縄文哲学と宇宙哲学の融合について

昨年より、縄文哲学が記されたヲシテ文献について調べてきました。 その核心部分は

「①アメ(アモトまたはアメノミヲヤ) から来た ②タマ と地上の ③シヰにより結びつき、シヰに物質が集まって④ヒトとなる」でした。  繋がりを記すと

・アモト → タマ+シヰ→物質(ヒト)

ということです。文献の解説によれば、アモトとの行き来により恵みを受けて、力を合わせることが「トのヲシテ」の核心だとのことです。  なお、縄文哲学において、タマ+シヰはヰクラ(5つのクラ)からできており、これがヒトのココロの本体。そしてムワタ(6つのワタ)はヒトの肉体の内訳です。  上記を書き換えますと

・アモト → ヰクラ → ムワタ(ヒトの身体)

となります。注:タマノヲのは省略しました。

一方で、G・アダムスキーによる宇宙哲学の核心部分は

「1.宇宙の意識(因)を源とする 2.ソウルマインド と 3.センスマインド(感覚器官の心)を介して物質である4.ヒトができている」というものでした。 繋がりを記すと

宇宙の意識(因) → ソウルマインド+センスマインド(感覚器官の心)→物質(ヒト)

ということです。 宇宙哲学の核心部分は、宇宙の意識(因)と2つのマインドの間は”想念”により結ばれているということであり、こうしてヒトは宇宙の意識(因)から学べる(シル:知る)ということです。

管理人には、①=1. ②=2. ③=3. であると見えますし、アモトとの行き来による恵みのことは、想念により結ばれていることによる(シル:知る)に等しいと思えます。

G・アダムスキーは、ポーランド系アメリカ人です。西洋人ですから自然科学的な考え方を持たざるを得ませんし、講演する相手も同様です。ですから、宇宙哲学の説明はどうしても部分に分けることになります。  センスマインド(感覚器官の心)には、五感(視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚)が対応しており、それぞれに肉体の5つの器官(目・耳・鼻・舌・手指皮膚等)がぶら下がっているというイメージになります。

同時に、G・アダムスキーは、想念は生物あるいは無生物どころか、無機物である石ころにも在ると述べています。 管理人が永年受け入れがたかった点です。 自然科学的思考を持つG・アダムスキーは、身体を部品と捉えざるを得ない状況でセンスマインド(感覚器官の心)を5つの器官として説明すると同時に、石ころなどの無機物にも想念が及ぶと説明したのですから、矛盾が生じるのは当然でした。

 

一方で、縄文の人たちは、多分に内観的です。これまで読んだ資料によれば、医学用語でいえば”内科的”な自己観察によって「アモト と イクラ+ムワタ+タマノヲ」に気付いたと思われます。言い換えますと、「想念は伝わる」により(シル:知る)ことができたと思われます。

一般的な解説によれば、ヰクラ+ムワタを漢字文献の「五臓+六腑」に当てはめる向きがありますけれど、これは明らかに間違いです。 ヰクラはココロの本体ですから、五臓ではあり得ません。 ムワタは内科的な身体を意味しますから、六腑でもありません。 つまり、ヒトは社会的要因から、緊張時に「手や脇の汗、手足の痺れ、心臓の鼓動の変化、胸の苦しさ、赤面、顔面の蒼白、胃痛など」様々な症状を呈します。

ムワタが(身体)であるからこそ、このような症状を含めた説明が可能なのです。 しかしながら、ヒトの思考の中心が大脳にあるという現代の知識については、縄文哲学で説明できません。 また、G・アダムスキーによるセンスマインド(感覚器官の心)も大脳との関係も、石ころとの関係もうまく説明できません。

もし、弧理論(Ark Theory)の考え方による

物質(結果)に実体(原因)

図1

基本形が、①E軸上の実体、④投影された物質が寄り集まってできたヒト とするならば、②タマ(ソウルマインド)と③シヰ(センスマインド)を補い、かつ想念がE軸上の実体と物質との間を繋ぐと考えるならば、弧理論の考え方によって全ては繋がるだろうと予想できます。

20140421運動の状態図2

E軸上の実体が、M軸に直接投影されることで、大脳神経繊維内にある原子の殻電子へ運動を起こすならば、つまり神経繊維に電流が流れる結果になります。 この作用は生物である必要はありません。 自然科学的思考において、思考の中心は大脳であるとされます。すると身体の各部の症状(上記の心臓の鼓動変化など)は説明できません。

結局の所、現在は仮説に過ぎない弧理論(Ark Theory)は、いままで理解不能であったココロの本体について、合理的に説明できる可能性があるように思います。

考えてみますに、図1も図2も元はといえばG・アダムスキーによる

図32ネガ

図3

紡錘図形に端を発しています。

昨年10月に 冒頭の様に縄文哲学と宇宙哲学が、とても「似ている」どころか「ほぼ等しい」と気付いた驚きよりも、同時に永年「G・アダムスキーによる」宇宙哲学と紡錘図形は全く異なるものだと信じて疑わなかったことが、同じものだということに気付いたことが本当に驚異でした。

