映像における「 接する 」ということ

2014年頃より物の「接する」ということがどういうことなのか考え続けてきました。というのも、2013年から2015年頃にかけてファラデーの単極誘導モーターに生じる力について実験で確かめたからです。単極誘導モーターに生じる力の力学的な作用と反作用を細かく調べたところ、ブラシや電極の接点に生じていることがわかりました。

gif1

ところが、放電による単極誘導モーターでは放電を介して力が伝わっているようでもありました。

動画1

これでわからなくなりました。力が伝わるとは何か?「 接する 」とは何かということを原子レベルで考える様になりました。

その後、考察を進める内に「自然は映像」であることがわかってきました。数学者岡潔は、「2つの心」で山崎弁栄上人をひいて次のように述べています。「【3】 西洋の唯物主義」を参照ください。

その人の云うところによると、本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない。そう云ってるんです。

弧理論の考え方を一言で云うと「物質と物質にかかる物性のすべては、別の次元軸(E軸上)にある実体の投影による映像である」ということです。これは、岡潔が述べたことと同じです。

弧理論の元となる図形があります。

図1

図1は、ヲシテ文献にある「カミ:つながり、もたらし、生じさせる」にフトマニ図にある「ア・ウ・ワ」を組み合わせた言葉に同じです。「カミ」とは次になります。

「ア」と「ワ」は、つながり、「ウ」をもたらし、「ウ」よりヒトを生じさせる。「ヒトハ アノモノ」であり、「ヒトハ ウナリ」。

図1のM軸(注1)がE軸上の実体からの投影による映像だということです。これを「カミの仕組みと働き」と呼んでいます。これにより宇宙ができていると考えています。


注1:これまでM軸について、様々な呼び名を使ってきました。物質空間、物理空間、宇宙、岡潔が名付けた物質的自然などです。「自然とは何か」という疑問がある内は、M軸をどう呼べばよいかわかりません。とにかく、M軸は次表の範囲を云います。観測可能な宇宙の範囲を云い、どうも「外のない内」であるようです。

表1


ここで気付いたのが「 接する 」と「つながる」の違いです。

これまでのところ、物質的自然は映像であり、物質の「粒子であり波動性の二重性をもつ」という性質を量子力学として捉えることが不適切だとわかりました。つまり、心の仕組みと働きは、別の次元軸にもとめ、その仕組み故に「原子は陽子と中性子を核とし、電子が周囲を回っている」とする訳です。

gif2

gif3

模型で云えば心の仕組みと働きは、gif3であるが、観測はgif2になるということです。別の言い方をするとgif3は、E軸上にある「心の仕組みと働き」であり、fig2が「M軸にある映像」ということです。仕組みはE軸上の実体にあります。

ですから、M軸の観測が粒子であり波動性の二重性を持っていても、仕組みはE軸上の実体に原因を求めねばならないということです。

 

単極誘導モーターの実験により感じた「 接する 」部分にある物性について、突き詰めて考えると「遠隔作用か近接作用か」という選択になります。(物理学者の)思考の順序としては、観測の極致としては近接作用にならざるを得ません。だから素粒子物理学に行き着いたと考えられます。「力を媒介するのは素粒子である」と考える訳です。

しかし、観測は映像です。これを映像として考えます。

例えば次の玩具です。

出典:via GIPHY Newtons cradle

当然のこと、古典的には力学による作用と反作用です。しかし、原子レベルで考えるとわからなくなります。これを理解し、うまくきっちり説明できる人はいるでしょうか。 金属球の原子をしてどのように力が伝わるのかよくわかりません。原子を構成する電子は電子雲として存在し、それは波動関数として著されます。そのような原子核と殻電子は、「どうなって、どのように」力を伝えるのかまったくイメージが湧きません。(gif2の仕組みでNewtons cradleを説明できますか?)分野が異なるという説明はダメです。

ある科学者が云った言葉の意味を突き詰めた結果が上記です。ある科学者の言葉は以下でした。

地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

繰り返します。M軸の観測が粒子であり波動性の二重性を持っていても、仕組みはE軸上の実体に原因を求めねばならないということです。何故なら心にイメージできないからです。岡潔が云ったように「自然は心があるために映写されている映像」だから、心が先にあるのです。心に描けないのではダメです。

これは上記の単極誘導モーターでも同じです。 「磁力線の向き ⊥ 運動方向 ⊥ 電流の向き」にあります。それで、その(回転)運動が接点にスラスト方向に生じます。これを「接する」と考えると「近接作用」として考えねばなりません。 管理人の結論は、『カミの仕組みにある「つながる」を取る』方がよいと考えます。これはたぶん遠隔作用という言い方になりそうです。ただ、遠隔作用としてもかなり趣きが異なります。

物や事の原因のすべては別の次元軸(E軸)にあるとするのですから、原子(陽子・中性子・電子)やその他素粒子群のすべては映像です。原因はE軸にあります。例えば、上に示したNewtons cradleにある金属球の動きを拡大します。

