時間は存在するのか?存在するかどうか分からないのに自然科学者は、時間を基本物理量にしてる

動画サイトに「時間は存在するのか?モーガン・フリーマン」というのがありましたのでメモしておきます。

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動画1

別窓のリンク、時間は存在するのか?モーガン・フリーマン

番組中で紹介されている アルミニウムイオン時計ホイーラー・ドィット方程式  についてのリンク。

時間について、実験やいろいろな考察が紹介されています。 疑問なのは、自然科学者は、「時間とは何かよく分かっていない」のにもかかわらず基本物理量としていることです。 数学者岡潔の明快な説明と比べるとだいぶん劣るようです。 右、弧理論へのリンク1.時間とは何かを参照ください。

 

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縄文哲学には「想念」にあたる言葉がない

昨日はレンタルサーバーがダウンしていました。メールも送受信できないし、FTPでの接続も出来ないため焦りました。

宇宙哲学と縄文哲学を比較しています。いろいろ気付いた中で最大の疑問は、宇宙哲学において最大の特徴である「想念」に相当する言葉、あるいは想念観察に相当する行為が縄文哲学にはないのです。

宇宙哲学は、想念観察から自己の成り立ちを理解するとともに、自己の想念をより宇宙的なものに仕向けるという手法をとっています。 ところが縄文哲学には想念に相当する言葉や観察に相当する行為(を示す言葉)が見当たりません。

縄文哲学の核心部分は次の通りです。

宇宙の中心(アモト)からくるタマと地上にあるシヰは、親からのタマノにより結ばれることにより、タマシヰとなります。このシヰに物質が集まってヒトになります。このタマ+シヰをさらにわけるとヰクラ(五つのクラ)となります。

ヰクラは、

・タマ →  1.ココロバ と 2.ミヤビ に

・ミヤビ → アワレヱダ と ナサケヱダ に

・シヰ → 3.タマノヲ と 4.ハ(シム) と 5.ネ(シヰ) にわけられます。

ココロバは、良心(真心)、アワレヱダは哀れを知る心、ナサケヱダは情けを知る心を示すようで、す。 アワレヱダとナサケヱダを合わせたミヤビは、人の社会性を示す心の働きをいうようです。

1.~5.のことをヰクラといいます。 タマノヲハ(シム)ネ(シヰ) は、今のところ何を意味しているのか理解できません。 シヰは、生命維持の欲求ですので、タマノヲを別にして、ハ(シム)とネ(シヰ)は、人の欲望の根幹であるわけです。  (ホツマ辞典、池田満著、展望社の「ヰクラムワタヲ」を参照しました。)

問題は、宇宙哲学の想念観察による手法がないと縄文哲学における心の「ヰクラ+ヲ」の構造に気付きようがないのです。ヰクラは目に見えませんから。

いろいろ探しましたところ、「ネコヱ」と「アメノミチ」の2つに想念に関する何かを含むかとも思えます。  さらに調べてみますとネコヱにはいくつも解釈がありまして、代表的には「音+声」あるいは「根+声」がありました。  前者はまさに音声ですから、臓器の一つである声帯から発する音(空気の振動)を意味します。想念を表していません。

ホトマツタエ キツノナトホムシサルアヤ の前半部分に

アワノウタ カタカキウチテ

ヒキウタフ オノツトコヱモ

アキラカニ ヰクラムワタヲ

ネコヱワケ フソヨニカヨヒ

ヨソヤコヱ コレミノウチノ

メクリヨク ヤマヒアラネハ

ナカラエリ

とあります。概略の意味はこちらを参照ください。ただし、五臓六腑はまったく誤訳です。 その他、ヲシテ文献には上記を含めて「ネコヱ」の用例が10カ所あるようです。(ねこえ) いずれも、ネコヱに想念あるいは想念観察に相当する用法は見当たりませんでした。(難しい。)  「根+声」は、最もそれらしいのですが、10の用例には、そのよう(想念+観察)に解釈出来そうにはありません。

 

管理人の意見として、縄文の人はどちらかというと内観的です。 当時、罪人をホコ(ツルギ)で斬るにしても亡骸を腑分けして臓器の配置や機能を知ろうとしたように思えません。 ご存じのとおり「腑分け」は、江戸時代末期のことです。 縄文の人たちは、今でいう「内科」的な観察によって「ムワタ」を考えたのだと思います。ですから決して五臓六腑とは思えません。 当然のこと、「ムワタ」に声帯も含まれると考えますし、思考そのものもムワタにあると考えたように思えます。

 

また、すべてを調べた訳でありませんけれど「アメノミチ」は、「人が暮らす上で守るべき大事なこと」を示しているようです。現在の言葉でいえば、倫理観や道徳にあたりそうです。 ただ、それ以上の大事なものが含まれている様です。

アマテルカミさんの母方祖父であるトヨケさんの崩御の際に、トヨケさんはアマテルさんを呼んで、アメノミチにかかる奥義を進講されたとあります。 この奥義が何かは示されていないようですけれど、「トのヲシテ」の「」の字義を考えますと想念に関する何かであろうと思います。案外かんたんなことのように思えます。(池田満著「ホツマ縄文日本のたから」展望社p46、ホツマツタエ6 ヒノカミソフキサキノアヤを参考に)   それにしても縄文の人は、どのようにしてヰクラムワタヲに気付いたのか謎です。

