研究 は知識の量や理論の複雑さとは無関係

研究 を始めて12年目になりますが、参考としている資料の全部を読み込んではいません。気になる部分のみについて、何年も考え続けてきました。大量に覚えるよりその方が研究は深まる結果となっています。

 

例えば、2015年頃に数学者の岡潔とヲシテ文献の存在を知りました。2つの資料で気になったのは次です。

  1. 岡潔:自然科学は間違っている。時間は量ではない。
  2. ヲシテ文献:ヰクラムワタ ヲ ネコヱワケ フソヨニカヨイ ヨソヤコヱ

時間とは何かについて、およそ4年くらい考えました。ヰクラムワタについては、6年ほども考え続けています。ヰクラムワタからの経過は次です。

 

5つのクラ、6つのワタとは何か? 日本語の元である大和言葉のそのまた元であるヨソヤコヱ(48音韻)は、文明や科学の基礎であるとともに、日本人の日本人たる所以そのものです。それほど大事な話なのにヰクラムワタが何なのかわからない状態でした。

関連で気になったのは「二河白道の譬え」に出てくる四大・五蘊・六識・六根・六塵です。

図1 出典:二河白道の譬え

これらは四大を除いて心の仕組みと働きをどのようにカウントするかの違いに過ぎないと考えました。 続きを読む

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ヒト とは何か

先日、開催しました弧理論研究会において、時間の都合上説明できなかった「 ヒト とは何か」について記します。なお、この記事は、既に当サイトで解説済みの内容です。

次図は当日の資料を少し修正したものです。

図1

図は岡潔の言った2つの心と人間の、並びに脳の神経細胞を模して作られたAI(人工知能)との比較です。

ヲシテ文献によるタマとシヰは、岡潔による2つの心と比して同じと考えてよいです。ヲシテ文献では、タマ(心の本体)とシヰ(生命維持の欲求)に地球上の物質が結びつくことで ヒト になります。岡潔の第2の心がタマに相当し、第1の心がシヰに相当します。

AI(人工知能)は、脳の神経細胞を模しています。これをニューラルネットワークと言います。図上の左が脳の神経細胞で、右がニューラルネットワークです。よく見ると脳の神経細胞も、ニューラルネットワークも状態を変化させるブラックボックスです。わからないもの(ブラックボックス。以下、BB)をわけることにより幾つかの要素にわけます。わけることにより得られる要素もまたBBです。これは還元主義の基本です。

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空間 とは何か?

数学者の岡潔は、自然科学者が 空間 について何も考えていないと述べています。「【2】自然科学者の時間空間」より。

自然科学者は初めに時間、 空間 というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。

当サイトでは、これまで時間とは何かについて、岡潔の言葉を参考に考えてきました。角度は量ではありませんので、角度から作った時間も量ではないことは確かです。すると時間[T]を含む基本量と組立量はすべて量ではないということです。参考まで、当サイトでは時間を含む量?を運動と呼んでいます。「SI基本単位」 因みに時間を含む速度[LT-1]や加速度[LT-2]、力[LMT-2]、圧力[L-1MT-2]などの運動は、量ではなくて、「事」の質です。これらはすべては質である運動単位をつけた数に過ぎません。「物理量

また、岡潔は空間について次のように述べています。【5】情の特色より。

情は分かつべからざる全体である。やはり部分として分かつべからざる全体である。無量のそういう部分がある。情の中には時間も空間もありません。時はありますが時間という計量的なものは無い。また、空間は量的に質的にありませんが、時については2種類、2つですね。過去と現在、それだけですが、新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される。そういう意味で未来は無い。

 

では、空間とは何でしょうか。自然科学者は 空間 とはどういうものか考えていないといいます。物理学では「場」とは空間の部分だといいます。wikiから。

場(ば、英: field、工学分野では[1]電界・磁界など界とも)とは、物理量を持つものの存在が、その近傍・周囲に連続的に影響を与えること、あるいはその影響を受けている状態にある空間のこと。

物理学では、質点として考えます。質点は、量はあるが大きさはなく位置を持ちます。この質点が持つ量が近傍・周囲に連続的に影響を与える、あるいは影響を受けている状態にある空間のことが「場」です。