縄文哲学と宇宙哲学を融合させるには、弧理論の考え方を考慮に入れつつ進める必要があるようです。

縄文哲学のミクサタカラは、タマ、カガミ、ツルギです。過去記事にタマ=精神科学、カガミ=社会科学、ツルギ=物質科学に対応するそれぞれの象徴だと書きました。

ある科学者は、「まず、精神科学と社会科学が出てくる。その後物質科学が出てくる。この三つに明確な仕切りはない」と述べています。

タマ(精神科学)とカガミ(社会科学)を縄文哲学と宇宙哲学の融合を目指すことによって整備し、やがては弧理論の考え方から、タマとカガミに相応しいツルギができるのではないでしょうか。  弧理論は、ツルギの候補だと考えています。

 

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シラス・ウシハク  シラスは「領る」ではない 「知る」である

前回、自然科学の限界は、<分かる>と<知る>の違いにあると述べました。 <知る>の根拠となるのは、G・アダムスキーによる「想念は伝わる」という特性を元にしています。

想念が伝わる具体例を挙げます。 3年ほど前に、某週刊誌のみだしに「ユーミン {音楽の神様が降りなくなった}」というのがありました。 ユーミンこと松任谷由実氏は、数多くのヒット曲を生み出したシンガーソングライターです。 その彼女の作曲過程が前回ご紹介したクラシック作曲家の宮川彬良氏と、恐らくは同様の手法を用いていることかと推測します。

また、ポール・マッカートニーによる「Yesterday」、並びにサザンオールスターズの桑田佳祐氏による「いとしのエリー」の2曲に関しては、まったく同じエピソードを読んだ記憶があります。(以下、ソースは失念)  『ある日、とても良い曲(メロディー)ができたとメンバー(ポールはビートルズ、桑田はサザン)に曲を聴いてもらったけれど、できた曲があまりに自然で素晴らしいので「既に知られている名曲を知らずにコピー(あるいは真似てしまった)のかも知れない」ということで、あらゆる楽曲を調べまくったけれど、見つけることはできなかったので安心した。』 というお話でした。 つまり、ご紹介したエピソードにおける「過程」は、ほぼ似通ったものであり、音楽理論を駆使して「捻り出した」ものでは無いだろうというのが管理人の考えです。

私たちは、音楽家などをはじめとする芸術家の活動や技術者・科学者のアイディア・閃きを「創造性」なる言葉で一括りにします。 しかしならがら、これらの活動は、明らかに「分けるによる分かる」ではなくて、「知る」によっていることがわかります。

 

先般より、ヲシテ文献に記されている縄文哲学について考察を続けてきました。その過程において「天皇によるシラス統治」と、その他の国々による「ウシハク統治」を知りました。 以下の考察は「オロモルフ」さんのホームページにある論考の一つ、明治憲法第一条「万世一系と統治」を参考にしています。

 

ウシハクについて。 ウシ(主)+ハク(着)で、そのものの主人として身につけるの意があります。ハクは、例えばズボンを履く、靴下を履くというように、身につける、そのものを所有、あるいは領有する意味になります。直接的な支配のことをウシハクといいます。

シラスについて。一般的な国学あるいは辞書では、シラスは<シル>の尊敬語です。

シルには二つの意味があります。

甲) 領/領有する/支配する/統治する     乙) 知/知る/知識を持つ/認識する

(白川静:字訓)によれば、「しる[知]」の意味は次の通りです。

心にさとり、理解することをいう。「わかる」は分別することによってその異同を知ることであるのに対して、「知る」は全体的に所有すること、「領る」ことによってその全体を把握することをいう。「領る」ことは尊貴の人のなすところであるから、「令知」という敬語的な形の語がある。

後半の「領る」が甲)の意味であり、その尊敬語が<シラス>であるということです。 シルの変化は恐らく、 シル→シラス→シラシメス→シロシメス ではないかと思われます。 ですから、シラス=「天皇による統治」とは甲)による解釈となります。 辞書によれば、

「ウシハク」は直接的支配を意味し、「シラス」は高度で政治的・宗教的支配を表し、「シル」はより高次の統治の仕方を言う語である。領にその両訓がある。

とされます。ウシハクより高次の統治の仕方というのは、まったくの意味不明です。別のサイトによれば、天皇の徳による統治とありましたけれど、歴代天皇の何をもって徳があるのか不明です。(勿論、天皇が世界の平和と国民の安寧を日々祈られていることに敬意を持っています。)

一方、ヲシテ文献に記されたクニトコタチさんやアマテルカミさんの行為は、シラスではなくて、<知る>であろうと気付きます。  最初の人であるアメノミナカヌシさんやクニトコタチさん以前においては、「アナニスミ ヒトデナシ」の状態でした。 クニトコタチさんは、人々がそれまでアナに住んでいたのを「整地し、柱を立てて茅で葺き」、「収量の多い木の実をつける品種を栽培し、備蓄」、そして「言葉を直し整えた」 そして、「それらを人々に知らせた」のです。 これらは、今で言う科学技術(農業・建築・あるいは土木技術)です。 これらをどのように<知った>のかが<シル:知る>であったはずです。それ以外に方法がありません。 この<シル>を強く受け継いでおられたのが、アマテルカミさんとトヨケさんだったろうということです。

