軸です。そして、情・知・意の順に働くということです。ですから、あらゆる情報、つまり知識は結果に過ぎません。 続きを読む

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説 | タグ: , , , | コメントする

林千勝氏の「 世界皇化 と八紘為宇」と藤原直哉氏による「21世紀はみんながリーダー」

最近、藤原直哉氏の動画をよく見ます。「21世紀はみんながリーダー

皆が自覚すれば世の中は変わると考えていますけれども、何をどう変わればよいかはいろいろあります

管理人は、みんながリーダーになるというより、みんなが天皇になればよいと考えてきました。というのは、天皇は民に代わって、世の安寧を願われているのですが、みんなが世の安寧を願えるようになるのが一番だと思うからです。

そのことに関して、興味深い動画がありましたので、挙げておきます。

動画1 【令和五年 新春特別対談】林千勝氏に聞く[桜R5/1/2]

38分ころからです。林千勝氏は、日本人の止揚を述べています。

写真1 動画より

その中で、八紘為宇世界皇化 を挙げておられます。林千勝氏の主張について、以前の動画で聖徳太子の「和」というのでは弱いと記しました。

管理人の理想として、クニトコタチさんやアマテルさんのころまでののヲシテとのヲシテが再び実現することを願うにあたり、八紘為宇や 世界皇化 より進んで、みんなが天皇になればよいと考えました。つまり、祈祷や呪術的な何かではなく、みんながのヲシテとのヲシテを実践する世界になることが止揚だと考えます。

恐れ多い主張だとか、非現実的であるということは十分承知しておりますが、どうせ願うならば、2つの心について、均整の取れた世界を目指したいものだと考えています。 続きを読む

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説, 雑感 | タグ: , , , , | コメントする

「本当の大災難は2025年7月」というのは、同時に 人類の希望 になってほしい

最近、たつき諒の予言漫画「私が見た未来 完全版」を読みました。近頃、都市伝説とか予言などの動画を観ます。その中で結構紹介されているのが、”多くの予言者が2025年に何かが起きる”とされていることです。特にこの本では、7月とまで特定されています。ある都市伝説系の動画で紹介されている、この本を買いました。

面白いのは、2025年7月に起きると予言されているのは、大災害ではなくて、大災難だというところにあります。災害と言えば、台風や地震、あるいは火山の噴火などです。または、疫病などであるかも知れません。

災害(さいがい、英:disaster)とは、自然現象や人為的な原因によって、人命や社会生活に被害が生じる事態を指す。

しかし、この本で紹介されているのは、大災難だということです。

思いがけず身にふりかかってくる不幸な出来事。災い。

災難というのは、見方を変えれば試練にあたる何かかも知れません。人が成長するのに必要であって、そういった試練に耐えて、越えて行かねばならない何かです。考え方を変えると、不幸な出来事であっても、”もしかしたら”という希望が持てる、 人類の希望 につながるように思います。

 

ところで、冬になって暖房が必要になってきました。例年のとおり、11月頃から脱衣場にハロゲンヒーターを持ち込んでいます。切り忘れが無いように、以前作ったタイマーをAC電源とヒーターの間に挟んで使っています。

しかし、このタイマーは12進数に改造したものです。

写真1 続きを読む

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説 | タグ: , , , , , , , , , , | コメントする

1%の人がひふみ神示にある「悪を抱き参らせる」に必須の論理は、 アワウタ にある

日月神示、ひふみ神示の補巻 月光の巻第二十八帖に「悪を抱き参らせよ。善も抱き参らせよ。」とあります。その志を持つ人が日本に1%ほどいるようです。次の動画の1:00~あたりが重要です。

動画1 【今、世界はどうなっている?】林千勝×水島総 第21回「改竄された歴史、原爆投下の真の標的とは? / ユダヤ支配とアメリカ分断の政治構造」[桜R4/12/17]

水島総氏と林千勝氏が述べていることの大意です。

  • 日本に目覚めている人は1%ほど。(世界にも)
  • 反グローバリストたる福音派アメリカ人とて、インディアンを虐殺した歴史を持つ。
  • 彼らもKKK、あるいは反ユダヤ主義の歴史がある。
  • 彼らの歴史は200年ほどしかない。
  • 日本人は、ユダヤ人と同じくらいの長さの歴史を持つ。
  • 彼らと対等に渡り合えるのは日本人だけである。
  • 我々は、アメリカの分断と同じところに居てはいけない。
  • 止揚(ドイツ語: Aufheben)が必要である。
  • (別の動画にて)林千勝氏「日本が持つ”和”によって世界平和を成しえる。」