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日月神示 (ひふみ神示)の意味合い

最近、日月神示の伝えたかったことが何であったのか、気付きました。これまで誰も指摘しなかったことです。

日月神示は別名としてひふみ神示と呼ばれます。そして、神示の中では、一二三(ひふみ)、三四五(みよいず)、五六七(みろく)』との表現があります。

日月神示はヲシテ文献の一つであるフトマニの流れを汲みます。フトマニの”ア・ウ・ワ”は、当サイトでも弧理論の核心部分に組み込まれています。まさにヒトハアノモノです。

図1 フトマニ図

その流れとは、以下です。

ヲシテ文献(フトマニ)→→ 山口(杉庵)志道(水穂傳:水火傳:稲荷古傳) →岡本天明(日月神示)

 

図2 稲荷古傳(部分)

図3 ○に「ゝ」は、ホツマ文字の「ア」に相当する。

 

先日、ヲシテ文献のホツマツタヱの解説を読んでいたところ、ヒトとはヒ+トであると書かれていました。意味は以下です。

1~10の数を大和言葉で言うと「・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナナ・ヤ・ココ・」です。この1と10からとってヒ・トであるとのことでした。たぶん人はこの世で成長していく存在であるとの意味があるようです。

 

すると、日月神示(ひふみ神示)にある『一二三(ひふみ)、三四五(みよいず)、五六七(みろく)』がわかってきます。

つまり、ひふみ神示は、ヒトが1からはじめて10に至る成長を促しているらしいということです。逆に言えば、現在は人類が出発点にいる状態である事を意味します。だから、日月神示では人に対して何度も「気(キ)付け」と連呼しているわけです。 参考までに、こちらのひふみ神示全文において「気」で検索すると394カ所あります。また、当サイト内を”気(キ)”で検索すると62件の記事があります。

これで、日月神示(ひふみ神示)の伝えたかったことの意味合いがわかります。

 

追記2024/05/19 仏教の他力は「気づかされる」と解説されます。

他力とは、「発見・創造、あるいはひらめき」のことです。(岡潔の言葉【10】数学上の発見をご参考に。)この他力は、文字通りヒトにとっては受け身です。

ヒトにとって受動である他力を向こう側から何度も何度も「気づけよ、まだ気づかんか、気の毒なことになる」と諭しているのがひふみ神示(日月神示)であることがわかります。つまり、神様からの促しが日月神示です。

 

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重力 は単極誘導と類似の現象

どうも 重力 はマイケル・ファラデーが発見した単極誘導の現象に近い現象であるようです。

  1. 2012年~14年頃まで主に単極誘導モーターの力学について実験した。
  2. その結果、力学的には作用と反作用は必ず成立している。
  3. 力は接点で生じていると感じ、”接するとは何か”という疑問を抱く。(後に、自然は映像であるという観点から境界空間仮説を出し、近接作用はあり得ないという考えに至る。)
  4. 単極誘導モーターにおける力の生じる分布を検討すると、磁石の重心位置に近いところが強く、両極に近いと弱い。
  5. 仮説として、単極誘導の現象は、磁石を構成する原子核と磁石近傍を運動する電子との相互作用であるとした。
  6. 相互作用の相手は陽子、または中性子、あるいはその両方が考えられる。
  7. 一方、井出治氏による第3起電力仮説を説明することで得た発散トーラスがある。(2011年頃)
  8. 発散トーラスは、別の次元軸上(E軸)にある実体が物質面(M軸)に投影されることによってできると考えられる。電磁気現象はE-M軸での位相問題と考える。
  9. 正と負、右と左の4種類考えられる発散トーラスを組み合わせて出来るのが楕円双極ポテンシャル。(双極であるが磁場とは異なる。)
  10. で、単極誘導の現象は楕円双極によるのではないかと考える。

 

図2 単極誘導は磁石を構成する原子核と近傍を運動する電子との相互作用か。

つまりは、電磁気学成立の過程において、当時未発見であった陽子を含めた拡張?電磁気学に改める機会を意図的に放棄したのではないかと考えます。その経緯は下図です。

図3 ルードウィッヒ・ローレンツ(tのつくLorentz)が2種類ある電磁気現象を一つの加速度にまるめた? 因みに時間は量ではないので、自然科学は間違い。

電磁気学成立の過程に介入したのがパトロンである金融資本家J・P・モルガンであったようです。参考「Tom Bearden’s Response to ARPA-E
ビールデン博士のエネルギー先端研究局への返答

