仏教にある如来1.ヲシテ文献にあるフトマニ2.、同じく日本語の元である大和言葉の起源になるヨソヤコヱ(48音韻:アワウタ3.)は、ともに同じ意味を含んでいます。みな同じものであり、表現が異なるだけです。 いろんな表現があるのは、言葉が形式だからです。以下、何故そうなのかについて説明します。
言葉は形式ですから、何かを言い表すとき、様々な呼び方が可能です。巷にあふれる商品でも商品名とは別に型番があります。別に卸や小売りなどの流通ごとそれぞれの管理番号があります。各社バラバラでは不便ですから、共通するところについての規格を統一した型番や呼び名があります。例えばJIS規格であったりします。呼び名も型番も管理番号も型式ですから、いろんな呼び方ができます。当たり前です。
過去記事に示したように、世界には多くの言葉があり、同様の理由により言葉の数ほど神仏・宗教があるわけです。
- 2022年5月30日 宗教の限界 宗教が言葉の数ほどあること自体が限界を示している
1.さて、仏教の如来は、 (((~の如し)の如し)の如し)の如し・・・・と表現され、決してわからない何かを意味するようです。
- 2021年7月7日 如来 の意味。何々の如しの如し・・・・
写真1 如来は合わせ鏡に例えられる
数学、あるいはプログラミング技法で言えば再帰(帰納)に近いです。
2.フトマニはヲシテ文献の一つです。ヨソヤコヱ(48音韻)を魔法陣のように配置した図がフトマニ図です。
図1 フトマニ図 中央の渦巻き(アとワの特殊文字)を含む3文字が「ア・ウ・ワ」
フトマニ図の中央にあるア・ウ・ワのア・ワについて。 「アはワの如し、ワはアの如し」と言えます。アとは何か決してわかりません。何か在ることは確かですが、仮に「ア」と呼んでいるにすぎません。言葉は形式ですから。 続きを読む
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