宇宙哲学は縄文哲学に接続しなければならない

いつも引用するある科学者は、3つの科学が等しく発達する必要があると強調しています。3つの科学とは、「精神科学・社会科学・物質科学」です。 そして、「まず精神科学と社会科学が出てくる」と述べています。

G・アダムスキーが残した紡錘図形から物質科学を目指してきたのですけれど、紡錘図形の解釈から得られた弧理論(Ark Theory)の考え方が、縄文哲学の魂(タマ+シヰ)にそっくだと気付きました。  大変意外なことなのですけれど、紡錘図形について追求していった結果、唐突にも精神科学が「縄文哲学」として出てきのです。

偶然というか、必然というか、ある科学者が述べたとおりの結果でした。 やはりここは、物質科学の追求を一端置き、精神科学・社会科学を目指すべきとの結論に達しました。

どうも、縄文哲学の核心は、「トのヲシテ」にあるようです。 紡錘図形は、弧理論による原子模型です。 追求すれば精神科学が出てきます。 しかしながら、宇宙哲学より、縄文哲学の方がより日本人に馴染みやすく、かつ具体的です。

宇宙哲学を縄文哲学につなぐことによって、精神科学・社会科学を理解することができ、やがては紡錘図形の中から、目指す物質科学の芽が得られるだろうということです。

ただ、ある科学者は「3つの科学に明確な仕切り線はない」と述べています。  俄には受け入れがたいことなのですが、我々の精神活動の内、想念は物理現象の一種らしいです。※ 精神科学と物質科学が部分的に重なっているということです。

G・アダムスキーによる宇宙哲学(因とマインド)は、クニトコタチさんの縄文哲学(トのヲシテ)につながねばならないということです。

※ 想念は、時間を含まない真のエネルギーの一形態だと考えますと、M軸上の我々からは、想念が無始無終かつ無辺である訳です、「何処から何処へ」「どちらからどちらへ」ということはありません。 そして、真のエネルギーの一形態である想念が、身体に「生理学的電気」として、即ち電子やイオンの運動P_として現れると考えられます。 つまり、人体は想念のアンテナとしての機能を有しているというふうに考えられるのです。 当然、そうなれば「想念の増幅器が開発される可能性がでてくる」ということです。

 

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「神頼み→予言」がサタニスト(悪魔崇拝者)の目的らしい

以前、紫霄閣というサイトの聖徳太子が封印した日本の優れた古代文化についてご紹介しました。 その文中「2.時代的背景」としてAD6C~AD7Cにかけて「大乱に伴い、神代文献を徹底的に焚書」されたとのことでした。 焚書という行為はおよそ日本的ではないと記しました。

同じく同文を読んでいますと6.聖徳太子が編纂を指示した『先代旧事本紀せんだいくじほんぎ(622)』の意味の所に次のようにあります。

・聖徳太子は、『先代旧事本紀』の編纂を、秦河勝、中臣御食子に命じている。この膨大な歴史書は、今日厄介物扱いで、偽書扱いされている。しかし、前記参考文献の著者・牛山火壱氏によれば、この本は偽史であって、偽書ではない。歴史改竄の一貫であり、その内容は「ユダヤ本紀」と言える物であるという。即ち、物部家等に伝わっていた膨大な文書類を焚書し、新たに偽史を作成したのである。

・後述するように、 天照大神は BC9C 頃に実在した、偉大な男性の天皇(注:天皇という呼称は後年)であるが、『先代旧事本紀(622)』において既に神格化され、更に女性化されている。この極悪の極みが後の記紀にも継承されている。

・この本の巻末にある『未然伝』は予言書であるが、予言という行為は極めてユダヤ的であり、日本古来の考え方とは相容れない。また、聖徳太子は推古天皇に本書は遠からず隠滅すると奏上しているが、これも、生来楽観的な日本人の性格からは著しく離れた行為である。   (下線は管理人による)

 

大乱に伴い焚書を行うとともに、偽の歴史書を作成したということです。 聖徳太子が秦河勝、中臣御食子に命じて作られた『先代旧事本紀』の巻末にある『未然伝』は、予言書だということです。 焚書に並び予言という行為は極めてユダヤ的であり、およそ日本的ではありません

 

これまでの考察により、人は信仰にシャーマニズム(神頼み)が入ると簡単に対象が神仏から悪魔に入れ替わることが分かりました。 旧約聖書にシャーマニズム(神頼み)を入れるとともに、その形代(かたしろ)にお金を持ってきたのがユダヤ人になりすましたヒクソスらしいです

上記の引用文を読んだとき感じたのは、次の通りです。

どうもシャーマニズム「神頼み」、つまり、悪魔崇拝の儀式により、「強くて明瞭なイメージ(想念)」を受けることによって彼らが得たいのは、予言なのだということです。

fukuroes写真1

イメージの幅図1

彼らの感覚器官の心は、とうに麻痺し生贄を捧げるどころか、ついには自らを火に投じるしか彼らのシイを満たすことはできません。下記参照

注: G・アダムスキーによるテレパシーの仕組みとヲシテ文献による魂の比較

・宇宙の意識(因) → マインド

ソウルマインド : 触覚(feel)  =自我による印象※1

センスマインド : 感覚器官の心 =五感による印象※1

※1 2つのマインドが合わさって自己が自己と感じるマインドとなる。

・縄文哲学

魂(タマシイ

大宇宙の中心※2 → タマ※3

地球にあるシイ※4

※2 宇宙の中心にあるのはアモトだから、アモトからタマはくるのではないかと考えられます。?

※3 タマは、人の心の本体

※4 シイは、生命維持の欲求 強いるのシイ 欲シイ欲シイのシイ

タマ+シイ=魂 タマにシイが加わり、魂となり地上の物質が集まって人となる。

おそらく、G・アダムスキーによるマインドと縄文哲学による魂(タマ+シイ)は同じものです。

また、弧理論(Ark Theory)の考え方の元になる基本図形

物質(結果)に実体(原因)図2

に等しいと考えられます。

E軸上の実体が(因)であり、ソウルマインドはここから来ます。物質が集まってセンスマインドと重なり、人となります。  縄文哲学としては、実体からタマが来て、タマ+シイに物質が集まって人となります。

上記の仕組み(宇宙哲学・縄文哲学・弧理論の考え方)は、いずれも「いつからいつまで」そして「どこに」が含まれていません。 無始無終かつ無辺です。

これは、旧約聖書の「在りて在りたる者」≒無始無終かつ無辺 に近いです。 なのに3つの宗教が行き着くところ悪魔崇拝になってしまったのは、ユダヤ人になりすましたヒクソスによるようです。 あらゆる宗教の信徒の人たちは、心に神頼みがゼロではありませんし100でもありません。 世の紛争のほとんどがここから出ていることに気付いていただきたいです。

ヒクソスは、自らを人々から隠すために、聖書に登場するユダヤ人をスケープゴートにし、あらゆる人・組織をスケープゴートにし続けることによって、世界を混乱に陥れてきた事に気付くべきです。参照 バカボンのパパ「賛成の反対なのだ」では済まされない

