電子雲 という回転運動

数学者岡潔が名付けた物質的自然について、弧理論でいうところの物質面(M軸)とおなじです。管理人は、これまで物質的自然は、別の次元軸(以下、E軸という。)からの投影による映像だと述べてきました。その発端となったのが、ある科学者が云った次の言葉でした。

君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり、物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる側面に過ぎない。

数式とはE=mcのことです。図にします。

図1

E軸(エネルギー軸)から見るとその面がM軸です。投影角が90度以外だと、その影の部分が運動に見えます。そして、物質的自然は、別の次元軸からの投影による映像だから、物質の運動などが離散的になると説明してきました。その例としてテレビジョンや映画などと似ているとしました。ただ、それでは不十分な説明だという認識を持っていたのですけど、これまでうまく説明できる術はありませんでした。岡潔のいう「情的にわかっていても、知的に言い表せない状態」です。  また、ある科学者は、次のように述べています。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であり、そのため進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

物理学者たちが、「電子は確率波をもつ粒子だという説明で正当化している」として、その問題点を「心で描けない状態」と述べています。 この正当化と「心で描けない」にずっと引っかかってきました。

「電子が粒子で、波動性の二重性をもつもの」ならびに「確率波をもつ粒子」というのは、量子論における波動関数のことです。最初の波動関数は、オーストリアの物理学者シュレーディンガーが1926年に発表したものです。

写真1 出典:物理学の魔法の鏡

波動関数は、絶対値の二乗が「ある位置で粒子の存在する確率」を表します。確率密度ともいいます。観測により位置を決める度に位置は変わりますが、複数回観測した場合のシミュレーションしたのが 電子雲 です。例えば、水素原子(基底状態)の場合の 電子雲 が次図です。 続きを読む

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プリント基板 PCB 黄色い紙とラミネーター

昔、アマチュア無線でパケット通信(テレリーダーのTNC-20)をやってました。随分前に故障したのでこれまでに何度か修理を試みましたけれど直らず保管してました。いい加減邪魔になり先日、処分しました。

写真1 出典:TNC-22

3年ほど前に、PICマイコンを使ったTNCを製作しましたが、どうもうまくいかずこれも放置してました。(PIC TNC

写真2 右はスタンダードのC460

 

これまで プリント基板 を製作するに感光基板を使ったり、コピーしてアイロンするなどしてきましたけれども納得できるものでなく、先日製作したデジタル時計も12進数デジタルタイマーも納得できない仕上がりでした。多くの方が プリント基板 の製作には苦労と工夫を重ねているようです。

感光基板以外の方法でDIPのピン間を通せるかどうかを試したくて、ネット上にあるArduino TNCを作ることにしました。 このサイトでは、基板のpdfが公開されています。回路はピン間を1本通してありますので、試すには丁度です。 工程は次の通りです。 【回路を印刷。生基板に貼り付け、テープで固定する。ラミネーターに通してトナーを転写する。(8回~12回)台紙をはがす。エッチングする。】

試したのは以下の方法です。 続きを読む

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ヒッグス場 を砂場に喩える

先日の記事「物質に 質量 がある原因」の末尾に書いた「ヒッグス場とヒッグス粒子」について、どうも気になります。 ヒッグス場とヒッグス粒子を砂場遊びに喩えます。

お子さんの砂場遊びにぜひおすすめしたいおもちゃセット10選|【選び方と注意点も】写真1

例えば、砂浜や砂丘を歩くとき、足を取られて重いです。

写真2

何度か鳥取砂丘に行ったことがあります。靴に細かい砂が入るし、歩きにくくて大変です。これとヒッグス場の解説とを比べます。

図1 出典:ヒッグスの海

足が取られて足が重いのは、砂場のせいです。その原因を探ろうと砂場から”砂粒”を取り出して重さを測るわけです。 何か変です。

やるべきは、足が取られるのは砂場ですから、砂の粒の動きにくさを砂場で観測するべきです。足の重さと砂粒の重さは同じ原因です。  今考えているのは、足を突っ込んだ砂場での足の動きの重さです。だから、足の動かしにくさの原因を知りたいわけです。その仮説が砂場であるわけです。 ヒッグス場(砂場)と空間は同じだといわれれば、そうですけども。何かが変です。何か論理が斜めです。 重さの原因を重さで量ることに違和感があります。何だろうこの違和感。

複数の間違いが含まれていることは間違いありません。

  1. 人の五感でわかる範囲を越えている。
  2. 物理量ではない時間を用いている。

1.について。最近、物理現象とは人の五感でわかる物や事であると感じます。その点において、素粒子のほとんどを感じることはありません。感じる場合は放射線と同じく火傷です。陽子や電子は身体を作っている物質の元ですからまだよいですけど、素粒子はそれにすら足りません。