 

例えば、0.5Vの起電力を得るに全く異なる現象の”和”としか表現されていないのは不自然です。

単極誘導の現象は、回転させる機構がありません。つまり、空間が持つ本質的な回転運動です。(とても重要なことです。) 電磁誘導にかかる加速度と単極誘導にかかる加速度は別物ではないかと疑っています。この電磁気学における不思議な点について、未だ誰も理由を説明していないようです。

磁界は磁石に固定されているとか、否、磁界は空間に固定されているなどと言った議論は無意味だと感じます。単極誘導の現象は、磁界あるいは磁場とは関係がなく、磁石の重心位置にある何かとの相互作用であり、本質的な回転運動だと考えれば矛盾はありません。参考記事2018年1月8日『「ファラデーの 単極誘導モーター に生じる力」を調べるに「ローレンツ力」という言葉を用いない理由

 

で、単極誘導の現象が示す加速度が 重力 による加速度と近い関係にあるのではないかというのが管理人の持つ印象です。

  • 電磁誘導にかかる加速度 : 遠心力による加速度
  • 単極誘導にかかる加速度 : 重力による加速度

だから、遠心力による加速度と 重力 による加速度が相殺されるのです。(区別がない。)

どう考えても類似性が高いです。

 

磁界は磁石に固定されているのか、それとも空間に固定されているのか。

 

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岡潔 「この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。」→外のない内

前回の記事で、第1の心について、すべてを覆っているが、外へは一切出ていないと記しました。 岡潔 は、”自然科学者が考える自然”について、簡単な模型であって、自然そのものではないと言います。参考【3】五感でわかるもの

そういった自然科学者の考える自然について、2つある心の内、自然科学者は第1の心しか知りませんので、(自然科学者にとっての)自然について、第1の心は物質的自然界の全部を覆っているが、それより外へは決して出ていないと言いました。参考【1】2つの心

岡潔 は、難しい言葉使いをしていませんけれども、実のところとても深いです。これを管理人は「外のない内」と呼んでいます。サイト内検索では、”外のない内”を含む記事は56件出てきます。初出は2017年11月24日の『自然科学のいう「非科学的」とはどういうことか?』でした。 この頃は、開放形という言葉を使っていますが、あまり適切ではないように感じます。現在は「在るけれど、量的質的になく、かつ位置を持たない。」とでも表現した方がよいように感じます。

過去記事にも書きましたが、2010年に研究を始めてすぐに、「外のない内」あるいは「位置を持たない」という表現を求めていました。当時は、「宇宙の外については、一切言及していない。」としか表現できませんでした。それが下図です。

 

図1

図において、空間には2つのポテンシャルがあって、その輪郭は「宇宙の外については、一切言及していない。」と感じ、これが「外のない内」という表現にピッタリだとわかったのは、岡潔→山崎弁栄の関係資料という流れからでした。それまでは、お釈迦様の手のひらから出られない孫悟空の寓話に例えていました。参考 2015年4月8日『「軌道電子に働く力」と「単極誘導に生じる力」の違い』。

つまりは、岡潔も山崎弁栄の思想から自然科学者が考える自然について「この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。」という考えに至ったのではないかと推測します。これが「外のない内」です。

繰り返しになりますが、これが第1の心、即ち意識を通し言葉で言える心の限界です。何故なら、数学を含む言葉は”互いに規定することで成り立つ、循環・ネットワーク”だからです。岡潔はこのように回りくどい解説はしませんが、「自然数の1は決してわからない。」という言葉に凝縮されています。参考「【6】 数学の使えない世界

動画1

図2 自然科学は循環であり、外のない内。

 

特に理系の方々にお気づきいただきたいのは、数学での計算、論理的思考が人の持つ心の仕組みと働きのすべてではないことです。人とは何かの基本がなければ、科学の発達は覚束ないと確信しています。岡潔の危惧していたのはまさにこの点です。そして、文系の方々にお気づきいただきたいのは、一つの資料を読み解くだけでは詳しくすることに限界があるということです。例えば、仏教の五蘊・六識・六根・五塵などは、そのままでは意味不明です。漢字で書かれていますから、日本語で語句の解説があればわかった気になるだけだと感じます。それにしても、日本語のふる里とでも言えるヲシテに示される核心は図抜けています。これらの資料を読み比べて、漸くわかってくるものがあります。