 

3つの科学、(物質科学・精神科学・社会科学)の発達こそ、未来が拓ける道であると確信しています。 G・アダムスキーが残した

図32ネガ図3

紡錘図形の解析によって、物質科学の研究を進めてきました。 続ける内に、奇しくも図3の解析から得られた弧理論の考え方(図2)の基本が、(因)とマインド あるいは、魂(タマ+シイ)と同じものであると気付きました。 本当にびっくりです。

(因)とマインド あるいは魂(タマ+シイ)が精神科学並びに社会科学の基礎であることは明白です。 物質科学は、精神科学と社会科学の基礎の上にこそ立脚できるのです。ですから、図2を元に精神科学と社会科学について、考察を続けたいと思います。 時期がきたならば、相応の物質科学にたどり着けるのではないかと楽観的に考えています。

因みに三種神器(ミクサタカラ)は、精神科学・社会科学・物質科学の象徴だろうと思います。

ミクサとは、タマ・カガミ・ツルギの神器です。(池田満著:ホツマ辞典、展望社)

 

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想念の仕組み(イメージの幅と事実)

これまで、G・アダムスキーによる宇宙の意識(因)と2つのマインド{ソウルマインド+センスマインド(感覚器官の心)}並びに縄文哲学による魂(タマ+シイ)について考察してきました。

農業生産の効率化等により、社会が豊かになるにつれて、人々の欲求が次第に大きくなりました。その結果、魂(タマ+シイ)のシイ、つまり欲シイ欲シイのシイ(生命維持の欲求)は、時代とともに肥大化しました。

富と権力の争奪によりシャーマニズム(神頼み)が生じ、その結果縄文文明は衰退しました。 シイの欲求からからシャーマニズム(神頼み)が生じたのではないでしょうか。

文化シャーマニズム曲線図1

時が流れ、いつしか日本にもシャーマニズム(神頼み)の形代(かたしろ)とお金結びつきました。 それがいつの誰によってなされたかわかりません。

形代とお金図2

 

想念(イメージ)の幅と事実(物理空間での現象)の関係について考察します。

G・アダムスキーによる【センスマインド(感覚器官の心)】は、縄文哲学の【シイ(生命維持の欲求)】と同じもののようです。 つまり、シイ(生命維持の欲求)は、感覚器官の心から来ていると考えられます。

感覚器官の心は、

kankaku図3 こちらから拝借

視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚(touch)の各感覚器官から来ています。 言い換えるとシイ(生命維持の欲求)は、感覚器官に起きるイメージ(想念)そのものです。

宇宙には、善悪を含め「在る」のであって、そこには想念の違いがあるだけだと述べました。想念の違いとは、(幅)があるということです。チャンネルが異なるだけともいえます。

 

イメージの幅図4

にイメージ(想念)の幅を示します。 イメージの幅を横軸に表します。 湧くイメージに名称を付けます。右端に神や仏などを置き、左端に悪魔(サタン)やルシファー(堕天使)などを置きます。 間には種々雑多な名称を置きます。例えば、ある人が得たイメージを元に、発明を成すかも知れません。 あるいは、ある人のおかれた状況と全く場違いなイメージが突然起きることがあります。いわば雑念です。ですから、「名称」とは、各人の頭の中に湧いたイメージに名前を付けたということです。

このイメージ(想念)には、強度と明瞭度があります。右端に行けば、湧く想念はとても弱くなります。逆に左端ではとても強くなります。ですから右端での明瞭度は低くなります。 その下の難易度というのは、シャーマニズム(神頼み)です。左端が神頼みで、右端が自助努力です。

人が希望をもって目標を立て計画的に努力して願いを叶えるのは大変です。 同じ願いでも安易な願いが神頼み(シャーマニズム)です。

ここで、G偶像、I想念、B物理現象(事実)とします。 今ある人がG偶像に礼拝をしたとします。Gは、仏像やキリスト像などです。ある人が礼拝のとき、Gを前にして心の内に(神頼み)が強ければ、その人のI想念は、左端に寄っています。このときの名称は、例えば「悪魔」ということになります。目の前にあるGが仏像であってもです。 人のシイは、シャーマニズムよって簡単に(左右)反転します。

また、ある人が心の内に、{「**するがよい」という地底人からのイメージ(想念)}が湧いたとします。イメージ(想念)に含まれるメッセージは、B物理現象として正しいかも知れませんし、間違いかも知れません。かつ地底人もB物理現象としての人物かも知れませんし、そうでないかも知れません。  意外と、この区別がつかない方がおられるようです。  何せ感覚器官の心が受けた”I想念”だから、本人にとって感覚器官からの信号と”同じ”です。つまり事実だと認識します。 I想念が、即B物理現象であるとは、誰も思いませんけれど、ややもすると「感覚器官の心」に湧くI想念(イメージ)は、そのままB物理現象に等しいと思ってしまうのです。事実だと認識してしまうのです。

  • 幽霊の正体見たり枯れ尾花

幽霊がI想念(イメージ)で、枯れたススキがB物理現象(事実)です。

耳という感覚器官にB物理現象の「音波」として入ってきてI想念(イメージ)が湧くのと、想念として感覚器官の心に湧くのとは、違いがあると理解することが必要です。強くはっきりしたI想念(イメージ)であれば、尚更間違いやすいということです。  恐らくヒトラーは、「あいつ」のイメージをB物理現象(事実)として理解していたものと思われます。 難しいのは、強いはっきりしたI想念でも、ある程度本当のことを含んでいることがあるようです。(予知とか予言?)

シイの虜になった連中が、G偶像としてのフクロウを用いて儀式を行う理由は、強くてはっきりしたI想念を得る為だといってよいでしょう。それが図4名称の「悪魔」です。

まとめますと、

  1. 強く、はっきりとしたイメージ(想念)は、ほとんど無意味である。ほとんどが雑念。
  2. 強く、はっきりとしたイメージ(想念)で意味がある場合は、シイの虜、あるいはシャーマニズムの虜になってしまう可能性がある。
  3. イメージ(想念)が事実であるとは限らない。
  4. 大切なイメージ(想念)ほど弱く分かりにくい。雑念に紛れてしまう。
  5. シイが極大化した状態が悪魔崇拝である。
  6. 無神論者であっても、心の内に神頼み(シャーマニズム)があれば、相応のイメージ(想念)が湧く。

無神論者も日本教である人たちも同じです。でなければ、宝くじもFX(外国為替証拠金取引)も売れるわけありません。宗教にお布施(お賽銭)としてお金を出すのは、まさに神頼みです。

かなり荒いですけれど、強いはっきりしたイメージ(想念)は危ないし、その示す内容がB物理現象として存在しない可能性が高いということです。 分裂や不安、あるいは恐怖を伴ったイメージは、ダメです。