2.について。いくら精密に計算を進めても時間を含んでいるので理論は抽象に過ぎません。何かの波(ソリトンらしい)を観測していることは確かですけど、質量に換算したことになりません。質量(GeV/c)に時間を含んでいるからです。これは確かです。波は確率で”粒”として現れる。だから”粒:量子”の質量を計算するという論理です。

本来、波は位置も質量も不定のはずです。別の次元軸からの投影による映像だと考えると理解できます。質量と運動は、別の次元軸にある実体の異なる面です。質量と運動が同時に現れない(確率的に現れる)からといって、互いに転換するというのは違います。運動の一形態が”波”であるようです。

「質量の原因を探るために質量を測る」という点に??となります。何か物理にさえなっていない気がします。計算を含めて場の理論というのはわかりませんけれども、何か違います。何なのだろう。

もしかして、と思い「ヒッグス粒子 種類」で検索したら、【「神の粒子」は5つある?】というのがありました。

図2 出典:「神の素粒子」は5つある?

「質量の原因を質量に求める」という矛盾を解消するには対称となる素粒子が複数あればよいと気付いたからです。 根本的な問題に気付かないこと(1.物や事は循環である。2.自然科学は時間を用いた循環である。)を脇に置いて考えると、ヒッグス粒子が複数あれば回避できると考えたからです。前の記事で指摘したように、自然科学に解答はありません。際限もありません。

 

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神道 に教理教典がない訳

管理人は以前、日本人の原点は何の何処にあるのかという疑問から日本教について調べました。その際に社会学者の小室直樹は、何者にもなり得ない日本人の特性を日本教として説明し、その過程において「 神道 に教理教典すらない」と述べていました。地元神社の氏子ですけれど、宮司さんからも関係者からもまったく聞いたことがありません。それがどんな意味を持つのか疑問でした。その過程でヲシテ文献に行き着きました。その後の考察の結果です。

管理人は、「物や事は12の倍数で現れる」と何度も記しました。自然科学者が云う(時間・空間)について、物質的自然にある「物や事」は、距離(長さ)ではなくて角度が大事だとも記しました。人類は手指の数である10進数を元に文明を発達させてきました。人の持つ五感は、非線形にできており、距離(長さ)に敏感です。ですから、文明の発達において、長さや面積、体積、あるいは重さの基準を作る際は、10進数を元として作りました。 しかし、実際には「人と人、人と物」という関係位置が重要です。この関係位置を認識するには角度が重要です。 ですから、物や事を「わかる」には、12の倍数として捉えることが重要であるはずです。

以下は、古来より伝わる日本の宗教である 神道 になぜ教理教典がないのかという疑問について考えたことです。

(1) 数学者岡潔は、自然科学者が考える「自然」を物質的自然と名付けました。自然科学者は「空間に物質があり時間の経過とともに運動する」と考えます。これは簡単な模型であり”自然そのもの”ではありません。また、岡潔は、「時間という計量的なものはない」と云いました。時間は元々太陽と地球の自転による関係位置から作りました。具体的には太陽の光が地上に作る影の角度です。角度は量ではありません。だから岡潔の指摘したように時間は、物理量ではありません。 自然科学者が扱う物質的自然をまとめたのが次図です。 続きを読む

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物質に 質量 がある原因

一般に物質の 質量 は、ヒッグス場(ヒッグス粒子とは)が原因であり、一般相対性理論ではその質量が原因で重力が生じると理解されています。ヒッグス場と重力場は別ものだとされます。しかし、質量と重力の関係においてどうにも理解できないことがあります。それは後述します。

以下に解説する弧理論は、未だ妄想の段階ですけれど、物理量ではない時間)を用いて作られた素粒子物理に関する標準理論並びに相対性理論は、同じ程度に妄想でしょう。実験のとおりの理論だからといって、そのとおりの仕組みであるとは限らないと考えます。内容はかなり難しいです。興味をお持ちの方は、丁寧にお読みください。


: 時間は物質あるいは物体の運動から作ります。最初は太陽の光が作る影から求めました。

写真1

つまり角度から作りましたので、今でも時間は10進数ながら12の倍数です。角度は量ではありません。ですから時間は量ではありません。数学者岡潔は「時間という計量的なものは無い」と述べました。また、岡潔は「数は(物の)量のかげ」とも述べました。つまり、数には角度のように量を伴わない場合もあるということです。 次にアインシュタインは相対性理論において時間を光速度に置き換えました。でも、光速度がわかるためには、その前に時間が必要です。時間は運動から作ります。(相対論物理学者に捧ぐ その4光速度不変の原理) これは、どう見ても矛盾しています。