 

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「仏」と善導大師の「覚」、そして 岡潔 の「情」

仏教の核心に近いところとして 仏 (budhha)があります。これを善導大師は、漢字の意味として””と名付けました。2021年4月19日『「仏」はヲシテ文献にある「ア」の部分であるようだ

人の五感でわかるのは、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚です。つまり、善導大師の”覚”が現代でもそのまま使われているということです。

岡潔やヲシテ文献のタマシヰ等との共通点について、上記の記事の復習の意味で再掲します。

  1. 善導は、インドの(buddha)について、漢字の音で「仏」をあてたものであり意味を考えて「覚」と名付けた。→視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚
  2.  岡潔  第1の心・・・意識を通し言葉で言える。
    第2の心・・・意識を通さず言葉で言えない。
    →情的にわかるものを知的に言い表すことにより文化はできる。→情・知・意の順で働くとした。※↓
  3. 言葉は、互いに規定しあう循環であり、ネットワークであり、外のない内である。
    →第1の心は、すべてを覆っているが、外へは一切出ていない
  4. 仏教においては(五蘊 六識 六根 六境 六塵・・)と呼んだ。
  5. 一方でG・アダムスキーは、五感の内、触覚をtouchとfeelにわけた。feelが五感にかかっている。
  6. ヲシテ文献では(クラ ワタヲ ネコヱワケ フソヨニカヨイ ヨソヤコエ
    あるいはイツイロハニモテツクル モリノカミ)としながら、タマ+シヰとした。

要は、心の仕組みと働きをG・アダムスキーや仏教のように5+1=6と捉えるか、岡潔のように1+1=2と捉えるかの違いでしかありません。つまり、意識を通す(図の上段)を下支えしているのが心の本体であるということです。 因みに日月神示では、仏(あるいは 覚)について、現代人に最もわかりやすい言葉として「気(キ)付く」を多用しています。

まとめると、 岡潔 は「大宇宙の本体は”情”」だとし、お釈迦様は” 仏 (budhha)”とし、善導大師は”覚”と名付け、そして、ヲシテ文献では”タマ”であったわけです。岡潔の言った2つの心は、仏教の”五蘊 六識 六根”と何ら矛盾しないのです。

 

ここから凄く不遜な言い方になります。お釈迦様はおおよその事はご存じだったかも知れませんが、ヲシテ文献のカミの仕組み(つながり、もたらし、生じさせる。)=「アとワはつながり、ウをもたらし、ウよりヒトを生じさせる。ヒトはアのもの。」について、十分に説明なされたとは思えません。ヲシテ文献にある核心の方がよほど理解が容易です。仏教では何を気(キ)付けというのかわかりません。

アとワは互いに規定することで成り立っているので、大宇宙の中心であるアは決してわかりません。これが第1の心の限界(外のない内)です。奇しくも岡潔は「自然数の1は決してわからない。」と言って、大宇宙の本質を一言で言い表していますので凄いです。

 

※ 情・知・意の順で働きますので、情的にわかってから、後に知と意が来ます。だから、知・意になるので、この点でも納得です。実のところ、「五蘊 六識 六根 六境 六塵・・」と漢字にするとその意味するところはぼやけてしまうのは、漢字の致命的な欠点です。”わかった”ような気になりますが、その実、各人の持つ漢字への意味合いは異なるということです。

その点、ヲシテ文献の基本であるヨソヤコヱ(48音韻)は、人の五感でわかる音素である母音と子音に振り分けて意味づけしていますので、とてもシステマティックです。参考まで。5つのクラも6つのワタも、あるいは5つのイロもカウントの仕方の違いでしかありません。因みにイロについて、カラーの色ではなくて「いろ品:たくさんの種類」があることを指します。ですから、イツイロは5種類の物という意味です。

出典:日本ヲシテ研究所(C)池田満

ついでながら、物と事は別の次元軸上にある一つの実体の投影による映像です。2つの心はどう考えても別の次元軸に起源があります。このあたりの説明が物と運動の本質です。

 

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6月 弧理論研究会 のテーマ(素案)

6月の 弧理論研究会 のテーマについて、おおよその案を考えています。今回の研究会は大きく2つにわけて、現状と展望?を考えたいと思っています。参加をご希望の方は、メールにてお知らせください。実施日時場所と連絡先は末尾です。