写真1 金属球は接しているが、画素が接している訳ではない

Newtons cradleの金属球は映像ですから、その元は画素です。画素は運動しませんし、接してもいません。画素はその状態を変化させているだけです。画素に運動の原因はありません。それと同じです。原子を構成している陽子・中性子・電子は映像です。映像である陽子・中性子・電子は、写真1の画素に似ています。陽子・中性子・電子はその状態を変化させているだけです。画素との違いは、運動するかどうかです。注2


注2:量ではない角度から作る時間は、物理量ではありません。ここでは運動に時間を用いてないという意味でアンダーバーのついたPを付けて運動とします。運動には、物質の状態である「速度、加速度、躍度、波(電磁波、赤外線、X線etc)、素粒子(ソリトン)、エネルギー」などの総称です。


陽子・中性子・電子という基本粒子は、状態を変化させている画素のようなものです。互いに規定し合うことにより成り立っています。

図2 例えば、電子のみの宇宙に意味はない(物はあっても、事がない)

このような原子に「力が伝わる」ということの本質があるかどうかわかりません。結果として遠隔作用らしいことはわかりますが、よくわかりません。E軸上の実体がかかわっているはずだとは考えます。だた云えることは、「カミの仕組みと働き」からは、物と物との接触というより、「つながり」という表現の方が適切だということです。物と物がつながり、事がもたらされるのです。

単極誘導モーターで云えば、円板と針金の先端である銅と銅がつながりスラスト方向に力がもたらされるのです。

gif4

まだ、不完全ですが、『(自然という)映像における「 接する 」と「つながる」の違いは何か?』ということでした。

余談です。以上を岡潔的表現をすると以下です。

「わかる」というと物の理ことわりとか理解と云います。これが岡潔の云う第1の心です。「わからないものをわけることによりわかる」とする還元主義のことです。そのわかり方は、意識を通し言葉で言えます。でもまったく理解ではありません。自然は第2の心があるために映写される映像です。でなければ、意識を通し言葉で言える第1の心はありえないのです。その仕組みが映像だということです。心の仕組みと働きを別の次元軸(E軸)に求める以外にこれを納得する方法はありません。 岡潔の云う第2の心がなければ、画素(複数)の状態の変化の内に金属球の衝突などわかりようがありません。このわかり方は意識を通さず言葉で言えないがわかるというものです。(これが日月神示に頻出する”気(キ)付く”です。) 物理現象は、人の心の仕組みと働きに直接関係しています。 この辺りから物質科学がでてくるようです。自然科学とはまったく異なる科学です。自然科学は、水深3mでバタ足なしのクロールをするようなものです。超非効率。

space shuttle写真2 出典:引退したスペースシャトルの部品は、こうして新しいプロジェクトで宇宙へと“復帰”する

 

以下は、管理人のメモです。

  1. バシル・バン・デン・バーグによる2つの静電気モーター 静電気といっても電場磁場とも違う、どちらかというとベクトル・ポテンシャルに近い。1つは写真のみ。もう一つは不明。
  2. バシル・バン・デン・バーグは非学理的な発見をしたという
  3. (自然という)映像における「接する」と「つながる」との違い 本記事にて済み
  4. 単極誘導と熱電対の関係 運動とは何か?運動という観点からは、力と熱伝導は直交している。何故か?E軸の仕組み。
  5. 精神性の高い文明とはどのようなものか? 物質科学との関係≈「非学理的発見」というヒント精神科学と物質科学との重複領域をどう捉えるか?松明・行灯の人から見たらレーザーは魔法。 来るべき文明における科学は、機械及び装置に心の仕組みと働きが直接に関わってくる?岡潔は第2の心は頭頂葉に宿るとしたが、物質にはより普遍性があるはず。脳の部位に限らない。想念(思念)は位置を持たない。別の次元軸からするとM軸上の距離は投影角の違いでしかない。
  6. 図1の「中心点アに円」は、ホツマ文字「ア」に同じ。日月神示の「○+ゝ」にも同じ。フトマニ→山口志道(布斗麻邇秘伝)→岡本天明(日月神示)の流れ 別記事に済み

 

追記10/09 精神科学の復習です。岡潔の云う第2の心(意識を通さず言葉で言えないが、その趣がわかる)では、上記映像としてのNewtons cradleは、わかりません。第2の心は情の働きによりわかるのですが、わかるのは静止画だけです。

写真3

つまり、不連続な映像として「ワイヤで吊り下げられた金属球」の趣がわかるのです。ここに動きはありません。多数の静止画があり、同じ金属球だとわかることはありません

物の動き(運動)がわかるのは、本居宣長が解説した「もののあはれ」です。つまり、不連続な映像を記憶して「ワイヤに吊り下げられた金属球の運動により衝突する様子」が意識を通さず言葉で言えないがその趣がわかるのです。一言で云えば動画がわかるのです。「本居宣長」でサイト内検索してください。

面白いことに、岡潔と本居宣長が最初ではありません。数千年前のヲシテ文献に示されていました。岡潔の「情」は音読みです。訓読みでは「なさけ」です。この「なさけ」と「あはれ(もしくはあわれ)」は、ナサケエダとアワレエダとしてホツマ辞典(池田満著展望社)に解説されています。これらをまとめたのが次図です。