「トのヲシテ」も「ロのヲシテ」も想念を念頭に字義を考えますと凄く腑に落ちます。ヲシテ文献を理解するに漢字やカタカナではダメです

京都御所にある清涼殿の東南の隅に「石灰の壇」(いしばいのだん)があり、そこで歴代天皇は毎朝祈られてきたとのことです。 「トのヲシテ」が今も続いているだろうと考えています。もしかして形骸化してるかも知れませんけれど。

 

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12星座と1ダースはどうしてできたのか。素数との関係

このところ、ヲシテ文献に含まれる縄文哲学について調べています。縄文哲学の根幹部分と宇宙哲学並びに自然科学の3つを比較検討しています。ほぼ同じものだと断定してよい箇所と異なるところなど、3者特徴があって実に面白いです。

 

以前から素数について何度か記してきたのですけれど、やはり気になります。 結論はないのですけれど、気付いたことを記します。

「1ダース12本、12ダースが1グロス」というのは、どうしてできたのかを調べましたけれど、わかりませんでした。wikiによれば「ダース」の語源となったのは、フランス語かららしいです。更に遡るとラテン語にあるようです。でもなぜ「12を基本」とするかについて納得のいく説明はありませんでした。もしかしたら誰も知らないのでしょうか。

1年が12ヶ月、干支が12,星座が12なのはなぜなのか?

vaus352

図1 12星座 こちらより拝借

こちらもネット上に様々な説明がありましたけれど、いまいちわかりにくいです。 そもそも星座の総数は、88ほどもあるようですが、12をもって季節?1年とする意味がわかりません。行き着くところ、時間は12の倍数ですし、角度も12の倍数です。

 

本題です。 どうもヲシテ文献では、天文の用語にナカクタ(天の川銀河)があります。 コホシ(九星)は、はじめてのヒトであるミナカヌシ(アウワ)と『トコヨのクニ(ヒノモト)』を建国したクニトコタチさんの8人の子である「トホカミヱヒタメ」の八元神を指し、哲学的な用語のようです。 このうちコホシには北極星(ナカミクラ)が含まれているようです。

:南  :東北  :西  :東南  :北  :西南  :東  :西北

は、それぞれ東西南北を表します。

東に日(陽)が昇り、西に沈む。北に北極星(南半球では南十字星)が存在します。  すると東西南北は意識することができますし、それらを半分割して「四方八方」を意識できます。  地上、平面に居る「人」は(自分を中心として)東西南北である四方、つまり『』を意識できます。

同時に、我々が

3dmen1

図2

3次元空間に存在していることを疑う人はいません。空間の次元軸は『』です。縦・横・奥行きです。 これを3平面と言い換えても同じです。

すると、四方×3平面とすると、4×3=12が得られます。

平面は、『四方』ではなくて、例えばXY平面ですから、2軸であるという突っ込みはなしです。 その場合も、2軸×3平面で、2×3=6という12の半分が得られます。

立体を考えるとき、(軸)の組み合わせより先に、(面)を意識するのですから合理的なように思えます。もっとも数学的知識がある我々は、(軸)を先に考えてしまうのは仕方ありません。

 

手指の数である『5』を基本とする10進法による数学システムは、(自分を中心として)宇宙を等しく分けるには不便なようです。 ある科学者は述べました。

12進法を基礎としたシステムがもっとかんたんで有用で、本質的により可分性があるとわかったんだ。知ってのとおり12は、2,3,4,6で割り切れるが、10は、2と5でしか割れないんだ。

 

数学の難題であるリーマン予想から派生してわかった知見に「素数は、宇宙の構造(法則)となんらかの関係がある」というのがあります。 でもこのままでは解決に至らないようです。 なぜなら、数学者たちは10進法の素数列と「12進法に馴染む宇宙」を比較しているからです。

この点に気付く数学者が現れたとき、3次元物理空間での物体の運動とエネルギー軸のことに気付くように思います。 弧理論によるエネルギー(真のエネルギー値)は、時間を含むエネルギー[ML^2T^(-2)]とは異なるからです。

 

追記

ヲシテ文献では、ヤマトコトバは、48音韻で出来ているといいます。子どもたちには手習いとして「アワのウタ」を教えたそうです。

awanouta

図3 こちらより拝借

図3のミ1-19からをカタカナに書き直しますと

アワノウタ
カダガキウチテ
ヒキウタフ
オノツトコヱモ
アキラカニ
ヰクラムワタヲ
ネコヱワケ
フソヨニカヨヒ
ヨソヤコヱ
コレミノウチノ
メクリヨク
ヤマヒアラネバ
ナカラエリ
スミヱノヲキナ
コレオシル
(ホ1-5~1-7)   (下線は引用者)

アワのウタは、

awauta2

図4 こちらより拝借

左より横書きです。 「あかはなま いきひにみうく・・・・」と続きます。注意として「ゑ、ヱye」並びに「ゐyi」はそれぞれ一音です。  アワのウタを声を出して読みますと、メクリヨクなり、ヤマヒアラネバ、ナガラヱるとされます。

で、アワウタを円形に並べたものが

フトマニ図

図5 こちらより拝借

【モトアケ】あるいはフトマニ図といいます。 中心にあるのが、アウワで、宇宙の中心を意味します。このフトマニ図は、ヲシテ文献にはないようです。後世のヲシテ文献を研究した研究者により作成された図のようです。 実は、フトマニ図をネットで調べますと、ほとんどの解説がオカルトです。

で、フトマニ図は、アワウタ48音を円形に並べています。(アウワは別) 内周から8+8+16+16の計48音です。これが、季節並びに方位を表しているようです。図5は観てのとおり8並びに16で分割されています。