 

1つめのテーマは、元となる資料の紹介と共通点です。当方が研究するにあたり、以下の7つの資料を基にしています。

  1. G・アダムスキーの遺したネガフィルムと足跡図
  2. ダニエル・フライの遺した宇宙人アランの話
  3. 数学者岡潔の講演録
  4. ヲシテ文献(ホツマツタヱ、ミカサフミ、フトマニ)にある核心部分
  5. 本居宣長の解説した「もののあわれ」
  6. 日月神示が示す「気(キ)付く」
  7. 仏教が示す「仏」「覚」あるいは「気付く」

これらをざっくりとご紹介した後、それぞれの核心部分には共通点がある事を示します。(どうも同じ何かを示しているらしいです。)  今年1月頃(論理的帰結として)「大宇宙の中心は2つあり、それは決してわからない。(※)」というところまで持って行けたらと思います。しかしながら、11年の間に膨大な考察を含んでいますので、細部まではとても無理のようです。

人の五感でわかる空間が別の次元軸からの投影による映像だと考えるならば、その投影点は2つあるのが妥当です。空間の中心は空間にありません。空間に直交する別の次元軸上に2つあることになります。弧理論では2つの中心をと名付けています。岡潔の言葉「自然数の1は決してわからない」とまったく同じ構造をしています。これが第1の心の限界です。参考「【6】数学の使えない世界

 

2つめのテーマは、自然科学の問題点です。自然科学はいつ何処でどのように間違ったかを検討します。これはかなりハッキリしています。

問題点の一つである「時間は量ではない。」という点について、いつ間違ったかはわかりませんが、いつかの時点で間違っていると気付いた学者はいたはずです。

”時間に問題がある”ことを除いて、分岐点は18世紀のある時点にある事を電磁気学の成立過程とともに「Tom Bearden’s Response to ARPA-E
ビールデン博士のエネルギー先端研究局への返答」を資料に考察します。

また、管理人が問題視している単極誘導に関して、実験に使用した単極誘導モーターを持ち込み、実演して当時得られたデータとともに説明します。論文では伝わらないことやデータだけでは意味がわからないなど、実際に実験を行って感じる点についてお話して検討したいと思います。

尚、昨年出した仮説、境界空間を説明する模型を以て説明します。空間は1つめの資料群と切っても切れない関係にあります。空間の内に電磁気現象もありますから、1つめのテーマは必須です。

冒頭の1つめのテーマは、主に精神科学弧理論による社会科学に近い内容です。しかし、2つの基礎がなければ、自然現象がどのようなものなのか、どのように表れているのかをうかがい知ることは出来ないと確信しています。段々明らかになってきたのは、3つの科学は確かにオーバーラップしているということです。

 

とても、当日の午後で完結できる内容ではありませんが、数少ない機会ですので是非ご参加ください。メールをいただければ、興味をお持ちの点について、詳しく出来ます。


日時 令和3年(2021年)6月5日(土) 13時00分~17時
場所 滋賀県立文化産業交流会館
〒521-0016 米原市下多良二丁目137 TEL 0749-52-5111
第3会議室
催物名  弧理論研究会
アクセス  JR米原駅 西口徒歩10分くらい

アクセスマップ

研究テーマ

  • 自然科学はどこで間違ったのか。(19世紀のある時点で意図して歪められた電磁気学について)
  • 単極誘導モーターの展示説明。(弧理論によるフリーエネルギー・重力制御理論との関係について)
  • 境界空間の模型について。(空間は決して交わることのない2種類の何かの境界である。)

 

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普遍性 があって、はじめて発見や創造がくる

最近、発見というのはほとんど無いと感じます。発見や創造などは基礎に” 普遍性 ”があって、初めて来るものだと思います。

管理人は近頃、弧理論の研究がある程度まとまってきたと感じています。その内に、管理人が発見したというものはほとんどありません。研究は専ら、参考とする資料の間に共通するものを見いだすという作業を行ってきたに過ぎません。これまで参考にした資料は以下です。

