自然科学 の矛盾点と限界について、足かけ4年ほどかかって考えてきたのですが、前回の記事を書いていて気付きました。
自然科学は還元主義の形をとっているにもかかわらず、時間を用いることによって循環論法になっています。 これはあり得ないことです。
図1
科学の根幹が非論理的構造をしているのです。あり得ません。
事の発端は、2つあります。「私は時間のドレイになるつもりはない。」とある科学者が言ったことと、当サイト内に置いたヒッグス粒子に関する記事「the-manuscript-of-survival-part68日本語文.pdf」にある「非常に多くの賢い頭脳を間違った方向に向けさせている、上手に組み立てた誤魔化しのプロェクトなのです。」という文でした。 特に後者は文中に時間という語句は出てきませんけれども、誤魔化しの本質が時間にあるのではないかという直観がありました。
その後に数学者岡潔の存在を知りました。 岡潔は次のように述べています。「自然科学は間違っている」より、【2】自然科学者の時間空間を引用します。
自然科学者は自然というものをどういうものだと考えているかということを代りに言ってやって、そして、それを検討するより仕方がない。
自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。
時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。
人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。
時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。
が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。
岡潔は大天才です。 合理的に考えて行き着く自明の事には触れませんし、簡単な語句しか用いません。どうも、岡潔から学ぼうとする人は文系の人が多いように感じます。理系の人で惹きつけられる人は、岡潔の数学による業績に目が行くようです。理系の人は随筆をさらっと読み飛ばしているのではないかと感じます。 本当にどちらの人たちも岡潔の言葉から深く読み取る人は少ないと感じてきました。
改めて、箇条書きにします。
- 自然科学者は自然を時間空間と言った。これは簡単な模型。自然そのものではない。
- 人は時(過去現在未来)の中に住む。
- 時間は時の過去の性質を取り出して観念化したもの。(観念としての時間)
- 時間は運動から作る。直接にはわからない。(物理的な時間)
- 自然科学者は運動が時間に比例して起こると決めてかかっている。
- そういう時間はあると思っている。
- そういう時間はわかると思っている。
岡潔は別のところで自然科学者の考えている自然のことを「物質的自然」と呼びました。
詳しくは、過去記事を「時間」で検索ください。直近の記事ほど詳しくなっています。最も古い記事は、ミヒャエル・エンデの「モモ」を引用しているあたりです。
自然科学は近似にならざるを得ないし、終わりがありません。 はっきり「自然科学は間違っている」とわかりました。 どんな理屈をこねたってダメです。
「【1】このままでは人類は滅びる」において次のように述べています。
自然科学というものは、自然とはどういうものかということを言わないで、自然というのはわかり切っていると一人決めにしている。そして、これについて科学した結果を集めたものです。
だから、かようなものは学問とはいえません。これは単なる思想です。
一人決めにした部分を切り取って科学した結果を寄せ集めたものだというのです。だから分野ごとに断裂していたのです。これが統合失調の原因です。 これらの寄せ集めは、単なる思想であって学問とはいえません。 各分野の間に置き去りにされた現象に大事なことがあるはずです。
E=mc2について。
物質はエネルギーに転換するし逆にもなるというが、本当は一つの実体の異なる面に過ぎない。
時間を用いずに自然を記述する以外に道はありません。
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