図4

ナサケエダとアワレエダを併せたミヤビは、ホツマ辞典によれば(社会性、他人への思いやり、あるいは記憶を司る)とあります。ですから、岡潔の静止画、本居宣長の動画という解釈は正しいです。逆に云えば、ヲシテ文献だけではミヤビが記憶を司る理由がわかりません。

岡潔いわく「自然は心があるために映写される映像に過ぎない」のですから、心の仕組みと働きがあって初めてNewtons cradleの衝突がわかるのです。第1の心が第2の心に優先するわけありません。

結局のところ、遠隔作用として扱ってよいと考えます。還元主義により近接作用と考えると心の仕組みに合わないだろうということです。繰り返します。還元主義により画素あるいは(素粒子、超ひも)にすべての情報が詰まっているとの考えは間違いです。この論だけで自然科学が間違っているとわかります。

 

お願い。恐らくほとんどの人が本記事を含めた当サイトに何が書いてあるのかおわかいただけないと存じます。特に若い頃より勉学に励んでこられた人ほど困難だと思います。これは理系文系の違いを問いません。当サイトを読まれて気になった一文や語句を心の何処かに留め置いて、これに関心を集め続けてください。時折、思い出すだけでもよいです。いつかきっと気(キ)付きわかる瞬間が来ると信じています。当サイトに書いてあることのほとんどは、とてもわかりやすいことなのです。

希代の大天才である岡潔が人々に必死に訴えたのは「(自然科学に見られる)間違った思想の洪水から逃れよう」ということです。人々の心が病みやがて人類が滅びることを心配したからです。管理人が意訳すると「心の仕組み社会の行き着く先との間に乖離が大きくなることにより、心が病んで人類が滅びる」ということです。心の仕組みと働きを優先して、仮想通貨とか偶像などの抽象に行きすぎると心を病みます。例えば、RPGを代表するゲームやeスポーツなどとても不健康です。

小学校低学年の算数セットで時計の読み方を学んでからずっと間違っているのですから、この問題の根は深いです。「時間という計量的なものはない」と間違いを指摘したのは岡潔だけです。

写真4

 

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ヨソヤコヱ (48音韻:アワウタ)は前文明の遺産かも知れない

これまでの考察から見て、ヲシテ文献にある ヨソヤコヱ (48音韻:アワウタ)は、日本語の基礎に間違いありません。そして、ヲシテ文献に書かれているヲシテ哲学(縄文哲学)の核心である「カミ※1」という言葉は、管理人の研究課題であるG・アダムスキーが遺したネガフィルムに写っていた紡錘図形※2の意味するところと同じようです。この2つの一致は、客観的に見てどの程度かわかりませんけれど、管理人にはまったく同じと感じます。

研究を開始した2010年に約半年をかけてUFO contactee誌(宇宙哲学とUFOの研究ネットワーク)を2回ほど通して読みました。当時、気になった文章があります。G・アダムスキー:久保田八郎訳になる「空飛ぶ円盤の真相」(高文社)という本にまとめられていて、p75とp77から一部引用します。

写真1

さて、この象形文字が私に与えられたおもな理由の一つは、地球人が欲しがっていることを宇宙人が知っていたという〝具体的な証拠〟を与えるためであった。

宇宙の兄弟たちは次の事実を認めている。すなわち地球の古代文明の歴史やその文明の哲学のなかには、彼らの遊星上で知られていて、そこに住む人々によって保たれている歴史や哲学と一致するものがあって、それが例の象形文字のなかに述べられているというのだ。
それで、ずっと以前に私に与えられたあの象形文字の完全な説明をすることは現在でも私にはできないけれども、その文字はおそらく目的を果たしたであろう。宇宙人たちは満足の意を表わしている。

下線は管理人による。「私」とはG・アダムスキーのことです。象形文字とは、G・アダムスキーが遺したネガフィルムに映っていた宇宙文字と呼ばれるものです。

写真2

「地球人が欲しがっていることを宇宙人が知っていた」というのは、言わずもがなフリーエネルギーと重力制御に関する科学です。「地球の古代文明の歴史やその文明の哲学」と「そこに住む人々(彼ら異星人)によって保たれている歴史や哲学」と同じものがあって、それが写真2に示されているということです。

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フリーエネルギー の原理に関係する用語

これまでの考察により、ある程度 フリーエネルギー の原理に関する用語が出そろったのでメモします。 なお、 フリーエネルギー と重力制御とは密接な関係にありますので、関係する用語を区別無く掲載します。

1.G・アダムスキーは、キーワードとして次の言葉で説明している。・・・・ 静電気、ヴァンデ・グラーフ静電発生装置(ヴァンデグラフ起電機

2.ある科学者・・・・楕円磁場、ディファエンシャル(差動)・アキュムレーター

3.トム・ベアデン・・・・手紙(10.オリバー・ヘヴィサイドが発見したという回転性電磁エネルギー流)