生命維持の欲求であるシイ、つまり感覚器官の心に効率的に訴えるには、図3の感覚器官に直接訴えるのが一番効率的です。どこかの誰かは、このことを熟知しています。それが3S(スクリーン・スポーツ・セックス)政策として行われていることです。

過去、かなりの期間にわたり「お金」とは何かを調べました。 その過程で動画「お金が出来る仕組み。銀行の詐欺システムMoney As Debt」に関する記事を書きました。

お金は、負債である。お金と時間は関係がありそう。時間は存在しない。時間とは、過ぎ行く運動の記憶である。(運動/時間)の比を未だ決定していない。だから自然科学は間違っている。・・・などがわかりました。 動画では、お金の仕組みと機能の説明はありました。しかしながら、我々はどうすればお金の柵(しがらみ)から抜け出せるかの方策を示したものではありませんでした。

ここにてき、お金の仕組みではなくて、

お金の存在を許しているのが「私利私欲」を手っ取り早く実現する「神頼み」にあることがわかってきました。シャーマニズム(神頼み)に使う形代(かたしろ)に図2のお金を持ってくるというアイディアこそが、お金の柵の根源だったのです。

想念の仕組みによって、安易な神頼みに向かうからこそ、お金から抜け出せないのです。  神頼みの形代に(利子という負債の仕組みを入れた)お金を持ってきたのは、どうもヒクソスのようです。羊たちにヤハウェを拝ませながら、名称「悪魔」にすり替えたのがヒクソスだったのではないか?

 

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悪魔崇拝の本質

これまでの考察を以下にまとめます。

G・アダムスキーの伝えた宇宙哲学によれば、人の心の本体は宇宙の意識(因)より出てマインドになるようです。 マインドには2種類あって、センスマインド ソウルマインドです。

センスマインドは五感によります。 視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚(touch)の五つが感覚器官の心(センスマインド)です。 ここから喜怒哀楽などの想念(印象が出ます。

ソウルマインドは、意識の本体である触覚(feel)です。ここから自己の想念(印象)が出ます。 2つのマインドが自分が自分であると認識する自我となります。

この2つのマインドをヲシテ研究家の池田満氏による魂(タマ+シイ)の解説と比べますと、

タマ = ソウルマインド=触覚(feel) で   シイ = センスマインド=感覚器官の心 になります。 ヲシテ研究家の池田満氏によれば、シイは生命維持の欲求で、人体が死すればシイは地球に残るとのことです。

つまり、 ソウルマインド が タマ であり センスマインド(五感:感覚器官の心) が シイ に対応します。

次に、想念の仕組み縄文哲学(または宇宙哲学)並びにシャーマニズムの関係を示すと

1.宇宙の仕組みとしての想念は、主に以下の2つよりなる。

  2.縄文哲学(宇宙哲学) :統合的な想念  生まれ生きることを嬉しいという世界観

  3.シャーマニズム (神頼み)→考えることの放棄 :分析的であるが故に分裂的(思考停止へ至る) 己以外を排除、あるいは踏み台にする世界観 統合失調

となります。

2.統合的な想念をもってしか、1.の仕組みに気付くことはないと思われます。「生まれ、生きて尽きる」を繰り返すことによりタマ+シイは、新しい経験を積み重ねます。シイは地上において経験を続けますが、欲シイ欲シイの「シイ」が強すぎると転生のサイクルがうまく行かなくなるようです。(文明の崩壊=我欲による分裂から自壊に至る)

3.は、分析的であるが故に物質科学の進歩において2.に先んじることができ、戦争などでの優位性を発揮できます。転生の考えに思い至らず、宇宙の真の姿に気付くことが困難になります。行き着くところは、分裂的・破壊的な想念・苦悶と混乱です。

ここに、2.3.の間には、善悪の区分はありません。いわば想念の仕組みに於けるチャンネルの違いがあるということです。

漢字「神」の成り立ちからいって、「神」の相手は、神様でも悪魔でも、何でもよいとご説明しました。ですから、「神」の字義からいって、神様を悪魔にすり替えることは容易いのです

結果的に、人々の信仰心と選民意識を擽(くすぐ)ることによって、

神を悪魔崇拝にすり替えるとともに(シャーマニズム「神頼み」+形代としてのお金)を潜ませます。

baph_2図1

形代とお金図2

想念の仕組みにあるのは、善悪ではなくて選択の自由があるだけです。想念のチャンネルがあるだけなのです。

ここまでは、前回までに考察しました。

分析的であるが故に、分裂的であることにより破壊的自滅に向かわざるを得ない

悪魔崇拝とは、欲シイ欲シイの魂(タマ+シイ)の「シイが暴走した状態」をいいます

 

生命維持の欲求であるシイ、つまり感覚器官の心は欲シイの欲求に従い、人々の信仰心に付け入ります。神様を悪魔にすり替えるとともに、シャーマニズム(神頼み)を潜ませます。そして、神頼みの形代にお金を入れるのです。

次に「シイ」 つまり、感覚器官の心(センスマインド)の特性について考えます。

 

5つの感覚器官の刺激に対する人の感じ方は、一般に10を底とする対数に比例します。これをデシベル(dB)といいます。 普通は音の大きさや増幅器の利得を表示するときに使いますが、感覚器官は概ね対数的です。

例えば、

wine low8_480写真1

1本2000円程度のワインと20万円のワインでの味覚の違いについて、値段との比較をグラフにすると

感覚とお金図3

の様になります。感覚器官が得る刺激(旨さ)の違い(アとイ)は極わずかです。 なかには

wine55high写真2

1本55,000千円のワインもあるようです。違いはまったくわかりません。 同様に、数十万円のバイオリンの音とン億円のものとを聞き比べても明確に違いがわかる人は、極わずかのようです。 最早、オカルトです。  また、オーディオにもオカルトがあるといわれます。

bable0204写真3

の電源ケーブルは10万円の値がついています。某家電量販店のオーディオコーナーで3万円の電源ケーブルや2万円のUSBケーブルを見ました。

 

まとめますと、感覚器官が受け取る刺激は、直ぐに飽和してしまうということです。今まで食べてきたものより極わずかに”旨い”と感じるためには、10倍でも1000倍でも「お金」をつぎ込まねばならないということです。

ジャーナリストのベンジャミン・フルフォード氏はこちらで次のように述べています。

古い金融 システムに残されたものは機能的リテールシステムと非機能的制度の複合である。別の言い方をすれば、株式市場、証券市場、ヘッジファ ンドのようなすでにとっくの昔に実世界から離れて行ったものを除いては、給与、電子的請求書などのようなものは、未だに街角で現実 ベースで処理されている。世界の総所得が100兆ドルに留まっているのに、スーパーコンピューター、アルゴリズム、及びその取扱者は 相互に兆、京、垓 ドルといった高額の単位のお金を取り扱い、現実から完 全に遊離している。

翻訳ですので読みにくいですが、金融世界では、コンピュータを使って、兆、京、垓 ドルといったお金のやりとりをしています。

京 =10^16     垓(がい) =10^20  という途方もない数字をお金としてやりとりしているということです。 しかし、情報量としては、符号なしの整数として数kbあればOKです。 そして、上記の通り、感覚器官の受け取れる刺激としては大差ないことが理解できます。

我々にとって1万円は、とても大事です。 どこかの誰か、顔も名前も知らない支配者にとって10^20ドルが何の意味も持たないことが分かります。 彼らの感覚器官の心は、とうの昔に飽和しているのです。

ですから、彼らの

katashiro図4

形代は、

fukuroes写真4

フクロウ(モレク)のようなのですが、彼らは、より刺激が欲シイので

ikeniadf写真5

人を生贄にしているようなのです。 おぞましい限りです。

.