図1

結果、図1に示す様に自然科学は循環論法に陥っています。堂々巡りに陥って際限はないはずです。タマネギの皮をむくように芯となる物は無いと考えます。(弧理論によれば、物と事は別の次元軸からの投影による映像だと考えます。) 続きを読む

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物理学者 たちは裸の王様

数学者岡潔は、おおむね次のように述べています。

  1. 数は量のかげ。
  2. 時間を知ろうとするといつも運動を使う。
  3. 時間という量はない。

例えば、管理人の使うPCの液晶モニターは”物”です。

写真1

このモニターの仕様は、いろいろな”数”で表されています。画面の大きさ、画素数、明るさなどの性能や本体の大きさと重さなどです。だから「数は(物の)量のかげ」です。

時間はというと物と物との関係位置、即ち運動から時間を作ります。具体的には地球の自転にかかる位置と太陽の位置による角度です。

図1

太陽光により地上にできる影の角度から時間を知ります。角度は物と物の関係位置ですから””です。物ではありません。角度は量ではありません。ですから、角度から作られた時間は事であって量ではありません。時間は物理量ではありません。時間は物の量ではありません。 ですから、現在でも時間は10進数でありながら12の倍数です。 「数は事のかげ」でもあります。時間という量はありません。2月6日の記事『数 には2種類ある 数は「事」のかげ』を参照ください。

 

そうした時間を用いた物理学について考えてきました。質量や距離を量ではない時間を使って表している天文学の光年や素粒子物理学の質量(GeV/c2)あるいはエネルギー(次元は[ML2T-2])のことです。 ある科学者は次のように述べています。

君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり、物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる側面に過ぎない

そして、ある科学者は、物質の質量とエネルギーを別の次元軸(E軸)にある実体からの投影による映像だと説明しました。 続きを読む

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遠隔作用と 近接作用 接するとは?

物や事において、遠隔であるか近接であるかは、人の五感でわかる通りとしてよいと考えます。 2013年から2015年頃にマイケル・ファラデーが発見した単極誘導モーターについて実験を行いました。実験を通じて、そのころから「接するとはどういうことか?」ということを断続的に考えてきました。「近接」に関連する記事は2014年11月28日『「接する」ということ』ほか11件あります。「接する」という語句でも幾つかあります。

弧理論の考え方の骨子は、数学者岡潔の名付けた物質的自然は「別の次元軸からの投影による映像だろう」という仮説です。別の次元軸を考える理由は幾つもありますが、列挙すると前置きが長くなりますので省略します。ここで、前回記事の一部を再掲します。

(1) 物質的自然について、人が持つ一つの観念であって、かつ量ではない時間を用いて記述した自然科学は循環論法になります。人が持つ時間という観念は、五感でわかる範囲に限られます。ここがミソです。時間を用いて計算はできても五感でわかる範囲を越えて時間という観念を適用できません。これが自然科学の限界です。

図1

数学者岡潔は、唯物主義を「五感でわからないものはないとしか思えない」と表現しました。管理人は、「五感でわかる」物や事は、下表1の両端で消失していると考えています。五感でわかる範囲はおおむね次表に示す括弧の範囲です。

表1

測定装置や観測装置の発達によって、人が確認できる物や事は表の両端に伸びています。だからといって、観測や測定の結果をもって時間の観念をその現象に適用できるかどうかは別のことです。 「物理現象とは何か?」という問いに関係します。管理人は、「物理現象とは五感でわかる範囲の物や事である」と考えます。逆に云えば、五感でわかる物や事が物理現象であると云ってよいと考えます。

 

(2) 遠隔作用であるか、あるいはまた近接作用であるかをわかるのは人の五感によります。「人が持つわかるには3つあります」。

  1. わけることによりわかる。物の理ことわり。理解する。意識を通し言葉で云える。
  2. じかにわかる。何となく趣おもむきがわかる。岡潔が云った情じょう静的にわかる。ヲシテにあるナサケエダ。
  3. じかに動きがわかる。動的にわかる。本居宣長が云った「もののあはれ」。ヲシテにあるアワレエダ。

 

(3) 人の五感でわかる物や事の内から2つについて示します。

gif 1 出典:via GIFMAGAZINE

ボールが重力により落下し机の上で跳ねる様子です。皆が学んだとおり作用と反作用が成り立っています。 下は反復横跳びの運動です。

gif 2 出典:ザグザグのマスコットキャラザグちゃんが反復横跳びに挑戦するGIF画像

反復横跳びは、足と床にある摩擦によって踏ん張ることができます。机にボールが跳ねることや床を足で蹴って踏ん張れる摩擦について、古典的な説明は普通にわかります。(意識を通し言葉で云える理解)