動画のキャプチャです。

写真1 米国における分断構造(影響力を持つユダヤ人福音派を支持基盤に持つアメリカ第一主義者の構図)

現在の米国の政治構造は、分断構造にあります。民主党の内に目覚めた反グローバリストが居て、共和党にもグローバリストが居る状態にあります。

写真2 民主党の内に目覚めた反グローバリストが居て、共和党にもグローバリストが居る

林千勝氏『アメリカ第一主義の人たちは、反グローバリストではありますが、反グローバリストたる福音派のアメリカ人とて、インディアンを虐殺した歴史を持つし、クー・クラックス・クラン(英: Ku Klux Klan)、あるいは反ユダヤ主義という差別の歴史がある。第一、アメリカはおよそ200年の歴史しかありません。(グローバリストたる)ユダヤ人と対等であり得るのは日本人だけだ。」と言います。 続きを読む

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説 | コメントする

4種類ある発散トーラスで電子のスピンを説明する

いろいろ難しいところがありますが、兎に角やってみます。

自然は別の次元軸(基軸)からの投影による映像(M軸)だというのが弧理論の前提です。人がわかる物と事は、基軸上にある実体の投影によって映し出される映像です。そして、物と事(運動という。)は一つの実体の異なる面に過ぎません。物と事は同時に決まりません。「事がわかる」というのは、過ぎさった運動の記憶によります。

人にわかる物と事は差分らしいと考えています。宇宙(M軸)に中心はなく、代わりに基軸上に2つの中心があります。(だから、空間ができます。)その最も小さな差分宇宙背景放射ではないかと考えます。また、2つの中心アとワからできるM軸上での”かげ”が、宇宙の最も大きな構造(ボイド:泡)を形作っていると考えます。(宇宙の大規模構造

写真1 出展:宇宙の大規模構造

そして、人にわかる物と事が差分だとすると、実体は複数あるようです。

弧理論では、物は陽子・中性子・電子の3つだけです。それぞれが2つの実体を持つと考えます。それぞれにアルファベットを割り付けて、実体をABC、GHIと呼んでいます。

図1 基軸(旧E軸)上にある実体をABC並びにGHIとする

注)以下、図中にE軸と表示のある場合、基軸と読み替えてください。

陽子(D)の実体はAとGです。中性子(E)の実体はBとHです。電子(F)の実体はCとIです。

電子と実体Cについてのみ考えます。

物である電子が観測者に対して静止している場合は、実体CとIはM軸に対して直交しています。直交以外の角度である場合、物である電子は事(運動)としても現れます。

図2 実体Cは物と事(運動)として現れる

実体Cと電子FのがM軸に並行して現れた場合のM軸上での形状が発散トーラスです。ただし、実体Cと電子Fの対がM軸に並行の状態では、電子は物としての次元を失っていて観測できません。その時の形状が発散トーラス(の場)だということです。発散トーラスは距離の7乗に逆比例する力の場です。とても強いが到達距離は極端に短いです。

発散トーラスは4種類あります。 続きを読む

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説 | タグ: , , , , | コメントする

物理学 の物質と質量という熟語はどうにも腑に落ちない

過去に何度か「自然科学には基礎がない」と書きました。最近、当サイトにおいて、物質、あるいは質量という語を用いません。物質や質量と言った 物理学 では当たり前の言葉に違和感があるからです。順を追って箇条書きにします。

  • 人の肉体に備わった器官でわかるのは物と事である。
  • 物には量がある。
  • 事には質がある。
  • 物の量と事の質は、数に置き換えられる。数には2種類ある。
  • 数は物の量のかげ。
  • 数は事の質のかげ。
  • ただし、自然数の1は決してわからない。
  • 数も言葉の内である。
  • だから、人は、言葉で物や事がわかっているのではない。

