無限と 外のない内 の違い 孤立系と開放系の違い

2010年から宇宙の外とは何かを考え続けて、2017年頃にやっと「 外のない内 」という表現に辿り着きました。2017年11月24日『自然科学のいう「非科学的」とはどういうことか?』を参照ください。

発端は、G・アダムスキーの足跡でした。

図1

宇宙の中に居る我々の存在は、図に示される幾つかの紡錘図形で表されていることはわかっていました。問題は足跡の輪郭です。我々は2種類の何かに包まれていて、輪郭は「宇宙の外について、一切言及していない」と考えていました。当時はそう表現したものの、何かすっきりした言い方は無いかと探し続けてきました。それが2017年に山崎弁栄上人記念館の資料の中にぴったりの表現を見つけました。それが「 外のない内 」でした。

ぴったりの言葉がみつかるまで、孫悟空とお釈迦様の掌を例え話に幾つか記事を書きました。サイト内を「孫悟空」で検索すると5件見つかります。説明するに結構苦労して記事を書いています。

一般的に自然科学は孤立系の学問です。(たぶん)一定区間の量を計測し、平均を求めます。後は、数学的にマイナスの無限遠からプラスの無限遠までの積分をとれば全量を求められると考えられていると思います。で、孤立系を無限大まで拡張すれば開放系に等しく扱えると考えているように思います。この考えは管理人の考える自然科学に過ぎないかも知れませんが、自然科学をそのように捉えている方も多いと思います。

一方で、数学を含む言葉(言語)は互いに規定し合うことにより成り立つ循環であることがわかっています。例えば2進数で云えば、”1”とはゼロでない数ですし、ゼロとは”1”でない数としか云えません。

同様に無限大(∞)とは、有限でない数ですし、有限とは無限大(∞)ではない数としか云えません。つまり、循環の内に開放系を定義することは不可能だと考えます。孤立系をどれだけ拡張しても開放系にならないというのが管理人の出した結論です。

空間とは何か、あるいは「空間の外」とは何かを定義できていない以上、循環である言語で拡張しても表現しきれないのではないかと思うのです。「空間の外とは何か」という疑問そのものをうっちゃれば問題を避けられるように思います。それが「 外のない内 」ということです。その上で空間に関する疑問を別の次元軸に原因を求めようというのが弧理論の考え方です。ですから、弧理論は図1の輪郭内のことを別の次元軸を元に考えることになります。うまく表現できたか甚だ疑問ですが、おわかりいただけるでしょうか?

 

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自然科学者は 心の仕組み と働きに無知

自然科学者が数学者岡潔の思想( 心の仕組み と働きに関する部分)を読むにつけ、岡潔が考えていたことも、彼が皆に何を望んでいたかということもわかっていないです。誤解を恐れずに書きます。

これまで4年ほども岡潔の思想について考えてきました。特に自然科学のどの部分がどのように間違っているかと、人の 心の仕組み と働きについて、岡潔が何をどう云っているかを重点的に調べて考察してきました。 岡潔が実践するよう促した「わからないものについて、右耳の内耳に関心を集め続ける」ことで、「努力感のない精神統一」へいたり、「情的にわかっているものを知的に言い表そう」とする姿は、先日の記事でもとりあげました。「節操がない  何事もゼロでも100でもない」を参照ください。 それは、「数学する人生 岡潔」:森田真生著新潮社に掲載されているp4の写真です。ここに掲載することはできませんけれども、「(自宅前にて)わからないことに関心を集め続ける岡潔の姿」です。これは「弛緩と関心」であり、ヲシテ哲学におけるトノヲシテを実践する姿そのものです。でも、見方を変えるとその外観は、「惚ほうけている」ような姿であり、スピリチュアル系のそれと同じです。

数学者岡潔の本や講演録を読む方には次の2種あると思われます。

  1. 岡潔の実績から偉大さを認めた上で彼の思想を読むが、自然科学の手法に合わない物や事を非科学(オカルト、スピリチュアル系、カルト、心霊現象etc)として追いやっている。
  2. 岡潔の実績から偉大さを認めた上で彼の思想を読むが、彼の思想に自然科学の手法に合わない非科学(オカルト、スピリチュアル系、カルト、心霊現象etc)な部分を感じつつ、誤魔化している。