摩擦や作用反作用について、原子の構造との関係(原子論的シミュレーション)を示したものは、ナノトライボロジーと呼ばれ研究されているようですが、読んでもあまり「2.3.でのわかる」気がしません。上の2つのgifと比べると「1.人の(意識を通し、言葉で云える)ところのわかる」と乖離しています。つまり、「1.わけてわかる」の説明が複雑になりすぎています。そうして得た科学で物や事を再構築すると「手が出ないほど複雑」になります。(最後は、それ以上進めなくなる。) そして、最初の疑問「接するとは何か」に行き着きます。

 

以上を踏まえて、弧理論による仮説(別の次元軸からの投影による映像)を重ねることにします。

写真1

ここにオレンジがあります。1個と半分です。(写真1が何故オレンジだとわかり、1個と半分だとわかるのかを考えてください。) 貴方は、PCまたはタブレット等で写真1をご覧です。当然のこと画像は液晶によります。写真1の部分を拡大します。きめ細かさはいろいろありますが、だいたい次になります。

写真2 画素

仮に、オレンジがgif 1のように、机の上を転がったとします。オレンジは机に接しているのは当然ですが、写真2のように拡大したところ、画素が動くわけでも画素どうしが接するわけでもありません。これまでの考察によれば、物質的自然も数学を含む言語も、それに伴う人の思考も循環です。さすれば、人の五感でわかる「接する」という事も写真1の内であり、それを越える事はありません。映像としての人の持つ五感においてボールやオレンジに重力が働き、そして机に接することで作用・反作用がおき、摩擦が起きると「わかる」ことをそのまま受け入れるしかないと考えます。 もし別の次元軸から観ることができれば、映像である物や事の作用が遠隔作用か 近接作用 かは映像での話であって、映像の内に完結しています。画素には無関係です。映像である物がオレンジであるかどうかさえ画素には無関係です。すべての原因は投影元にあります。映像には一切の原因はないです。

詰まるところ、人が持つ五感でわかる通りに受け入れるしかないと考えます。単極誘導モーターについて云えば、力は電流路にある接点において生じているとして問題ないと考えますし、放電による単極誘導モーターは放電中における電子間で力が働いていると考える以外にないようです。 光子や素粒子は五感でわかる範囲に(関係)ありません。はっきり書けば、人の感覚とズレがある物理学に意味は見いだせません

表1の両端において「わかる」は次第にフェードアウトしています。こうしてタイプしていても凄くもやもやします。どうにも割り切れない部分を感じます。  それでも「人が物や事をわかる」の根幹は、上記の2.3.にあります。それ以外に循環の外はあり得ません。 物や事は「わけてわかる」のではありません。 この循環の外とは別の次元軸(E軸)しか考えられません。次第にフェードアウトするという部分に もや を感じています。たぶん、唯物主義 かつ わけてわかると信じ切った人から自信満々のどや顔で説明されるのに戸惑っているというところです。そう、自然科学は統合失調です。全体はバラバラなのに専門の部分にしか興味が無くて無頓着なのがどうにももやるのです。投げやりな文ですが、ご了解ください。

追記 2/14 注:岡潔は、唯物主義を「五感でわからないものはないとしか思えない」と述べました。唯物主義である自然科学者、特に物理学たちは表1の両端について、(量ではない)時間を用いて際限なく突き詰めるしかないのです。「The manuscript of survival – part 68日本語版」において、「この物理学の聖杯探しには、正当な理由もなく、多額のお金がつぎこまれてきました。実際のところ、それは、非常に多くの賢い頭脳を間違った方向に向けさせている、上手に組み立てた誤魔化しのプロェジェクトなのです。」と指摘したことの意味は、ここにありました。2012年にこの翻訳文を読んで、理由を考え続けて得た結果が、岡潔の指摘どおり「自然科学は間違っている」ということでした。

 


ちょっと前に、確率は結果だと書きました。その点について補足します。 物質的自然を横軸にM軸とします。別の次元軸をE軸とします。E軸上の実体は真のエネルギー値をもっています。この実体がM軸に投影されることにより、位置と質量を持った物質となります。これが映像です。

図2

投影角が90度以外になると、実体が持つ値がΔEだけ減少し、その分が運動となります。運動は時間を含みません。時間を含むとエネルギー[ML2T-2]と表記されます。 運動が大きくなるにつれて質量はM軸に対して次元を失います。(質量を観測できなくなる。) ですから、質量はエネルギーに転換するとされるE=mcは間違いです。物質の質量は運動が増大するにつれて観測できなくなるというのが正しいです。