弧理論の前提は以下です。

  • 自然は別の次元軸(基軸という。)からの投影による映像(M軸という。)である。
  • 映像である物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。
  • 人が「物がわかる」というのは、時の現在である。(人は言葉以前に、それが何であるかを情的にわかる。)
  • 人が「事がわかる」というのは、時の過去である。”事”とは、物の動き。変位。動いてからしかわからない。
  • 従って、物と事は同時に決まらない。
  • だから、「物事がわかる」のは、過ぎ去った記憶に基づいて「わかる」過去である。
  • 言葉はその後であって、過去である。「わかった」という過去形しかない。

人は、物事を言葉でわかっているのではありません。

さて、自然科学の 物理学 において、当たり前に使う言葉に物質と質量があります。

1. 物質とは、「物理:空間に量・質を持って存する、実質的なもの。最近では場(ば)に対する相対的な概念と見られている。」とあります。また、「哲学:時間的・空間的諸現象のもとである実体。」とされています。そのほかにも「場所をとり一定の量(mass)をもつもののこと。質量と体積を持っていれば物質であるというのが古典的概念。」とあります。Oxford Languagesの定義、並びにweblio辞書「ぶっ-しつ【物質】」より。

2. 質量とは、「質量とは物質の動きにくさの度合い、つまり慣性の大きさのこと。ですから物質の質量は地球上でも、宇宙空間でも、月面でも変わらない。質量の単位はkg。」とあります。これに対して、重さは、「重さとは、物体に作用する万有引力(重力)の大きさです。力の大きさですから単位はN(ニュートン)。」とあります。ファン!ファン!JAXA!「質量と重さの違いって何?」より。

冒頭に示した物と事について、誤りがなければ、1.と2.の説明に違和感を覚えませんでしょうか? 自然科学においては、物の量と事の質が最初から混同されています

外国語が日本人によって、漢字熟語に翻訳される際に創られたものです。いずれも「#1629. 和製漢語[japanese][kanji][waseieigo][lexicology]」にあります。

  • 物質・・・・物の質?
  • 質量・・・・質の量?

まずもってを「空間に量と質を持って存する」、「場所をとり一定の量(mass)をもつ」というふうに一緒くたに言い表すのは変です。質量も変です。物の慣性の大きさを表す、より適切な熟語があったかも知れません。どうすれば、よいのでしょうか。

続きを読む

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説 | タグ: , , , | コメントする

量子論 における決定的な間違い

量子論 とは何かについて、wikiによれば、次のようにあります。

 量子論 (りょうしろん)とは、ある物理量が任意の値を取ることができず、特定の離散的な値しかとることができない、すなわち量子化を受けるような全ての現象と効果を扱う学問である。粒子と波動の二重性、物理的過程の不確定性、観測による不可避な擾乱も特徴である。量子論は、マックス・プランクの量子仮説(ドイツ語版)まで遡る全ての理論、モデル、概念を包括する。量子仮説は1900年に、例えば光や物質構造に対する古典物理学的説明が限界に来ていたために産まれた。

下線は管理人。ある物理量が任意の値をとれなくて、離散的な値になること。あるいは、粒子と波動性の二重性があり、不確定性もあります。これらを扱う包括理論といいます。そのためのモデルとして”量子”が考え出されたようです。

ある科学者は、量子論が成立する過程について次のように述べています。

基本的法則は今や分かれ始めて反対の方向に散らばり始めていることに気づく。すると科学者は心によって受け入れられる 知識の限界 に近づいていることや、あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになるという結論に達する。

下線は管理人。当時の物理学者たちは、「(観測される物理現象が)心によって受け入れられる知識の限界」が来たことを認め、その上で「物理的な法則は統計的なものになる」ということを受け入れたということです。この過程は大事な点を含んでいます。

その物理法則の理解について、具体的に述べています。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる

下線は管理人。物理学者たちの得た結論、「波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。電子は確率波をもつ粒子だ」の結論から、「心で描くことのできない状態」となってしまいました。だから「抽象的な数学に頼らねばならなくなる。」というのです。

 

これまでの考察により、確率は結果だと記してきました。

その心は、自然は映像だからです。自然科学はの区別がありません

サイコロ振ると、1が出る確率は1/6です。

写真1

では、サイコロは確率ですか? いいえ、サイコロは物です。確率は、「振る」ことにより起きる結果です。確率は、基本的な原理などではなく、「事」です。つまり、当サイトで言う運動です。弧理論の前提である「自然は映像」と考えると、物と事の性質がわかります。

