唯物主義 と共産主義

岡潔によれば 唯物主義 を次のように述べています。「【3】五感でわかるもの」より。

どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。

また、この 唯物主義 を見直すべき時に来ていると述べています。「【3】西洋の唯物主義」より。

西洋人は五感でわからないものは無いとしか思えない。これが唯物主義です。この仮定のもとに調べてきた。それが自然科学です。そうすると、とうとう素粒子というものにいき当った。不安定な素粒子というものがあって、生まれてきてまたすぐ消えていってしまっている。無から有が生じるということは考えられない。そうすると、五感でわからないものは無いという仮定は撤回しなければならない。それで西洋の学問は、一番始めからもう一度調べ直さなければならないところへきているんです。

この唯物主義者は、共産主義に通ずるといいます。知識としては知っていましたけれども、理由がわかりました。

 

前回の記事に追記した興味深い動画です。

茂木誠氏の言葉です。「非宗教家という宗教が教科書を席巻している。」これです。

 

無宗教の人は、「神を信じない。」だけであって、他人には「神の存在の有無と信じる、信じない」を強制することはありません

しかし、唯物主義者は、「五感でわからないものはないとしか思えない。」のですから、「神の存在を信じないし、認めない」のです。これが非宗教という宗教へつながります。だから、唯物主義者は、「万人が神を否定すべき」と考えます。これは非(否)宗教という宗教です。これは自己矛盾です。 共産主義の元となったカール・マルクスは、ドイツ・プロイセン王国の出身で、墓はイギリスにあります。

岡潔は、 唯物主義 は見直すべきところに来ていると述べています。突き詰めると、彼らの共産主義は、見直さざるを得ないところに来ていると云うことです。 さらに、1960年代~1970年代にかけて単独で取り出せないクオークを物質と認めたときから唯物主義ですらありません。 主義思想の面からして破綻しています。右検索欄にて「クオーク」を参照ください。10件記事があります。

 

こう考えると「五感でわからないものはないとしか思えない。」というのは、毒を含んでいるように思えます。これまで何度か書いたように「自然科学は統合失調」の状態にあると感じます。

でも、偽ユダヤ人たちが旧約聖書の成就を願っているらしいことと整合しません。何故だろう?もっと激しい選民思想か?わかりません。

 

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日月神示 の「理屈は悪じゃ」は、弧理論の「カガミ:社会科学」に同じ

昨日、「 日月神示 、神一厘のシナリオ:中矢伸一著、徳間書店」を読んでいたら、「理屈は悪じゃ」という一文がありました。管理人が主張している社会科学の基本にかなう合理的な解釈だと感じ、メモします。

 

まず、弧理論のブログではヲシテ文献を参考にしています。日月神示とヲシテ文献との関係です。 日月神示 は、岡本天明が自動書記しました。岡本天明は、山口志道の稲荷古伝布斗麻迩いなりこでんふとまに日本言霊奥伝を研究していたと言われます。この布斗麻迩は、ヲシテ文献のフトマニから来ていると推測されます。もしかしたら山口志道は、古くに焚書されたヲシテ文献の中から散逸したフトマニの断片を読んだのかも知れません。いずれにしても管理人は、何でも(ほぼ合理的に解釈でき)参考になればよいという姿勢です。

日月神示-岡本天明-山口志道-布斗麻迩-フトマニ(ヲシテ文献) のつながりです。

2018年6月14日 の記事「日月神示 ひふみ神示は、なぜ弧理論の参考になるのか?」を参照ください。

 

日月神示をネットで検索してみると以下のような文が出てきました。

夜明けの巻~第7帖

神の臣民しんみんに楽なことになるぞ。
理屈無い世にするぞ。
理屈は悪と申してあろうが、
理屈ない世に致すぞ。
理屈くらべの気負きおい無くして仕舞うぞ。

松9帖

悪の終わりは共食いじゃ、共食いして共倒れ、理屈が理屈と、悪が
悪と共倒れになるのが、神の仕組みじゃ。

ほかにもありますが、松9貼が興味深いです。

 

当ブログで述べてきたミクサタカラとは、タマ:精神科学、カガミ:社会科学、ツルギ:物質科学のことです。日月神示の上文はカガミ:社会科学と同じ意味になります。

弧理論によるカガミ:社会科学の基本は次図によります。

図1 人の心の健全性をはかる基準

岡潔によれば、人には心が2つあります。これを第1の心、第2の心と名付けています。岡潔講演録の【4】情のメカニズムを参照ください。この2つの心の特徴は以下です。

  1. 第1の心 物の理ことわり。理解。還元主義「わけることによりわかる(はず)」、意識を通し言葉で言える。時の過去。動画がわかる。互いに規定し合うことにより成り立つ循環、ネットワーク、孤立系(外のない内)、私心(生命維持の欲求)、特徴:理屈(過度に複雑な理論)により抽象へ向かう。記憶・記録・情報と関連する。
  2. 第2の心 意識を通さず言葉で言えないが、しかし何となくその趣おもむきがわかる。時の現在。静止画がわかる。無私。特徴:具体がわかる。映像がわかる。

ヲシテ文献におけるタマが第2の心であり、シヰが第1の心に同じだと考えられます。また、ヲシテ文献において、復心としてミヤビがあり、ミヤビはナサケヱダとアワレヱダからなります。このナサケヱダが第2の心、アワレヱダが第1の心に通じるようです。

長くなりました。この第2の心でわかるのが(映像=具体)で、第1の心でわかるのが(抽象)なのです。わけることによりわかるとする還元主義の行き着く先は、抽象です。これは第2の心で描けない状態です。だから、抽象的な数学に頼るのです。

この抽象へ向かう源泉が生命維持の欲求であるシヰ(私心)です。その行き着く先は、共食いです。関連する記事としてサイト内を「エリートキツネ」で検索して参照ください。エリートキツネには飼い主として生物学者が居ますが、人類が何世代にも渡る共通の指向(還元主義)を持つことについて、これを差し止める飼い主はいません。誰も止められないのです。

先般の新型コロナウイルスの騒動もどちらかというと人災です。直接に人を喰らう訳ではありませんけれど、経済活動を通じて人々を貧困に追いやります。最後は、経済のために純消費である戦争を起こします。 保守も革新も中道も、資本主義も社会主義も共産主義も、環境を訴える連中も、神を信じる人もそうでない人も、誰も彼も全員が同じ方向へ向かっています。第1の心の特性である循環、即ち、堂々巡りの輪に気づかない限り自滅します。間違いなく。

最大の問題は、第1の心と第2の心の乖離にあります。岡潔が「間違った思想の洪水」だから「人類は滅びる」と云った意味がこれです。乖離により人は心を病むのです。2018年3月27日の記事「宇宙の真理を探究するに最適の道具は 数学 だという。ならば何故、数学の難問に挑むと心を病むのだろうか?」を参照ください。

 