1.は数学者岡潔の思想の字面を読んでいるだけで、岡潔が何を考えて皆に何を伝えたかったかをまったく理解していない状態です。2.の場合、岡潔の述べていることも望んでいたこともわかっているけれど、自身を誤魔化している状態です。これはダブルスタンダードです。 続きを読む

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節操がない  何事もゼロでも100でもない

昔から自身を 節操がない と感じてきました。管理人は調べ物をする際に何でも参考にします。世に評価された人や資料や逆に見向きもされない資料など何でもです。その基準は、高野誠鮮氏が紹介された言葉にあります。「宇宙人UFO軍事機密の【レベルMAX】:ヒカルランド」

「寛容で懐疑的な態度は絶対失ってはいけない」

少し長いですが引用します。P69~

アメリカ空軍大学(Air University)では面白い教科書を出しています。「Research study」と書いてあります。ここの中に「次にUFOの調査をするときにはCIAに邪魔をされないように」とあります。つまり、前回CIAに邪魔されたということを暗に示唆しているのです。これは不思議なものでした。これは空軍の司令部です。アメリカの空軍士官学校(アカデミー)で使っている教科書なので、本当はコピーも撮影もいけないのです。

僕は、それを現職の士官からいただだきました。そろそろ出してもいいころかなと思っていたのです。『宇宙科学入門』というタイトルです。(図7)。これをよく見てください。33章はすべてUFOの話です。コンクルージョン(結論)には、とんでもないことが書いてあります。士官学校で何を教えているのか。「UFOというのは、実に不愉快だけど、今から5万年以上前からこの地球上にやってきている」と書いてあるんです。(図8)有史以来ですよ。誰がこれを調べたんですか。しかも、ほかの惑星からエイリアンがコントロールして乗ってきているのがUFOだと結論づけているのです。

この次のフレーズがちょっと不気味です。「3種類の異なったエイリアンが、もう既に地球にやって来ている」と書いてあります。その次に「maybe four」と書いてあります。ひよっとすると、4つの異なったグループが来ています。別の1種類が来ている。これを空軍士官学校で使っている教科書で教えているのです。学ぶのはぺいぺいの一兵卒とかそういうレベルではなく、士官候補生だけです。士官たちには教えているのに、議会や国民に対しては否定しているのです。

この教科書には「寛容で懐疑的な態度は絶対失ってはいけない」と書いてあります。つまり、いることは間違いない。3種類から4種類来ていることを教えています。しかも、「今から5万年以上前から地球に既にやって来ている」と書いてあります。彼らは敵ではありません。5万年以上前から来ていて、侵略しようとか、そんなふざけたことは考えていませんよ。侵略とかではなく、まったく違うことを考えているわけです。

従前管理人は、研究に対しての姿勢として次のように考えてきました。

  1. 誰が書いたか(言い出したか)は関係ない。
  2. 内容が合理的で納得できれば採用する。(内心ひっかかるものがあればよい。できれば第一次情報がよい。)
  3. その際、自己の常識は関係ない。
  4. しかし、採用した一部をもって書いてある(言っている)こと全部を丸呑みしない。
  5. 分からないことは、捨てるのではなく判断を保留する。
  6. 何年か先に別の情報との整合性がとれることによって将来判断できるかも知れない。

について、権威があるとかしかるべき地位にある人が言ったとかは関係ありません。例えば、数学者岡潔が偉大な数学者だからではなくて、純粋に合理的なことを述べているから考察の出発点にしているのです。

について、常識はその時々によって変わります。光の速さで何百年もかかるところからやって来る訳ないと考えるのは常識です。かつて管理人もそのような考えでした。でも研究を進める内に「宇宙は距離ではなくて角度だ」と感じるようになりました。(まだはっきりしませんけれど、常識がブレーキになっている)

について、これは重要です。どうも教育の影響か、多くの人はゼロか100のどちらかしか判断しないようです。これは宗教に対する態度です。それではいけません。例え一つが合理的であって採用したとしても他のことも全部受け入れる合理性はありません。「これはこれ、それはそれ」という態度です。丸呑みはいけません。