  • 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。

続きを読む

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説 | タグ: , , , , , | コメントする

如来 の意味を考える 弧理論から見たら「相対性」であり、「総量は保存する」と同時に「外のない内」

仏教における 如来 とは、悟りを開いた人のことをさして言います。仏陀(Buddha)は、悟りの最高位「仏の悟り」を開いた人を指します。仏陀には、10の称号があり、如来は十号の一つとあります。つまり、如来は仏陀のうちの一つのだという説明です。

阿弥陀如来は、「a-mita 如来」です。”a”は否定で、”mita”が「量る」だといいます。如来とは「決して量れない」ことを指しています。「奇妙無量寿如来」の無量寿は”a-mita”に相当します。

 

では、弧理論からみた如来について考えます。うまく書けるかどうかわかりませんけれど、やってみます。これまでに、如来の文字を含む記事は15件あり、初出は昨年です。

如来には人格性はなく、例えるならば合わせ鏡だといいます。

写真1 出展:wiki

他には「鐘が鳴るか撞木が鳴るか」という言葉も近いです。わかったようでわかりません。もっと、具体的です。

右は左の如し、左は右の如しですし、宇宙空間に出れば、上は下の如し、下は上の如しです。前は後ろの如し、後ろは前の如しです。の如しでの如しです。表は裏の如しで、裏は表の如しです。善は悪の如し、悪は善の如しです。他にもいろいろ考えられます。この世は相対的だという意味になります。絶対などめったにありません。

犯人は被害者の如しで、被害者は犯人の如しです。まるで、現在の政治や主義主張の世界です。これらの主義主張や宗教を含む考え方は、まるで絶対的世界観、宇宙観です

対して、如来の意味するところは、相対的世界観、宇宙観です。かなり前から、自然科学は天動説に例えられると感じていました。天動説で過去記事が15件あります。

この相対性は、宇宙に中心がないことから来ています。うまく言えないけれども書いてみます。椅子3脚を並べます。

椅子A 椅子B 椅子C

自己がAにあるとき、Bは右です。Cはそのまた右です。自己がBにあるときAは左です。Cは右です。自己がCにあるとき、Bは左です。Aはそのまた左です。

これを数に置き換えます。自己の位置をゼロとし、右を+1とし、左を-1とします。すると、自己がABCのそれぞれの位置にあるときの数の和を考えます。

自己がAにあるとき、(0+1+2)です。自己がBにあるとき、(-1+0+1)です。自己がCにあるとき、(-2-1+0)です。ABCのそれぞれの位置にあるときの計をとりますと、3+0+(-3)=0で、総和はゼロです。

椅子が3脚であっても、10脚の場合でも、幾つであっても、奇数でも偶数でも総和は必ずゼロです。ここで思い出すのは「保存の法則」です。

宇宙に中心がなければ、如来は成り立ちますし、総和は必ずゼロです。すべてが相対的であるということの意味はここにあります。量ではない時間を物差しにした相対性理論などでは出て来ない結論です。

 

人の肉体に備わった器官でわかるのは物と事です。弧理論の前提のとおり、自然(M軸という。)が別の次元軸(基軸という。)からの投影による映像ならば、大宇宙の中心は基軸上に2つあります。そして、2つの中心からの投影によるならば、映像であるM軸に中心はなく、かつ差分です。差分とは、基軸上にある2つの中心からの何か(今のところわかっていません。)の差だということです。言い換えます。

人の肉体に備わった器官でわかる物と事は差分である。そして、総量は保存しますし、かつ、外のない内です。ですから、差分以外もあるということです。

これは、次の可能性を意味します。 続きを読む

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説 | タグ: , , , , | コメントする

岡潔の言った「情的にわかる」には「 創造 のプロセス」以外もある

岡潔は、『「わかる」というと物の理とか理解というが、全然理解じゃない。』と言いました。「わかる」の過程は、情・知・意の順に働くと言います。情的にわかるに続いて、知的にわかります。その後に意識できる訳です。「情的にわかる」がなければ、一切は存在しません。

「情的にわかる」を、仏教では他力と言います。他力とは無責任な意味合いに使われますが、本当は岡潔の言った 創造 のプロセスをいいます。

岡潔の言った「情」のほかには、仏教の他力やヲシテ文献のトのヲシテ(心の本体であるタマの働き)、あるいは記紀にあるシラス・ウシハクのシラスなども同じ創造のプロセスです。