動画2

信じられないことですけれど、欲しい欲しいのシイが行き着くところは、悪魔崇拝であり、生贄なのです。そのツールがシャーマニズム(神頼み)+形代であるお金なのです

某ブログからの引用です。

石油は、地球上を走り回っている、余りにも多い車の潤滑油です。石油の需要と供給こそが、これらの車輪を回しています。彼らの強欲装置全体が、石油に大きく依存しているので、石油を使い続けさせるためには何処までも行くのです。この井戸が涸れれば、彼らの血液であるお金の供給も涸れます。奴らの小さな爬虫類の脳は、彼らの金庫に加速しつつ流れ込む金の供給がなくなるという考えに、耐えられないのです。

 

エリートキツネと闘牛士に示したとおり、古い皮質に焼き付けられた彼らのシイを「爬虫類の脳」と呼び、感覚器官の特性(対数)に基づくお金の流れを「金庫に加速しつつ流れ込む金の供給」と呼んでいます。

彼らは、自ら選んだ道を自らが変えることが出来ないのです。恐らく、彼らの最大の刺激は、自らに火を放ち自殺することです。全てを道連れに。  彼らのタマは、シイの奴隷となっているのです。愚かなことです。これが悪魔崇拝の本質です。

 

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教育とは、支配者に都合のよい人物を選び出すシステム

学校教育のテストにおける問題には、必ず正解とそれ以外があります。 テストでは如何に素早く正解を選択し、それ以外を思考の外に追いやるかが問われます。(時間制限がありますから。) このとき排除された選択肢に何ら思考を傾けることはしません。

ところが現実には、正解があるとは限りませんし、テスト問題よりはるかに選択肢があります。そもそも問題の有無さえもわかりませんし、例え問題意識を持っても解への方向(方策)がわかりません。

ですから、教育の程度が高い人ほど(自身が)選択肢から外したことにについて、興味を持ちませんし関心もありません。 従って切り捨てられた事項に対して、何らかの真実が潜んでいるかも知れないという想像もしません。切り捨てた者に対して冷酷です。

よって、教育レベルの高い人ほど、陰謀論・都市伝説を一笑にふした上で、嘲笑の対象にします。そこで思考を停止します。正解と思う方向へ思考を集中します。

陰謀論・都市伝説は、「存在する」からこそ嘲笑できるのです。宇宙において「無」であるものに対して嘲笑さえできません。 教育を受けた人ほど、非論理的な非科学的なものに対して「何らかの存在の意義があるかも知れない」ということに思い至らないのです。 これこそ支配者にとって都合のよい人物像です。 ゼロか1にしか考えが至らない人物像が理想なのです。仮に”1”が正解ならばゼロは切り捨てたのですから、ゼロに存在の意味を見いだすことは絶対にありません。 ですが現実の事象には、そのようなことはまずありません。実に複雑です。

ですから教育とは、支配者にとって都合のよい人物を選び出すシステムです。

形代とお金ご褒美は形代(かたしろ)であるお金です。(願いを込めて川に流してください。)

追記  現代に於ける「市民」とローマ時代に於ける市民とは異なります。ローマ時代の奴隷と比べると、日常自らの衣食住を自力で稼がねばならなくなったのが「現代の市民」です。現代の市民は、奴隷より条件が悪いようです。奴隷ならご主人が衣食住を与えてくれますから。代わりに市民には、自らが奴隷であることを気付かせないように配慮が必要です。

さらに追記20160928

「早く結論を言え!」と急かす上司に誰でもうんざりしたことがあるでしょう。彼も私も「市民」という奴隷です。

 

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現代は シャーマニズ ム全盛である

過去記事に漢字伝来以前に文字があったことを書きました。正しくは漢字渡来以前ということの様です。 漢字渡来以前の日本に文字があったならば、古文書等の記録があるはずです。  調べたところ古史古伝として幾つか存在しました。 「上記(うえつふみ)」「竹内文献」「カタカムナ」などです。 幾つもある古文書の中で、ヲシテ文献は、池田満氏によって非常に深く研究されております。

.


動画1 【ヲシテ文献】 漢字渡来以前の日本を探る【ch桜】6-5

池田氏は、2:50あたりから縄文哲学におけるについて語っています。

魂 (タマ+シイ)  タマ=大宇宙の中心にある宇宙の根源から来る”心の主体”

シイ=”欲しい、欲しい”の“シイ”であって、強いるの”シイ”、つまり、生命維持の欲求

魂(タマシイ)に地球の物質が集まって人体になる。命が終わると「タマ」は大宇宙の中心に帰って行き、「シイ」は地球に残る。

と述べています。この魂(タマ+シイ)の説明が、他の文献とは比較にならないほどに深いのです。私の研究対象である紡錘図形の解析から得られた「弧理論の考え方」にほぼ等しいのです。そこで

池田満著 『ホツマツタヱ』を読み解く 

hotomayomi200_写真1

並びに ホツマ縄文日本のたから

hotuma200_写真2

の2冊を参考に考察したことを記します。

これまでの研究により、次の結論を得ています。物質科学である弧理論の考え方を追っていくと、

  1. G・アダムスキーによる宇宙哲学(因とマインド{感覚器官の心+ソウルマインド}
  2. 縄文哲学の魂(タマ+シイ
  3. 聖書の「在りて在りたる者(I am who I am.)」の「在る」と(相関がある)、さらには
  4. 日月神示の○(結果)とゝ(原因

などとほぼ等しいか相関があると考えられます。

1~4の説明: 1.の因(宇宙の意識)からソウルマインドは来る。 2.のタマは大宇宙の中心から来て、生命維持欲求であるシイと結びつく。タマシイに物質が集まって人となる。 3.の「在る」は「いつからいつまで」と「どこに」が無いという特徴は1&2に同じ。 4.の○(結果)は、1.の感覚器官の心、2.のシイに近い。また、ゝ(原因)は1.の因、2.のタマに近い。

弧理論の考え方は、

物質(結果)に実体(原因)図1

時間[T]を含まない真のエネルギーを持つE軸上の実体が、我々の存在するM軸に投影されることによって、物体(質量m)が位置をもって現れる。実体が持つ真のエネルギー値は、質量mに等しい。  弧理論の考え方は、無始無終かつ無辺で3.に示す「在る」に等しいです。 実体が(因)であり、タマの源泉、原因であると考えられます。 物質が(結果)です。シイに物質が集まって「感覚器官の心」を持つ人体ができます。