4.管理人・・・・発散トーラス(弧理論による仮説。)、二重反転型(三重反転型)単極誘導モーター

以下は、ざっくりとした解説です。他にも気になる語がありますが、省略します。


発散トーラスは、井出治氏によるトランスにある第3起電力(正の起電力仮説)を「電磁気現象が別の次元軸を考慮した際の位相変換による」と考えた場合での第3起電力の原因となる力の場。(距離の7乗に逆比例する力の場)(弧理論による仮説)

正と負、2種類の発散トーラスを組み合わせてできるのが楕円磁場。磁場と云っても電場磁場の磁場とは異なる。強いて云えば、ベクトル・ポテンシャルに似ている。電磁気現象の原因とでも云える力の場。物質空間は緊張状態にある。差分を観測できる。

発散トーラスは、陽子・中性子間に働く※1とする力の場。中性子・電子間に働く※2とする力の場の仮説。正と負の発散トーラスの差し引き(差分)が楕円磁場である。楕円磁場を言い換えると接線方向への斥力である。原子(陽子・中性子・電子)による回転運動は、発散トーラスを組み合わせた楕円磁場による。 どうもある科学者が云った楕円磁場とは、G・アダムスキーの云った静電気と同じものの様だ。(現在地球では同じ概念を持つ物がない。近いのがベクトル・ポテンシャル。) 例えば電子は、観測により粒子であり波動であることがわかっているが、別の次元軸からの投影による映像であると考えるならば、離散的・確率的に起きるという記述(量子力学)は不要。別の次元軸からの投影により物質は回転運動するという仕組みが優先する。また、素粒子群は物質未満の破片に過ぎず別の次元軸にある実体の数(6種×2)に比例する。 続きを読む

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UFO – 飛翔体 飛来の目的

平坦な研究に変化が欲しくて「実体験をふまえた UFO 現象 ~ UFO -飛翔体・遭遇とその軌跡~講師:加藤 純一 氏」のお話を聞きに出かけました。

写真1 出典:UFO研究の第一人者が教える「UFOウォッチング」に成功するコツ

講師の加藤純一氏が撮影した多くのUFO写真と自身の体験とを語られ、幾つか気付いたことをメモします。かなり大事な内容を含んでいますので、できれば最後までお読みください。

写真2 出典:同上

加藤氏は、幼少期にUFO(飛翔体)遭遇の体験をされ、以後、数多くのUFO(飛翔体)に遭遇し写真におさめてこられました。以下に語られた内容について記憶を頼りにメモします。

  1. 幼少期に近所で友達と遊んでいるとき、巨大な何かに遭遇。(当時それを何と呼ぶか知らなかった。)市内付近で多くの人たちが目撃し、TVニュースにもなった。
  2. いつも目撃、遭遇する前に、”ポーン”という音を聞く。今思うと訓練を受けていたようだ。「音を聞く」と「目撃」との関係は幼少期のみ。その後、目撃もなくなり忘れる。
  3. 成人後上京し、再び目撃するようになる。写真も多く撮るようになる。その際、”言葉で言えないが、何となく感じる(予感がする)”ようになる。
  4. UFOウオッチングを繰り返す内に、写真を撮りたくなった場合「事前にある図形をイメージ」することによって、やがて”言葉で言えないが、予感がする”ことで目撃・遭遇できるようになる。つまり、希望すれば目撃・遭遇することができる。粘り強く続ければ誰でも必ず目撃できる。
  5. いろんな形に変化する。色々に発光する。編隊を組む。
  6. 何がやってきて、何を撮っているのか、まったくわからない。
  7. 幾つも目撃・遭遇する中、双眼鏡などで観察するに、蜃気楼などの屈折などではない。「動かない、機能を停止しているときは形のある固体ではない何かであるよう」に思う。しかし、機能し飛んでいるときには白銀や赤・オレンジに発光したり、透明や黒になるとともに、変形するのではないか。
  8. 何故、平凡な自分がこのようなことをやるようになったのかわからない。 UFO や宇宙人というお話しをするのは好きではない。どちらかというと嫌い。
  9. 目撃談や写真を収集して研究することにより、UFOが何なのかを知ることは絶対に不可能。
  10. あえて個人的な体験や感想を出すのは、これらを直接に役立てて科学してほしいから。
  11. 彼ら(なのかどうか)が何のために、何を目的でやってくるのか是非知りたい。
  12. このような自分に大群で飛来して見せる彼らは、よほど暇なのだろう。
  13. 写真でもビデオでも提供するので、これらで科学して欲しい。

目撃のお話しは少し参考になりましたが、正直写真やビデオはどうでもよいです。感想は以下です。 続きを読む

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自然科学 は、股裂き状態にある

数学者岡潔の言葉を参考に考察した結果、 自然科学 の何がどのように間違っているかが判明しました。同時に 自然科学 は分野ごとに分裂というか股裂き(不連続な)状態にあると述べてきました。今回は、物理学発達の歴史を振り返ることにより、自然科学の不連続性について例え話しを交えて説明します。