について、今はわからないけれども、何かひっかかるなど感じたときには、判断を保留します。いつか別の情報があったときに、そういえばかつてこんな情報があったなと気付くことで、繋がってくるはずです。そのまま忘れることも多々あります。4と関係しますが、全否定も全肯定もダメです。

 

複数の資料に同じ事が書かれているならば(間接的な資料として)採用しますけれども、だからといってその資料を100とはしません。あくまで是々非々です。日月神示をなぜ採用することがあるかというと他の資料に書かれていることと同じだから、その箇所のみを取り上げたのです。 管理人はスピリチュアル系、オカルト系は好みません。しかしながら、書かれていることに他と整合性があればよしとします。でも全部じゃない。

数学する人生 岡潔」:森田真生著新潮社に掲載されているp4の写真は最高です。ここに掲載することはできませんけれども、「(自宅前にて)わからないことに関心を集め続ける岡潔の姿」です。これは「弛緩と関心」であり、ヲシテ哲学におけるトノヲシテを実践する姿そのものです。でも、見方を変えるとその外観は、「惚ほうけている」、あるいは「スピ系」となんら変わりないのです。 「自然科学の観点からは非科学とされる中にも何かあるかも」という疑問形ではなくて、今や「自然科学の何処がどのように間違っているかわかった」のですから、すべてリセットしてかからねばならないのです。だから好き嫌いではなくて「心に引っかかるものすべて」を参考にすべきです。それが「寛容で懐疑的な態度は絶対失ってはいけない」なのです。 言い換えると管理人の研究に対する姿勢には 節操がない のです。今も答えが得られない問題が山積みです。

心の仕組みと働きは、スピ系でもオカルトでもないのに同じ系(非科学)と分類されてしまいます。

ところがエリートと呼ばれる人たちは、真逆で非寛容です。自然科学(の専門分野)に疑問を抱いていません。それが基礎だと信じているのですから仕方ありません。基礎が危ういものだと微塵も感じていないのですから、それについて何も考えていません。時間は物理量ではないという点について、4年近くも考えてきました。うまくできた誤魔化しです。物理学者の中にも時間が物理量ではないと気付いている人がいるはずです。しかし、地位や評価を失いたくない、失業するわけにはいかないというのが現実です。いずれ彼らは最後尾になるかもです。

 

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畢竟して何の用ぞ

畢竟して何の用ぞ 。畢竟は、「ひっきょう」と読むようです。確か正信偈の最後の方にも「畢竟依を帰命せよ」として出てきます。意味は「詰まるところ。結局」です。【『正法眼蔵随聞記』畢竟(ひっきょう)して何の用ぞ】に解説があります。 「 畢竟して何の用ぞ 」を平たく云えば「だからどうする?どうなの?何なの?」とでも云えそうです。一部引用します。

「どうしようもない」と思う事がある。そこには、どうする事も出来ない自分への苛立ちと、他者への怒り、憤りがあり、苦悩する。それはやがて、「あきらめ」という心境へ向かって行くのではないだろうか。
若き日の道元禅師が宋国にいたときのこと、禅寺で、古人の語録を読んでいたところ、四川省出身の僧で、修行を立派になさった方が、問いかけていわれた。
「なにの用ぞ」 【訳】『《語録を見て》何の役に立つか』
「郷里に帰(かへつ)て人を化せん」 『郷里に帰って、人を教化するためです』
「なにの用ぞ」 『何の役に立つか』
「利生(りしょう)の為(ため)也」 『衆生に利益を与えるためです』
「畢竟(ひっきょう)して何の用ぞ」 『結局(究極、最終一点)求むべきもの、それは何か』

自分の力で出来る事であれば、どうにかしようと思う。けれども、身の振り方によっては、相手はもちろん、自分の立場、利害、評判、などに関わってくる。まず、自分が大事なのである。色々な駆け引きや、やりくりがあって、自分の力では、どうする事も出来ない為にあきらめる。端的に言えば、これまでは、「どうしようもない」けど、「どうにか出来る」やはり、「どうしようもない」もう、 「どうでもいい」という風になっていた。しかし、この言葉に出会ってからは、「どうしようもない」という思いがおこる所に、【 畢竟して何の用ぞ 】と出てくるのである。