方位としては『四方八方』が出てきますけれど、12の倍数ではありません。管理人が気になったのは、人の声(コエ)がヨソヤコエ(48音)で出来ている(ネコヱワケ:根声分け)ことです。

一般に、日本語は

gojyuuonn1

図6 50音表 こちらより拝借

50音でできているとされますが、音の数は46です。50音表は、12の倍数ではありません。  「や」行に「ゐとゑ」を入れますと48音になります。

アワウタの48音は12の倍数です。方位(季節&角度&時間)を12の倍数で表せていませんが、何か深さを感じます。 因みにコエ(発音)と一対一ではないアルファベットは26文字です。

 

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「五感でわかるもの」をHPに掲載しました

拙ブログに書き綴ってきました「物質」とは何か。自然科学は物質をどのようにとらえているのかを数学者岡潔の言葉により考察してきました。

過去記事をまとめたものを「五感でわかるもの」として、弧理論のサイトに掲載しました。

 

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三種神器(ミクサタカラ)【カガミ・タマ・ツルギ】は象徴であり、真のタカラは【精神科学・社会科学・物質科学】である

水銀を用いた単極誘導モーターの実験を3月頃に終えてから、種々模索した結果辿り着いたのは、縄文哲学でした。  その神髄たるところは、タマ+シイ=魂であって、弧理論の考え方(紡錘図形の解釈の仕方)並びに、G・アダムスキーによる宇宙哲学(宇宙の意識たる因+2つのマインド)とほぼ同じと感じました。 3つが同じ事を示しているとわかりました。

縄文哲学に出会う何年か前から、いわゆる三種の神器

神器49写真1

八咫鏡八尺瓊勾玉草薙剣)は、ある科学者がいう3つの科学(精神科学・社会科学・物質科学)に対応するのではないかと考えていました。

縄文哲学に出会うことによって、この考えに確信が持てたのでメモしておきます。

 

ヲシテ文献に示される縄文哲学によれば、三種の神器は、三種神器(ミクサタカラ)と呼び、カガミ・タマ・ツルギが3つのタカラであると説明されます。

カガミは、

kagami2写真2 こちらから拝借

八咫鏡(やたのかがみ)であり、伊勢神宮にご神体があります。皇居にあるのはレプリカとのことです。

タマは、

magata4写真3 こちらから拝借

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)であり、皇居にあるとのことです。

3つめのツルギは、

turugi5写真4 こちらから拝借

草薙剣(くさなぎのつるぎ)であり、熱田神宮のご神体です。

 

人の自我は、G・アダムスキーによる宇宙哲学によれば、次の6つの感覚でできています。  我々の五感は、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚から成りますが、これが6つに分類できるのです。

3つの障碍を持った

H_Keller1888写真5

ヘレン・ケラーは、視覚・聴覚の障碍のため手話により意思の伝達を行いました。 つまり、視覚、聴覚が働かなくても自我は存在するのです。では、味覚、嗅覚、触覚(touch)は、どうでしょうか。いずれも自分が自分である感覚は残ります。 G・アダムスキーによれば、自我の本体は触覚(feel)だといいます。

つまり、我々の自我は、六感【視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚(touch)触覚(feel)】から成りたっているということです。

そして、喜怒哀楽が生じるのは主に五感(感覚器官の心)であり、真の自我は触覚(feel)であるというのです。

 

前者を感覚器官の心、即ちセンスマインド、後者を自我の本体としてソウルマインドと呼びます。この2つのマインドが「自分が自分である」という心の本体です。

 

縄文哲学を知ったとき、このタマ+シイ=魂が宇宙哲学の2つのマインドに対応していると感じましたし、同じものだと確信しました。  つまり、タマがソウルマインドであり、シイがセンスマインドです。

 

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動画1 チャンネル桜 2:30~池田満氏によるタマ+シイの説明

 

タマは宇宙の中心より来たりて、地上のシイに結び、そこへ物質が集まって人となるわけですから、まったく宇宙哲学と同じです。

いつも引用するある科学者は「3つの科学(精神科学・社会科学・物質科学)が基本であり、現代文明は、物質科学のみが先行している。このままでは、文明は崩壊する。」と警告し、文明を樹木に例えて「低い枝の一つの幹が現代文明である。先へ進むには、一旦幹の分岐点まで戻り、やり直す必要がある」と述べました。そして、分岐点に戻ってやり直すならば、「まず、精神科学と社会科学が出てくる」といいました。

冒頭述べた2つのマインドは、精神科学です。 一方で、管理人がこれまで行ってきたのは、G・アダムスキーが残した紡錘図形を解釈することにより得られたのが弧理論(Ark Theory)です。弧理論の考え方は、物質科学の基本です。そして、弧理論の考え方の基本形である

物質(結果)に実体(原因)図1 (弧理論の考え方による基本形)

が、縄文哲学のタマ+シイ=魂、並びに宇宙哲学のソウルマインド+センスマインドに対応していることに気付いたのです。

 

過去記事において、図1のE軸上の実体は「究極の記憶装置」である可能性を示しました。どうも、E軸上の実体は、宇宙の(因)である可能性があるともいえそうです。

すると、宇宙の(因)からのタマとシイが結びついてタマ+シイ=魂となり、それにM軸上の物質が集まって、人となるのです。

 

まったく驚くべき事です。弧理論の考え方は、物質科学の基本です。そこから精神科学の核心部分が出てきたのですから。

G・アダムスキーによればソウルマインドとセンスマインドは、いずれも想念(イメージ)で結ばれています。宇宙の(因)即ち宇宙の意識と自我の本体であるソウルマインド、並びにセンスマインドの間のやりとりは、想念(イメージ)により行われます。