ついでながら、クニトコタチさんやアマテルカミさんの行為の結果として、人々に慕われることによってクニができたのであって、意味不明な統治ではなかったのです。

冒頭の「想念は伝わる」ことを利用して<シル:知る>ことができるならば、必ず生活は善くなるはずです。 ヲシテ文献の解説を読んでおりますと、クニトコタチさんやアマテルカミさんは、今で言う国民全員が<シル:知る> をできるようになるべきと考えていたように思います。

古事記・日本書紀にある「シラス」のように、天皇お一人に「シル:知る」を押しつけて、<知る>を<領る>と誤解した上で、<シル>という行為を王権と考え違いをした結果、<シラス>としているように思えます。

平城京あるいは平安京の御所にある清涼殿内の東ひさしの東南に、床を漆喰で固めた「石灰の壇」がありました。古より天皇は、「石灰の壇」にて毎朝、遙拝が行われていました。 現在、皇居の宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)において三種の神器への祈りがなされているようです。 皇祖・天照大御神の御霊とされる八咫鏡は賢所に祀られています。現在では遙拝について、誤解された上で形骸化していると考えられます。

ヲシテ文献においては、ミクサタカラと呼ばれています。「タマ」と「カガミ」と「ツルギ」の三種あります。 どうもミクサタカラの「タマ」は精神科学、「カガミ」は社会科学、「ツルギ」は物質科学を象徴するもののようです。 ミクサタカラは御霊や権力の象徴ではありません。  ことに「タマ」は精神科学、つまり「トのヲシテ」の「ト」についての科学を象徴しています。 オカルトやスピリチュアル系のものではありません。 「遙拝」の真の姿は、祈祷や呪術の類などではなく、伝わる想念の受信が目的なのです。  何故なら、アメ(アメノミヲヤ)(宇宙の因)からの想念は、タマシヰのタマを通して受け取る(シル:知る)ことによってのみ新しい知恵を得ることができるからです。(タマシヰのタマは潜在意識とでも表現できます。)

どうも、弧理論(Ark Theory)の考え方によれば、想念は物理現象である可能性があります。 弧理論による「E軸上の実体が、M軸に直接投影されることによって、神経繊維内の原子殻電子に電位を生じさせる」と解釈できます。  E軸上の実体は、直接投影されることにより、想念となるならば、想念は位置を持ちません。 すると想念は、A→B あるいはB→Aへ伝搬するようなものではないと考えられます。つまり、M軸内に満遍なく存在するようなものになります。想念は無辺ということです。 (仮説の上での仮説に過ぎませんけれど。)

追記

昨日、滋賀県高島市にある中江藤樹記念館へ行ってきました。 地図

係の人から中江藤樹について一通りお伺いした後、図書室に保管されているホツマツタヱ(和仁估安聡写本)のコピーを拝見しました。 キツノナト ホムシサルアヤを探して少し感動しました。 どうも考察の結果、

ヰクラムワタ

ネコヱワケ フソヨニカヨヒ

ヨソヤコヱ コレミノウチノ

メクリヨリ ヤマイアラネハ

ナガラエリ

ネコヱが想念にあたる役割を担っているのではないかと考えているからです。前後の意味からヰクラとムワタとヲが先に分かっていないと、ネコヱに分けることができません。因果関係が成り立たないのです。 人は夢を見るのも思考するのも母国語です。例え声帯(ムワタの一部)を使って音声を発しなくても思考はできます。この声を出さない思考を縄文の人たちはネコヱと述べているのではないかということです。用例は10カ所あるようですけれど、全てを調べたわけではありません。悪しからず。

 

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自然科学の限界 <分かる>と<知る>

数学者岡潔は、講演「(4)自然科学は間違っている」で、次のように述べています。

  1. 自然科学者は「分かる」と思っている。
  2. 顕微鏡で見るとか、工夫してもよい。しかし、最後は肉体に備わった五感で分かるものでなければいけない。

1.の「分かる」の語源は、「分ける」ですから

分ける→分かる→理解する→モノの理(ことわり)を解(かい)する→文字通り「物理」のこと→自然科学を成す ということです。

同時に、2.五感で分かるものでなければいけませんので、

五感でわかるスケール

図1 (五感でわかる範囲)

に示す赤い括弧の範囲になければなりません。図1の右端(極大)も左端(極小)も「五感の範囲」を越えています。

つまり、自然科学は、「これまでに知られたこと」を「分ける」ことにより理解しているのです。細分化しているだけで「パイ」自体は大きくなりません。 実際やられていることは、植物や微生物のDNAを解析し、有用と思われる遺伝子配列を特許申請するという、どこか腑に落ちない行為です。 行き止まりであることが自然科学の限界なのです。

