日本教の元は ヨソヤコヱ にある

ヨソヤコヱ と日本教の間にある関係について考えました。wikiによれば、日本教について次のようにあります。

山本七平は『日本人とユダヤ人』で日本人は自分が日本教徒であるという自覚を持っていないが、日本教という宗教が存在し、それは血肉として日本人自身も自覚しないほどになっているので、日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させることが可能であると考えるのは「正気の沙汰ではない」という。山本によれば日本教とは、神ではなく人間を中心とする和の思想である。

奥山によれば日本教に絶対はなく、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きており、日本教の最大の特徴は「相対化」であると述べる

動画1

日本教の主張は、日本人は「人間を中心とする和の思想」と「絶対者を知らない相対の世界」にあるということです。

 

このような世界観はどうみても ヨソヤコヱ から来ています。2015年にヲシテ文献を知り、ひたすら「ヰクラムワタ ヲ ネコヱワケ フソヨニカヨイ  ヨソヤコヱ 」の意味を探ってきました。意味は大体次のようだと解釈しました。 続きを読む

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岡潔 の”情” 言葉 形式 宗教について

岡潔 は情譲渡と「わかる」との関係を次のように述べています。【4】情のメカニズムより。

知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。

 理解というのは、その「ことわり」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「おもむき」がわかるんでしょう。

 松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。

それから先が知ですが、その基になる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。人は情の中に住んでいる。あなた方は今ひとつの情の状態の中にいる。その状態は言葉ではいえない。いえないけれども、こんな風な情の状態だということは銘々わかっている。

 言葉ではいえない。教えられたものでもない。しかし、わかっている。これがわかるということです。だから知の根底は情にある。知というものも、その根底まで遡ると情の働きです。

人の「わかる」には2つあり、意識を通し、言葉で言える理解とか物の理の前に、情的に「わかる」というのがなければ一切は存在しないといいます。ちょうど寝ていて意識がなくても随意筋である肩と腰の筋肉を使って寝返りができるのです。

寝ているからといって死んでいるのではありません。意識を通さなくてもわかっているのです。

で、最初に情的に「わかる」というのがあるから言葉というものが有り得たし、形式というものが有り得たと述べています。形式とは何かを辞書で調べると次があります。 続きを読む

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喋る 私 と喋れない 私

岡潔は” 私 ”には2つあると述べました。喋る私を第1の心、喋れない私を第2の心としました。

動画(4分頃)において、数学者の千葉逸人氏は、問題を解くに6年ほどかかったといい、アイディアを得るのに2~3年、検証に3~4年かかった旨を述べています。

あれこれ、試す期間が2年ほどということです。これが岡潔が云う第2の心の働きによるのです。

  • 無私の心です。私のない心。どういう意味かと言うと、いくら入れようと思っても私というものは入れようのない心です。それから、この心のわかり方は意識を通さない、じかにわかる。【1】2つの心

の働きにより何となくその趣がわかると言います。またこの心は数学の使えない世界だと言います。これが喋れない 私 です。そのわからないものについて、以下のように述べています。

  • 全然わからんものだったら、それを捜し求めると云うより、関心をXに集めると云った方がよいでしょう。わからんものに関心を集めるということはナンセンスです。出来やしません。これはね、そういうものと云う時には『情的にわかってる』。発見されると云うのは、それが『知的にわかる』。 だから情的にわかると云うのは、普通わかるというのは知的にわかると云う意味ですが、その基礎に、情的にわかると云うことがある。わからなくてわかる、わかってわからない。わかつてわからないと云うのは、わからなくてわかる。しかしそれを言葉に云うこともなにも出来ないから、わかってわからない。そういうわかり方をする。そういうわかり方を人がするから創造ということが有り得る。これが情というもの、あるいはその情を心と云ってもよろしい。【5】 情的にわかる、知的にわかる

千葉氏は「アイディアが出た瞬間が一番うれしい。」と述べています。その過程について、岡潔は「情的にわかるものを知的に言い表すことにより文化は出来てくる。」と述べています。 続きを読む

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如来 の意味。何々の如しの如し・・・・

前回の記事で、ある方から「唯識は、第6識、第7識、第8識、とあり、岡潔は第9識と述べていますが、唯識の考えを続けていくと繰り返しになっている。だから、唯識については、これ以上考えないということになっている。」とのお話しを聞きました。前回記事「唯識論 は”繰り返し”になっている。だから間違い。

