前回の記事で、ある方から「唯識は、第6識、第7識、第8識、とあり、岡潔は第9識と述べていますが、唯識の考えを続けていくと繰り返しになっている。だから、唯識については、これ以上考えないということになっている。」とのお話しを聞きました。前回記事「唯識論 は”繰り返し”になっている。だから間違い。」
この方は仏教者ですから、阿弥陀如来の 如来 の意味を仰いました。お釈迦様が悟って以来、お弟子さんが、何を悟ったのかを聞いたところ、言葉で言えないとのこと。しかし、弟子達は何とかそれを説明して欲しいと伝えたところ、「何々の如し」と言われたとのことでした。そして、「何々の如しの如しであり、何々の如しの如しの如し・・・・だ」ということでした。
つまり、何々のようなものであり、そのまた「のようなもの」、そのまた「のようなも」、そのまた「のようなも」・・・・と続くと説明されたようです。だから、 如来 だということです。
これは岡潔の情の働きについて、意識を通さず、言葉で言えないが何となくその趣がわかるというのを別の言い方をしたということです。
古今東西、偉人達が言葉で言えない何かを苦心して言い表そうとしたということです。 例えば、YHWH、buddha、仏、善導大師の覚、岡潔の情、ヲシテ文献のタマ、在りて在りたるもの、アルファでありオメガである、あるいは日月神示の”気付く”などです。YHWHなどは母音を補わねば声に出し読むことすらできません。
どれも偉人達が何とかしようとした痕跡であるといっていよいようです。
ところで、ヲシテ文献においては、アとワとしています。人の感覚でわかる物と事について、アは物と事の初めで、ワは物と事のおわりを意味します。これをネコヱ(音素:母音と子音)にわけたがヨソヤコヱ(48音韻)です。
図1 出典:日本ヲシテ研究所48音韻図(ヨソヤコヱ)
これは聖書の「アルファでありオメガである」に近いことは言うまでもありませんが、ヨソヤコヱの方が遙かに詳しいです。
この図を長年眺めていますが、最近、面白いことに気付きました。
実は、ヨソヤコヱには主体たる”私”がありません。物と事を言葉(ヨソヤコヱ)に落とし込んだだけです。しかも、神仏たる超自然的な何かも含まれていません。切っ掛けは次の動画です。
動画1 象は鼻が長い
ヨソヤコヱに主体が含まれていないことにって、象は鼻が長いという文章が出来るのかどうかわかりません。しかしながら、ヨソヤコヱに主体がないということはとても重要なことだと感じます。何故なら、世界は互いに信じている主義、主張や宗教をを押しつけ合っています。この争いごとを納めるには日本語を使う人を増やすしか方法がないと感じます。
神仏たる超自然的な何かが含まれていないことについて、その発想の根幹に日本教があります。右検索欄にて”日本教”で検索すると、過去記事が19件出てきます。ご参考まで。
社会学者の小室直樹氏は、「日本人は、神仏より自分の都合が優先する」と述べています。これが日本教です。
動画2
しかし、管理人は日本教が日本人の本質を示す言葉ではないと感じてきました。日本人が日本人である根拠は日本語にあり、ずっとずっと遡ると日本語の起源はヨソヤコヱにあるとわかりました。それを音素(ネコヱ)で仕分けする元がヰクラムワタであることは間違いありません。サイト内を”ヰクラムワタ”で検索ください。26件の記事が出てきます。
注:2015年頃よりヰクラムワタに拘り、二河白道の例えに至り、そこから唯識に至りました。
「何々の如し」、つまり 如来 というよりヰクラムワタから造り上げたヨソヤコヱの方が遙かにわかりやすいと思うのは管理人だけでしょうか。
追記7/15 どうも、例えるならば、合わせ鏡より万華鏡の方がよろしいかと。そういえば、サイト内の過去記事に”万華鏡”を取り上げたのが30件あります。
万華鏡ならば、合わせ鏡による単純な繰り返しではなくて、空間を角度により仕切る形になっていますので、合わせ鏡より万華鏡の方が遙かに高い対称性について理解できます。
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