世の中の移り変わりは、ますます早くなっています。めまぐるしいです。わけることによりわかるとする還元主義によれば、早いこと、速いことは絶対の善です。しかし、そうではありません。 例えば、音楽の拍子やビートについて、2拍子より3拍子が、4ビートより8ビートが善であると云っているのと同じです。それだと8ビート・16ビートより256ビートの方がよいはずです。名曲はそれらの内にあるのであって、256ビートになどありません。

 

実は、図1を眺めて考察を続けていて、抽象化の行き着く先は人類の滅亡であることを確信しますが、何と表現したらよいか考え続けていました。そうして、先日思いついたのが人類による「共食い」という言葉でした。偶然にも日月神示に共食いという言葉があるのを知りました。 現代は、信仰の時代です。※↓ 自覚はありませんけれど、間違いなく信仰の時代です。皆が同じ方向へ向かっています。 サイト内を「信仰の時代」で検索してください。また、2019年7月13日の記事『「 聞こゆるを聞き、見ゆるを聞く 」ことの難しさ』を参照ください。

一つ疑問が残ります。理屈(理論)が循環に陥り、心の乖離を引き起こすから理屈はだめだと云うのならば、文化・文明の発達はだめという事になります。 問題は還元主義の先端まで突き詰めることに問題があるということです。第1の心にある循環を根本的に避ける手段はありません

 

ここで、別の次元軸にすべての根源を求めることによって、当面の間これを回避することができます。つまり、心の仕組みと働き、並びに物質の成り立ちを別の次元軸からの投影による映像だという理論を確立すれば、当面の間、この矛盾を回避できます。この当面というのは、恐らく1000年くらいです。即ち、フリーエネルギーと重力制御の理論と実践を目的として考察と実験を続けることで当面(約一千年)の間、回避できるということです。 ただし、その前にとんでもない災難が待ち受けているはずです。

かつてオバマ米大統領は、「Change Yes We Can!」と云いました。これは、現在持っているものはそのままで、進む方向を変えるという意味です。しかし、別の次元軸にすべての原因を求めることは、現在持っているもののほとんどを捨てた上でのことになりそうです。自然科学を捨てるのですから、当然そうなります。よほどの覚悟がなければ難しいです。

例えば、社会全体のシステムを12進数に変える必要があるならば、お金から教科書、経済システムから、何から何まで全部変える必要が出てきます。お金持ちも貧乏人も、大学教授も小学生も、それこそ全員もれなく影響を受けます。想像するだけでゾッとします。ここに人類史上最大の試練があります。2016年3月1日の記事「五つ玉のそろばんは、12進数の計算に使える」 を参照ください。あるいは「そろばん」で検索してください。

 


 

追記5/21 サイト内を”統合失調”で検索してください。10件ほど記事が出てきます。自然科学を基本とする世界は、分裂状態の世界を形成します。古典力学と量子論の間につながっている感はありません。ジェット気流の向きが自転と同方向であることに、誰も異を唱えないのは変です。 もっと云えば、世に何かあれば何々の”専門家”とされる人が湧いて出てくるのは異常です。全体を観る人がどこにもいません。すべてはどこかでつながっているという直観があります。これまでの考察で「わけることによりわかる(はず)」という還元主義には終点があるとわかっています。ですから、この直観は正しいと思います。あまりに複雑な理屈はだめです。第2の心にかなう説明でなければなりません。参考までにサイト内を”スプーン”で検索してください。

余談です。これまで弧理論の解説をブログに書いてきました。今年11年目です。 研究の過程と理論的な成果をブログに書くに、レンタルサーバーとドメインの維持に年5000円ほどかかります。現時点で具体的な実験(フリーエネルギーや重力制御など)に到達できるかどうか未知数です。仮に到達できなかった場合、いつまでサーバーとドメインを維持できるかわかりません。弧理論の解説は事実上サーバーにしかありません。だから、無料で解説を残せる動画にしようと考えました。

しかし、実際やってみると相手の居ないマイクに向かって喋るのは、凄い違和感のある行為だとわかりました。人前で話すのは何も問題はありませんけれど、一人で喋るのは、はっきり言って苦手です。これからシリーズ化して、動画にて解説するかどうか戸惑っています。おまけに、動画を観てる人に飽きさせずにアピールする内容に仕上げるセンスはゼロです。絶望的にだめです。なぜ、テレビやラジオで対談形式にするのかわかりました。録音や編集に慣れるまで続けるかどうかです。

 

世界には、大変な量の情報があふれています。YouTubeには毎分400時間以上の動画がアップされているそうです。情報は拡散するとともに陳腐化し風化します。お金と株や為替の仕組みを調べてた時にわかったことです。流行のビッグデータなど忽ち価値がなくなります。

岡潔の「情の発見」は、ヲシテ文献のミヤビ(ナサケヱダ・アワレヱダ)のナサケヱダに相当します。つまり、2000年とか4000年前に岡潔と同じ事を考えていた人たちがいたのです。逆に言えば、次のことが言えます。

仮に岡潔の言葉を出発点にして考察した内容が正しいならば、ここから発信した情報は、陳腐化・風化しません。どれだけ拡散しても永遠に変わらないし、風化しません

この情報の質の違いはどこから来るのかが最大の疑問です。

  1. 物質と時間を含んだエネルギーは、一つの実体の異なる側面に過ぎない。
  2. 物質と運動Pは、一つの実体の異なる側面に過ぎない。
  3. 運動Pには、時間を含んだ速度、加速度がある。
  4. 運動Pには、熱、圧力がある。
  5. 運動Pには、波がある。(時間を含んだ波動)
  6. 運動Pには、ソリトン(孤立波、素粒子)がある。

以上をまとめると「は一つの実体の異なる側面」に過ぎません。とは情報に等しいです。だから、時間を含んだエネルギーと情報の間には密接な関係があります。

この情報に質の違いがあるのです。これは実に不思議です。恐らく、この疑問とフリーエネルギーとの間には密接な関係があるはずです。

この考えに至る発端は、「the-manuscript-of-survival-part68日本語」にあります。一部引用します。

 ちょっと待って、我々は、その反対側を目指している、一握りの発明家を話題にしていたのではなかったですか? ええ、そうでした。希望を持って下さい。あなた方の中に混じった光の者たちが、これまで隠されてきた多くの知識を、これらの男女の頭に植えつけることに成功しています。それらの知識は埋もれないように、”理性”の声として、彼らの頭の中で存在を主張し始めています。知っていますか、知識には活力があり、生命力もあることを。

情報=知識です。情報には活力があり、生命力があるとのことです。これが上記のお話しにつながります。永遠に変わらぬ情報とほかの情報と何が違うというのでしょうか。疑問です。情報エントロピーと熱力学的エトロピーについては、EMANの「二種のエントロピー」を参照ください。

 