まず、これまでの考察によりわかった自然科学の間違っている点を列挙します。

  1. 時間は、五感でわかる物質の運動に対して(人が持つ)観念に過ぎない。
  2. 時間は、五感でわかる物質の運動から作る
  3. 時間は、太陽の光が地上に作る影の角度から作る。
  4. 角度は量ではない
  5. 従って、角度から作る時間は物理量ではない
  6. 現在、時間はセシウムの運動から作る。(セシウム原子時計) しかし、時間は10進数による12の倍数であり、本質は変わっていない。
  7. 時間は、人が持つ観念に過ぎないから、人の五感でわかる運動の範囲にしか適用できない。
  8. 運動が角度から作る時間に比例して起きるかどうかは場合による。
  9. 量は一意であり計測により確定(最確値を得ること)すが、時間は一意ではないし計測ではなく作るもの。

例えば、ピザの(面積、重さ)は、角度に比例する場合と比例しない場合があります。

写真1

ピザの厚みとピザの半径は角度に比例しません。ですから物質の運動は角度から作った時間に比例して起こる場合と起きない場合があります。繰り返します。時間は量ではありません

自然科学の間違っている点です。1.時間を用いた理論は、人の五感でわかる運動にのみ適用できます。何故なら人が持つ観念の一つに過ぎないからです。2.量ではない時間と運動との間に比例関係がなり立たない場合があります。だから時間は物理量として扱えません。

人が持つ時間という観念が適用できる範囲は、概ね次表に示す(赤い括弧)で括った範囲と云えます。工夫することはできますが、限界があります。 続きを読む

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単極誘導 と熱電対

2013年~2015年頃にかけて、主にマイケル・ファラデーの 単極誘導 モーターについて一連の実験をしました。その頃から 単極誘導 モーターの現象は回路(電流経路)に生じるのではなくて、回路の接触(接点)部分に生じるように感じていました。 その結果、物と物が「接する」とは何か、接するとはどういう事なのかを考え続けてきました。

同時に、いつも引用するある科学者の言葉が気になりました。一部引用します。

君の国の科学技術者はいまいわゆる原子エネルギーで推進する潜水艦の建造計画に従事している。(注=この記事はかなり昔に発表されたものである)彼らは原子炉を建造してこれをやろうとしている。その原子炉の中ではウランの軽いアイソトープが熱エネルギーと数個の中性子を放ちながら分裂し、これが他の重いウランに吸収されて、またそれが分裂する。かなり複雑だけれども、この方法は地球人がいままでに作り出した方法としては最も有効なエネルギー発生法だ。しかしこの熱エネルギーを宇宙船の推力に変えるために、彼らは原子炉の中に流動体を循環させようとしている。つまり熱変換器の中に流動体を循環させて圧力下に別な流動体を蒸気に変え、この蒸気をタービソの中に通してタービンを回転させ、それによって発電機を廻して電力を得ようというのだ。もし彼らが三〇パーセントの総合的な効果をあげれば、これはたいした技術上の功績ということになるだろう。
だがもし彼らがもっと簡単な言葉で考えることができれば、現在持っている知識でもって核分裂炉のまわりに簡単な熱電対を作って、発生す温度変化を直接に電気エネルギーに変えることができ、少なくとも九四ないし九八パーセントの効果をあげられるだろう。これには可動部分は不要だし、費用も安上がりで、エネルギー出力の単位あたり少ない物量ですむ。だがわれわれの方法にくらべれば、この方法さえも不経済で複雑なように思われる。

下線と強調は管理人による。 原子炉による発電に機械稼働部分のない熱電対を用いることで94~98%の変換効率を実現できると述べています。それも1950年代に既にある技術で可能だとのことでした。

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無限と 外のない内 の違い 孤立系と開放系の違い

2010年から宇宙の外とは何かを考え続けて、2017年頃にやっと「 外のない内 」という表現に辿り着きました。2017年11月24日『自然科学のいう「非科学的」とはどういうことか?』を参照ください。

発端は、G・アダムスキーの足跡でした。

図1

宇宙の中に居る我々の存在は、図に示される幾つかの紡錘図形で表されていることはわかっていました。問題は足跡の輪郭です。我々は2種類の何かに包まれていて、輪郭は「宇宙の外について、一切言及していない」と考えていました。当時はそう表現したものの、何かすっきりした言い方は無いかと探し続けてきました。それが2017年に山崎弁栄上人記念館の資料の中にぴったりの表現を見つけました。それが「 外のない内 」でした。

ぴったりの言葉がみつかるまで、孫悟空とお釈迦様の掌を例え話に幾つか記事を書きました。サイト内を「孫悟空」で検索すると5件見つかります。説明するに結構苦労して記事を書いています。

一般的に自然科学は孤立系の学問です。(たぶん)一定区間の量を計測し、平均を求めます。後は、数学的にマイナスの無限遠からプラスの無限遠までの積分をとれば全量を求められると考えられていると思います。で、孤立系を無限大まで拡張すれば開放系に等しく扱えると考えているように思います。この考えは管理人の考える自然科学に過ぎないかも知れませんが、自然科学をそのように捉えている方も多いと思います。