センスマインドは我が儘です。縄文哲学でいえば「シイ」であり、生命維持の欲求ですから、我が儘の想念は(5つの感覚器官の心)より発せられます。大事なのは2つのマインドの調和です。 だからG・アダムスキーは想念観察を勧めたのです。

本題です。

・三種神器(ミクサタカラ)で大事なのは、タマです。タマは縄文哲学のタマであり、精神科学です。精神科学とは、タマ+シイ=魂であり、2つのマインドのことです。図1の構造を思い出してください。 タマは宇宙の(因)よりくる「心の本体」です。シイは生命維持の欲求であり、5つある「感覚器官の心」です。このタマとシイの調和こそが最も大切なのです。 タマシイ(魂)は想念により肉体につながるのです。同時に宇宙の(因)ともつながっています。

現代文明は、シイの暴走に他なりません。

・三種神器(ミクサタカラ)で次に大事なのはカガミです。己を映すカガミとは、社会のことです。社会科学のことです。タマ+シイ=魂の調和がとれるならば、皆が力を合わせて社会をよくすることができます。ここに「トのヲシテ」の理念があります。  タマとシイの優劣によりカガミに映した社会はどのようにでも変化します。「トのヲシテ」が大事である理由がここにあります。

・三種神器(ミクサタカラ)のツルギは、物質科学です。

G・アダムスキーが残した紡錘図形を解析することにより、物理学の一端を解明しようと努力した結果、得た弧理論の考え方とは、物質科学です。 過去記事にありますように、現代文明の根幹である自然科学は間違っています。 数学者岡潔が述べたように「時間」が問題であることは明白です。解決の糸口が弧理論の考え方にあるはず、と研究を進めてきました。奇しくも、ある科学者がいうように、ひょっこりと精神科学と社会科学の芽が出てきたのです。ですから、物質科学の行く末は弧理論にあると考えています。そうでなければ、弧理論の考え方(基本形:図1)から精神科学がでてくるはずありません。

ツルギは、人を殺す道具であると同時に、草を薙ぎ拓く利器でもあります。人の生活を拓く利器としてのツルギである為には、まずタマがシイを抑える必要があります。

人が優しく賢くなれば、己を映すカガミである社会が善くなります。そして初めてツルギを役立てることができるのです。

ここに示された3つの科学において、善悪はありません。在るのはその仕組みです。(図1)人の未来は選択によっているのです。

三種の神器(八咫鏡八尺瓊勾玉草薙剣)は、例え博物館にあっても、見学に来た人と学芸員にしか関係ありませんし、その価値は、何千億円しても有限です。 むしろ、「お金」に組み込まれた情報としての価値はゼロなのですから、お金に換算するのは意味がありません。  文化遺産的価値はあっても象徴に過ぎません。  本当の価値は、タマ+シイ=魂の調和と調和によってもたらされる社会にあるということです。それを象徴したのがミクサタカラなのです。

恐らく、アマテルカミさんが「ミクサタカラ」を設けたのは、人の心と社会を表す象徴としたかったのだろうと思います。 また、神器であるタマの内に、クニトコタチさんによる建国の理念である「ト」の再建を願う気持ちを込めたのではと推察します。 何故なら、アマテルカミさんによる最初のミクサタカラは、「トとカガミとツルギ」であったことから理解できます。(注:池田満著、展望社、ホツマ辞典p260アマカミの表を参照ください。)

 

図1に示すような、タマ+シイ=魂の仕組みにおいてとても大事な特性を見て取れます。エリートキツネと闘牛士の記事にあるように、人類が「お金を巡り」何十世代も生命維持の欲求であるシイの強化を続けるならば、「生まれながらに強欲で犯罪者となる」確率が高くなるということです。繰り返しますが、この仕組みに善悪はありません。我々の選択によって、この混乱の世界ができあがっていることを強く自覚すべきです。

イメージの幅図2

に示す想念の選択によって、次第に世界が混乱してきたのです。  偶像たる仏を拝んで、心の内に名称:悪魔を宿すのは、想念に神頼み(シャーマニズム)があり、その「願い」を形代(かたしろ)たるお金に託しているからに他なりません。

形代とお金図3

なお、クニトコタチさんによる建国の理念である「トのヲシテ」の「ト」とG・アダムスキーによる想念の間には、何らか関係があるように思われます。

 

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「時間とは何か」 をHPに掲載しました。

これまで拙ブログにて、何度か「時間」について取り上げ、かなりの期間に渡り考察してきました。 これら考察した結果をまとめて、弧理論のサイトに掲載しました。

時間とは何か

 

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宇宙哲学は縄文哲学に接続しなければならない

いつも引用するある科学者は、3つの科学が等しく発達する必要があると強調しています。3つの科学とは、「精神科学・社会科学・物質科学」です。 そして、「まず精神科学と社会科学が出てくる」と述べています。

G・アダムスキーが残した紡錘図形から物質科学を目指してきたのですけれど、紡錘図形の解釈から得られた弧理論(Ark Theory)の考え方が、縄文哲学の魂(タマ+シヰ)にそっくだと気付きました。  大変意外なことなのですけれど、紡錘図形について追求していった結果、唐突にも精神科学が「縄文哲学」として出てきのです。