もう一つ追記 極小の世界では、運動Pは離散的に現れます。何故なら別の次元軸からの投影だからです。投影の回数は整数です。1.34回の投影などあり得ません。ですから、事は離散的に現れます。これがすべての物性に表れます。ということは、物と事には、整数の関係があるはずです。で、この物性を人の五感でわかる、かつ、意識を通して言葉で表すならば、離散的な物と事を整理して言葉を構築すればよいはずです。

これがヨソヤコヱ(48音韻)、アワウタです。

出展:日本ヲシテ研究所

を横軸に5つの”態”として、を縦軸に10の”相”としています。5×10から2を差し引いて48音韻としてます。だから、英語などのほかの言語と違い日本語は、無駄(余計な概念)が入りにくいし、生じないのです。そもそも素粒子など不要です。必要なのは、基本粒子(陽子・中性子・電子)だけです。恐らく、素粒子群は”抽象”に近いはずです。なぜなら、量ではない時間を用いて記述しているからです。

考えれば考えるほどヨソヤコヱ(48音韻)、アワウタ、つまり日本語は素晴らしい。恐ろしくシステマチックであり、むしろ人工的ですらあります。だから、いかなる言語が入ってきても飲み込めるし自身は変化しないのです。具体から離れすぎてはいけません。自然科学者の自信満々は疑わしいです。

はっきり言って、投影による映像は投影の角度によるのですから、ヨソヤコヱは12の倍数なのです。ものすごく大事なことです。

 

※ 興味深いので追記

動画1

非宗教家という宗教が教科書を席巻している。

 

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重力と電磁力 との類似点について

2017年9月9日の記事で、「電磁誘導と ローレンツ力 はなぜ同じ起電力を与えるか~ とね日記よりメモ」を書きました。電磁誘導と単極誘導は、誘導起電力に差がなく、まったく区別が付きません。ですから、数式では、2種類の起電力の和になっています。

式1 右辺は、電磁誘導と単極誘導の和になっている。

上記「とね日記」を読んでも意味がわかりませんでした。2種類のものを量子論的に言い換えただけに見えました。----古典電磁気学で見られた2つの本質的に異なる方法での奇妙な一致は、電子の量子状態を表す波動関数の位相因子の2重性により繋がっていた結果----  これでは本質的な解決とは言えないと思います。何か直感的に”わかった感”がないのです。

 

2013年から2015年にかけてファラデーが発見した単極誘導のうち、主に単極誘導モーターにかかる作用・反作用の実験を30回あまり行いました。そのうちの幾つかを動画サイトに掲載しています。よろしかったらご覧ください。 一連の実験を通して感じたことは、以下でした。

図1

化学は、19世紀中頃に周期律表が完成して以後、20世紀初頭、原子核が発見されるとともに、修正を受けました。(◎印で示される部分。) ところが、電磁気学はマクスウエルが出した方程式群をヘヴィサイドやギブスらによってベクトル表記されて以後、原子核発見の際に修正を受けていません。(実際は、それ以後にローレンツLorentzによって、さらに改変されているようです。図2参照)

図2 改変されてできた電磁気学から相対論へつながった

電磁気学は、ローレンツによって改変されたけれど、修正は受けていないということです。 で、力の統一は困難を極めて現在に至るわけです。

 

ここで、単極誘導モーターにかかる作用・反作用の実験を通じて、考えたのは、「単極誘導は、磁石を構成する原子核と周囲を運動する電子との相互作用ではないだろうか?」ということです。 考察の結果、加速度には2種類あるのではないかと考えるようになりました。

ベタな表現ですけれど、同じ加速度でも2種類あって「回す」と「回る」では異なるのではないかということです。「回す」とは、回転運動させる為の機構が必要な運動と云うことです。例えば、内燃機関は、「吸気、圧縮、爆発、膨張、排気」という往復運動を回転に変換します。

図3

これが電磁誘導に当たります。直流のブラシモーターもブラシレスモーターも交流誘導モーターも磁石の吸引・反発を回転運動に変換する機構を持っています。

対して、単極誘導によるモーターは、ブラシ(接点)は存在しますが回転させる機構を持ちません。直接に回転運動を起こします。(空間が持つ本質的な回転運動と云っても過言ではないという気がします。何故なら、電磁気現象が別の次元軸からの回転投影だと考えているからです。)

homopolar motor

写真1 水銀を用いた単極誘導モーター

この実験と考察を通じて、 2018年6月29日に「楕円磁場による 重力理論」を書きました。これでは、なかなかわかり辛いので、2018年9月10日に「重力の 加速度 は遠心力と区別できない。重力は回転運動と深い関係にあるはず。相対性理論では納得できない。
を書きました。 これをまとめたのが下図です。

図4  重力と電磁力 の類似点

当たり前のことのようですが、重力と遠心力による加速度には差がありません。これは何故か? 誰も疑問に思わないほど当たり前です。しかし、よく考えると理由がわからないのです。 重力と遠心力が釣り合うのは何故だろうか?

同じく、電磁誘導と単極誘導に関して生じる加速度に違いがあるのでは?との疑問に至ります。その結果が前出の仮説です。ですから、重力は空間が持つ本質的な回転運動に起因する現象なのではないかと考えました。

 

で、思い当たるのが以下です。

ベクトル表記では、「加速度がある」としか表示されないということです。この表記の起源は電磁気学の成立過程で編み出されたものです。管理人は、ルードウィッヒ・ローレンツLorentzが原因ではないかと疑うようになりました。

”ベクトル”の歴史を少し調べてみました。(ベクトル小史) するとギブスの名前があがってきました。トム・ベアデンの手紙の内容と少しずれるのかどうか、よくわかりません。もしかしたら、ヘヴィサイド・ギブスらの表記は非対称であったが、後にローレンツLorentzが対称に改変したのかも知れません。どなたかご存じであればご教示ください。

 

いずれにしても、重力遠心力による加速度電磁誘導単極誘導による加速度における類似性を強く感じます。管理人の中では、重力は単極誘導に近い現象ではないかとの思いがあります。(もっと云えば、研究開始当初からスカウトシップは単極誘導の応用だと感じています。本当にそっくりです。)

 

改めて、図1を掲載します。

電磁気学において、磁気の起源は、原子を構成する周囲にある軌道電子にあります。管理人の実験での感じるところによれば、単極誘導は、原子核を構成する原子核との相互作用ではないかと感じます。すると20世紀初頭に原子核が発見された当時に、電磁気学が修正されるべきは、単極誘導による部分であったかもと思います。そうすれば、冒頭に記した「とね日記」の記事に抱く「わかった感のなさ」は解消します。

因みに、電磁気学の教科書には、単極誘導に関する記述は申し訳程度しか記載されていません。ファインマン物理学〈3〉電磁気学 (日本語)において、単極誘導は、約300ページの内、1ページほどです。扱いが不当に小さいです。

 