運動の一形態が”波”です。例えば、電子が運動とだけ観測される場合、質量は測定できず”波”として観測されます。これを量子化したのが光子です。ここで、質量と位置と運動量との間にあるのが確率です。電子が確率的に現れるという”確率”は、別の次元軸からの投影による映像だと考えると「結果」です。つまり、不確定性原理は別の次元軸を考えると原理ではなくて、結果だと云えます。物や事が離散的に現れる原因も投影による映像だとすると合理的です。

 

追記 2/15 写真2を眺めていて思ったこと。これまで別の次元軸を考える際には、映画の映写を例えに使っていました。

図3 投影元(映写機)が2箇所あれば、スクリーンは空間と認識できる

それと比べて液晶画面の拡大写真2は「画素を並べたマトリックスだな」と考えたら、映画マトリックスを思い出しました。

写真3 出典:【徹底解説】映画『マトリックス』の謎を解き明かす!

仮想現実VRは、本記事の内容とは根本的に異なります。我々の本質は「投影元にある」からです。ネオのように仮想空間に取り込まれたのではありません。岡潔は山崎弁栄上人をして「本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない」と述べています。「【3】 西洋の唯物主義」・【5】 自然は映像」 人の本質は第2の心にあるということで、仮想空間に囚われたのではありません。 心に上記(2)に示した2.と3.のあることを知らねば映画マトリックスのように感じるかも知れません。

映画マトリックスは確かTV番組としてかDVDでも観た記憶がありますけれど、何も印象に残っていず何が面白いのかわかりませんでした。 似た映画にトロンがあります。

写真4 出典:トロン

こちらもTV番組で観たような記憶がありますが、その程度の印象です。トロンは、むしろ薄気味悪いとさえ感じます。その辺りの理由がなんとなくわかってきました。

ところで、液晶画面の制御は、行と桁を指定せねばなりません。言い換えると長さです。液晶パネルの生産は面積が大きくなるにつれて困難になります。長さの2乗だから大きくなるにつれて歩留まりが極端に悪くなる。 一方の映画はというと、解像度は別として投影角にのみ依存しています。 宇宙の本質はこれに似て、長さより角度に本質があります。10進数より12進数が便利なはずです。

 

因みに仮想現実に入れ込む人はアブナイです。昨今、ゴーグルを付けてするドローン競技があります。百歩譲って、ここまでです。eスポーツというのがありますけれど、とても不健康です。

写真5 出典:ドローンシミュレーターの使い方

過去に何度か「考え方が不健康」ということについて記事を書きました。サイト内検索で幾つか出てきます。やっと「考え方が不健康」ということの原因がわかってきました。

そういえば、ラジコンシミュレータで練習するにバンダイ(ナムコと合併前)だったかのVRゴーグルとシミュレータとを併せて使ったことがあります。当時、それぞれの性能がいまいちで使い物にならなかった記憶があります。ドローンという言葉もありませんで、唯一はキーエンスのジャイロソーサーでした。これで結構遊びました。

写真6 出典:ドローンの祖先 キーエンス ジャイロソーサー

今なら、VRゴーグルも安くなったしRCシミュレータもVR対応にすれば売れるかな。いや地味なラジコン練習より、直にドローン競技の方が面白いか。管理人には耐えられませんけど。

動画1

 

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物質的自然 は一筆書き

数学者岡潔は、自然科学者が考える自然(時間・空間)物質的自然と名付けました。その内、特に時間に問題があるとして、時間とはどのようであるかを云いました。おおよそをまとめると以下です。

  1. 時間は、過ぎ行く運動の記憶による観念
  2. だから時間は現在を含まない
  3. 人の五感でわかる運動から作る
  4. 運動とは関係する位置の変位
  5. 関係位置の変位とは角度
  6. 角度は量ではない
  7. だから時間という量はない

そういう時間を用いる自然科学の全体を物質的自然の中にはめ込みますと次図になります。

図1

古典力学や素粒子物理では、「運動→時間→物質の運動」であり、相対論では「運動→時間→光速度→重力・時間・空間」という順になります。そして、時間を作るには運動を用いますので、物質的自然を記述した自然科学は循環論法になります。時間という人が持つ観念は、五感でわかる範囲に限られます。ここがミソです。計算はできても五感でわかる範囲を越えて時間という観念を適用できません。また、時間は過去ですから決定論になり得ません。古典力学も決定論ではありません。これは精度の問題とは本質的に異なります。