一方で、数学を含む言葉(言語)は互いに規定し合うことにより成り立つ循環であることがわかっています。例えば2進数で云えば、”1”とはゼロでない数ですし、ゼロとは”1”でない数としか云えません。

同様に無限大(∞)とは、有限でない数ですし、有限とは無限大(∞)ではない数としか云えません。つまり、循環の内に開放系を定義することは不可能だと考えます。孤立系をどれだけ拡張しても開放系にならないというのが管理人の出した結論です。

空間とは何か、あるいは「空間の外」とは何かを定義できていない以上、循環である言語で拡張しても表現しきれないのではないかと思うのです。「空間の外とは何か」という疑問そのものをうっちゃれば問題を避けられるように思います。それが「 外のない内 」ということです。その上で空間に関する疑問を別の次元軸に原因を求めようというのが弧理論の考え方です。ですから、弧理論は図1の輪郭内のことを別の次元軸を元に考えることになります。うまく表現できたか甚だ疑問ですが、おわかりいただけるでしょうか?

 

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自然科学者は 心の仕組み と働きに無知

自然科学者が数学者岡潔の思想( 心の仕組み と働きに関する部分)を読むにつけ、岡潔が考えていたことも、彼が皆に何を望んでいたかということもわかっていないです。誤解を恐れずに書きます。

これまで4年ほども岡潔の思想について考えてきました。特に自然科学のどの部分がどのように間違っているかと、人の 心の仕組み と働きについて、岡潔が何をどう云っているかを重点的に調べて考察してきました。 岡潔が実践するよう促した「わからないものについて、右耳の内耳に関心を集め続ける」ことで、「努力感のない精神統一」へいたり、「情的にわかっているものを知的に言い表そう」とする姿は、先日の記事でもとりあげました。「節操がない  何事もゼロでも100でもない」を参照ください。 それは、「数学する人生 岡潔」:森田真生著新潮社に掲載されているp4の写真です。ここに掲載することはできませんけれども、「(自宅前にて)わからないことに関心を集め続ける岡潔の姿」です。これは「弛緩と関心」であり、ヲシテ哲学におけるトノヲシテを実践する姿そのものです。でも、見方を変えるとその外観は、「惚ほうけている」ような姿であり、スピリチュアル系のそれと同じです。

数学者岡潔の本や講演録を読む方には次の2種あると思われます。

  1. 岡潔の実績から偉大さを認めた上で彼の思想を読むが、自然科学の手法に合わない物や事を非科学(オカルト、スピリチュアル系、カルト、心霊現象etc)として追いやっている。
  2. 岡潔の実績から偉大さを認めた上で彼の思想を読むが、彼の思想に自然科学の手法に合わない非科学(オカルト、スピリチュアル系、カルト、心霊現象etc)な部分を感じつつ、誤魔化している。

1.は数学者岡潔の思想の字面を読んでいるだけで、岡潔が何を考えて皆に何を伝えたかったかをまったく理解していない状態です。2.の場合、岡潔の述べていることも望んでいたこともわかっているけれど、自身を誤魔化している状態です。これはダブルスタンダードです。 続きを読む

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節操がない  何事もゼロでも100でもない

昔から自身を 節操がない と感じてきました。管理人は調べ物をする際に何でも参考にします。世に評価された人や資料や逆に見向きもされない資料など何でもです。その基準は、高野誠鮮氏が紹介された言葉にあります。「宇宙人UFO軍事機密の【レベルMAX】:ヒカルランド」

「寛容で懐疑的な態度は絶対失ってはいけない」

少し長いですが引用します。P69~

アメリカ空軍大学(Air University)では面白い教科書を出しています。「Research study」と書いてあります。ここの中に「次にUFOの調査をするときにはCIAに邪魔をされないように」とあります。つまり、前回CIAに邪魔されたということを暗に示唆しているのです。これは不思議なものでした。これは空軍の司令部です。アメリカの空軍士官学校(アカデミー)で使っている教科書なので、本当はコピーも撮影もいけないのです。

僕は、それを現職の士官からいただだきました。そろそろ出してもいいころかなと思っていたのです。『宇宙科学入門』というタイトルです。(図7)。これをよく見てください。33章はすべてUFOの話です。コンクルージョン(結論)には、とんでもないことが書いてあります。士官学校で何を教えているのか。「UFOというのは、実に不愉快だけど、今から5万年以上前からこの地球上にやってきている」と書いてあるんです。(図8)有史以来ですよ。誰がこれを調べたんですか。しかも、ほかの惑星からエイリアンがコントロールして乗ってきているのがUFOだと結論づけているのです。

この次のフレーズがちょっと不気味です。「3種類の異なったエイリアンが、もう既に地球にやって来ている」と書いてあります。その次に「maybe four」と書いてあります。ひよっとすると、4つの異なったグループが来ています。別の1種類が来ている。これを空軍士官学校で使っている教科書で教えているのです。学ぶのはぺいぺいの一兵卒とかそういうレベルではなく、士官候補生だけです。士官たちには教えているのに、議会や国民に対しては否定しているのです。