偶然というか、必然というか、ある科学者が述べたとおりの結果でした。 やはりここは、物質科学の追求を一端置き、精神科学・社会科学を目指すべきとの結論に達しました。

どうも、縄文哲学の核心は、「トのヲシテ」にあるようです。 紡錘図形は、弧理論による原子模型です。 追求すれば精神科学が出てきます。 しかしながら、宇宙哲学より、縄文哲学の方がより日本人に馴染みやすく、かつ具体的です。

宇宙哲学を縄文哲学につなぐことによって、精神科学・社会科学を理解することができ、やがては紡錘図形の中から、目指す物質科学の芽が得られるだろうということです。

ただ、ある科学者は「3つの科学に明確な仕切り線はない」と述べています。  俄には受け入れがたいことなのですが、我々の精神活動の内、想念は物理現象の一種らしいです。※ 精神科学と物質科学が部分的に重なっているということです。

G・アダムスキーによる宇宙哲学(因とマインド)は、クニトコタチさんの縄文哲学(トのヲシテ)につながねばならないということです。

※ 想念は、時間を含まない真のエネルギーの一形態だと考えますと、M軸上の我々からは、想念が無始無終かつ無辺である訳です、「何処から何処へ」「どちらからどちらへ」ということはありません。 そして、真のエネルギーの一形態である想念が、身体に「生理学的電気」として、即ち電子やイオンの運動P_として現れると考えられます。 つまり、人体は想念のアンテナとしての機能を有しているというふうに考えられるのです。 当然、そうなれば「想念の増幅器が開発される可能性がでてくる」ということです。

 

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「神頼み→予言」がサタニスト(悪魔崇拝者)の目的らしい

以前、紫霄閣というサイトの聖徳太子が封印した日本の優れた古代文化についてご紹介しました。 その文中「2.時代的背景」としてAD6C~AD7Cにかけて「大乱に伴い、神代文献を徹底的に焚書」されたとのことでした。 焚書という行為はおよそ日本的ではないと記しました。

同じく同文を読んでいますと6.聖徳太子が編纂を指示した『先代旧事本紀せんだいくじほんぎ(622)』の意味の所に次のようにあります。

・聖徳太子は、『先代旧事本紀』の編纂を、秦河勝、中臣御食子に命じている。この膨大な歴史書は、今日厄介物扱いで、偽書扱いされている。しかし、前記参考文献の著者・牛山火壱氏によれば、この本は偽史であって、偽書ではない。歴史改竄の一貫であり、その内容は「ユダヤ本紀」と言える物であるという。即ち、物部家等に伝わっていた膨大な文書類を焚書し、新たに偽史を作成したのである。

・後述するように、 天照大神は BC9C 頃に実在した、偉大な男性の天皇(注:天皇という呼称は後年)であるが、『先代旧事本紀(622)』において既に神格化され、更に女性化されている。この極悪の極みが後の記紀にも継承されている。

・この本の巻末にある『未然伝』は予言書であるが、予言という行為は極めてユダヤ的であり、日本古来の考え方とは相容れない。また、聖徳太子は推古天皇に本書は遠からず隠滅すると奏上しているが、これも、生来楽観的な日本人の性格からは著しく離れた行為である。   (下線は管理人による)

 

大乱に伴い焚書を行うとともに、偽の歴史書を作成したということです。 聖徳太子が秦河勝、中臣御食子に命じて作られた『先代旧事本紀』の巻末にある『未然伝』は、予言書だということです。 焚書に並び予言という行為は極めてユダヤ的であり、およそ日本的ではありません

 

これまでの考察により、人は信仰にシャーマニズム(神頼み)が入ると簡単に対象が神仏から悪魔に入れ替わることが分かりました。 旧約聖書にシャーマニズム(神頼み)を入れるとともに、その形代(かたしろ)にお金を持ってきたのがユダヤ人になりすましたヒクソスらしいです

上記の引用文を読んだとき感じたのは、次の通りです。

どうもシャーマニズム「神頼み」、つまり、悪魔崇拝の儀式により、「強くて明瞭なイメージ(想念)」を受けることによって彼らが得たいのは、予言なのだということです。

fukuroes写真1

イメージの幅図1

彼らの感覚器官の心は、とうに麻痺し生贄を捧げるどころか、ついには自らを火に投じるしか彼らのシイを満たすことはできません。下記参照

注: G・アダムスキーによるテレパシーの仕組みとヲシテ文献による魂の比較

・宇宙の意識(因) → マインド

ソウルマインド : 触覚(feel)  =自我による印象※1

センスマインド : 感覚器官の心 =五感による印象※1

※1 2つのマインドが合わさって自己が自己と感じるマインドとなる。

・縄文哲学

魂(タマシイ

大宇宙の中心※2 → タマ※3

地球にあるシイ※4

※2 宇宙の中心にあるのはアモトだから、アモトからタマはくるのではないかと考えられます。?