この方は仏教者ですから、阿弥陀如来の 如来 の意味を仰いました。お釈迦様が悟って以来、お弟子さんが、何を悟ったのかを聞いたところ、言葉で言えないとのこと。しかし、弟子達は何とかそれを説明して欲しいと伝えたところ、「何々の如し」と言われたとのことでした。そして、「何々の如しの如しであり、何々の如しの如しの如し・・・・だ」ということでした。

つまり、何々のようなものであり、そのまた「のようなもの」、そのまた「のようなも」、そのまた「のようなも」・・・・と続くと説明されたようです。だから、 如来 だということです。

これは岡潔の情の働きについて、意識を通さず、言葉で言えないが何となくその趣がわかるというのを別の言い方をしたということです。

古今東西、偉人達が言葉で言えない何かを苦心して言い表そうとしたということです。 例えば、YHWH、buddha、仏、善導大師の覚、岡潔の情、ヲシテ文献のタマ、在りて在りたるもの、アルファでありオメガである、あるいは日月神示の”気付く”などです。YHWHなどは母音を補わねば声に出し読むことすらできません。

 

どれも偉人達が何とかしようとした痕跡であるといっていよいようです。

ところで、ヲシテ文献においては、アとワとしています。人の感覚でわかる物と事について、は物と事の初めで、は物と事のおわりを意味します。これをネコヱ(音素:母音と子音)にわけたがヨソヤコヱ(48音韻)です。

図1 出典:日本ヲシテ研究所48音韻図(ヨソヤコヱ)

これは聖書の「アルファでありオメガである」に近いことは言うまでもありませんが、ヨソヤコヱの方が遙かに詳しいです。

 

この図を長年眺めていますが、最近、面白いことに気付きました。

実は、ヨソヤコヱには主体たる”私”がありません。物と事を言葉(ヨソヤコヱ)に落とし込んだだけです。しかも、神仏たる超自然的な何かも含まれていません。切っ掛けは次の動画です。

動画1 象は鼻が長い

ヨソヤコヱに主体が含まれていないことにって、象は鼻が長いという文章が出来るのかどうかわかりません。しかしながら、ヨソヤコヱに主体がないということはとても重要なことだと感じます。何故なら、世界は互いに信じている主義、主張や宗教をを押しつけ合っています。この争いごとを納めるには日本語を使う人を増やすしか方法がないと感じます。

 

神仏たる超自然的な何かが含まれていないことについて、その発想の根幹に日本教があります。右検索欄にて”日本教”で検索すると、過去記事が19件出てきます。ご参考まで。

社会学者の小室直樹氏は、「日本人は、神仏より自分の都合が優先する」と述べています。これが日本教です。

動画2

しかし、管理人は日本教が日本人の本質を示す言葉ではないと感じてきました。日本人が日本人である根拠は日本語にあり、ずっとずっと遡ると日本語の起源はヨソヤコヱにあるとわかりました。それを音素(ネコヱ)で仕分けする元がヰクラムワタであることは間違いありません。サイト内を”ヰクラムワタ”で検索ください。26件の記事が出てきます。

注:2015年頃よりヰクラムワタに拘り、二河白道の例えに至り、そこから唯識に至りました。

「何々の如し」、つまり 如来 というよりヰクラムワタから造り上げたヨソヤコヱの方が遙かにわかりやすいと思うのは管理人だけでしょうか。

 

追記7/15 どうも、例えるならば、合わせ鏡より万華鏡の方がよろしいかと。そういえば、サイト内の過去記事に”万華鏡”を取り上げたのが30件あります。

万華鏡ならば、合わせ鏡による単純な繰り返しではなくて、空間を角度により仕切る形になっていますので、合わせ鏡より万華鏡の方が遙かに高い対称性について理解できます。

 

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唯識論 は”繰り返し”になっている。だから間違い。

これまでの考察により” 唯識論 は間違っている”と結論づけてきました。

先日、ある方から「気付くというのは、気付かされるということ。」とのお話しを聞きました。参考 2021年7月3日「日月神示 は”他力”を説いている

昨日、同じ方から「唯識は、第6識、第7識、第8識、とあり、岡潔は第9識と述べていますが、唯識の考えを続けていくと繰り返しになっている。だから、唯識については、これ以上考えないということになっている。」とのお話しを聞きました。口頭ですので、ソースは聞き漏らしました。