この教科書には「寛容で懐疑的な態度は絶対失ってはいけない」と書いてあります。つまり、いることは間違いない。3種類から4種類来ていることを教えています。しかも、「今から5万年以上前から地球に既にやって来ている」と書いてあります。彼らは敵ではありません。5万年以上前から来ていて、侵略しようとか、そんなふざけたことは考えていませんよ。侵略とかではなく、まったく違うことを考えているわけです。

従前管理人は、研究に対しての姿勢として次のように考えてきました。

  1. 誰が書いたか(言い出したか)は関係ない。
  2. 内容が合理的で納得できれば採用する。(内心ひっかかるものがあればよい。できれば第一次情報がよい。)
  3. その際、自己の常識は関係ない。
  4. しかし、採用した一部をもって書いてある(言っている)こと全部を丸呑みしない。
  5. 分からないことは、捨てるのではなく判断を保留する。
  6. 何年か先に別の情報との整合性がとれることによって将来判断できるかも知れない。

について、権威があるとかしかるべき地位にある人が言ったとかは関係ありません。例えば、数学者岡潔が偉大な数学者だからではなくて、純粋に合理的なことを述べているから考察の出発点にしているのです。

について、常識はその時々によって変わります。光の速さで何百年もかかるところからやって来る訳ないと考えるのは常識です。かつて管理人もそのような考えでした。でも研究を進める内に「宇宙は距離ではなくて角度だ」と感じるようになりました。(まだはっきりしませんけれど、常識がブレーキになっている)

について、これは重要です。どうも教育の影響か、多くの人はゼロか100のどちらかしか判断しないようです。これは宗教に対する態度です。それではいけません。例え一つが合理的であって採用したとしても他のことも全部受け入れる合理性はありません。「これはこれ、それはそれ」という態度です。丸呑みはいけません。

について、今はわからないけれども、何かひっかかるなど感じたときには、判断を保留します。いつか別の情報があったときに、そういえばかつてこんな情報があったなと気付くことで、繋がってくるはずです。そのまま忘れることも多々あります。4と関係しますが、全否定も全肯定もダメです。

 

複数の資料に同じ事が書かれているならば(間接的な資料として)採用しますけれども、だからといってその資料を100とはしません。あくまで是々非々です。日月神示をなぜ採用することがあるかというと他の資料に書かれていることと同じだから、その箇所のみを取り上げたのです。 管理人はスピリチュアル系、オカルト系は好みません。しかしながら、書かれていることに他と整合性があればよしとします。でも全部じゃない。

数学する人生 岡潔」:森田真生著新潮社に掲載されているp4の写真は最高です。ここに掲載することはできませんけれども、「(自宅前にて)わからないことに関心を集め続ける岡潔の姿」です。これは「弛緩と関心」であり、ヲシテ哲学におけるトノヲシテを実践する姿そのものです。でも、見方を変えるとその外観は、「惚ほうけている」、あるいは「スピ系」となんら変わりないのです。 「自然科学の観点からは非科学とされる中にも何かあるかも」という疑問形ではなくて、今や「自然科学の何処がどのように間違っているかわかった」のですから、すべてリセットしてかからねばならないのです。だから好き嫌いではなくて「心に引っかかるものすべて」を参考にすべきです。それが「寛容で懐疑的な態度は絶対失ってはいけない」なのです。 言い換えると管理人の研究に対する姿勢には 節操がない のです。今も答えが得られない問題が山積みです。

心の仕組みと働きは、スピ系でもオカルトでもないのに同じ系(非科学)と分類されてしまいます。

ところがエリートと呼ばれる人たちは、真逆で非寛容です。自然科学(の専門分野)に疑問を抱いていません。それが基礎だと信じているのですから仕方ありません。基礎が危ういものだと微塵も感じていないのですから、それについて何も考えていません。時間は物理量ではないという点について、4年近くも考えてきました。うまくできた誤魔化しです。物理学者の中にも時間が物理量ではないと気付いている人がいるはずです。しかし、地位や評価を失いたくない、失業するわけにはいかないというのが現実です。いずれ彼らは最後尾になるかもです。

 

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畢竟して何の用ぞ

畢竟して何の用ぞ 。畢竟は、「ひっきょう」と読むようです。確か正信偈の最後の方にも「畢竟依を帰命せよ」として出てきます。意味は「詰まるところ。結局」です。【『正法眼蔵随聞記』畢竟(ひっきょう)して何の用ぞ】に解説があります。 「 畢竟して何の用ぞ 」を平たく云えば「だからどうする?どうなの?何なの?」とでも云えそうです。一部引用します。

「どうしようもない」と思う事がある。そこには、どうする事も出来ない自分への苛立ちと、他者への怒り、憤りがあり、苦悩する。それはやがて、「あきらめ」という心境へ向かって行くのではないだろうか。
若き日の道元禅師が宋国にいたときのこと、禅寺で、古人の語録を読んでいたところ、四川省出身の僧で、修行を立派になさった方が、問いかけていわれた。
「なにの用ぞ」 【訳】『《語録を見て》何の役に立つか』
「郷里に帰(かへつ)て人を化せん」 『郷里に帰って、人を教化するためです』
「なにの用ぞ」 『何の役に立つか』
「利生(りしょう)の為(ため)也」 『衆生に利益を与えるためです』
「畢竟(ひっきょう)して何の用ぞ」 『結局(究極、最終一点)求むべきもの、それは何か』