若き日の道元禅師が宋国に学んだときの話しだそうです。修行を立派にされた方が「(道元禅師)に《語録を見て》学んだとして、だからどうする?どうなるの?だから何の役に立つの?」と聞かれたという話しです。

このお話しにどうも既視感がありました。思い出すに、心理学者多湖輝の人気シリーズ「頭の体操」に似た話がありました。検索しても出てきません。記憶だけですが、書き下します。

  • ある人(A氏)は、皆の中で誰が一番大きなものを食べたかという「話し比べ」をしようと言い出した。ある部屋にAが居る。まずB氏が部屋に入って(例えば)鶏肉を4kg食べた話しをしたが、BはAに負けた。次にCが部屋に入り、牛を5頭食べた話しをしたが、CはAに負けた。こうしてD、E、Fも部屋に入ってより大きなものを食べた話しをしたが、いずれもAに負けた。最後にGは、部屋に入って「わしは宇宙を喰った」という話しをしたがAには勝てなかった。Aは何を食べたと話したか。誰が来ようと話しの後に一言、「そんなお前をわしゃ喰った。」と云っただけ。

 

ただ、「どうしようもない」ではダメだと感じます。人は生まれてもがくしかないです。少なくとも修行を立派にされた方と同じ言い方を誰かにすべきではないと感じます。道元禅師の話しと頭の体操の話しは異なるものですが、管理人には、いずれも道元やB、C、D、E、F、Gに対する「後出しじゃんけん」にしか思えません。話の腰を折るもので、そのやり方は言葉遊びに過ぎます。修行を立派にされた方やA氏は、新規性のある何かを見出すことは無いと確信します。

もう一つあります。別のあるところのある集団における無意識に云い放つ言葉に「(そのようなこと、そのような人に)いつまでも付き合っていられない。」というのがあります。ずっと気になっていた言葉です。何かの課題について討議している際に、相手を突き放せばそこでお話しは終わりますけれども、何も解決していないのです。その点は「畢竟して何の用ぞ」、あるいは「そんなお前をわしゃ喰った。」に似ています。

はっきり言えば、ある種の胡散臭さを感じます。何というかマイケル・サンデルに似た胡散臭さがあります。どこか不遜にさえ感じます。新たな知見を生まない、実に不毛な会話です。「畢竟して何の用ぞ 」の本来の意味とは異なるのかも知れませんけれども、そう感じます。

 

人の言葉も思考も含めた自然が循環ならば、どうしようもないのは事実ですけれども、自然が映像ならばとりあえず回避できます。日月神示にさかんに「気(キ)付け」と繰り返すのは、おそらくそのことです。地獄などありはしませんけれど、不毛な循環を示すのならば、地獄と云ってもよいような気がします。地獄も天国も人が創り出した抽象です。

自然科学は自然(の一部)を切り取って「わけることによりわかる」と思っています。(孤立系) ところが循環ですから、そこに結論はなく心を病むのです。最後は「どうしようもない」に行き着きます。「どうしようもない」というのは、数学者岡潔が最後までもがいた行為(身を挺して狂わんばかりの戦い)をむげにするように感じます。

 


余談です。 ただ物と事があり、運動(渦)があるだけです。渦の細部に拘ってはいけないです。何故、渦があるかが問題です。渦(回転運動)の原因が別の次元軸にあるというのが弧理論の核心です。

gif1

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

確率的に離散して現れる電子、かつ波動である電子(ex. gif1)は映像であって、別の次元軸からの投影による映像だとするならば、理解が容易です。

gif 2

心の仕組みと働きからいって電子が回転運動している(gif2)と理解する方が容易です。別の次元軸からの投影により回転運動が起きる仕組み(原子模型)を考えています。その観測結果がgif1です。素粒子は基本粒子(陽子・中性子・電子)以外の破片です。

基礎資料とする紡錘図形を解析した結果、どうも基本粒子にかかる別の次元軸上にある実体は、6種あって反転するようです。また、直接に観測できないようです。

図1

なぜか単独で取り出せないクオークの数と同じです。ですから、「観測される素粒子群(波)は12の倍数に整理される」というのと整合性があります。素粒子という波動を観測して、物理量ではない時間を用いて波を質量に換算しています。

 