以上を踏まえて2018年12月26日の記事『超弦理論 超ひも と人の「わかる」の間』を書きました。 ここで上記の3.に示した「人が持つわかるには3つあります」。

  1. わけることによりわかる。物の理ことわり。理解する。意識を通し言葉で云える。
  2. じかにわかる。何となく趣おもむきがわかる。岡潔が云った情じょう静的にわかる。ヲシテにあるナサケエダ。
  3. じかに動きがわかる。動的にわかる。本居宣長が云った「もののあはれ」。ヲシテにあるアワレエダ。

どうも、つらつら考えるに物質的自然は、組ひもや水引きに例えられるにしても両端が閉じているようでして、閉じた一筆書きのようだと思いました。

写真1

例えれば、 物質的自然 は超複雑な閉じた一筆書きのようです。 超ひも理論で説明に使われる図に次のようなものがあります。

写真2 出典:超ひも理論の紹介

あるいは、次図があります。

図2 出典:目指すは究極の理論-スパコンを使って超弦理論とゲージ理論の等価性を検証する

説明には両端の閉じたのや開いた「ひも」が使われます。いろいろ考えていたら、古代インドの宇宙観に出てくる「おのれの尻尾を噛むヘビ」と同じに見えてきました。

図3

本記事で言いたいのは、写真2と図2は、図3に示したヘビとまったく同じだと云うことです。そして、図1が自然科学の本当の姿です。全部一緒です。 およそニュートン以来、物理学者の努力の結果が数千年前のインドの人たちと何も変わっていないということです。図3から一歩たりとも出ていません。 超ひも理論は、自ら創り上げた超精密理論の”素”ではないかと感じます。自然科学の全体を知らずの内に俯瞰したのかも知れません。(何でも数値に置き換え、代数として計算すれば正確でよいというのは間違いです。物理現象とは何か、つくづく考えさせられます。)

 

それもそのはず、数学を含む言葉、即ち私たちの思考もまた循環だからです。1.の意識を通し言葉で云える「わかる」は循環です。どんな手法を用いようとも今までのやり方では抜け出せません。言葉は互いに規定し合って成り立っています。数学も同じです。岡潔の云った「自然数の1は決してわからない」ということの意味です。音素や記号に意味づけするのは人です。元々意味が無いのですからわかるわけないです。これが縁起や三位一体と同じ堂々巡りです。

この堂々巡り、ループの内で唯一の例外があります。それは3つの「わかる」の内の2.と3.の「わかる」です。これが在ることを知らなければ、某科学者のT教授のように「2030年にはロボットが人間を襲ってくる」などど惚けたことをいうようになってしまいます。脳の構造を真似て人工知能はできています。だからといって同じではないです。脳の構造は意識を通し言葉で云えるレベルをカバーしているに過ぎないようです。 その違いを自然科学者はまったくわかっていません。西洋人と大方の人は、人に心の3つあることを知らないのです。 岡潔は自然科学者を「原始人的無知」と云いました。最初は、そこまで断言できるのかと思いましたけれども、考察を重ねる内に岡潔は冗談抜きで自然科学を論破したのだとわかってきました。

因みに、3.の動的にわかるには記憶(情報)が必要です。2.と3.の「わかる」があるから人は時(現在と過去)の中に住めるのです。 この情報と今、我々が欲しているエネルギーとは密接な関係があります。エネルギーは時間を含みますので使えません。当サイトではエネルギーを時間を含まない運動と呼んでいます。

 

あちこちいろんな物や事の考察を続け、何度も同じようなことを書き連ねていますけれど、大分追いよってきました。研究を始めて9年経ちました。10年目に入ります。残された時間はそれほどありません。何とか目処を付けたいです。少なくとも自然科学は間違っていることはわかりました。そういえば、2012年頃、「The manuscript of survival日本語訳」を読んで、書いてあるとおりでした。気になった点は以下です。

  1. エネルギーの量を正しく求める方法を知らない
  2. ダークマターこそが、尽きることなく利用されているエネルギーの唯一の源だからです。それは根源的な永久機関
  3. 知識とは、個人的に占有・保持するものではありません。それは、全員が全員の進化のために共有する情報の大海です
  4. 物理学の聖杯探しには、正当な理由もなく、多額のお金がつぎこまれてきました。実際のところ、それは、非常に多くの賢い頭脳を間違った方向に向けさせている、上手に組み立てた誤魔化しのプロェクト
  5. スクリーンや試験管内に表れる実験結果は、説明すらできないような現象です。結果は疑問視され、実験が繰り返されます。しかし、結果は毎回、正確に一致し、信じる他はなくなります。
  6. 脳は単に、人間を最低のレベルで機能させるための装置に過ぎないのです
  7. 大量の赤いテープに巻かれて書庫の奥に封印されてしまったのです。それらの発明が、自分たちの生業のどれほど邪魔になるかをよく知っている闇の手先によって、発明家たちは上手く口封じされてしまったのです。