図1

現代人に最もわかりやすいのは、「気(キ)づかされる」です。これが 創造 を意味することが知られていません。対して、自然科学には創造の仕組みがありません。「わけることによりわかる」とする還元主義では、創造の仕組みがないのです。

創造のプロセスを最もうまく表現したのが岡潔講演録「【28】ポアンカレ-の発見」にあります。

フランスに、アンリー・ポアンカレーという大数学者があったが、この人の著書に、「科学と方法」というのがあって、その第1章に、「数学上の発見」というのがある。そこで、ポアンカレーは、自分の体験をいろいろ書きつらねてこう言っている。数学上の発見というのは、理性的努力を欠いてはできるものでない。しかし、理性的努力をした時と発見が行われる時との間には、大抵、相当な時間があいている。いつ起こるかわからない。又、その方向は理性が予想したのとは、主に、違った方向の解決であることが多い。つまり、方向が予知できない。意外な方向の解決である。

 第3に、発見は一時にパッとわかってしまう。この3種類の特徴を備えている。一体、これは如何なる知力の働きか、不思議である、とそう言っている。これは、西洋文化の本質に触れた問題ですから、フランス心理学界が、直ちにこの著書を問題にして、当時の世界の大数学者たちに、「あなたはどういうやり方で、数学の研究をしていますか」という問い合わせの手紙を出した。

 その結果、大多数の答えは、ポアンカレーが言っているのと一致したというのです。それで西洋文化の中心である問題は確立したんですが、解決に向っては、一歩も近づかない。今日、なお未解決のままです。私も、実際、数学をやりまして、何度も体験してよく知っています。数学上の発見がどういうものであるかをです。

”理性的努力を欠いてはできるものでない。”というのは、「わからないXに関心を集め続ける」と同意です。努力と発見の間には相当の時間差がありますし、いつ起こるかわかりません。これが他力の意味です。自分(第1の心:シヰ)ではどうしようもありません。また、その方向性も「理性が予想したのとは違うことが多く、意外な方向の解決」です。そして、「発見は一時にパッとわかります」。

このような創造のプロセスは、あまりに個人的な体験によりますので、一般的に認められるに至っていません。度々、当ブログにおいて解説してきたとおりです。

続きを読む

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説 | タグ: , , | コメントする

2000年「最後の始まり」  信仰の時代 の終わりが来た

管理人と同じことを考えている人が動画を挙げていますのでメモします。

過去に、現代は時間お金への 信仰の時代 だと記しました。関連する記事を挙げます。

弧理論による社会科学から出た問題として、2つの心の乖離があります。社会全体が抽象へ向かうことにより、2つの心(タマとシヰ:生命維持の欲求)が離れます。乖離によって、人々の心が病むとわかっています。、「世界の富豪トップ8人の資産は、貧困層36億人分と同じ」だとしても、彼らは満足できずにいます。貪欲さはさらに強くなっています。

庶民にとって、千円が二千円になれば大問題です。しかし、大富豪は資産が倍になっても満足することはありません。「世界の富豪トップ10人、パンデミック中に資産が倍増=NGO」何故なら、人の感覚器官の特性があって、すぐに麻痺するからです。

 

現代において、すべては抽象化していくことにより、タマとシヰの乖離をきたします。

図1

カミノヨ(神皇)の時代からヒトノヨ(人皇)へ変わって久しいわけで、現代はお金と時間を形代とするシャーマニズムの時代でした。

図2 カミノヨ(神皇)の時代からヒトノヨ(人皇)へ変わって久しい

このインチキ世界の終わりが2000年ころより始まったとのことです。

動画1 終えていくうお座時代2000年「最後の始まり」

 

これまで、何度も記したとおり、シラス、他力、「気づかされる」という発見創造の行為と呪術的な祈祷とは、似てはいますが異なる行為です。

図3

現代は、理性や知性が「外のない内」であることがわかっていないヒトノヨだということです。致命的です。前回の記事を参考に。

写真1 啓蒙主義(理性万能論) VS 保守主義(理性への疑い)

 

動画2 知や学だけでは乗り切れない時が来る

 

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説 | タグ: , , , , | コメントする