「五感で知る」ことができるのは、古典的な範囲であることは明白です。 これを越えるには顕微鏡や望遠鏡を用いることになります。こうして「これまでに知られたこと」を蓄積してきました。 しかし、素粒子加速器や宇宙望遠鏡を駆使しても、「(五感による)知る」によって得られることの限界を迎えています。

例えば、放射線は、無味無臭ですから五感では分かりません。大量に浴びれば「火傷」として分かります。そして、大抵の場合、放射線は有害です。 仮に理論的に予言された素粒子が発見されたとします。そして、その素粒子を大量に浴びたとして、五感で分かるというレベルになれば「火傷」として認識されるでしょう。 理論と火傷との間には非常に大きな隔たりがあるということです。

ヒッグス粒子が理論通りに発見されましたが、管理人にはとても違和感があります。 ある種の放射線が五感でまったく分からないのと同様に、ヒッグス粒子もまた五感で分かるとは、とても思えないのです。

それに対して「知る」という行為に本来は制限がありません。「分かる」とまったく異なる仕組みによって我々は、「知る」ことができます

音楽家は、活動の性格から人前で演奏することが多いです。クラシックの作曲家

miyagawaf56 写真1 こちらより拝借

宮川彬良(みやがわあきら)氏は、某TV番組で次のように述べていた記憶があります。

「自転車に乗っているときや、乗り物で移動しているときに、新しい曲のイメージが降りてくる。」

確か、こんな説明でした。音楽理論を知っている、あるいは分かっていれば名曲が書けるかというと、そのようなことはありません。 他にも似たようなエピソードが幾つもあります。

新しく「知る」というのは、このようなことをいいます。ただし、ある人が何々することを「知った」というのは、これに含まれません。  数学者岡潔は、「自然科学は自然そのものではない。絵を描くとき画用紙があるようなもの。自然科学は簡単な模型である。」と述べています。 彼の言葉から自然科学に限界があることは、明らかなのです。

自然・宇宙を「知る」には、自然科学による「分かる」より多くのことを知ることができるだろうということです。 それが「想念は伝わる」ということの意味です。

追記

結局、五感で分かる限界が自然科学の限界だということになります。  「それ以上に何がある?」とお考えの方には、創造・創作という言葉は存在しないことになります。

 

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想念が持つチャンネルについて

過去記事、想念の仕組み(イメージの幅と事実)について、分かりにくい部分(前記記事の図4)がありましたので、もう少し考察を加えます。

図1は、想念のチャネルについて説明しています。 上段からG偶像、I想念、C想念のチャンネル、そしてTタマシヰ(2つのマインド)の均衡です。 G偶像は、仏像や宗教絵画など信仰や祈りの対象です。悪魔とルシファーは異なるのものなのか分かりません。モレク神は中東で崇拝されたもののようです。

 

想念とチャンネル

図1

偶像を用いるか、用いないかにかかわらず人は、様々なI想念を抱きます。何か敬虔な気持ちであったり、人に対する嫌悪感である場合もあります。 C想念のチャンネルは、人がどのような想念を持ったとしてもI想念とCチャンネルとの間に相関はないと考えられます。 というのも、チャンネルはTタマシヰのタマとシヰの均衡というか配分によって決まると考えられるからです。

例えば、A氏が持った想念は、「神の様な存在がA氏に語りかけた」ものとします。しかし、A氏は自己の執着が強くて「語りかけた」内容が世俗的な「出世や名誉欲を満たす」内容であるかも知れません。それはC想念のチャンネルでいえば、「」の領域に近いものといえます。A氏が持つシヰの発露が強く出た結果、「神の様な存在がA氏に語りかける」という想念を抱いたかも知れないのです。つまり、例え想念が「崇高と感じる何か」であったとしても、C想念のチャンネルが「」や「」の領域であったならば、あまり質の良くない想念である可能性があるということです。 ですから感じたI想念の内容とCチャンネルの間には相関がないのです。

ところがその仕組みを理解していませんと、神からの言葉として受け止めてしまうことになりかねません。なぜなら、シヰ(センスマインド)は、五感(視覚、聴覚他)につながった目や耳からの情報により抱く想念と区別できないからです。  抱いた想念は、肉体に備わった器官をとおして感じたものと同一だからです。  当然、I想念の内容が事実であるかどうかは分かりません。(簡単に言えば、A氏の潜在的な願望を実現したに過ぎないかも知れないのです。)