 

以上、弧理論の考え方を含めて、5つがほぼ等しいか相関があるということです。過去記事をキーワード(聖書や時間)などで検索ください。 これら5つの特徴をよく表している模型として

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動画2

万華鏡を挙げています。 鏡の組み合わせが(因)であり、覗く画像が(結果)に相当します。

文献:「ホツマ縄文日本のたから」p13にある表を参考に作成したものが

文化シャーマニズム曲線図2  (ホツマ縄文日本のたから p13表を参考作成)

です。  横軸が歴代アマカミの歴数です。 初代クニトコタチ(国之常立神:くにのとこたちのかみ)を1.として、ホツマツタエに登場するアマカミに番号をふったものです。そして、13番目が記紀での人皇初代タケヒト(神武天皇)ということですから、番号を1からふり直しています。 本来は、西暦に置き換えることは出来ないのですけれど、わかりやすい様にwikiを参考に西暦を入れています。 神武天皇が西暦でBC660であり、12代ヲシロワケ(景行天皇)がAD71とされています。(上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧より)

縦軸は、池田氏がヲシテ文献の一つであるホツマツタエを詳しく解析された結果、文献に出てくる事象の頻度と事象の重要性を考慮して(縄文文化、シャーマニズム)の程度を比重として表したものです。 8アマテルカミの頃より次第に戦争が増加しています。(軍事曲線は省略)

図2において、気付くのは、「縄文文化が、戦争が発生するとともに次第に低下し、シャーマニズムが台頭している」ことです。 縄文文化とシャーマニズムが反比例しています。 恐らく、現在でもこの状況は変わっていないと思われます。

注意:日本ヲシテ研究所®の池田満氏は、ヲシテ文献の研究には、「ヲシテ」文字を直接読み書きでき、習熟することが必須であるとされます。

 

これまでの研究により、宇宙の仕組みとしてのテレパシー(想念)には、ブードゥーなどの呪術も含まれるらしいことが分かっています。オカルトの存在がこの宇宙において(無)であるならば、わざわざ否定する必要はありません。無いものを想像することはできませんから。  しかし、オカルトは現実として行われています。先の記事に記したようにボヘミアン・グローブたちは、悪魔崇拝の儀式をしています。(世界の要人たちの悪魔儀礼Bohemian Groveを暴く) 信じられなくてもよいのです。存在するのですから、調べるべきということです。
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動画3 ボヘミアン・グローブの正体

どうも、神(悪魔)崇拝は、シャーマニズムそのものです。 池田満氏によれば、シャーマニズムとは『神頼み』とのことです。

整理しますと、縄文哲学の(魂=タマ+シイ)とG・アダムスキーによる宇宙哲学(因とマインド)は同じものです。そして、私たちのマインドと宇宙の意識(因)は、テレパシー(想念の仕組み)により結ばれています。

結果として、宇宙哲学においては、ブードゥーなどの呪術もシャーマニズムとして、想念の仕組みに含まれると考えられます。

想念の仕組み縄文哲学(または宇宙哲学)並びにシャーマニズムの関係を示すと

1.宇宙の仕組みとしての想念は、主に以下の2つよりなる。

  2.縄文哲学(宇宙哲学) :統合的な想念  生まれ生きることを嬉しいという世界観

  3.シャーマニズム (神頼み)→考えることの放棄 :分析的であるが故に分裂的(思考停止へ至る) 己以外を排除、あるいは踏み台にする世界観 統合失調

となります。

2.統合的な想念をもってしか、1.の仕組みに気付くことはないと思われます。「生まれ、生きて尽きる」を繰り返すことによりタマ+シイは、新しい経験を積み重ねます。シイは地上において経験を続けますが、欲シイ欲シイの「シイ」が強すぎると転生のサイクルがうまく行かなくなるようです。(文明の崩壊=我欲による分裂から自壊に至る)

3.は、分析的であるが故に物質科学の進歩において2.に先んじることができ、戦争などでの優位性を発揮できます。転生の考えに思い至らず、宇宙の真の姿に気付くことが困難になります。行き着くところは、分裂的・破壊的な想念・苦悶と混乱です。

ここに、2.3.の間には、善悪の区分はありません。いわば想念の仕組みに於けるチャンネルの違いがあるということです。

極小の世界である素粒子や宇宙の地平線を観測できる様に発達した現代において、分析的な思考ではこれ以上先に進めなくなります。 何故なら数学者岡潔がいうように、極小の素粒子も極大である膨張する宇宙も人の五感でわかるものでない」からです。全人類の富を素粒子加速機の建設に使えば突き止められるというのは、事実上「ウソ」でしょう。 素粒子・宇宙を説明する究極の理論が幾つもあるというのも無意味です。破綻しています。その原因が「運動/時間」にあることは、過去に考察済みです。

図3 五感で分かる範囲は、赤い括弧の内側

 

シャーマニズムの「神頼み」において、その願いには、

katashiro図4  ひな人形の原型だったようです

象徴としての形代(かたしろ)があります。  神社での無病息災祈願では、形代に息を吹きかけることによって、自身の病を形代に預ける訳です。安全祈願祭が終わった後、形代は川に流すしきたりがあります。現在は川を汚すので行われることはないようです。

また、人を呪うには

waraningted写真 3

丑の刻参りのわら人形があります。売られているなんてびっくりです。

 

ここで現代のシャーマンがボヘミアン・グローブたちだと気付きます。そのシャーマンたちが祈祷する相手は神(悪魔)です。  漢字である「神」の成り立ちは

神 → 〒(祭壇)+音符の申(しん) です。

意味は、稲妻(申:カミナリ電気)のように不可知な自然の力に対して、〒祭壇である机を前にする、ということです。

ですから、漢字「神」の相手は、神様でも悪魔でも、何でもよいのです。 この「神頼み」と縄文哲学に象徴される縄文文明とのせめぎ合いこそが、図1の意味なのです。我々に与えられているのは、選択の自由のみなのです。善悪ではありません。

 

現代のシャーマンは、ボヘミアン・グローブか、青い血の一族か、その姻戚関係にある金融資本家なのかはわかりません。(どうもヒクソスの末裔らしいことがわかりました。後日、記事にする予定です。)

その形代(かたしろ)は、現代の偶像であるお金:貨幣・通貨であることに間違いありません。 ごく少数の人たちを除いて、地球人類ほぼ全員が通貨を形代としたシャーマンなのです

形代とお金

現代の偶像たるお金は、シャーマニズムにおける形代である

図5

シャーマニズム自体は、更に古くから世界各地に存在すると考えられます。

問題は、シャーマニズム(神頼み)の形代に偶像たるお金を持ち込んだのが誰かということです。

 