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時には 思想 や哲学を捨てなければならない

思想哲学言葉により思考した産物です。言葉は互いに規定しあうことにより成り立つ循環です。ヒトは言葉により思考します。ですから、人の思考もまた循環です。2018年3月27日の記事「宇宙の真理を探究するに最適の道具は 数学 だという。ならば何故、数学の難問に挑むと心を病むのだろうか?」の答えは、「記号言語である数学もまた循環であって、人の心と働きとの不整合により心を病む」のだというのが管理人の得たものです。

厳密・緻密な論理であっても人の脳の処理系と「心の仕組みと働き」の間に乖離があると病むのだと考えられます。人の心の仕組みと働きを言葉に置きかえたのがヲシテ文献のヨソヤコヱ(48音韻:アワノウタ)です。

表1 出典:日本ヲシテ研究所

ミカサフミ1アヤ「キツヨヂのアヤ」より引用します。 続きを読む

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本当の 研究 をするには責任の伴わない環境が必要

管理人は、退職後に 研究 生活に入り今年で10年目です。右ガジェットの自己紹介の通り、次の資料を基に弧理論の研究を進めてきました。

  1. G・アダムスキーの遺したネガフィルムにある紡錘図形
  2. ダニエル・フライが伝えたある科学者の言葉
  3. ヲシテ文献に示されたヲシテ哲学(縄文哲学)の骨子(カミの仕組みと働き)
  4. 数学者岡潔の言葉

これら資料を組み合わせることにより、古より日本に伝わる哲学は、これからの科学を築く礎となると気付きました。 管理人は、資料となる1.~4.にかかるいずれの研究者の方からも常に部外者です。勿論のこと、学歴も学位もないし、学会にも所属していません。それ故に責任を伴わない発言・発表ができる環境にあると自覚してきました。

 

時折、見に行くフリーの物理学者である井口氏のブログに面白いことが書かれていたので引用します。『Q「英語の本を翻訳するっていう事をどう思われますか?」→俺「日本を豊かにすることだ!」

最近特に思うようになったことは、我々物理学者が本当に自分の頭で物理学を考えるようになれるのは、

還暦を過ぎてから=60歳になってから

ではないか、という気がするわけだ。

というのは、学者が大学の職員でいる限り、その学者さんは自分が学校の教科書として教える内容について否定的な見解を教育することは難しくなる。

ニュートン力学を今教えながら、そしてそれで試験をしたりしながら、

「実はニュートン力学は間違っているんだ!」

とは教えづらい。まあ、実質上不可能であろう。

また、今最も完全な理論が「一般相対性理論」と「量子力学」であり、その統合を目指しているさなかにあると教育している最中に

「実はエーテルが存在して、相対論は間違いだったんだ!

とは教えづらい。これまた実質上不可能だろう。大学の教程が崩壊してしまう。

同様に、いまそういういわゆる「標準的見解や標準理論に基づいて」研究論文を出して給料をもらっている学者が、それを疑うということはほぼ不可能だろう。

したがって、本当のリアルな現実理論を生み出そうとすれば、少なくとも

(あ)標準理論を教える立場にないこと
(い)標準理論で飯を食う必要のないこと

の2点が必要不可欠なことになる。

ということは、大学や研究職にいないか、やめるか、退職しているか、ということになる。

そう、研究で飯を食う必要のない状態であらねばなりませんし、誰かに阿おもねる必要があってはなりません。今も昔も科学者たちはパトロンに逆らうことはできません。

以前、「かの岡潔でさえ自らの立場を考慮しつつ、物理学者やその他自然科学者に幾分か配慮した説明をしていたのではないか」と記事にした記憶があります。 また、大学教授の1日について、24時間の配分を記事にした記憶があります。授業の準備や授業の後始末、学内の雑事に学内政治と食事と睡眠を除いた研究にあてる時間は、せいぜい2時間程度だった記憶があります。岡潔が云った「わからないものに関心を集め続ける」という態度など大学教授に望むべくもありません。

 