この辺のことを理解することが難しいためにG・アダムスキーは、何の説明もせずブードゥーやコックリさんなどの呪術をやってはいけない」とのみ教えたのだと思われます。

何せ、「呪術はテレパシーのチャンネルの一つだ」と説明すると混乱することは必至です。ですから彼の支持者たちが自ら気付くように仕向けたともいえそうです。

図1の一番下、Tタマシヰ(マインド)の均衡の欄について、説明文をホツマ辞典(池田満著展望社)より引用し作成しました。

グラフは、タマが破線で示した部分、シヰが実線で示した曲線です。シヰの特性は、感覚器官のそれですので、直ぐに飽和(あるいは麻痺)しますから、シヰの欲求は際限がないことを示しています。 ですから、例えば2千円のワインによる満足より「少し旨い」と感じる満足のために何十万円のワインを手に入れようとするのです。その差はほんの少しです。芸術家やタレントが、刺激がほしくて覚醒剤に手を出すのは同じ理由です。

はっきり、くっきり明るく楽しそうに現れる神様や精霊などには気をつけようというお話でした。

なお、図1最下段、「Gを映画やTVに置き換えるとI、C、Tへの影響は大きい」について、戦後GHQによる日本国民への3S政策などが行われたもことの理由や、現在のマスコミによるB層への洗脳に等しいことが理解できます。

 

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「時間を含まない真のエネルギーについて」を掲載

エネルギーの次元は[ML^2T^(-2)]ですけれど、「01.時間とは何か」の考察によって、時間を基本物理量として使えないことが分かっています。

つまり、時計の運動(テンプの回転運動あるいは水晶の振動運動)と対象物の運動比較しているだけで、時間はどこにも存在しないのです。

数学者岡潔の言葉を参考にして、管理人が考えた時間とは、過ぎ行く運動の記憶、あるいは記録である

時間を起点に、これまでエネルギーとは何かを考察してきました。これらをまとめて弧理論のサイトに「03.時間を含まない真のエネルギーについて」として掲載しました。

大分、頭の中は整理できたのですけれど、まだよくわかりません。これで一応のキリとします。

 

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G・アダムスキーによる宇宙哲学とネガにある紡錘図形が同一であること

これまでの考察により、次の5つは同一のことを示していると考えます。

  1. 大本や日月神示にある○+点=ス(身魂)
  2. ヲシテ文献にある ○+点=ア アモト アウワ タマシヰ 縄文哲学
  3. 聖書ヤハウェ 在りて在りたる者 αでありω →無始無終 無辺
  4. 宇宙哲学 宇宙の意識(因)と結果(物質は結果である) 想念
  5. 弧理論(Ark Theory)の考え方 E-M軸平面 物質科学モデル

1.大本教と日月神示では自動書記により数字あるいは記号で書かれた文字に「○+チョン」があります。これを「ス」と読みます。 日月神示では「○」が身体であり、点が魂であるとしています。現代は身体である「○」だけがあり「魂」が無い状態であって、○に点を入れる必要があるとされています。これを身魂といいます。

2.ヲシテ文献には、五七調の「アワのウタ」があります。特に文字「ア」の形が○+点であって、アで始まる用例が非常に多いです。(アメ、アマ、アモト、アウワなど) ○に点の「ア」を漢字で示すならば宇宙と表現してよいと思います。

3.聖書に登場するヤハウェは、自らを「在りて在りたる者」あるいは「αでありω」としています。他とは異なる表現ですけれど、言い換えるならば無始無終かつ無辺とでも表現できます。

4.G・アダムスキーによれば宇宙哲学では、まず宇宙の意識があり、それが全ての原因である。この「因」から物質ができ人が出来ているといいます。物質は結果であり、人は結果だということです。 そして、宇宙の意識(因)から2つのマインドができます。ソウルマインドとセンスマインドです。ソウルマインドが心の本体で、センスマインドが五感にある「感覚器官の心」です。 (因)と2つのマインドを「想念」が結んでいます。 当然のこと物質は結果ですので、原子単位で想念は「在る」ということになります。ちょっと受け入れがたいですけれど理論的にはそうなります。

5.弧理論(Ark Theory)は、G・アダムスキーが残したネガフィルムにあった

図32ネガ

縦軸が「時間を含まない真のエネルギー」を示すE軸 横軸は3次元物理空間を示すM軸

図1

紡錘図形を解釈したものであって、異星人の文明の根幹となる物質科学を「弧=Ark」と名付けた上で、仮説の理論としたものです。 弧理論の考え方をもって考察を進めてきました。

弧理論ではE軸上の実体がM軸上に投影されることにより全ての物質が現れるとしています。

物質(結果)に実体(原因)

図2

「物質はエネルギー[ML^2T^(-2)]にも転換するし、逆にもなるというが本当は一つの実体の異なる面に過ぎない」

ダニエル・フライがコンタクトした異星人アラン(ある科学者)の言葉です。つまり実体が原因で物質は質量mをもって「位置」が決まるのです。

 

本題です。管理人は、以前から4の宇宙哲学の概略は承知していました。 図1が電磁気現象の一端を含んでいるらしいと気付いて、図1を物理モデルと仮定して研究していた頃に「3の聖書」と何らかの関係があると踏んでいました。やがて1の日月とも関連があるらしいと気づき、さらに歴史を調べて辿り着いたのが2のヲシテ文献でした。そこに書かれていたのが1にある○+点であったのは少々驚きでした。