欲シイ欲シイのシイが、形代であるお金を媒介として極大化しつつあるのが現代なのです。

過去記事、

fpetimg5

養殖キツネの選択的交配によりできた白いキツネ

写真4

エリートキツネと闘牛士にあるように、何世代もお金に執着することを繰り返す中、生まれながらにお金に執着する世代の人口に占める割合が増加しています

dain1.3図6

これは、脳の古い皮質に焼き付けられますので、「我よし」を自らの意志で止めることが出来なくなります。  結果、タマ+シイのシイは、執着により転生がうまく行かなくなると考えられます。つまり、自らの文明を自らが破壊するのです。自らの暴走を自らが止められないのです。これは科学的な実験事実です。

今ならまだ、引き返せると思います。 闘牛士(金融資本家?ヒクソスの末裔?)のマントの色に誤魔化されることなく、上記の仕組みを受け入れることが出来るならば、人類の寿命も延びると信じています。 もし仮に人類が生き残ることができたならば、後世の人たちは我々の時代を「シャーマンの時代」と呼ぶかも知れません。

追記  気味悪い神(悪魔)崇拝の儀式について、分析しているサイトは他にないと思われます。  繰り返します。いかなる宗教も「神頼み」はダメです。ヒクソスの罠です。

 

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恐らく宇宙には、善悪の区分はなく、想念の違いがあるだけだろう

かなりの昔、ある酒席で哲学を専門とする年配の方に、哲学とは何ですか?とお聞きしましたところ、「哲学とは、真・善・美です。」と即答されました。

弧理論の考え方による宇宙の構造について考察を続けてきたところ、思わぬことから宇宙の哲学的考察に至りました。

神と悪魔、天国と地獄、仏・・・。そこには、人の考える善悪というモノサシが横たわり、何が本当なのか?何をもって善とするのか?善なるものには美しさがあるのか?など、宇宙に対する哲学があるのだと思います。

 

G・アダムスキーの伝えた宇宙哲学によれば、人の心の本体は宇宙の因より出てマインドになるようです。 マインドには2種類あって、センスマインド ソウルマインドです。

センスマインドは五感によります。 視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚(touch)の五つが感覚器官の心(センスマインド)です。 ここから喜怒哀楽などの印象が出ます。

ソウルマインドは、意識の本体である触覚(feel)です。ここから自己の印象が出ます。 2つのマインドが自分が自分であると認識する自我となります。

この2つのマインドをヲシテ研究家の池田満氏による魂(タマ+シイ)の解説と比べますと、

タマ = ソウルマインド=触覚(feel) で   シイ = センスマインド=感覚器官の心 になります。 池田氏によれば、シイは生命維持の欲求で、人体が死すればシイは地球に残るとのことです。

 

本題です。上記の哲学(神と悪魔・・・)は、善悪に根拠を求めていますが、G・アダムスキーによるテレパシーの考え方を適用すると、次の2点に集約されると思います。

人の自我(マインド)が持つ印象には、概ね2種類が混在しているのではないでしょうか。

(1) 明るくて、はっきりとしていて、一見いかにも善いことのように感じる「印象」。 行うことは容易い「印象」。

(2) いかにもちいさくて、微かであって、行うことは難しい「印象」。気付くのは困難な「印象」。

 

1.は、映画やTVのニュース、CMなど五感に訴えることにより、主にセンスマインドに”喜怒哀楽”として起きます。 その印象からの行動は、人にとって容易いことが多いです。お金さえあれば。 これらの印象は、ソウルマインドにもあって、恐らくヒトラーに憑いた「あいつ」もそうだろうと推測します。  ご承知のとおり、日月神示でいう「我よし」の行為であって、これら印象から起こす行為は、究極的には破滅に至ると考えられます。

音の大きさはデシベルdBで表されます。デシベルの計算は底が10の対数によります。非線形であるのですから、五感による印象は”すぐに飽和”します。 より大きな強い刺激を五感が受けてもすぐに慢性化して、これまでの刺激を小さく感じます。  ワインのことは分からないのですけれど、某番組で1本2000円のワインと数万円のワインを目隠しテストしたところ、違いは分からないようでした。コンマ数パーセントの違いにとんでもないお金が必要なのは、こういった理由からです。  そして、行き着くところセンスマインドを満たすためには、恐らく違法薬物や殺人・幼児虐待などに手を出すということになります。

2.は、(1)の印象にかき消されてしまう為に、ほとんど意識されないでしょう。 この小さな印象は、ソウルマインドにしか出ないような気がします。  その印象は、微かで小さいために「なんとなく」「そうなのかな?」という程度のものですから、その印象をもって「どのような行為に結び付けたらよいか」即座に分かることはありません。 意識的に意識するには、相当の時間が必要です、解釈は意識上でしますので、間違うこともしばしばです。 また、その印象から行動を起こすことは、非常に困難です。ほとんどの人が分かっているけれど、行動に起こすことはできません。たぶん、「虫の知らせ」は、この部類に入ると思われます。

ここに印象の善悪はありません。想念の違い(TVでいうチャンネル?)があるだけです。原因が想念で結果が現実だということが分かります。

 

ここで大事なのは、以下のとおりです。

過去記事「エリートキツネと闘牛士」にあるように、人が(1)の易きに流れることを何世代にも渡って行うことは、非常に危険だということが分かります。 これは、お金という現代の偶像を崇め続けることによって、強化されます。 その結果、既に我々の内には、「生まれながらに、お金に執着する」人の割合が高くなっています。この呪縛は、とても強くて例外は

arm76dfa27d写真1

arm_12_amish写真2 アメリカペンシルベニア州などに住み自給自足の生活を営む人たち

に見られるアーミッシュの人たちくらいしかいないと思われます。 ただし、世界がアーミッシュの様になればよいという訳ではありません。

 

G・アダムスキーによれば「ブードゥーやコックリさんをやってはいけない」と述べています。 彼は、「ブードゥーなどのオカルトが同じテレパシーの範疇にある」とは決して言いませんでした。しかしながら、考察を続けるとオカルトは(1)の範囲に入るだろうと推測できます。

地球の支配的立場の人たちが、「高貴な青い血」の一族なのか、それとも一族と血縁関係にある金融資本家なのか、フリーメーソン・イルミナティ、またはユダヤ人なのか?それともビルダーバーグ会議等に出た人なのかはわかりません。  しかし、彼ら、顔も名前もわからぬ支配的立場の人たちは、恐らくヒトラーに憑いた「あいつ」の様な印象を求める儀式を行っているのではないかと推測します。彼らも自らがどの方向へ行けばよいのか手がかりが欲しいのです。

そして、彼らの脳の古い皮質には、「口座に加速度的に入るお金の流れが枯渇することに耐えられない」という、柵(しがらみ)がしっかり焼き付いているのです。 彼らは、は虫類の様な脳を持つ身体になっているのです。 ですから、彼らから出る情報は、どこか恐怖が混じっているのです。

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動画1  恐怖が混じっている情報は嘘です

 

少し書きにくいですけれど、彼らの「シイ」は、この仕組みからいって、(いずれ)消去されるのではと危惧しています。 G・アダムスキーによれば自我の本体であるソウルマインドが受け継がれるとあります。ですから、いつまで経っても「我よし」のみの「シイ」では、ダメだろうということです。