  1. G・アダムスキーの遺したネガフィルムと足跡図
  2. ダニエル・フライの遺した宇宙人アランの話
  3. 数学者岡潔の講演録
  4. ヲシテ文献(ホツマツタヱ、ミカサフミ、フトマニ)にある核心部分
  5. 本居宣長の解説した「もののあわれ」
  6. 日月神示が示す「気(キ)付く」
  7. 仏教が示す「仏」「覚」あるいは「気付く」

ここにあげた資料は、それぞれ時代・年代も人種も言語もまったく異なります。それこそ資料の起源が人類ですらないかも知れません。それぞれに共通する中身がほとんど同じであると言うことを見いだして、これに 普遍性 を感じるのです。単に”自分はこう思う。この発想は独自のものであり、発見だ!”と考えて人も多いでしょう。しかし、現在の自然科学には基礎がありません。

岡潔は講演で「自然科学は間違っている」として自然科学を痛烈に批判しています。要は西洋人は自身の間違いに気付かないのです。「【2】空間と物質」より。

自然科学者はこう思っている。「始めに空間と言うものがある」空間とは何か、全然わからない。しかし、それは問題にしていません。空間とは何かを問題にしないで、始めに空間というものがあるというのは相当な仮定には違いありません。その次がひどい。「その空間の中に物質というものがある」、とこう決めている。物質とは何かと言うと、「途中は少し工夫してもよろしいが、最後は肉体に備わった五感でわかるものが物質である」、こう決めてるんです。ではいかに工夫しても肉体に備わった五感でわかって来ない様なものはどう言っているか。「そんなものはない」と決めているのです。

 これはほとんど原始人に近い幼稚な仮定です。しかもそう仮定して疑わない。仮定していることも知らないんです。

実に強烈な言葉です。 岡潔は「人には、心は2つ(わかるという働きが2つ)あり、2つの心は情・知・意の順に働く」として、そのわかり方に2種類あることを述べています。「【4】情のメカニズム」より。下線は管理人によります。

知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。

 理解というのは、その「ことわり」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「おもむき」がわかるんでしょう。

 松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。

 それから先がですが、その基になる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。人は情の中に住んでいる。あなた方は今ひとつの情の状態の中にいる。その状態は言葉ではいえない。いえないけれども、こんな風な情の状態だということは銘々わかっている。

言葉ではいえない。教えられたものでもない。しかし、わかっている。これがわかるということです。だから知の根底は情にある。知というものも、その根底まで遡ると情の働きです。

1つめの「わかる」は情的にわかる。そのわかり方は意識を通さず言葉で言えないが、何となくその趣がわかる(岡潔の云う第2の心)というものです。次いで、情的にわかるものを知的に言い合わす。ここで、意識を通し、言葉で言える段階になります。これが知的にわかる(岡潔の云う第1の心)ということです。

ところが、自然科学者のほぼ全員が第1の心である理解あるいは物の理、即ち、知の段階しか知らないのです。第2の心がなければ一切は存在しないことに気付かないのです。

つまり、自然科学の研究者が第1の心で”わかった”として、内容を論文なりにまとめて発表するという行為、その前に基礎となる重要な部分が抜けていること知らないのです。

しかしながら、これを”いい加減に気付け”と強制はできません。ひたすら岡潔が望んだ「気付いてくれ」というのを待つしかないのです。 ほとんど信じられないような日月神示がくどく繰り返してる「気付いてくれよ」の意味がここにあるのです。

冒頭の1~7の資料に共通するのは、岡潔が述べた2つの心であり、気付くということの仕組みと働きであり、人が備えた五感との関係なのです。人が時(現在と過去)の内に住めるのは2つの心があるからです。時の現在として映像の趣がわかり(第2の心)、次いで不連続な映像の記憶に基づいて動画(過去の映像)わかる(第1の心)のです。映像が第2の心によりわかるということがなければ意識を通し、言葉で言える第1の心も含めた一切は存在しません。

なぜ、これほど簡単なことがわからないのか、実に不思議です。最初に述べたように、まったく出自が異なる各資料がほとんど同じ事を示しているのですから、人類の持つ心の仕組みと働きは、岡潔が云った内容に間違いはないと確信します。これが 普遍性 というものです。この基礎が無ければ、いかなる理論による発見も創造も価値を持ち得ないと思います。

空間とは何でしょうか。既に時間は量ではないとわかっています。場について議論するには空間が何であるかをわかっていなければなりません。なぜ問題にしないのでしょうか。勿論、空間にある光速度をモノサシにすることはできません。