でも、ヲシテ文献は江戸時代に写本が伝えられ当時の国学者が研究していた訳ですし、出口氏や岡本氏がヲシテ文献のことを知っていたとしてもおかしくありません。

そしてヲシテ文献にある縄文哲学がG・アダムスキーによる宇宙哲学とほぼ同じものだと確信したと同時に、今まで宇宙哲学はあくまで哲学であって、物理科学モデルである紡錘図形とは何の関係もないものだと思い込んでいたものが、突然「同じものだ」と確信したのです。 これには本当に驚きました。

所謂、アダムスキー信者は宇宙哲学の勉強に熱心ですけれど、ネガにある紡錘図形や足跡は、関係ないものとして「興味はあるけれど」無視してきたようです。 (過去に解析の努力はなされています。)

ここで言いたいのは、宇宙哲学で大事な意味を持つ「想念」が、弧理論の考え方の基本形である図2において考えるならば、物理現象である可能性があるということです。

時間を含まない真のエネルギー値をもっているE軸上にある実体がM軸上にある身体の神経繊維を構成する原子に作用し、電子に運動を促すということです。

20140421運動の状態

図3

つまり、神経繊維に生理的な電流が流れるということです。

E軸はM軸に直交していますので

20140516直交するE軸

図4

の様に4つの3次元空間に分けられます。 E軸はM軸上にいる我々には「位置」を特定することはできません。ですから、もし想念が物理現象であるならば、想念はA→BあるいはB→Aへ「伝搬」するのではなくて、AとBに「生じる」ということになります。想念は「波」ですらないかも知れません。

ということは、想念は無辺であるかもということです。唯一の例外は、x-y平面内において回転する物体があれば、回転軸であるz軸方向にE軸が重なるため、想念は回転体に対してz軸方向への偏り(指向性)があるかも知れないということです。

上記のある科学者は、次のようなことを述べています。

現代は物質科学だけが進んでいる。基礎となるのは精神科学と社会科学である。基礎がいつまでも用意されなければ文明は崩壊する。文明を樹木に例えるならば、現代は一つの枝を幹に代えている。正しい選択は幹の分岐点まで降りて、再び登り始めることだ。 そうすると、まず精神科学と社会科学が出てくる。その後に物質科学がくる。 また、3つの科学に明確な仕切りはない。

数学者岡潔の述べたように、「自然科学は間違っている」と思います。少なくとも現代の物理学は近似です。 やっと分岐点まで降りてくることができたと同時に、「精神科学と社会科学」=「縄文哲学と宇宙哲学を融合した哲学」から物質科学(弧理論)の芽が出てきたということです。

現在の所、縄文哲学と宇宙哲学の2つを比較検討しています。これが難しいです。  1.~5.について考えるに付け、これまで3000年から4000年くらいの計画で行われてきたと理解していましたけれど、縄文哲学を考慮すると少なくとも6000年くらいに渡る長期計画の一端であったことが分かります。

 

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時間は存在するのか?存在するかどうか分からないのに自然科学者は、時間を基本物理量にしてる

動画サイトに「時間は存在するのか?モーガン・フリーマン」というのがありましたのでメモしておきます。

.

動画1

別窓のリンク、時間は存在するのか?モーガン・フリーマン

番組中で紹介されている アルミニウムイオン時計ホイーラー・ドィット方程式  についてのリンク。

時間について、実験やいろいろな考察が紹介されています。 疑問なのは、自然科学者は、「時間とは何かよく分かっていない」のにもかかわらず基本物理量としていることです。 数学者岡潔の明快な説明と比べるとだいぶん劣るようです。 右、弧理論へのリンク1.時間とは何かを参照ください。

 

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縄文哲学には「想念」にあたる言葉がない

昨日はレンタルサーバーがダウンしていました。メールも送受信できないし、FTPでの接続も出来ないため焦りました。

宇宙哲学と縄文哲学を比較しています。いろいろ気付いた中で最大の疑問は、宇宙哲学において最大の特徴である「想念」に相当する言葉、あるいは想念観察に相当する行為が縄文哲学にはないのです。

宇宙哲学は、想念観察から自己の成り立ちを理解するとともに、自己の想念をより宇宙的なものに仕向けるという手法をとっています。 ところが縄文哲学には想念に相当する言葉や観察に相当する行為(を示す言葉)が見当たりません。

縄文哲学の核心部分は次の通りです。

宇宙の中心(アモト)からくるタマと地上にあるシヰは、親からのタマノにより結ばれることにより、タマシヰとなります。このシヰに物質が集まってヒトになります。このタマ+シヰをさらにわけるとヰクラ(五つのクラ)となります。

ヰクラは、

・タマ →  1.ココロバ と 2.ミヤビ に

・ミヤビ → アワレヱダ と ナサケヱダ に

・シヰ → 3.タマノヲ と 4.ハ(シム) と 5.ネ(シヰ) にわけられます。

ココロバは、良心(真心)、アワレヱダは哀れを知る心、ナサケヱダは情けを知る心を示すようで、す。 アワレヱダとナサケヱダを合わせたミヤビは、人の社会性を示す心の働きをいうようです。