1.は確かです。時間を用いてより複雑にしています。2.は拙著:弧電磁気論の執筆時に感じたことです。3.は正論です。4.は1.と相まって人類最大の無駄です。そのカギが”時間”にあることは間違いありません。もっと早く気付くことが可能だったはずです。成績優秀な数学オタクを思い出します。物理現象とは何でしょうね。 質量「GeV/c」も距離「光年」も量ではない時間を含んでいるので無意味です。時間はであって、物ではありません。5.はこれからです。6.は上記の通りです。7.はトム・ベアデンが指摘したように「電磁気学が成立する過程において、J・Pモルガンが激怒して科学者たちに修正を命じた」ことを含むようです。サイト内をトム・ベアデンで検索ください。

まったくの見当外れでなければという条件付きながら、これほど面白い世界はないです。

 

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矢張り 電磁気学 はどこかおかしい

相変わらず単極誘導の現象について考えています。2018年1月24日の記事「電磁気学 の発達は不自然 化学の発達との比較(トム・ベアデンの手紙を受けて)」を読み返してあらためて 電磁気学 はどこかおかしいと感じます。

次図は、乾電池と豆球を使った直列回路です。

R4B3A004C.jpg図1 出典:豆電球を、電池1個で光らすのと、電池2個を直列につないで光らすのでは、どちらが長持ちするか?

の電荷を持つ電子による電流は電池のプラスから出てマイナスに流れます。電子の流れは逆で、マイナスから出てプラスへ移動します。一見、普通に対称な現象に見えます。でも、どこか変だと感じます。 図1は、単に電流や電子の流れる方向を「プラス・マイナス」と名付けているだけで、そこに正の電荷は出てきません。 対称性に欠けると感じる点はここにあります。(陽子はずっと後から発見されたのですが。)

それは、例えば双胴・双発機を単発機だと言いくるめて片肺で飛行してるようなものです。とても奇妙です。

写真1 出典:P38ライトニング

 

その奇妙さの極みが単極誘導の現象だと感じてきました。あらためて実験で確かめたことを記します。最初は、電磁誘導における力の作用を調べます。 続きを読む

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数 には2種類ある 数は「事」のかげ

数学者岡潔は「 数 は量のかげ」と云いました。「岡潔先生をめぐる人々 フィールドワークの日々の回想(47) 龍神温泉の旅の話」を参照ください。 意味はこうです。

人の五感でわかるのは、の量や嵩です。ただわかるのは目分量です。例えばオレンジの重さや体積、糖度、酸味、香り、皮の厚さ、袋の数、種のありなし、成分その他などについておおよそしかわかりません。

写真1

この目分量を正確に言い表そうとして を使います。 ですから、岡潔の云った言葉を正確に云うと「数とは、人の五感でわかる物にかかる量のかげ」ということです。

:この「わかる」には3つあります。「【4】 情のメカニズム」が参考になります。

  1. わけることによりわかる。物の理ことわり。理解する。意識を通す。言葉で云える。
  2. じかにわかる。岡の云う情じょう。ヲシテ哲学で云うところのナサケエダ。静的にわかる。意識を通さない。言葉で云えない。
  3. 直にわかる。本居宣長の云う「もののあはれ」。ヲシテ哲学で云うところのアワレエダ。動的にわかる。意識を通さない。言葉で云えない。

上記で「人の五感でわかる」の「わかる」は、2.と3.を云います。因みに人が現在・過去という時の中に住めるのは2.だけでなく、3.があるからです。言い換えると2.は現在、3.は過去にわけられます。人に2.と3.があるから1.があり得るのです。ですから、自然科学は1.の範囲に留まります。

 

人の五感でわかるのは、物のほかにがあります。物や事です。あるいは出来事です。事とは、人と人、人と物の(位置)関係です。人が2.でわかるのは物の現在です。自然科学者が扱う物質的自然は、離散的に現れます。(量子理論の根幹です。) 離散的に現れる物にかかる位置の変化を同一の物としてわかるには、2.(情:ナサケ)だけではダメです。動的にわかる必要があります。それが3.(アハレ)です。3.は時の過去で記憶(情報)と関係します。

まとめると、数には2種類あります。

  1. 岡潔が云った「数は(物の)量のかげ」
  2. 「数は事のかげ」

ということです。

岡潔は「時間という量はない」と云いました。「【6】 数学の使えない世界」「【5】 情の特色」を参照ください。 「時間を知ろうとするといつも運動を使う」と岡は云いましたが、具体的には地球の自転に伴う太陽の位置(関係)、つまり角度から作ります。「【 2】 自然科学者の時間空間」を参照ください。