 

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「 仏 」はヲシテ文献にある「ア」の部分であるようだ

先日、某所にて とは何かについて講演を聴きました。元の話は浄土真宗の正信偈にある「善導独明仏正意」について解説したお話しです。

注:「善導独明仏正意」の解説は『「善導独明仏正意」と「一経両宗」』というpdfの6ページ下段にあります。これに関するお話しです。

講師は、善導大師の教えを次のように書き下しました。

 仏  西國(インド)ノ正音ナリ 此(中国)ニテハヅク

現在の言葉に直すとおおよそ、次の通りです。

 仏 というのはこれすなわち、インドの言葉(buddha)の音おんを漢字に置き換えたものである。(善導大師がいた)中国では「覚」と名付けた。

講師は付け加えて、「とは、気付くということ」と言われました。仏陀という言葉は、wikiによれば「悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す」とあります。

しかし、管理人は悟りという言葉を嫌っています。「悟り」はあまりに多くの人により手垢が付いた言葉です。むしろ、当サイトでは「気(キ)付く」を多用してきました。因みにサイト内を「気付く」で検索すると52件の記事がヒットしました。「気(キ)付く」でも多くの記事があります。

 

どうも、ヲシテ文献の「アウワ」について、アとワは、互いに規定し合うことにより成り立っていて、決してわからないものながら、「ヒトハ ア ノモノ」ですから、2つある大宇宙の中心である「ア」の部分が 仏 であるようです。そして、仏の意味は「気付く」ということであり、岡潔はこれを「情の働きによる」と言ったわけです。これで辻褄が合います。

岡潔は情の働きにより知に至り、次いで意が働くとしました。(情・知・意) 情的にわかるものを知的に言い表すことにより文化は出来ていくと言いました。いわゆる、気付いた人である仏陀であっても、気付いたことを知的に言い表せねば、文化・文明を築くことはできません。

アとワは互いに規定し合うことにより成り立っています。ですから、アは決してわかりません。仮に「ア」と呼んだに過ぎないのです。善導大師はこれを「覚」と名付けたのです。ですから、その呼び名が全部あるいは全体に決してなり得ないのです。これを外のない内と言います。そして、循環・ループ・ネットワークなのです。

図1 第1の心は、互いに規定し合うことにより成り立つ循環・ループ・ネットワークであり、外のない内。

古今東西、多くの人が何とか言い表そうとした結果が、 であったり、であったり、あるいは「気付く」であったということです。 それは、論理的に決してわからないのであり、何と呼べばよいのかさえわからないのです。この「ア」は、ヲシテ文献では、アメノミヲヤと名付けているようですが、アとアメノミヲヤとの関係は未確認です。 アメノミヲヤについて、人格性はありません。偶像ではないという意味です。 岡潔的に言えば、大宇宙の中心であるアとワは、意識を通し言葉で言えるものではないということです。

 

これまでの考察をまとめた図が次です。

図2

少し別の見方で整理したのが次図です。

図3 2つの心の仕組みと働き 注:少し内容が古い。更新が必要。

上の2つの図だけでは、全体の見通しが悪いですけれど、これに、仏の意味を加えるとともに、これまで取り上げた「二河白道(にがびゃくどう)の例え:下記記事を参照ください。」についても書き加えると、もう少しわかりやすいものになりそうです。

 

どうも、浄土信仰は間違いです。上記の正信偈にある「邪見驕悪衆生」の(マーナ:計る、比べる)からくるという分別心(自力の執心:日頃のこころ)、即ち比べる心は不要とのことでした。ですから、極楽浄土と地獄を比べるのは無意味です。

善と悪、天国と地獄、正義と他との比較は「アとワ」の成り立ちからして無意味です。例えば、BLMやANTIFAなどの組織は、人種差別やファシズムがなくなると仕事を失いますし、そもそもBLMと黒人の人権は無関係です。むしろ組織の存在は人種差別を助長しています。その最たるものが宗教間の争いである事は言うまでもありません。

 ここで、「分別心=計る:比べる」とは(わけて比べる)の意味になります。わけることによりわかるという還元主義に通じます。ですから、自然科学の元と同じです。わけることにより科学するというのはわかりますが、そこから先、比べるというのは避けようということです。

 

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