余談です。過去、外村彰氏による実験「電子波で見る電磁界分布 【 ベクトルポテンシャルを感じる電子波 】」を何度か取り上げています。外村氏の実験は、電子線(波)が磁石近傍を通過するときベクトルポテンシャルが電子波を曲げる現象をとらえたということです。 電磁気現象はもっと基礎的な何かが元で起きているらしいことはわかっています。それがベクトルポテンシャルそのものか、スカラーポテンシャルかもとかなり考えたのですが、わかりませんでした。何も出て来ませんでした。

現在の”力”を統合できない状態の原因が相対論であり、遡って電磁気学にあるというのは、ほぼ確定です。研究開始当時から単極誘導は不当に小さく扱われている。無いものとして扱われていると主張してきました。もっと真剣に検討すべきです。教科書を勉強してわかったつもりではいけないです。電磁気現象に何かあるというのは確かです。単極誘導に関する一連の実験から何年も経ちました。けれども、あれ以来誰も実行した人はいないと思います。ニコラ・テスラも何度か記事に書きましたけれど、失意の元亡くなった後に遺された資料の中には、単極誘導にかかる研究資料が必ずあったはずです。現象が微弱だから意味が無いということはありません。

何故かフリーエネルギーに関する考察は進みません。本記事のように重力に関することが先に出てきます。何故なんだろう。重力に関して考察すると別の次元軸を考えるしかありません。

写真2 空間(風船の表面)に対して伸縮しない光速度を物差しとするのが相対論

量ではない時間を光速度に置き換える相対論はそもそも間違いですから、相対論は論外です。するとどうしても別の次元軸からの投影という仕組みの内に重力を考えるしかないのです。(重力をうまく説明するには、上に示した金属の物差しを風船の表面に直交に配置するしかない。=別の次元軸)

自然が別の次元軸からの投影だとするとフリーエネルギーの基本原理はわかるのに具体的な仕組みに落とせません。”運動Pの相対性に帰結する簡単なこと”であるはずなのにわからないというもどかしさがあります。

動画1

 

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動画 「 時間は物理量ではない 。」を掲載しました。

漸く、解説の動画「 時間は物理量ではない 。」をYouYubeにアップしました。

研究は11年目を迎え、2017年頃より弧理論の全体像がつかめてきました。それ以降、幾つかについて、まとまってきたものの文字では伝わりにくいと感じてきました。

最近の動画サイトは、高画質化しており、2015年頃まで単極誘導モーターにかかる作用・反作用の実験の動画を掲載した頃と、環境がかわってきました。パソコンと録画、録音の環境を整えるのに時間がかかりました。

慣れない編集作業に手こずるとともに、よく見せるセンスがないと痛感します。今回の動画の自己評価は60点くらいです。コンテンツはいくらでもあるけれど、表現するのは難しいです。

 

2012年頃、The manuscript of survival日本語版を読んで、「(地球の科学者は)エネルギーの量を正しく求める方法を知らない」らしいことが気になっていました。岡潔の言葉から時間とは何かを考え続け、「量ではない角度から作る時間は物理量ではない」ことがわかりました。

けれども、なぜ素粒子加速器での実験が「非常に多くの賢い頭脳を間違った方向に向けさせている、上手に組み立てた誤魔化しのプロェクト」なのか釈然としませんでした。 今回の動画編集で次のことがわかりました。

ある科学者は、相対論の帰結であるE=mcについて、次のように述べています。

君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり、物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる側面に過ぎない。

事の発端は上記なのですが、これを図示します。

図1 別の次元軸を時間を含まない真のエメルギー値を持つ実体のある軸としてエネルギー軸(面)と呼ぶ。

当サイトでは時間を含まない運動をPに”_”アンダーバーをつけて運動Pと呼んでいます。ある科学者の言葉を言い換えると「物質の質量mと運動Pは、異なる次元軸上にある実体の異なる面に過ぎない」となります。物質と時間を含むエネルギーは、互いに転換するのではなくて、異なる側面が見えているということです。

運動Pにはつぎのようなものが含まれます。

  1. 物体の速度、加速度、躍度(jerk)・・・いずれも時間を含む表記
  2. 熱、圧力
  3. エネルギー・・・次元は[ML2T-2]であり、時間を含む。真のエネルギーとは別。
  4. 波・・・電磁波、電子波(を量子化すると光子)、ソリトン(各種素粒子

素粒子は波の一種であり、その中でもソリトン(孤立波)です。つまり、素粒子は運動Pの一種です。かたや時間は運動Pから作る、量ではない「数」に過ぎません。

次の数式を見ます。

m=E/c

エネルギーEは、運動Pの一種です。光速度cも運動Pの一種です。

上の式は、運動Pと運動Pの比を質量mとしているのです。これは間違いです。こんな簡単なことがわからなかったのです。

これだけ、「時間は観念に過ぎない。運動から作る」とわかりながら、頭の中に時間という観念が固定されていたのです。

 

ついでに云えば、電気と磁気は一つの実体の異なる面に過ぎないようです。M軸上で位相が進行方向に直交して現れるだけです。だから、電磁波は横波です。相対論は歴史上どのような意味があったのでしょうか。

図2

化学は、原子核の構造がわかるとともに修正を受けたのに、電磁気学は修正されませんでした。

図3 ◎化学は修正を受けたのに、※電磁気学は修正を受けなかった。

電磁気学の成立過程に問題があることは明白です。同じ起電力が2つのまったく異なる方法(電磁誘導、単極誘導)で生じるのはどう説明するのでしょうか。誰も答えてくれません。

 

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量子場 と岡潔の云った空間

前回の記事で電磁気現象と岡潔による「2つの心」との関係を示しました。今回の記事では、 量子場 の模型と岡潔が「空間」について述べたこととの関連について記します。

 

2020年1月21日の記事「自然 >( 時間・空間 )」において、(自然科学者が)研究の対象としている(と思っている)自然は、自然科学の模型である(時間・空間)より大きいことを示しました。

なぜなら、自然科学は循環であり、ネットワークであり、孤立系だからです。 それ以前に、そもそも言葉は閉じている(”言語規範”でサイト内を検索ください。)のですから、意識を通し言葉で言える第1の心 自体が孤立系です。ですから、数学を含む言葉で言える(記述できる)自然科学が孤立系であることは自明のことなのです。だから、自然をあらかじめ定義することは不可能です。

因みに孤立系とは、外のない内のことです。

図1 については、”山崎弁栄”でサイト内を検索ください。

 

以下、復習です。2019年12月2日の記事に「 量子場 を説明する簡単な模型」を記しました。

図2 出典:A Children’s Picture-book Introduction to Quantum Field Theory

この記事では、量子場を説明するに、図2の模型で説明される 量子場 より管理人が考案した二層型の渦模型(スターラー)の方がより量子場を理解しやすいという内容でした。

写真1 自作のスターラー

自作スターラーに石油ストーブに使う灯油(比重0.61)と着色した水を入れて二層型のスターラーを作りました。写真1を逆さにしてできたのが下図です。

gif 1 逆さの渦

gif 2 渦によりできる粒

ここで、比重の小さい灯油を(A)とします。比重の大きい青い水を(B)とします。gif2をよく見ると、上の層であるAの領域にできるのは(B)の粒であり、下の層である(B)の領域にできるのは(A)の粒です。これが量子場にできる正と負の素粒子に例えられます。