 

追記

物質(結果)に実体(原因)図1

時間[T]を含まない真のエネルギー値を持つE軸上の実体が、M軸上の人体等に何らかの影響を与えるのが想念であると仮定すると、

E軸は、M軸に直交するのですから

20140516直交するE軸図2

4つの3次元空間に分けられます。 するとE軸上の実体がM軸上から見ると「いつから、いつまで」かつ「どこに」在るのかを特定できません。言い換えれば、想念は、どこにでも在るということです。

従って、実体から人体等に及ぶと仮定する想念もまた、「いつから、いつまで」かつ「どこに」を特定できないだろうと考えられます。  想念は、無始無終かつ無辺ということです。

想念は、瞬時に伝わる波だとされていますけれど、波ですらないということになります。 そして、一種の「真のエネルギー」である想念は、マインドに時間[T]を含むエネルギーを生じさせます。具体的には、脳に起きる生理学的な電気信号です。これが、脳や身体の役割だと思われます。

 

いつも引用するある科学者(アラン)はテレパシーについて、次のように述べています。ダニエル・フライに対して

「・・・君の心はうまく想念をキャッチする。実際、君が心のイメージを分析する練習をもう少しやってくれたら、君は母船に乗らなくても我々は母船の細部を君に見せることが出来るんだがね。」

「それはうんとやってみたいね」と私は言って「向上するのに最良の方法は練習することだ。・・・もし、ぼくが目を閉じて精神を統一すれば、少なくともこの円盤の断面を見せることができるんじゃないだろうか」

「まずだめだ」とアランは少々そっけなく答えた。一般地球人が超感覚的知覚力(ESP)と言っている現象を試みようとするときに、ほとんどしている誤りを君もおかしているのだ。まず第一に、それは全く超感覚ではないんだ。それは各感覚器官と同様に、肉体の普通の知覚装置の一つとほとんど同じなのだ。ただし地球人はそれを使用しないために、まだ発達の初歩的な段階にある。地球の動物やコン虫の多くは人間よりも高度にこの感筧を発達させているよ。
君は生まれたときから目をあけたままでイメージによる印象をキャッチしたり分析したりすることになれている。君が初めて顕微鏡の使用法を学んだとき、接眼鏡は一つしかなくても両眼を開いたままでのぞく方がよいと教えられた。だから両眼を閉じてはいけないんだ。ビューイング・ビームを切ることにしよう。そうすれば心が乱れるような影響はなくなるだろう。
次に、精神を集中させてはいけない。精神集中は(テレパシーの)送信の態度であって、受信にとってはほぼ完全な障害となる。正しく受信するには完全なリラクゼーションの状態に達しなければいけない。君はこれがやれる能力を持っている。地球人の或る種族の中で著しい能力だ。
実際、私が初めて君の心とコンタクトしたのは、この能力によったのだ。それは三夜前だった。君はベッドへ帰ったが、その日の出来事の心痛があまりに大きかったために眠れなかった。君は私にとって非常に興味ある精神的な方法を応用した。その簡単さと効果的な点で興味があったのだ。それをおぼえているかね?」
「おぼえているよ。すぐ寝つかれないときはときどきそれを応用しているんだ。完全な暗黒の部屋のイメージを心に描いて、その部屋のむかい側の壁面に十個の光る数字があるものとする。次に他のあらゆる想念が意識から排除されるまでこれらの数字に自分の注意を集中する。それか十個の数字を一つずつ消してゆきながら残りの数字に心を集中するのだが、一つ消すごとに集中の度合を弱めてゆく。普通ならまだ数個の数字が残っているあいだに眠り込んでしまうんだ。しかしどんな場合でもぼくは最後の数字が消えたあと数秒間もすれば眠り込んでしまう」
「そのとおりだ」とアランが答えて「そしてこの方法は顕在意識をリラックスさせるばかりでなく、他のあらゆる想念を潜在意識の戸棚の中に返らせることになる。こうした状態下では顕在意識がやるよりもはるかに容易に潜在意識は送受信を行なうんだ。
・・・
だがわれわれは手近な計画からそれてしまった。君は君自身の心のリラックス法を応用せよとすすめるつもりだった。今暗くなっているビューイング・スクリーンの部分に目を向けたまえ。そして心がリラックスしたら、君が乗っている円盤の内部のイメージを伝えるようにしてみよう」

・・・

その光の大きさは30センチメートルかそれ以上の直径をもっているようだし、照明装置にしては薄暗いものだった。急いでそっちに歩き出したとき、とつぜんの疑いが私の心に入ってきて、そのアランの声がすぐそばに立っているように聞こえてきたとき、すぐにそうだと確信した。「そうだよ、ダン。我々のものだよ。今は試料採取船を使っていないので、小型の通信用アンプを送るのが一番よいと思ったんだ。そんなものなしでもできるんだが、よいところもあるのさ。我々の会話でミスをするのをなくするんだ。」

(下線は管理人による)

 

ある科学者が言うテレパシーは、普通の人間が持つ普通の能力であると述べています。そして、この能力の特徴を説明した上で、この能力を手助けする装置を作製して用いていることを示しています。 ですから、想念は何らかの物理現象の特徴の一端を持っているということです。たぶん、脳やその他身体に生理学的な電気信号(いわゆる情報)を起こす作用を持っていることになります。 大事なことは、聖書を含む、古今の哲学や異星人が伝えた哲学とテレパシーの概念は、相性がよい、あるいは相関があるらしいということです。  宇宙のどこであろうと同一の原理により成り立っているということです。  気味悪い対象でしかないオカルトも含めて。 かつてビートたけしが言った言葉に「自ら堕ちていく自由もある」と。

 

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ローマ教皇 が、クリスラム(Chrislam)を宣言して世界統一宗教を目指すことについて

先月、カレイドスコープ氏のサイトに、ローマ教皇は、二大宗教の合一を唱え世界宗教を宣言したという記事がありました。

po20151001-4写真1 カレイドスコープより拝借

ローマ教皇 フランシスコは、2015年9月24日、マンハッタンのセント・パトリック大聖堂で演説しました。 このとき出された所感において、 ローマ教皇 は、キリスト教とイスラム教の二つを合一して世界統一宗教を目指すことを明らかにしたとのことです。

In New York, Pope Francis Embraced Chrislam And Laid A Foundation For A One World Religion  (ローマ教皇フランシスコは、ニューヨークで、クリスラム(キリスト教+イスラム教の合成語)を受け入れて、世界宗教の礎を築きました。)

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は同じ起源ではありますが、3つの宗教は、いろいろな問題の発端になっていることは事実です。

記事によれば、キリスト教とイスラム教は異なる宗教ではあるものの、神に至る道であることには変わりがない、という考え方が世界中の他の多くの人たちの間で広がっているようです。  そして、キリスト教(Christianity)とイスラム教(Islam)を合わせた造語「クリスラム(Chrislam)」という言葉が、世界宗教運動を説明するときに用いられるようです。