研究10年目にして、アウトライン(カミの仕組みと働きから物質【ウズ】の成り立ち)がわかってきたのは大きな成果です。

図1 アとワはつながり、ウをもたらし、ウよりヒトを生じさせる。ヒトはアのもの。ウとは渦(物質)。

正式な発表の場がないのは少し残念ですけど、管理人の研究が本当のことならば、時間はかかるが必ずその方向へ転がると確信しています。

岡潔が結論のみを云った「自然科学は間違っている」点について、概ね詳細がわかりました。ですから、自然科学の基礎(時間・空間というモデル)はより基礎的な「わかる」に置きかえられねばならないです。ヲシテ哲学は凄いです。日本語の基礎であるヨソヤコヱ(48音韻:アワノウタ)は凄いです。

最近、ことに思うのは「自然科学が見過ごした現象(意図して封印した現象)がきっと在るはず」と感じます。その現象は、人の肉体に備わった五感ではっきりわかるものです。そうでなければ、次なる発達はあり得ません。2014年1月27日の記事「物の理(ことわり)とは五感でわかること」の時点で、現代の物理学には何か欠けていると感じていました。 素粒子に本質が無いことは明白です。

ついでながら。加速器による素粒子実験は、例えばハーモニカの「ミ」の音波を計測して、「ミ」の音の質量を計算しているのに似ています。無意味です。

写真1

物質の質量と運動は、異なる次元にある実体の投影による異なる側面(映像)です。そして運動の一形態がです。素粒子という波を計測し、物理量ではない時間を含む数式にて質量に換算しています。無意味です。(GeV/c)ではダメです。

 

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Alexey Chekurkov(アレクセイ・チェカーコフ)の 非対称コンデンサー と発散トーラス

Alexey Chekurkov(アレクセイ・チェカーコフ)による動画の説明に 非対称コンデンサー なる用語が出てきます。(動画の音声を自動翻訳の字幕にしました。)

写真1

ビーフェルド・ブラウン効果についてはよく知られています。しかし、重力制御の本質とは関係ないと考えます。 非対称コンデンサー と当サイトで説明してきた発散トーラスとの関係性をテスラコイルをはさんで説明します。

電磁気現象は、一般に過渡現象としてLCR回路によって説明されます。

図1

この場合のコンデンサーCは、2枚の電極が向かい合っていて、対称をなしています。このコンデンサーが非対称であるとAlexey Chekurkov(アレクセイ・チェカーコフ)は説明しています。 一方の電極がないという意味になります。それは例えば、テスラコイルです。 続きを読む

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まずは 質量とエネルギー の関係を理解する

前回の記事「物や事の「わかり方」 物理学者の世界観」を踏まえた上で、物質の 質量とエネルギー の関係について説明します。改めてある科学者の言葉を紹介します。

君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり、物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる側面に過ぎない

二つの次元を持つ幾何的な平面を考えてみたまえ。この面が君の視線に対して直角をなすとき、君はそれを平面と感じる。これはその実体の物質面をあらわす。次に君がその面を九十度ほど回転させると、その面は君の視界から消えて一次元のみとなる。これはその実体のエネルギー面だ。君はその面をとり変えたわけではない。ただ観点を変えただけだ。技術的に言えば関係位置を変えたのだ。一定の物体に含まれていると思われるエネルギーの量は、一定の観測者にとって質量エネルギー軸を中心にそれがどれくらい回転したかにかかっているのだ。別な関係位置から同じ物体を見ている別な観測者は、まったく異なる量のエネルギーを見るだろう。

ある科学者による物質の 質量とエネルギー に関する言葉を図により示します。

別の次元軸(以下、E軸という。)を仮定して、E軸上の実体真のエネルギーを持つものとします。E軸上の実体が物質的自然(以下、M軸という。下図では物質面。)へ投影されることにより、質量を持つ物質が現れます。現れるというのは、位置を持つということです。ある観測者に対して静止しているならば、投影角は90度です。

図1

横から眺めるとM軸は見えなくなります。(質量は次元を失います。) 実体とM軸との間の距離が実体が持つ真のエネルギー値です。 実際は、眺める方向を変えるのではなくて、実体の投影角が変わります。

図2

上から眺めたとき、投影角の変化により物質は運動として認識できます。

ところで、ある科学者はエネルギーという言葉の定義を二重に使っています。物理学上のエネルギーの次元は[ML2T-2]です。これまでの考察によって時間は量ではないことがわかっていますので、エネルギー[ML2T-2]を使えません。ですから、E軸上の実体が持つ値を時間を含まない真のエネルギーとして区別しています。ここではエネルギー[ML2T-2]のことを時間を含まない運動と表記しています。