図3 量子場 は互いに規定し合うことにより成り立つ言語規範と同じ。だから孤立系。

ところで、二層型のスターラーにおいて渦がない場合を考えますと、 量子場 は何も存在しない境界面であると言えます。

 

さて、本題です。

自然科学の模型である(時間・空間)の空間について、数学者岡潔は、講演録「情の発見」、「【5】情の特色」において次のように述べています。

情は分かつべからざる全体である。やはり部分として分かつべからざる全体である。無量のそういう部分がある。情の中には時間も空間もありません。時はありますが時間という計量的なものは無い。また、空間は量的に質的にありませんが、時については2種類、2つですね。過去と現在、それだけですが、新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される。そういう意味で未来は無い。

後半のの現在、過去、未来については、これまで相当考えてきました。ここでは、空間について、特筆すべきことが述べられています。 岡潔は”空間は量的に質的にありません”と述べています。これは、図2の”A Children’s Picture-book Introduction to Quantum Field Theory”では到底説明できません。

ただし、管理人は、自然科学者が「わけることによりわかる(はず)」として追い求めてきた結果が 量子場 であり、素なる領域だと理解しています。これは岡潔が述べている空間と同じだと考えています。「空間をわけることにより求めた素なる領域=量子場」です。そうならば、岡潔の言葉である「空間」を量子場に置き換えます。

「量子場は量的に質的にありません。」

これは写真1とgifに示した境界面と同じです。境界面には何もありません。管理人が考案した二層型のスターラーは、”空間=素なる領域= 量子場 ”をうまく説明できます。

 

では、(A)と(B)の境界あるいは、 量子場 とは何でしょうか。弧理論の観点から説明します。

下は弧理論の全体を示す図です。

図4 E軸(別の次元軸)上にあるアとワが大宇宙の中心

弧理論では、図4を「カミ」と呼びます。「カミ」の仕組みと働きを書き下します。

(ア)と(ワ)はつながり、(ウ)をもたらし、(ウ)よりヒトを生じさせる。ヒトは(ア)のもの。

別の次元軸にある2つの大宇宙の中心である(ア)と(ワ)はつながることによって、(ウ)をもたらします。弧理論で云うところの「別の次元軸からの投影による」のです。これにより(ウ)がもたらされます。これが前述の境界面です。(空間は量的に質的にないと説明される。)境界面にもたらされるのが「ウ」です。「ウ」とは渦のです。粒子は渦によってもたらされます。投影元がアとワの2つあるから空間として認識されます。(ただし、その前に、ウズによる物質がなければなりませんが。) そして、(ウ)よりヒトを生じさせます。だから、ヒトは投影元である大宇宙の中心(ア)のものなのです。

 

これは、人間の心の本体である”タマ:第2の心”が大宇宙の中心(ア)から来たりて、生命維持の欲求である”シヰ”とつながり、タマ+シヰとなり、これに地上の物質が結びついて人間になるという説明と合致します。

 

で、大宇宙の中心である(ア)と(ワ)は、M軸(岡潔の云う物質的自然、物質空間、物質軸)にも投影されて、(アワ)つまり、宇宙の大規模構造(泡構造)になると思われます。アとワは、大規模構造を構成していると考えられている暗黒物質と暗黒エネルギーに対応すると考えています。今のところ、どちらがアであるか、ワであるかわかっていません。ともかく、すべては別の次元軸からの投影による映像です。

写真2 出展:大きなスケールが、極小の世界に影響する!銀河中心巨大ブラックホールと大規模構造の奇妙なユニゾン

これで素なる領域である 量子場 と宇宙の大規模構造との関係が「カミの仕組み」を通して無理なくつながります。

 

ところで、2013年から2015年にかけて行った幾つかの単極誘導モーターの実験により感じた「接すると何か?」という疑問がここでも出てきます。境界とは一体何を意味するのでしょうか?わかりません。「接する」でサイト内を検索すると45個の過去記事が出てきます。疑問は、素なる領域・境界面・空間というところへ関心が移ってきます。右リンク先「実験の動画一覧」をご覧ください。実験のまとまりはないですけど、「接する」ということへの疑問を持っているという感触はおわかりいただけるかと思います。現時点で言えることは、「ウズ(渦)は、アとワが接する(つながる)ことによっている」のであって、これが物質の接するあらゆる場面で観られるのであって、それは本質的な回転運動である「回る」に現れているということです。決して「回す」ではありません。そして、重力は「回る」に関係しています。

 

余談です。

写真3 左「時間は存在しない」

昨年11月頃よりたびたび引用する、カルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」には、「(何故か)生じる」ことの疑問を書いています。p130あたりです。 第九章「時とは無知なり」より引用します。

かりにこの世界の基本的な力学において、すべての変数が同等だとすると、わたしたち人間が「時間」と呼んでいるものの正体は何なのか。腕時計はいったい何を計っているのか。絶えず前に進んで、決して後ろ向きにならないのは何なのか、なぜ後ろ向きにならないのか。この世界の基本原理に含まれず、何らかの形でただ「生じる」に過ぎないものはたくさんある。

  • 猫は宇宙の基本的な素材に含まれていない。この惑星のさまざまな場所で「生じ」繰り返し現れる複雑なものなのだ。

著者は、「時間変数を含まない数式」を作ったようです。しかし、実際は時間を光速度cに置き換えただけです。で、上の引用で著者は2つのことを誤解しています。

  1. 時間は物理量ではない。自然科学、否、第1の心自体が循環であり、何ものも説明し得ない。
  2. 人が猫が猫とわかるのは第1の心(還元主義)によるものではない。第2の心によることを知らない。

その上で、著者はこの惑星には猫が何故か「生じる」と疑問を呈しています。著者の「時間」に問題の本質があるという認識は誤りです。著者は1.を理解してなお、2.を知りません。万物は「生じる」ではなくて、カミの仕組みと働きにより「生じさせる」のです。※↓

著者は、猫が「宇宙の基本的な素材に含まれない」から、あるいは「複雑だから」何故か「生じる」と考えているのも誤解です。例えば、猫が簡単なプラスチック製のブロックでできていればよいのでしょうか。

写真4

その昔、IBMが原子レベルでの加工技術で文字を描いたというニュースを見た記憶があります。件の猫がプラスチック製のブロックではなくて、さらに簡単な原子を配列してできているものであればよいというのでしょうか。

違います。すべては映像だからです。素なる領域に宇宙のすべての情報が詰まっているというのは間違いです。だって、著者も 量子場 に猫は居ないことを認めています。 著者は岡潔の言葉を知るべきです。

 