1.~5.のことをヰクラといいます。 タマノヲハ(シム)ネ(シヰ) は、今のところ何を意味しているのか理解できません。 シヰは、生命維持の欲求ですので、タマノヲを別にして、ハ(シム)とネ(シヰ)は、人の欲望の根幹であるわけです。  (ホツマ辞典、池田満著、展望社の「ヰクラムワタヲ」を参照しました。)

問題は、宇宙哲学の想念観察による手法がないと縄文哲学における心の「ヰクラ+ヲ」の構造に気付きようがないのです。ヰクラは目に見えませんから。

いろいろ探しましたところ、「ネコヱ」と「アメノミチ」の2つに想念に関する何かを含むかとも思えます。  さらに調べてみますとネコヱにはいくつも解釈がありまして、代表的には「音+声」あるいは「根+声」がありました。  前者はまさに音声ですから、臓器の一つである声帯から発する音(空気の振動)を意味します。想念を表していません。

ホトマツタエ キツノナトホムシサルアヤ の前半部分に

アワノウタ カタカキウチテ

ヒキウタフ オノツトコヱモ

アキラカニ ヰクラムワタヲ

ネコヱワケ フソヨニカヨヒ

ヨソヤコヱ コレミノウチノ

メクリヨク ヤマヒアラネハ

ナカラエリ

とあります。概略の意味はこちらを参照ください。ただし、五臓六腑はまったく誤訳です。 その他、ヲシテ文献には上記を含めて「ネコヱ」の用例が10カ所あるようです。(ねこえ) いずれも、ネコヱに想念あるいは想念観察に相当する用法は見当たりませんでした。(難しい。)  「根+声」は、最もそれらしいのですが、10の用例には、そのよう(想念+観察)に解釈出来そうにはありません。

 

管理人の意見として、縄文の人はどちらかというと内観的です。 当時、罪人をホコ(ツルギ)で斬るにしても亡骸を腑分けして臓器の配置や機能を知ろうとしたように思えません。 ご存じのとおり「腑分け」は、江戸時代末期のことです。 縄文の人たちは、今でいう「内科」的な観察によって「ムワタ」を考えたのだと思います。ですから決して五臓六腑とは思えません。 当然のこと、「ムワタ」に声帯も含まれると考えますし、思考そのものもムワタにあると考えたように思えます。

 

また、すべてを調べた訳でありませんけれど「アメノミチ」は、「人が暮らす上で守るべき大事なこと」を示しているようです。現在の言葉でいえば、倫理観や道徳にあたりそうです。 ただ、それ以上の大事なものが含まれている様です。

アマテルカミさんの母方祖父であるトヨケさんの崩御の際に、トヨケさんはアマテルさんを呼んで、アメノミチにかかる奥義を進講されたとあります。 この奥義が何かは示されていないようですけれど、「トのヲシテ」の「」の字義を考えますと想念に関する何かであろうと思います。案外かんたんなことのように思えます。(池田満著「ホツマ縄文日本のたから」展望社p46、ホツマツタエ6 ヒノカミソフキサキノアヤを参考に)   それにしても縄文の人は、どのようにしてヰクラムワタヲに気付いたのか謎です。

「トのヲシテ」も「ロのヲシテ」も想念を念頭に字義を考えますと凄く腑に落ちます。ヲシテ文献を理解するに漢字やカタカナではダメです

京都御所にある清涼殿の東南の隅に「石灰の壇」(いしばいのだん)があり、そこで歴代天皇は毎朝祈られてきたとのことです。 「トのヲシテ」が今も続いているだろうと考えています。もしかして形骸化してるかも知れませんけれど。

 

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12星座と1ダースはどうしてできたのか。素数との関係

このところ、ヲシテ文献に含まれる縄文哲学について調べています。縄文哲学の根幹部分と宇宙哲学並びに自然科学の3つを比較検討しています。ほぼ同じものだと断定してよい箇所と異なるところなど、3者特徴があって実に面白いです。

 

以前から素数について何度か記してきたのですけれど、やはり気になります。 結論はないのですけれど、気付いたことを記します。

「1ダース12本、12ダースが1グロス」というのは、どうしてできたのかを調べましたけれど、わかりませんでした。wikiによれば「ダース」の語源となったのは、フランス語かららしいです。更に遡るとラテン語にあるようです。でもなぜ「12を基本」とするかについて納得のいく説明はありませんでした。もしかしたら誰も知らないのでしょうか。

1年が12ヶ月、干支が12,星座が12なのはなぜなのか?

vaus352

図1 12星座 こちらより拝借

こちらもネット上に様々な説明がありましたけれど、いまいちわかりにくいです。 そもそも星座の総数は、88ほどもあるようですが、12をもって季節?1年とする意味がわかりません。行き着くところ、時間は12の倍数ですし、角度も12の倍数です。