管理人はこれまで、唯識論の詳しいことは読んでいませんので、わかりませんけれども、第1の心の特性である。言葉が循環でありネットワークでり、外のない内であることを何度も強調してきました。この「繰り返し」というお話しを聞いたとき、まさに我が意を得たりとの気持ちでした。

岡潔が最晩年に取り組んでいたという唯識論が間違いであると気付いたのは2019年8月24日に高知市で開催された「数学者 岡潔思想研究会夏期合宿」に参加したときでした。参考 2019年8月26日「時には 思想 や哲学を捨てなければならない

 

唯識の繰り返しについての、説明では”合わせ鏡”を例えに述べられていました。

写真1 出典:合わせ鏡

後から思ったのは、例えるならば、これまでブログで何度か取り上げてきた万華鏡の方が理解が深まると考えました。過去記事を万華鏡で検索すると29件ほど出てきます。

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日月神示 は”他力”を説いている

これまで日月神示について、幾度か参考にしてきました。過去記事を” 日月神示 ”でサイト内検索すると52件出てきました。以下に最近の3つをあげます。

たぶん、これまでほとんど指摘されてこなかった事も含んでいます。例えば、 日月神示 がヲシテ文献のフトマニの流れを汲むことや、当サイトでも重要なワードである「気(キ)付く」が 日月神示 で頻出していること、あるいは「一二三(ひふみ)、三四五(みよいず)、五六七(みろく)」の意味がわかってきたことなどがあります。

善導大師がbuddhaをして”覚”と名付けた件で、”覚”は「気付く」だとの記事を書きました。先日、ある方から「気(キ)付く」について、正しくは「気付かされる」だとの指摘を受けました。

すぐに思い出したのが仏教で言うところの「他力」でした。管理人は、他力について30年ほど前から意味を知っていました。 しかし、本当の意味で納得したのは、研究を始めてから何年か過ぎてからでした。

実のところ、岡潔の云った「わからないものに関心を集め続ける。情的にわかるものを知的に言い表すことにより、文化は出来てくる。」という態度はまさに”他力”です。

これは完全に待ち受けの状態です。いつどのようなタイミングで”情的にわかる”かは自身にもわかりません。勿論のこと、そのための準備は怠りません。ただ、わからないものに関心を集め続けるだけです。

因みに、管理人はヲシテ文献の「イクラ ムワタ ヲ ネコヱ ワケ フソヨニカヨイ ヨソヤコヱ」(日本語の元となる大和言葉のさらに基礎である48音韻の起源)については、2015年頃から最近まで「関心を集め続け」てきました。とても長い期間を要する行為です。

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ビッグバン宇宙論 は宇宙の起源とは何の関係もない

岡潔の言葉をもとに考察を進める中、時(現在・過去・未来)について随分考えてきました。特に時の過去の部分である時間について、かれこれ4年から5年ほども考えてきました。

そうする内に理論物理学者の考える宇宙の起源についての理論「 ビッグバン宇宙論 」は、彼ら科学者のまったく意図しない「時の現在を計算しているに過ぎない」のだと気付きました。少し前提が長いです。注:右欄で”ビッグバン”にて検索すると28件の過去記事があります。

 

時間は量ではありませんし、時間をパラメータとする自然科学は循環・ネットワークであり、外のない内であることがわかっています。これは岡潔が云った第1の心の限界でもあります。

図1 自然科学は物質的自然の内の循環・ネットワークに過ぎない

時間の特性は以下です。

  • 時間は角度から作る。
  • 角度は量ではない。
  • 従って、時間は量ではない。
  • だから、時間は10進数による12の倍数である。
  • 時間は時の現在を含まない過去である。
  • だから、時報は過ぎてからしか知り得ない。

これを時の観点から図にします。

図2

には、現在過去・未来があります。現在は、次の現在に置き換わり過去になりますので、その意味で未来はありません。当然のこと、過去がわかるためには現在を記憶しなければなりません。記憶とは情報のことです。情報を蓄えるにはわずかばかりの運動が必要です。運動については後述します。 続きを読む