※:その仕組みの主な現れが弧理論の核となるArkであり、別の次元軸(E軸)上にあるArkのM軸上での形状が発散トーラスです。その仕組みの本質は、(回転)運動せざるを得ないところにあります。E軸上の実体がM軸に直交の状態に戻ろうとするが故に、M軸上の映像である物質は運動せざるを得ないのです。とても難しい話です。早い話、宇宙において、”静止”は例外中の例外です。

 

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電磁気現象と 岡潔 による「2つの心」

以下はいつも引用するある科学者の言葉です。

地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる

電子の粒子であることと波動性を持つことは、量子力学の基礎です。このことを実験事実として否定する訳ではありません。 研究を始めてから最近まで、下線部分の2点について、こだわりを持って考察してきました。

数学者 岡潔 は、彼の講演録で「2つの心」について述べています。第1の心と第2の心です。その特徴を箇条書きにします。注:管理人による考察を加えています。

  1. 第1の心。ヲシテ文献で言うところの”シヰ”。生命維持の欲求。そのわかり方は、”意識を通し、言葉で言える。”ものであって、「わけることによりわかる(はず)」という還元主義による。過ぎゆく運動の記憶に基づきわかるということ。いわゆる”動画がわかる”ということ。時の過去である。
  2. 第2の心。ヲシテ文献で言うところの”タマ”。人が持つ心の本体。そのわかり方は、”意識を通さず、言葉で言えないが、しかし、何となくその趣おもむきわかる”というもの。いわゆる”静止画がわかる”ということ。時の現在である。

時の現在、即ち”静止画がわかる”からこそ、運動Pの連なりを記憶(=情報)をもとに動画がわかるのです。情報とは、”意識を通し、言葉で言える。”ものですから、過去です。 余談ながら、情報と運動Pの間には深い関係があります。

図1 第1の心は過去かつ孤立系(循環)である

また、”意識を通し、言葉で言うことができる”時間”は、時の過去で現在を含みません。第1の心によります。

この 岡潔 の述べた2つの心の内、第2の心が無ければ第1の心は存在し得ないことがわかります。静止画がわからねば動画などわかるはずはありません。冒頭のある科学者の言葉において、管理人がこだわったのは、「量子力学の基礎は、第2の心で描けない状態」だということです。これについて説明します。

図2 出展:スピントロニクス材料研究でブレイクスルー

図2は誰の目にも(映像として)明らかです。ところが、物理学では、このような図で説明しません。電子は質点として扱われます。位置と質量を持つが大きさがありません。実験により測定した磁気モーメントを理論的に説明するに導入されたのがスピンです。電子が持つ磁気モーメントを説明するに「スピン」と呼ぶ量で理論化しています。しかし、スピンは何かがクルクル回っている訳ではないと説明されます。角運動量を表す演算子に過ぎないのです。(スピンとは何か

問題は、大きさの無い質点がスピンしているという描像です。既に述べたように心の本体は第2の心にあります。唯一、時の現在として映像がわからねば、「意識を通し、言葉で言える。動画が」わかりようありません。

突き詰めると、第1の心(シヰ)が第2の心(タマ)を押さえつけられる人のみ物理学者になるのです。

 

ある科学者は、地球の科学の持つ問題点を次のように指摘しています。

君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり、物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる側面に過ぎない

”物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式”とはE=mc2のことです。誤った解釈の元、物理学は100年以上進んでしまったということです。本当は一つの実体の異なる面に過ぎません。時間は物理量ではありませんので、エネルギーという言葉は使えません。当サイトでは時間を含んだエネルギーという用語は時間を含まない運動Pと呼んでいます。下線を運動Pに置き換えるのが正しいのです。正しくは以下です。

位置と質量を持つ物質も運動Pも一つの実体の異なる側面に過ぎない。

図3 別の次元軸を時間を含まない真のエネルギー(エネルギー面)と呼ぶ。

たとえば、電子の運動Pには、以下があります。

  • 速度(直流)、加速度(交流)、躍度(パルス)
  • 波(電磁波)、光子(ソリトン)
  • 電場、磁場
  • 確率的に現れる
  • 離散的に現れる ←4月20日追記:書き漏らし。

ある科学者の云った上の言葉を置き換えます。

電場も磁場も一つの実体の異なる面に過ぎない。

別のところで、ある科学者は、「運動する電子は周囲に磁場を持つ」と述べています。この説明は相対性理論と同じです。(特殊相対性理論:運度物体の電気力学について) しかし、ある科学者の述べていることは、相対論の結論と全く異なります。

詰まるところ、電子が粒子で波動性の二重性を持つのは、別の次元軸上にある一つの実体がM軸上に2つあるいはそれ以上の側面を持って(映像)として現れているということです。実験事実は認めるが、その仕組みは異なるということです。これがある科学者が述べた「心で描けない状態」の意味です。参考(10年以上におよぶ研究の末、電子の正確な形が明らかに)電子が真球に限りなく近いという結果は、単純に考えて物理学の前提が崩れていると思えるのです。

 

ところで、110年ほども前に何故このような行き違いが起きたのでしょうか。どうもその遠因は電磁気学の成立過程にあると思われます。何度も取り上げてきたように「回る」と「回す」は異なるのです。加速度には2種類あると考えます。ところが、数学上は「加速度がある」とのみ定義されます。これでは科学者たちは、その違いを理解できません。

電磁気現象において、同じ起電力を説明するに2つの異なる方法によって説明されるというのは実に不思議です。(電磁誘導と単極誘導) この疑問について、量子力学的にどのような理論を附しても無理があります。これまでの考察によれば、加速度には2種類あるから、起電力も2種に分かれているのです。それは「回す」と「回る」の違いです。空間に2種の(回転)運動があるからです。

図4

J・C・マクスウェルによる20の変数を持つ20の原方程式をベクトル表記に改める過程において、非対称性を削除したようです。関連する過去記事は「トム・ベアデン」でサイト内を検索ください。 また、「Tom Bearden’s Response to ARPA-E
ビールデン博士のエネルギー先端研究局への返答」が参考になります。

ここで述べたいのは、物理現象は「人の肉体に備わった五感でわかるものであって、第2の心でわかるものでなければならない」いうことです。(単純に、心の仕組みとして映像がわかるものでなければならないのです。)

ついでに云えば、 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎません。

運動Pの一種である時間を含むエネルギー情報の間には密接な関係があります。情報を蓄えるにわずかばかりのエネルギーが必要です。どうも運動Pの一形態が情報に関係するらしいです。図3は実に興味深いです。参考:二種のエントロピー

第2の心でわかるのは、どちらかというと”物”です。これが具体です。”事”はいくらでも複雑化し得ます。複雑化の行き着く先は抽象であって、あまりにも複雑化すると究極、第1の心もついて行けなくなります。そして、文明は崩壊へ向かいます。 科学は、心の仕組みと働きに関係します。これを無視した科学などあり得ません。【3】 西洋の唯物主義 どう考えても「わけることによりわかる」より前に、(何となくその趣がわかる)が来なければいけません。第1の心には、数学も含まれることは当然です。数学を使ういかなる理論も同じです。 第1の心は循環だからです。 ”循環”でサイト内を検索ください。