※3 タマは、人の心の本体

※4 シイは、生命維持の欲求 強いるのシイ 欲シイ欲シイのシイ

タマ+シイ=魂 タマにシイが加わり、魂となり地上の物質が集まって人となる。

おそらく、G・アダムスキーによるマインドと縄文哲学による魂(タマ+シイ)は同じものです。

また、弧理論(Ark Theory)の考え方の元になる基本図形

物質(結果)に実体(原因)図2

に等しいと考えられます。

E軸上の実体が(因)であり、ソウルマインドはここから来ます。物質が集まってセンスマインドと重なり、人となります。  縄文哲学としては、実体からタマが来て、タマ+シイに物質が集まって人となります。

上記の仕組み(宇宙哲学・縄文哲学・弧理論の考え方)は、いずれも「いつからいつまで」そして「どこに」が含まれていません。 無始無終かつ無辺です。

これは、旧約聖書の「在りて在りたる者」≒無始無終かつ無辺 に近いです。 なのに3つの宗教が行き着くところ悪魔崇拝になってしまったのは、ユダヤ人になりすましたヒクソスによるようです。 あらゆる宗教の信徒の人たちは、心に神頼みがゼロではありませんし100でもありません。 世の紛争のほとんどがここから出ていることに気付いていただきたいです。

ヒクソスは、自らを人々から隠すために、聖書に登場するユダヤ人をスケープゴートにし、あらゆる人・組織をスケープゴートにし続けることによって、世界を混乱に陥れてきた事に気付くべきです。参照 バカボンのパパ「賛成の反対なのだ」では済まされない

 

3つの科学、(物質科学・精神科学・社会科学)の発達こそ、未来が拓ける道であると確信しています。 G・アダムスキーが残した

図32ネガ図3

紡錘図形の解析によって、物質科学の研究を進めてきました。 続ける内に、奇しくも図3の解析から得られた弧理論の考え方(図2)の基本が、(因)とマインド あるいは、魂(タマ+シイ)と同じものであると気付きました。 本当にびっくりです。

(因)とマインド あるいは魂(タマ+シイ)が精神科学並びに社会科学の基礎であることは明白です。 物質科学は、精神科学と社会科学の基礎の上にこそ立脚できるのです。ですから、図2を元に精神科学と社会科学について、考察を続けたいと思います。 時期がきたならば、相応の物質科学にたどり着けるのではないかと楽観的に考えています。

因みに三種神器(ミクサタカラ)は、精神科学・社会科学・物質科学の象徴だろうと思います。

ミクサとは、タマ・カガミ・ツルギの神器です。(池田満著:ホツマ辞典、展望社)

 

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想念の仕組み(イメージの幅と事実)

これまで、G・アダムスキーによる宇宙の意識(因)と2つのマインド{ソウルマインド+センスマインド(感覚器官の心)}並びに縄文哲学による魂(タマ+シイ)について考察してきました。

農業生産の効率化等により、社会が豊かになるにつれて、人々の欲求が次第に大きくなりました。その結果、魂(タマ+シイ)のシイ、つまり欲シイ欲シイのシイ(生命維持の欲求)は、時代とともに肥大化しました。

富と権力の争奪によりシャーマニズム(神頼み)が生じ、その結果縄文文明は衰退しました。 シイの欲求からからシャーマニズム(神頼み)が生じたのではないでしょうか。

文化シャーマニズム曲線図1

時が流れ、いつしか日本にもシャーマニズム(神頼み)の形代(かたしろ)とお金結びつきました。 それがいつの誰によってなされたかわかりません。

形代とお金図2

 

想念(イメージ)の幅と事実(物理空間での現象)の関係について考察します。

G・アダムスキーによる【センスマインド(感覚器官の心)】は、縄文哲学の【シイ(生命維持の欲求)】と同じもののようです。 つまり、シイ(生命維持の欲求)は、感覚器官の心から来ていると考えられます。

感覚器官の心は、

kankaku図3 こちらから拝借

視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚(touch)の各感覚器官から来ています。 言い換えるとシイ(生命維持の欲求)は、感覚器官に起きるイメージ(想念)そのものです。

宇宙には、善悪を含め「在る」のであって、そこには想念の違いがあるだけだと述べました。想念の違いとは、(幅)があるということです。チャンネルが異なるだけともいえます。

 

イメージの幅図4

にイメージ(想念)の幅を示します。 イメージの幅を横軸に表します。 湧くイメージに名称を付けます。右端に神や仏などを置き、左端に悪魔(サタン)やルシファー(堕天使)などを置きます。 間には種々雑多な名称を置きます。例えば、ある人が得たイメージを元に、発明を成すかも知れません。 あるいは、ある人のおかれた状況と全く場違いなイメージが突然起きることがあります。いわば雑念です。ですから、「名称」とは、各人の頭の中に湧いたイメージに名前を付けたということです。

このイメージ(想念)には、強度と明瞭度があります。右端に行けば、湧く想念はとても弱くなります。逆に左端ではとても強くなります。ですから右端での明瞭度は低くなります。 その下の難易度というのは、シャーマニズム(神頼み)です。左端が神頼みで、右端が自助努力です。

人が希望をもって目標を立て計画的に努力して願いを叶えるのは大変です。 同じ願いでも安易な願いが神頼み(シャーマニズム)です。

ここで、G偶像、I想念、B物理現象(事実)とします。 今ある人がG偶像に礼拝をしたとします。Gは、仏像やキリスト像などです。ある人が礼拝のとき、Gを前にして心の内に(神頼み)が強ければ、その人のI想念は、左端に寄っています。このときの名称は、例えば「悪魔」ということになります。目の前にあるGが仏像であってもです。 人のシイは、シャーマニズムよって簡単に(左右)反転します。

また、ある人が心の内に、{「**するがよい」という地底人からのイメージ(想念)}が湧いたとします。イメージ(想念)に含まれるメッセージは、B物理現象として正しいかも知れませんし、間違いかも知れません。かつ地底人もB物理現象としての人物かも知れませんし、そうでないかも知れません。  意外と、この区別がつかない方がおられるようです。  何せ感覚器官の心が受けた”I想念”だから、本人にとって感覚器官からの信号と”同じ”です。つまり事実だと認識します。 I想念が、即B物理現象であるとは、誰も思いませんけれど、ややもすると「感覚器官の心」に湧くI想念(イメージ)は、そのままB物理現象に等しいと思ってしまうのです。事実だと認識してしまうのです。

  • 幽霊の正体見たり枯れ尾花

幽霊がI想念(イメージ)で、枯れたススキがB物理現象(事実)です。

耳という感覚器官にB物理現象の「音波」として入ってきてI想念(イメージ)が湧くのと、想念として感覚器官の心に湧くのとは、違いがあると理解することが必要です。強くはっきりしたI想念(イメージ)であれば、尚更間違いやすいということです。  恐らくヒトラーは、「あいつ」のイメージをB物理現象(事実)として理解していたものと思われます。 難しいのは、強いはっきりしたI想念でも、ある程度本当のことを含んでいることがあるようです。(予知とか予言?)