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研究 は知識の量や理論の複雑さとは無関係

研究 を始めて12年目になりますが、参考としている資料の全部を読み込んではいません。気になる部分のみについて、何年も考え続けてきました。大量に覚えるよりその方が研究は深まる結果となっています。

 

例えば、2015年頃に数学者の岡潔とヲシテ文献の存在を知りました。2つの資料で気になったのは次です。

  1. 岡潔:自然科学は間違っている。時間は量ではない。
  2. ヲシテ文献:ヰクラムワタ ヲ ネコヱワケ フソヨニカヨイ ヨソヤコヱ

時間とは何かについて、およそ4年くらい考えました。ヰクラムワタについては、6年ほども考え続けています。ヰクラムワタからの経過は次です。

 

5つのクラ、6つのワタとは何か? 日本語の元である大和言葉のそのまた元であるヨソヤコヱ(48音韻)は、文明や科学の基礎であるとともに、日本人の日本人たる所以そのものです。それほど大事な話なのにヰクラムワタが何なのかわからない状態でした。

関連で気になったのは「二河白道の譬え」に出てくる四大・五蘊・六識・六根・六塵です。

図1 出典:二河白道の譬え

これらは四大を除いて心の仕組みと働きをどのようにカウントするかの違いに過ぎないと考えました。 続きを読む

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ヒト とは何か

先日、開催しました弧理論研究会において、時間の都合上説明できなかった「 ヒト とは何か」について記します。なお、この記事は、既に当サイトで解説済みの内容です。

次図は当日の資料を少し修正したものです。

図1

図は岡潔の言った2つの心と人間の、並びに脳の神経細胞を模して作られたAI(人工知能)との比較です。

ヲシテ文献によるタマとシヰは、岡潔による2つの心と比して同じと考えてよいです。ヲシテ文献では、タマ(心の本体)とシヰ(生命維持の欲求)に地球上の物質が結びつくことで ヒト になります。岡潔の第2の心がタマに相当し、第1の心がシヰに相当します。

AI(人工知能)は、脳の神経細胞を模しています。これをニューラルネットワークと言います。図上の左が脳の神経細胞で、右がニューラルネットワークです。よく見ると脳の神経細胞も、ニューラルネットワークも状態を変化させるブラックボックスです。わからないもの(ブラックボックス。以下、BB)をわけることにより幾つかの要素にわけます。わけることにより得られる要素もまたBBです。これは還元主義の基本です。

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空間 とは何か?

数学者の岡潔は、自然科学者が 空間 について何も考えていないと述べています。「【2】自然科学者の時間空間」より。

自然科学者は初めに時間、 空間 というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。

当サイトでは、これまで時間とは何かについて、岡潔の言葉を参考に考えてきました。角度は量ではありませんので、角度から作った時間も量ではないことは確かです。すると時間[T]を含む基本量と組立量はすべて量ではないということです。参考まで、当サイトでは時間を含む量?を運動と呼んでいます。「SI基本単位」 因みに時間を含む速度[LT-1]や加速度[LT-2]、力[LMT-2]、圧力[L-1MT-2]などの運動は、量ではなくて、「事」の質です。これらはすべては質である運動単位をつけた数に過ぎません。「物理量

また、岡潔は空間について次のように述べています。【5】情の特色より。

情は分かつべからざる全体である。やはり部分として分かつべからざる全体である。無量のそういう部分がある。情の中には時間も空間もありません。時はありますが時間という計量的なものは無い。また、空間は量的に質的にありませんが、時については2種類、2つですね。過去と現在、それだけですが、新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される。そういう意味で未来は無い。

 

では、空間とは何でしょうか。自然科学者は 空間 とはどういうものか考えていないといいます。物理学では「場」とは空間の部分だといいます。wikiから。

場(ば、英: field、工学分野では[1]電界・磁界など界とも)とは、物理量を持つものの存在が、その近傍・周囲に連続的に影響を与えること、あるいはその影響を受けている状態にある空間のこと。

物理学では、質点として考えます。質点は、量はあるが大きさはなく位置を持ちます。この質点が持つ量が近傍・周囲に連続的に影響を与える、あるいは影響を受けている状態にある空間のことが「場」です。

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