 

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3つのことが同時期に起きる

当ブログにおいて、これまでに書いてきたことは概ね3つあります。

  1. 自然科学の問題点。
  2. 次なる文明へのヒント→希望(自然は映像である。タマ:精神科学、カガミ:社会科学、ツルギ:物質科学で示される3つの科学を別の次元軸からの投影の仕組みに求める。)
  3. 現文明の退化プログラム(現在の文明はアポトーシスの過程に入った)

1.について、数学者岡潔の考えから考察した結果、問題点の指摘は完了しています。2.について、2つの心の仕組みと働きを別の次元軸からの投影による映像として理解することにより、(タマ:精神科学とカガミ:社会科学)の基本的なことはわかっています。ツルギ:物質科学は、単極誘導にあることまではわかっていますが、次なるヒントがありません。 3.について、”アポトーシス”で検索すると2016年から3件ヒットします。

この3つのことが(たぶん)同時期に起きるだろうと考えます。過去記事において、最初に物理学に求心力がなくなると書きました。最近の新型コロナウイルスによる被害は「中国の某研究所職員の罹患が最初」だとの噂があります。まったく関連のない事柄であるけれど、どちらも人的要因によるものという意味において自然科学の退化であると感じます。

本当は簡単なことです。気(キ)づくのは簡単です。しかし、気づかれると困る人たちがいるのです。”神は細部に宿る”というのは大嘘です。 大量生産、大量消費して人の命より「経済を動かさねば」という脅迫は異常です。まったく異なる文明があり得ることに気づくべきです。

考えてみてください。自然が別の次元軸からの投影だとすると、岡潔が名付けた物質的自然は、いとも簡単に2倍、3倍と広がるのです。第1の心(ヲシテ文献に云うシヰ)が孤立系、循環である以上、還元主義の終端は明らかです。別の次元軸からの投影によるしかありません。物理量ではない時間も光速度も使わずに運動Pを記述する方策を考えるべきです。循環を(当面)回避するにはそうするしかありません。

 

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岡潔 が述べた「2つの心」について まとめ

昨年12月から別のことをやってました。漸く片付きそうです。研究を始めて10年が経過しようとしています。いよいよ11年目です。 ついては、数学者 岡潔 が述べた「2つの心」について、ヲシテ文献などと比較して1枚にまとめました。【1】2つの心を参照ください。

図1

解説はしませんけれど、過去記事に記したことを現時点でまとめました。この図が3つの科学(タマ:精神科学、カガミ:社会科学、ツルギ:物質科学)の内の精神科学の根幹です。この図にカガミ:社会科学のヒントが入っています。

図2

考えれば考えるほどに岡潔が述べた「自然は心を映写するための映像に過ぎない」と感じます。時間は物理量ではありませんので、時間を光速度に置き換えた相対性理論は自然科学の循環の一部に過ぎません。

図3

本当の解決には別の次元軸を考える以外にないと確信します。意識を通し言葉※1で言える循環(外のない内、ネットワーク)から逃れて発達を続けるためには、別の次元軸からの投影による映像による仕組みの解明に挑むしかありません。

※1もちろんのこと数学も含みますので、現在のいかなる理論もこの範囲(循環)を逃れることはできません。

 

管理人は、ループ量子重力理論について、図3のループを最小単位にしたように見えて仕方がありません。最小単位とは、素なる空間と素なる時間(つまり、量子場のこと)をいいます。素なる時空間に全宇宙の情報が詰まっているなどということはありません。自然は映像ですから、映像を構成する画素に全情報が詰まっているわけがありません。

 

追記 「複雑化する現代社会において、云々」と挨拶の冒頭に話されることがあります。多くは産業や経済がどうか、あるいは景気が云々という話につながります。しかし、「複雑化するとどうなるのか?なぜ、複雑化するのか?複雑化によって社会は一体どこへ向かっているのか?」などの本質を話されることはありません。本当は、経済や景気あるいは思想信条・主義主張などどうでもよいのです。

新型コロナウイルスはC国の某研究所職員が最初に発症したとの動画があります。人工ウイルスかどうかはわかりませんけれど、トンデモ論者や陰謀論などどうでもよいです。自然科学という枝葉の先端に居る物理学者たちこそ、人には心が2つある事に気(キ)付くべきです。

 

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還元主義 の終端

ある科学者は現在の科学について次のように例えました。

科学知識を求める人間は木に登るアリのようなものだ。自分では上方へ動いていることがわかっていても、その視野は狭すぎて幹全体を見通せない。そのために幹を離れていることに気づかないで下方の枝の方へ移動するかもしれない。いっときは万事がうまゆく。自分ではまだ上方へ登れるし、進歩という果実を少し摘み取ることもできる。だがその枝が急に無数の小枝に分かれていろいろな方向に葉が散らばっているために本人はまごつき始める

そして基本的法則は今や分かれ始めて反対の方向に散らばり始めていることに気づく。すると科学者は心によって受け入れられる 知識の限界 に近づいていることや、あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになるという結論に達する。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

正しく眺めれば、基本的な真理は常に簡単で理解が容易なのだ。

だから幹の上から眺めれば、枝は”枝″として簡単な、理解の容易なものになる。てっとりばやく言うと、君らの科学が進歩し続けるために必要なのは、君たがとまっている枝から枝との分岐点まで降りて、ふたたび登り始めることだ。

科学の進歩について、枝を登るアリに例えました。

図1

発達を続けるためには枝の分岐点まで降りて、再び登り始めるべきと指摘しました。これまでの考察により、自然科学の問題点はわかっています。

  1. 時間・空間という模型は自然そのものではない。
  2. 時間は物理量ではない。
  3. 時間を光速度に置き換えたのが相対論。
  4. すべての基準を光速度に置き換えても自然科学は循環である。図2 運動から時間をつくり、時間を光速度へ。光速度から時空を再定義するという循環。

2.について。量ではない角度から作った時間は物理量ではありません。時間を光速度に置き換えても、その前に時間がわからねばなりません。

ここまで2018年までにわかっていました。その後、2019年に次のことがわかりました。

  1. 言葉は互いに規定し合うことにより成り立つ循環である。
  2. 循環とはネットワークであり、孤立系であり「外のない内」である。
  3. 数学者岡潔の云う第1の心(意識を通し、言葉で言える)は、循環であり孤立系であり外のない内である。
  4. 本当の「わかる」は、岡潔の云う第2の心(意識を通さず、言葉で言えないがしかし、何となくその趣おもむきがわかる)にある。これは開放形である。
  5. 岡潔の云った2つの心は、別の次元軸にその仕組みと働きがあるだろう。

2019年にわかったことは、カルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」から読み取れます。

写真1

著者は「時間とは何か」を考え続けます。第九章「時とは無知なり」より。

かりにこの世界の基本的な力学において、全ての変数が同等だとすると、わたしたち人間が「時間」と呼んでいるものの正体は何なのか。腕時計はいったい何を計っているのか。絶えず前に進んで、決して後ろ向きにならないのは何なのか。なぜ後ろ向きにならないのか。この世界の基本原理に含まれていない、というところまでは良いとして、いったいそれは何なのか?