自分の力で出来る事であれば、どうにかしようと思う。けれども、身の振り方によっては、相手はもちろん、自分の立場、利害、評判、などに関わってくる。まず、自分が大事なのである。色々な駆け引きや、やりくりがあって、自分の力では、どうする事も出来ない為にあきらめる。端的に言えば、これまでは、「どうしようもない」けど、「どうにか出来る」やはり、「どうしようもない」もう、 「どうでもいい」という風になっていた。しかし、この言葉に出会ってからは、「どうしようもない」という思いがおこる所に、【 畢竟して何の用ぞ 】と出てくるのである。

若き日の道元禅師が宋国に学んだときの話しだそうです。修行を立派にされた方が「(道元禅師)に《語録を見て》学んだとして、だからどうする?どうなるの?だから何の役に立つの?」と聞かれたという話しです。

このお話しにどうも既視感がありました。思い出すに、心理学者多湖輝の人気シリーズ「頭の体操」に似た話がありました。検索しても出てきません。記憶だけですが、書き下します。

  • ある人(A氏)は、皆の中で誰が一番大きなものを食べたかという「話し比べ」をしようと言い出した。ある部屋にAが居る。まずB氏が部屋に入って(例えば)鶏肉を4kg食べた話しをしたが、BはAに負けた。次にCが部屋に入り、牛を5頭食べた話しをしたが、CはAに負けた。こうしてD、E、Fも部屋に入ってより大きなものを食べた話しをしたが、いずれもAに負けた。最後にGは、部屋に入って「わしは宇宙を喰った」という話しをしたがAには勝てなかった。Aは何を食べたと話したか。誰が来ようと話しの後に一言、「そんなお前をわしゃ喰った。」と云っただけ。

 

ただ、「どうしようもない」ではダメだと感じます。人は生まれてもがくしかないです。少なくとも修行を立派にされた方と同じ言い方を誰かにすべきではないと感じます。道元禅師の話しと頭の体操の話しは異なるものですが、管理人には、いずれも道元やB、C、D、E、F、Gに対する「後出しじゃんけん」にしか思えません。話の腰を折るもので、そのやり方は言葉遊びに過ぎます。修行を立派にされた方やA氏は、新規性のある何かを見出すことは無いと確信します。

もう一つあります。別のあるところのある集団における無意識に云い放つ言葉に「(そのようなこと、そのような人に)いつまでも付き合っていられない。」というのがあります。ずっと気になっていた言葉です。何かの課題について討議している際に、相手を突き放せばそこでお話しは終わりますけれども、何も解決していないのです。その点は「畢竟して何の用ぞ」、あるいは「そんなお前をわしゃ喰った。」に似ています。

はっきり言えば、ある種の胡散臭さを感じます。何というかマイケル・サンデルに似た胡散臭さがあります。どこか不遜にさえ感じます。新たな知見を生まない、実に不毛な会話です。「畢竟して何の用ぞ 」の本来の意味とは異なるのかも知れませんけれども、そう感じます。

 

人の言葉も思考も含めた自然が循環ならば、どうしようもないのは事実ですけれども、自然が映像ならばとりあえず回避できます。日月神示にさかんに「気(キ)付け」と繰り返すのは、おそらくそのことです。地獄などありはしませんけれど、不毛な循環を示すのならば、地獄と云ってもよいような気がします。地獄も天国も人が創り出した抽象です。

自然科学は自然(の一部)を切り取って「わけることによりわかる」と思っています。(孤立系) ところが循環ですから、そこに結論はなく心を病むのです。最後は「どうしようもない」に行き着きます。「どうしようもない」というのは、数学者岡潔が最後までもがいた行為(身を挺して狂わんばかりの戦い)をむげにするように感じます。

 


余談です。 ただ物と事があり、運動(渦)があるだけです。渦の細部に拘ってはいけないです。何故、渦があるかが問題です。渦(回転運動)の原因が別の次元軸にあるというのが弧理論の核心です。

gif1

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

確率的に離散して現れる電子、かつ波動である電子(ex. gif1)は映像であって、別の次元軸からの投影による映像だとするならば、理解が容易です。

gif 2

心の仕組みと働きからいって電子が回転運動している(gif2)と理解する方が容易です。別の次元軸からの投影により回転運動が起きる仕組み(原子模型)を考えています。その観測結果がgif1です。素粒子は基本粒子(陽子・中性子・電子)以外の破片です。

基礎資料とする紡錘図形を解析した結果、どうも基本粒子にかかる別の次元軸上にある実体は、6種あって反転するようです。また、直接に観測できないようです。

図1

なぜか単独で取り出せないクオークの数と同じです。ですから、「観測される素粒子群(波)は12の倍数に整理される」というのと整合性があります。素粒子という波動を観測して、物理量ではない時間を用いて波を質量に換算しています。

 

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