シイの虜になった連中が、G偶像としてのフクロウを用いて儀式を行う理由は、強くてはっきりしたI想念を得る為だといってよいでしょう。それが図4名称の「悪魔」です。

まとめますと、

  1. 強く、はっきりとしたイメージ(想念)は、ほとんど無意味である。ほとんどが雑念。
  2. 強く、はっきりとしたイメージ(想念)で意味がある場合は、シイの虜、あるいはシャーマニズムの虜になってしまう可能性がある。
  3. イメージ(想念)が事実であるとは限らない。
  4. 大切なイメージ(想念)ほど弱く分かりにくい。雑念に紛れてしまう。
  5. シイが極大化した状態が悪魔崇拝である。
  6. 無神論者であっても、心の内に神頼み(シャーマニズム)があれば、相応のイメージ(想念)が湧く。

無神論者も日本教である人たちも同じです。でなければ、宝くじもFX(外国為替証拠金取引)も売れるわけありません。宗教にお布施(お賽銭)としてお金を出すのは、まさに神頼みです。

かなり荒いですけれど、強いはっきりしたイメージ(想念)は危ないし、その示す内容がB物理現象として存在しない可能性が高いということです。 分裂や不安、あるいは恐怖を伴ったイメージは、ダメです。

生命維持の欲求であるシイ、つまり感覚器官の心に効率的に訴えるには、図3の感覚器官に直接訴えるのが一番効率的です。どこかの誰かは、このことを熟知しています。それが3S(スクリーン・スポーツ・セックス)政策として行われていることです。

過去、かなりの期間にわたり「お金」とは何かを調べました。 その過程で動画「お金が出来る仕組み。銀行の詐欺システムMoney As Debt」に関する記事を書きました。

お金は、負債である。お金と時間は関係がありそう。時間は存在しない。時間とは、過ぎ行く運動の記憶である。(運動/時間)の比を未だ決定していない。だから自然科学は間違っている。・・・などがわかりました。 動画では、お金の仕組みと機能の説明はありました。しかしながら、我々はどうすればお金の柵(しがらみ)から抜け出せるかの方策を示したものではありませんでした。

ここにてき、お金の仕組みではなくて、

お金の存在を許しているのが「私利私欲」を手っ取り早く実現する「神頼み」にあることがわかってきました。シャーマニズム(神頼み)に使う形代(かたしろ)に図2のお金を持ってくるというアイディアこそが、お金の柵の根源だったのです。

想念の仕組みによって、安易な神頼みに向かうからこそ、お金から抜け出せないのです。  神頼みの形代に(利子という負債の仕組みを入れた)お金を持ってきたのは、どうもヒクソスのようです。羊たちにヤハウェを拝ませながら、名称「悪魔」にすり替えたのがヒクソスだったのではないか?

 

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悪魔崇拝の本質

これまでの考察を以下にまとめます。

G・アダムスキーの伝えた宇宙哲学によれば、人の心の本体は宇宙の意識(因)より出てマインドになるようです。 マインドには2種類あって、センスマインド ソウルマインドです。

センスマインドは五感によります。 視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚(touch)の五つが感覚器官の心(センスマインド)です。 ここから喜怒哀楽などの想念(印象が出ます。

ソウルマインドは、意識の本体である触覚(feel)です。ここから自己の想念(印象)が出ます。 2つのマインドが自分が自分であると認識する自我となります。

この2つのマインドをヲシテ研究家の池田満氏による魂(タマ+シイ)の解説と比べますと、

タマ = ソウルマインド=触覚(feel) で   シイ = センスマインド=感覚器官の心 になります。 ヲシテ研究家の池田満氏によれば、シイは生命維持の欲求で、人体が死すればシイは地球に残るとのことです。

つまり、 ソウルマインド が タマ であり センスマインド(五感:感覚器官の心) が シイ に対応します。

次に、想念の仕組み縄文哲学(または宇宙哲学)並びにシャーマニズムの関係を示すと

1.宇宙の仕組みとしての想念は、主に以下の2つよりなる。

  2.縄文哲学(宇宙哲学) :統合的な想念  生まれ生きることを嬉しいという世界観

  3.シャーマニズム (神頼み)→考えることの放棄 :分析的であるが故に分裂的(思考停止へ至る) 己以外を排除、あるいは踏み台にする世界観 統合失調

となります。

2.統合的な想念をもってしか、1.の仕組みに気付くことはないと思われます。「生まれ、生きて尽きる」を繰り返すことによりタマ+シイは、新しい経験を積み重ねます。シイは地上において経験を続けますが、欲シイ欲シイの「シイ」が強すぎると転生のサイクルがうまく行かなくなるようです。(文明の崩壊=我欲による分裂から自壊に至る)