じつは、この世界の基本原理に含まれず、何らかの形でだた「生じる」にすぎないものはたくさんある。たとえば、

  • 猫は宇宙の基本的な素材に含まれていない。この惑星のさまざまな場所で「生じ」、繰り返し現れる複雑なものなのだ。

つまり、物理学者の「物(物質)とは何か?」を探求した結果、量子場に行き着いたけれども、そこには含まれていないということです。何度も指摘したように猫も人もスプーンもオレンジも映像を構成する画素の内には存在しません

写真2 オレンジ

写真3 上記、オレンジの画像の一部

画素はその状態を変化させるだけです。量子場も同じです。第六章「この世界は、物ではなく出来事でできている」(p99)より引用します。

かりにこの世界が物でできているとしたら、それはどのようなものなのだろうか。しかし、原子がもっと小さな粒子で構成されていることはすでにわかっている。だったら素粒子なのか。だが素粒子は、束の間の場の揺らぎでしかないことがすでにわかっている。それでは量子場なのか。しかし量子場は、相互作用や出来事について語るための言語規範にすぎないことがすでに明らかになっている。物理世界が物、つまり実体で構成されているとは思えない。それではうまくいかないのだ。

著者は、”言語規範”と量子場を比較して、「同じだとわかっている」と述べています。”物”とは何かを探求した結果、互いに規定し合うことにより成り立っている言葉と同じということであって、そこには猫も人も存在しないのです。

冒頭、ある科学者が云ったことの内、分岐点がどこにあるのかはおおよそわかっています。しかし、(引き返すべき)枝の先がどこにあるのかが長らくの疑問でした。これで漸くわかりました。

第1の心、即ち「わけることによりわかる(意識を通し言葉で言えるはず)」という 還元主義 では何もわからないのですから、枝の先端が著者の到達点に等しいということです。理論物理学者たちに、これより先はありません。何もありません。 還元主義 の終端だからです。

参考まで。2018年頃からの記事をお読みいただくことを推奨します。「降りるべき分岐点」については、2017年頃からの記事が参考になります。

 

近頃、別の次元軸と基本粒子(陽子・中性子・電子)との関係を正と負の発散トーラスを組み合わせた楕円磁場から考え続けています。どう考えても単極誘導がカギであるとしか思えません。 因みに宇宙の中では、日常ありふれた”静止”という状態は例外中の例外です。楕円磁場により基本粒子は互いに回らざるを得ません。量子力学の”確率”というのは「別の次元軸にある実体の投影による結果」に過ぎないようです。(質量と運動Pは一つの実体の異なる面に過ぎない。運動Pの一形態が”波”である。位置を持つ質量と位置を持たない波の関係を取り持つのが確率である。量子の考え方は結果である。)

 

3月5日追記 いろいろ調べると、岡潔が山崎弁栄上人の言葉をひいて、「本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない。」と述べました。(【3】 西洋の唯物主義) 物や事と言葉が持つ本質的な循環を(当面)回避するにはこれしかありそうにないです。 で、人の心の仕組みと働きを含む自然が別の次元軸からの投影による映像だと考えるのが弧理論(Ark Theory)です。

ところで、これまで述べてきた「自然科学は孤立系、循環、外のない内である」は、著者の進める理論にある「ネットワーク」とたぶん同じではないかと思います。管理人には、スピンネットワーク重力理論(ループ量子重力理論)というのはわかりませんけれども、心が2つあることを知らねば、似たものであってもまったく異なる結論に至ることが不思議です。

言語規範と量子場が同じであるというなら、量子場は境界であって、映像だとしか考えられません。境界には何もありません。物は必ず「対」に生じます。過去記事「量子場を説明する簡単な模型」を参照ください。「接する」とは何なのでしょう?? たぶん物を物とのみ観ている限り解けません。映像だとすると、第2の心の仕組みと働きにかかってくるだろうと感じます。長らくある科学者の次の言葉に拘りをもってきました。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

「心で描くことのできない状態」というのは致命的です。恐らく岡潔の第2の心に関係するはずです。それは映像だからです。波も確率も原理・原則・原因・法則の類ではありません。映像と考えるならば波も確率も結果であるはずです。

 

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自然 >( 時間・空間 )

ある人から云われました。「岡潔って、何か宗教っぽい。」 それには理由があります。

数学者岡潔は、次のように述べています。【2】自然科学者の時間空間より。

自然科学者は自然というものをどういうものだと考えているかということを代りに言ってやって、そして、それを検討するより仕方がない。

自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。

続いて、【4】自然科学と生命現象より。

ところで、自然のできるだけ簡単な模型を考えて、その中を科学するということは、知ってやってるのだとすれば確かに一つの研究方法に違いない。知らずにやってるんですけど、それでもある結果は出るだろう。そうは思います。しかし、こういう簡単な模型の中だけを調べたのでは、わかるものは物質現象だけで、生命現象はとてもわからないのではあるまいかと、こういう疑いが起こります。

自然科学者は、自然について考える際にそれを「 時間・空間 」としました。簡単な模型であって、自然そのものではありません。

自然科学者は、「自然>( 時間・空間 )」であることに気付いていません。だから、理由が付かない、わからないことは全部どこかへ押しやって「非科学的」として済ましています。詳しくすれば次になります。 「わけることによりわかる:還元主義」に当てはまらないもののすべては「彼らの考える科学の外」として思考停止するのです。

岡潔が拘った”情”というものを考察する立場について、自然科学から見れば非科学でしかないのです。次図は2016年11月ころに出しました。

図1

右上の欄がほぼ空白です。この空白部分に自然科学で扱えない非科学のすべてを押しやっています。この部分にはいわゆるオカルトや宗教あるいはスピリチュアル系などのトンデモやUFOやフリーエネルギーなども含まれています。ほとんどの人は、岡潔が何を伝えたかったのかがわからないのです。自然=自然科学の模型( 時間・空間 )だと認識している限りは、問題の存在すら気づけません。岡潔の指摘したとおり、「人は故障がなかったらなぜ見えるのか?」といった質問に自然科学は何も答えられません。

 

管理人も「自然とは何か」という疑問を持っています。岡潔も読むほどに「自然とは何か」と云わずに話しを進めていることに気付きます。「わからないこと」のすべてを自然に含めるならば、自然とは何かを定義することは不可能に思えます。 10件ほど前の記事から読んでいただければわかるとおり、「言語規範と量子場は同じ」であるならば、自然科学は「循環(ネットワーク)であり、孤立系(外のない内)」であるというのは自明のことです。ならば、自然をネットワークとしか感じられないのならば、岡潔の伝えたかった事などわかりようがありません。心は2つあるのです。

 

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