真のエネルギーと物理学上のエネルギー[ML2T-2]とを区別して、ある科学者云った言葉を置きかえると次になります。

物質は運動に転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質も運動も一つの実体が持つ真のエネルギーの異なる側面に過ぎない。

難しく思うかも知れませんけれど、図にすると凄く簡単です。

図3

物質の質量[M]は、運動に転換できますし逆にもなりす。しかし、本当は一つの実体が持つ真のエネルギー値の異なる面に過ぎないと云うことです。  質量とエネルギー [ML2T-2]を行き来しているに過ぎないということです。

ということは、地球上にあるありとあらゆる機械装置や化学機器、電子機器にかかる実体が持つ真のエネルギー値に変化は無いということです。化学反応を用いて作られた材料、あるいは太陽電池パネルなど自然エネルギーを利用する装置、核分裂・核融合を用いた発電設備や戦争兵器などもです。蒸気機関どころか、サーボモーターやブラシレスモーターを使った燃料電池車なども含めたありとあらゆる装置にかかる真のエネルギー値はどれも変化しません

写真1 メガソーラーと風力発電設備

質量とエネルギー の関係を正しく理解しない限り、重力の原因を理解することは不可能です。勿論、物理量ではない時間を用いた光速度[LT-1]を基準にした相対性理論が正しいと云うことはありません。2015年3月31日「アーサー・エディントンは向こう側の人か?」を参照ください。

図4

2019年7月22日の記事「負のエネルギー の解釈の間違い Alexey Chekurkov(アレクセイ・チェカーコフ)の浮揚ディスク」で示したロシア人による浮揚ディスクの解釈も現行の物理学では不可能です。真偽の判定すらできません。   自然科学の基礎となっている「時間・空間」というモデルが間違っていることに早く気付くべきです。素粒子物理学は、まったくの無駄です。

 

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物や事の「わかり方」 物理学者 の世界観

物や事の分かり方には2つあります。 物理学者 の世界観(自然に対する姿勢)はその内の一つに過ぎません。現代の物理学における物や事の見方に直接の疑問を持ったのは、ある科学者の言葉からでした。知ったのは2010年頃でした。引用します。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる

正しく眺めれば、基本的な真理は常に簡単で理解が容易なのだ。

だから幹の上から眺めれば、枝は”枝″として簡単な、理解の容易なものになる。てっとりばやく言うと、君らの科学が進歩し続けるために必要なのは、君たがとまっている枝から枝との分岐点まで降りて、ふたたび登り始めることだ。

下線は管理人による。 数学は森羅万象を理解するに最強の道具だとされます。数学ができない管理人でも信じてきました。ところがこの科学者は、極小な世界を理解するに量子力学の「定義」は正当ではないと指摘しました。その理由として 物理学者 が描く数学による物や事の描像は「人の心で描くことができない」からとしています。 当時、数学を使ってどこが悪いのかと思いましたし、量子力学が心で描けない状態とするならば、心で描ける状態に対応する物理学とはどのようなものだろうかと疑問を持ちました。さらに「抽象的な」という部分に引っかかりを感じました。引用文からいきなりこのような疑問に至ったわけではありませんけれども、現在までを振り返るとそうなります。

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負のエネルギー の解釈の間違い Alexey Chekurkov(アレクセイ・チェカーコフ)の浮揚ディスク

井口和基氏のブログ(Kazumoto Iguchi’s blog 2)にて紹介されているロシア人「Alexey Chekurkov(アレクセイ・チェカーコフ)」による浮揚ディスクの記事『「ウチュウジンよ、よく聞け!われわれはちきゅうじんだ!」→地球製UFOに王手か!? 』について、元記事にある 負のエネルギー という概念は間違っているのでメモします。

紹介されている浮揚ディスクの概要は、次の動画です。 「Warp-Drive-Physics.com」より。

動画1

その他の動画は井口氏のサイトにリンクがあります。回路図の概要もわかっているようです。

写真1

井口氏は、浮揚ディスクの構造を大まかに次のように述べています。引用です。 続きを読む

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