3.は、分析的であるが故に物質科学の進歩において2.に先んじることができ、戦争などでの優位性を発揮できます。転生の考えに思い至らず、宇宙の真の姿に気付くことが困難になります。行き着くところは、分裂的・破壊的な想念・苦悶と混乱です。

ここに、2.3.の間には、善悪の区分はありません。いわば想念の仕組みに於けるチャンネルの違いがあるということです。

漢字「神」の成り立ちからいって、「神」の相手は、神様でも悪魔でも、何でもよいとご説明しました。ですから、「神」の字義からいって、神様を悪魔にすり替えることは容易いのです

結果的に、人々の信仰心と選民意識を擽(くすぐ)ることによって、

神を悪魔崇拝にすり替えるとともに(シャーマニズム「神頼み」+形代としてのお金)を潜ませます。

baph_2図1

形代とお金図2

想念の仕組みにあるのは、善悪ではなくて選択の自由があるだけです。想念のチャンネルがあるだけなのです。

ここまでは、前回までに考察しました。

分析的であるが故に、分裂的であることにより破壊的自滅に向かわざるを得ない

悪魔崇拝とは、欲シイ欲シイの魂(タマ+シイ)の「シイが暴走した状態」をいいます

 

生命維持の欲求であるシイ、つまり感覚器官の心は欲シイの欲求に従い、人々の信仰心に付け入ります。神様を悪魔にすり替えるとともに、シャーマニズム(神頼み)を潜ませます。そして、神頼みの形代にお金を入れるのです。

次に「シイ」 つまり、感覚器官の心(センスマインド)の特性について考えます。

 

5つの感覚器官の刺激に対する人の感じ方は、一般に10を底とする対数に比例します。これをデシベル(dB)といいます。 普通は音の大きさや増幅器の利得を表示するときに使いますが、感覚器官は概ね対数的です。

例えば、

wine low8_480写真1

1本2000円程度のワインと20万円のワインでの味覚の違いについて、値段との比較をグラフにすると

感覚とお金図3

の様になります。感覚器官が得る刺激(旨さ)の違い(アとイ)は極わずかです。 なかには

wine55high写真2

1本55,000千円のワインもあるようです。違いはまったくわかりません。 同様に、数十万円のバイオリンの音とン億円のものとを聞き比べても明確に違いがわかる人は、極わずかのようです。 最早、オカルトです。  また、オーディオにもオカルトがあるといわれます。

bable0204写真3

の電源ケーブルは10万円の値がついています。某家電量販店のオーディオコーナーで3万円の電源ケーブルや2万円のUSBケーブルを見ました。

 

まとめますと、感覚器官が受け取る刺激は、直ぐに飽和してしまうということです。今まで食べてきたものより極わずかに”旨い”と感じるためには、10倍でも1000倍でも「お金」をつぎ込まねばならないということです。

ジャーナリストのベンジャミン・フルフォード氏はこちらで次のように述べています。

古い金融 システムに残されたものは機能的リテールシステムと非機能的制度の複合である。別の言い方をすれば、株式市場、証券市場、ヘッジファ ンドのようなすでにとっくの昔に実世界から離れて行ったものを除いては、給与、電子的請求書などのようなものは、未だに街角で現実 ベースで処理されている。世界の総所得が100兆ドルに留まっているのに、スーパーコンピューター、アルゴリズム、及びその取扱者は 相互に兆、京、垓 ドルといった高額の単位のお金を取り扱い、現実から完 全に遊離している。

翻訳ですので読みにくいですが、金融世界では、コンピュータを使って、兆、京、垓 ドルといったお金のやりとりをしています。

京 =10^16     垓(がい) =10^20  という途方もない数字をお金としてやりとりしているということです。 しかし、情報量としては、符号なしの整数として数kbあればOKです。 そして、上記の通り、感覚器官の受け取れる刺激としては大差ないことが理解できます。

我々にとって1万円は、とても大事です。 どこかの誰か、顔も名前も知らない支配者にとって10^20ドルが何の意味も持たないことが分かります。 彼らの感覚器官の心は、とうの昔に飽和しているのです。

ですから、彼らの

katashiro図4

形代は、

fukuroes写真4

フクロウ(モレク)のようなのですが、彼らは、より刺激が欲シイので

ikeniadf写真5

人を生贄にしているようなのです。 おぞましい限りです。

.

動画2

信じられないことですけれど、欲しい欲しいのシイが行き着くところは、悪魔崇拝であり、生贄なのです。そのツールがシャーマニズム(神頼み)+形代であるお金なのです

某ブログからの引用です。

石油は、地球上を走り回っている、余りにも多い車の潤滑油です。石油の需要と供給こそが、これらの車輪を回しています。彼らの強欲装置全体が、石油に大きく依存しているので、石油を使い続けさせるためには何処までも行くのです。この井戸が涸れれば、彼らの血液であるお金の供給も涸れます。奴らの小さな爬虫類の脳は、彼らの金庫に加速しつつ流れ込む金の供給がなくなるという考えに、耐えられないのです。

 

エリートキツネと闘牛士に示したとおり、古い皮質に焼き付けられた彼らのシイを「爬虫類の脳」と呼び、感覚器官の特性(対数)に基づくお金の流れを「金庫に加速しつつ流れ込む金の供給」と呼んでいます。

彼らは、自ら選んだ道を自らが変えることが出来ないのです。恐らく、彼らの最大の刺激は、自らに火を放ち自殺することです。全てを道連れに。  彼らのタマは、シイの奴隷となっているのです。愚かなことです。これが悪魔崇拝の本質です。

 

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