「 気づく 」は、仏教で言うところの”気づかされる”という他力であり、ヲシテ文献での”(キ)づく”でもあります。ヲシテ文献の(キ)はキツサネ(東西南北)のヒガシ(東)の古い古い言葉です。(キ)とは日の昇る方角であると同時にパワー、エネルギーという力を意味します。岡潔の表現では”情”に相当します。
で、岡潔は心は2つあるとしました。心が2つあるから「わかる」にも2つあります。
- わけることによりわかる。還元主義。意識を通し言葉で言える。私という心。
- 何となく、その趣おもむきが直にわかる。意識を通さず言葉で言えない。無私の心。
岡潔は2番目の「わかる」について、概ね次のように述べています。
- わからない「X」に関心を集め続ける。
- 右の内耳に関心を集め続ける。
- 精神集中をつづけていると、いつしか努力感を感じない精神統一になっている。
- そうして、聞こゆるを聞き、見ゆるを聞く。
- やがて情的にわかってくる。
- 情的にわかるものを知的に言い表そうとすることにより文化はできてくる。
- そして、最後に意識する。
- つまり、情・知・意の順に働く。
この情が仏教の善導大師が言うところの「覚」です。
- ヲシテ文献の(キ):ヒガシ(東)、力、パワー、エネルギー→気づくのキ
- 仏教の他力:気づかされる
- 仏教のBuddha:仏、善導大師の「覚」→感覚の覚
- 岡潔の「情」
- 日月神示に頻出する「気がつかん」「気をつけ」:気づきを促す
上記は同じことの異なる表現です。(言葉は形式ですから、いろんな表現ができます。) 岡潔の情はヲシテ文献の(ナサケヱダ:時の現在)に通じます。因みに本居宣長の”もののあはれ”はヲシテ文献の(アワレヱダ:時の過去)に通じます。ナサケヱダとアワレヱダをあわせてミヤビといい、ヒトに社会性ができます。また記憶を司ります。時の過去がわかるためには記憶が必要であるのは当然です。参考「ホツマ辞典―漢字以前の世界へ」
関連する過去記事は以下です。
で、あまり言いたくないことですが、英語で言えばテレパシーです。
岡潔の言葉である「聞こゆるを聞き、見ゆるを聞く」についてです。上記の記事にある文章を再度あげます。
宇宙人は瞬間テレパシーによって、何らの言語的交流なしに地球人に知識をまとめて植え付けてくれ、その知識が必要となった時に必要な部分だけが自然解凍されるように地球人の頭に浮かぶようになる。
2016年6月28日の記事として、「シル:知る」はストリーミングだけではない「zip」形式があるようだと書きました。 記事の末尾に管理人個人の場合を次のように書いています。
一般に「シル:知る」は、個別のイメージを「streaming」するように考えられているようです。 個人的なことながら管理人の「シル:知る」のほとんどは、zip file の様な圧縮形式になっています。そういうのもありだと思っています。
個人的には、ストリーミングではなくてzip形式のものがあります。
知識をまとめて植え付けてくれ、その知識が必要となった時に必要な部分だけが自然解凍される。
これが「見ゆるを聞く」に相当するのではないかと感じます。管理人の場合、zip形式の刺激が何故か”音”として入ってきます。内耳に音が入った訳ではないのです。決して周囲の環境音ではありません。鈴のねであったり、小川のせせらぎであったり、物が落ちる音であったり、言語のような語り?、あるいは音楽?、何かのジングルであったり様々です。そのとき意味はわかりません。
後々、あるとき1.による心「第1の心:意識を通し言葉で言える。私という心。」によりわかるのです。これを他力と呼んでいいのかどうかです。
まるっと個人的な話を書いても無意味なのですが、岡潔が自己の体験を克明に解き明かしているのですから、何らかの普遍性があるのではないかと思い記事にしました。 お読みの方の中には誰にも話さないけれど経験されている方も居られるかと思います。ご参考まで。
岡潔の言葉遣いは独特です。「見ゆるを聞く」とは言い得て妙です。音は単に空気の粗密です。このような通信手段に音?を使うのは実に不思議です。
それと、数学を含む言葉は形式です。肝心なところは言葉で決してわかりません。岡潔の言葉「自然数の1は決してわからない」はとても重いです。【6】 数学の使えない世界 自然を科学するに数学は必要ではありますが、十分ではありません。文字どおり数学の使えない世界があるからです。
ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。