 

本題です。 どうもヲシテ文献では、天文の用語にナカクタ(天の川銀河)があります。 コホシ(九星)は、はじめてのヒトであるミナカヌシ(アウワ)と『トコヨのクニ(ヒノモト)』を建国したクニトコタチさんの8人の子である「トホカミヱヒタメ」の八元神を指し、哲学的な用語のようです。 このうちコホシには北極星(ナカミクラ)が含まれているようです。

:南  :東北  :西  :東南  :北  :西南  :東  :西北

は、それぞれ東西南北を表します。

東に日(陽)が昇り、西に沈む。北に北極星(南半球では南十字星)が存在します。  すると東西南北は意識することができますし、それらを半分割して「四方八方」を意識できます。  地上、平面に居る「人」は(自分を中心として)東西南北である四方、つまり『』を意識できます。

同時に、我々が

3dmen1

図2

3次元空間に存在していることを疑う人はいません。空間の次元軸は『』です。縦・横・奥行きです。 これを3平面と言い換えても同じです。

すると、四方×3平面とすると、4×3=12が得られます。

平面は、『四方』ではなくて、例えばXY平面ですから、2軸であるという突っ込みはなしです。 その場合も、2軸×3平面で、2×3=6という12の半分が得られます。

立体を考えるとき、(軸)の組み合わせより先に、(面)を意識するのですから合理的なように思えます。もっとも数学的知識がある我々は、(軸)を先に考えてしまうのは仕方ありません。

 

手指の数である『5』を基本とする10進法による数学システムは、(自分を中心として)宇宙を等しく分けるには不便なようです。 ある科学者は述べました。

12進法を基礎としたシステムがもっとかんたんで有用で、本質的により可分性があるとわかったんだ。知ってのとおり12は、2,3,4,6で割り切れるが、10は、2と5でしか割れないんだ。

 

数学の難題であるリーマン予想から派生してわかった知見に「素数は、宇宙の構造(法則)となんらかの関係がある」というのがあります。 でもこのままでは解決に至らないようです。 なぜなら、数学者たちは10進法の素数列と「12進法に馴染む宇宙」を比較しているからです。

この点に気付く数学者が現れたとき、3次元物理空間での物体の運動とエネルギー軸のことに気付くように思います。 弧理論によるエネルギー(真のエネルギー値)は、時間を含むエネルギー[ML^2T^(-2)]とは異なるからです。

 

追記

ヲシテ文献では、ヤマトコトバは、48音韻で出来ているといいます。子どもたちには手習いとして「アワのウタ」を教えたそうです。

awanouta

図3 こちらより拝借

図3のミ1-19からをカタカナに書き直しますと

アワノウタ
カダガキウチテ
ヒキウタフ
オノツトコヱモ
アキラカニ
ヰクラムワタヲ
ネコヱワケ
フソヨニカヨヒ
ヨソヤコヱ
コレミノウチノ
メクリヨク
ヤマヒアラネバ
ナカラエリ
スミヱノヲキナ
コレオシル
(ホ1-5~1-7)   (下線は引用者)

アワのウタは、

awauta2

図4 こちらより拝借

左より横書きです。 「あかはなま いきひにみうく・・・・」と続きます。注意として「ゑ、ヱye」並びに「ゐyi」はそれぞれ一音です。  アワのウタを声を出して読みますと、メクリヨクなり、ヤマヒアラネバ、ナガラヱるとされます。

で、アワウタを円形に並べたものが

フトマニ図

図5 こちらより拝借

【モトアケ】あるいはフトマニ図といいます。 中心にあるのが、アウワで、宇宙の中心を意味します。このフトマニ図は、ヲシテ文献にはないようです。後世のヲシテ文献を研究した研究者により作成された図のようです。 実は、フトマニ図をネットで調べますと、ほとんどの解説がオカルトです。

で、フトマニ図は、アワウタ48音を円形に並べています。(アウワは別) 内周から8+8+16+16の計48音です。これが、季節並びに方位を表しているようです。図5は観てのとおり8並びに16で分割されています。

方位としては『四方八方』が出てきますけれど、12の倍数ではありません。管理人が気になったのは、人の声(コエ)がヨソヤコエ(48音)で出来ている(ネコヱワケ:根声分け)ことです。

一般に、日本語は

gojyuuonn1

図6 50音表 こちらより拝借

50音でできているとされますが、音の数は46です。50音表は、12の倍数ではありません。  「や」行に「ゐとゑ」を入れますと48音になります。

アワウタの48音は12の倍数です。方位(季節&角度&時間)を12の倍数で表せていませんが、何か深さを感じます。 因みにコエ(発音)と一対一ではないアルファベットは26文字です。

 

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「五感でわかるもの」をHPに掲載しました

拙ブログに書き綴ってきました「物質」とは何か。自然科学は物質をどのようにとらえているのかを数学者岡潔の言葉により考察してきました。

過去記事をまとめたものを「五感でわかるもの」として、弧理論のサイトに掲載しました。

 

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