図1

角度は量ではありません。 角度から作った時間は量では無く、(出来事)です。ですから時間という「数は事のかげ」だと云えます。時間は事のかげですから、時の過去です。時間は現在を含みません。このあたりの考察は、過去記事にあります。

図2

物の量を表そうとすると10進数でよいのですが、事のなりを表そうとすると関係位置(角度)を扱うことになりますので、12進数がよいようです。

写真2 蛍石:結晶構造は12進数で表記すれば理解が深まるはず

ですから時間は10進数でありながら12の倍数なのです。これはセシウム原子時計を標準に使うようになった現在も同じです。

 

自然科学は物の理ことわりを表そうとしています。自然を量的に表そうとしています。ところが自然科学は物の量を表すに、時間という量ではなくて、「事による数」を混合(混同)して用いているのですからダメです。そんな自然科学は見方によっては、とても不自然だというお話しです。

ある科学者は、「地球の科学は基本的には問題は無い」と云いました。しかし、とても複雑になっていて、正しく眺めればかんたんだと云いました。その複雑になっている原因が時間にあると考えられます。 ついでに云えば、物とは何かというと基本粒子(陽子・中性子・電子)であって、素粒子という破片ではありません。人は基本粒子を組み合わせた物であって、基本粒子をピースとするパズルです。

写真3   ピースを砕いた破片↑  と犬・猫・人といったパズルとは、何の関係もない

ピース未満の素粒子と人とは何の関係もありません。ですから素粒子が持つ物性によって物である蛍石の性質を説明できません。

岡潔は山崎弁栄上人をひいて、「(素粒子の)少なくとも一部は映像と云ってよい」と述べました。物質的自然の全体を考えるとすべては別の次元軸からの投影による映像だと考えざるを得ません。「【3】 西洋の唯物主義」を参照ください。


ホツマツタヱが本物だと気付いて、特に気になった箇所について考えに考え抜いて漸く辿り着きました。 キツノナト ホムシサルアヤ ミカサフミ・キツヨヂのアヤの一部です。(引用先の誤りです。訂正します。2019/03/19)

コトハオナオス
アワウタオ ツネニヲシヱテ

アカハナマ イキヒニミウク
フヌムエケ ヘネメオコホノ
モトロソヨ ヲテレセヱツル
スユンチリ シヰタラサヤワ

アワノウタ カタカキウチテ
ヒキウタフ オノツトコヱモ
アキラカニ ヰクラムワタヲ 
ネコヱワケ フソヨニカヨヒ
ヨソヤコヱ コレミノウチノ
メクリヨク ヤマヒアラネハ
ナカラエリ

何故、ヰクラムワタ ヲ ネコヱにワケるとヨソヤコヱになるのか、ずっと考えてきました。

人が持つ五感により2.と3.により「わかる」のは「意識を通さず、言葉で云えない物や事」です。それがヰクラムワタです。(内訳はまだよくわかりません。少なくとも五感+情で6つです。) その「わかる」をネコヱ、即ち人が認識できる音素に置き換えます。一説によれば、音素は150以上あるようです。その中から24で折り返して48音(ヨソヤコヱ)としたのがアワノウタです。 これが何との性質である角度の12進数の倍数です。英語などの他の言語との違いはここです。だから日本語は凄いのです。

このアワウタを記号に対応させたのがヲシテ(ホツマ)の文字です。

図3 出典:(c)池田満

意識を通さず言葉で云えない「物や事の性質」の内、物の性質を5つ母音とし、事の性質を子音に置いたのです。 アカハナマ イキヒニミウク フヌムエケ・・・ と声も明らかに歌うことによってコレミノウチノ メクリヨク ヤマイアラネハ ナカラエリ なのです。本当に凄いです。よかった。長かったです。ネットにある五臓六腑なんてとんでもない漢字変換の誤訳です。 意識を通さず言葉で云えない。しかし「わかる」物や事を知的に言い表そうとするにヨソヤコヱは最適です。そうして文化はできてきます。

精神科学・社会科学・物質科学はここから始まります。ミクサタカラはここにあります。

 

因みにミクサタカラのツルギ(物質科学)とは、弧理論のArkのことです。どうも、3つの科学は互いに補い合っているようです。精神科学と物質科学がわかってくると社会科学がわかってくるというような関係にありそうです。

もう二つ。数学者岡潔は、間違いなく「”ト”のヲシテ」の実践者でした。それと、事には情報があります。情報とエネルギーには密接な関係があります。エネルギーは弧理論でいうところの運動です。

 

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