 

このような宣言の背景となる、宗教的、政治的な思惑は記事を参照いただくとして、この記事を読んで思い出すのは、アメリカ主体のイラク戦争のときと、仏英米によるリビアへの軍事介入です。

アメリカ等の強国が、フセインカザフィー大佐をリンチのように殺害した記憶が生々しいです。サッダーム・フセインの死刑執行ムアンマル・アル=カッザーフィーの死を参照ください。

その結果、イラクとリビアには、混乱と憎悪が渦巻く泥沼が残るのみでした。(目論み通り、何らかの利権は、どこかの誰かに移ったのでしょうが。)  よく知られているとおり、戦争の結果、相手国においての占領政策がうまくいったのは日本しかありません。 アメリカの占領政策がうまく行き過ぎたのは、日本の特性によったのです。他の国でうまく行くわけがありません。 イラクとリビアには、「日本人にとっての天皇」のような存在がありませんでしたから、最高責任者を処刑したら終わりです。

ローマ教皇による演説には、統合の未来像も理念もありませんから、仮にキリスト教とイスラム教が合一されて世界宗教ができたとしても、世界宗教内における内戦になるだけのように思います。何も新たな展望・希望がないからです。甚だしく無責任です。

もし仮にキリスト教、イスラム教、ユダヤ教、3つの宗教がリセットされるような事が起きるならば、「神との契約」という箍(たが)がなくなるということです。 かろうじて「人」であり得た箍がなくることで恐ろしいことが起こりかねません。

しかし、考えてみれば、「神との契約」がなくても秩序だった国を構築し、高い倫理観と道徳心を持ち、かつ高い精神性の人たちがいます。そのルーツは古から培われた日本的なるモノを有する人たちです。 G・アダムスキーが教えた宇宙哲学より遙かに古くから縄文哲学に基づく日常を穏やかに営んできた人たちをお手本にすれば善いだけだと気付きます。(勿論、幾つか重大な欠点もあります。)

55.8%の人たちは、「神との契約」を結んでから、既に千数百年の経験を積んでいるのですから、できる準備は整っていると思うのですが、いかがでしょう?

sekainojinkou図1

追記

1.自分たちは選ばれた民だと思うのか。 2.イエスという生贄をたてるのか。 3.厳しい戒律を自分に科すのか。  どれも違うような気がします。

 

追記 2021/09/29 ここに詳しくすることは出来ませんが、その後の考察により、日本教の「日本人は、人間の都合が神仏に優先する」という特性の根幹にヨソヤコヱ(48音韻:アワウタ)があることがわかりました。

日本語の起源は、大和言葉であり、その元はヲシテ文献にあるヨソヤコヱです。ヨソヤコエは人の感覚でわかる母音5つ子音10個に配列しています。

図1 出典:日本ヲシテ研究所

神仏の”神”の字義は、示偏に雷です。”示”は祭壇です。の字義は祭壇の向こう側にある超越的な何かを意味します。超越的な何かとはオカルトやスピリチュアルなものを指します。

ところがヨソヤコヱには、感覚でわかる物と事の内に超越的な何かを含んでいません。これが元で日本教として言われる特性(人間の都合が神仏に優先する)が出てくるようです。ですから、日本人には原罪は関係ないのです。ですから、日本人に宗教の統一など無縁です。

 

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神と宇宙の関係について

随分昔のこと、どこかで読んだお話です。確か日本人が書いたと記憶していますが、未だに引っかかっています。曖昧ですが記します。

 

自然科学分野の研究者であるA氏(天文学だったか、物理学だったか?)は、平日は研究に取り組んでいます。 A氏は敬虔なクリスチャンで信仰を持っています。日曜日になると家族とともに教会へ礼拝に出かけ、神に祈りを捧げます。  神が宇宙を創ったと信じるA氏ですが、仕事として取り組む研究対象が宇宙のことなのですから奇妙なことです。

一般に研究とは、研究対象を客観視せねばなりません。研究にあたるA氏の頭の中において、彼自身を宇宙の外に置いているはずです。しかし、同時に彼は宇宙を神が創ったと信じています。 彼自身も神が創ったということを彼自身が受け入れているのですから何かが変なのです。

 

話の書き手である作者は、A氏の存在に何か分裂的なものを見て、奇妙だという意味のことを書いていた記憶があります。 管理人自身、何かを考えるとき常に”分析的”です。分けることにより分かるということは、紛れもない事実です。 しかしながら、宇宙について考えるときは、どうも分析的手法が通じないように思えるのです。 そこで、「神が宇宙を創った」という前提で、そのメリット・デメリットについて考えます。

 

「神が宇宙を創った」とするとき、2つの場合が考えられますので検討します。他の場合があるのかどうか見当つきません。

 

神と宇宙図1

の(1)において、神は、神の内に宇宙を創ったと想定します。神(イ)は、宇宙(ア)と(ウ)の領域になります。  図1(1) 宇宙の森羅万象は、神の表れであり、八百万の神、極端に言えば「全部一緒」です。ただ、我々には(ウ)の領域について、知り得ることはありません。

次に、右の(2)において、神(イ)は外に宇宙(ア)を創ったと想定します。  図1(2) 宇宙(ア)の全ては、神(イ)が創ったのであり、現象の中に神をみることは、ほとんどないと思われます。ただ歴史上の偉人たちは、彼らの研究に神をみていたようです。(科学者と信仰を参照)  ただし、一般の信仰とは異なるように思います。科学者は、最大限の努力の末に神を褒め称えているのであって、単に救済を求めるものではありません。

 

それぞれの場合のメリット・デメリットについて。 (1)は「何でもあり」で至極都合がよいです。どこか日本的なものを感じます。

(2)について、メリットから。

  1. 自己と他を「分ける」ことによって、「分かる」理解が進む。
  2. 神との「契約」という行為により、「法」の概念が根付く。
  3. 契約により、倫理・道徳が行われる。

自然・宇宙を理解しようとする行動は、太古からあるでしょうが、「分ける」ことにより、合理的に理解しようとする基本的な行動原理が明確になります。そして、同じ神を信仰する者同士の間で「憲法・法律」あるいは商いなどによる「契約」行為の習慣が根付くと考えられます。さらに、同じ神を信仰する者同士において、倫理・道徳などが行われ社会に秩序がもたらされます。

ただし、これら整然と秩序だった社会は、未だ完成していないことは周知のことです。

(2)について、デメリットです。

  1. 神と契約したという選民の意識が潜在的にある。
  2. 同じ神と契約した者の間のみ、商いなどによる「契約行為」が履行される。
  3. 同じ神と契約した者の間のみ、「法」による取り決めが履行される。
  4. 神との契約があるから、倫理・道徳が保たれる。
  5. 神から宇宙・自然に対しての信託を受けたと解釈して、自然に対して破壊・簒奪の自由があると解釈する。
  6. 極端な場合、己が神に等しいと解釈して行動する。

随分と荒い考察なのですが、どこか分裂的で傲慢であることは納得できます。 しかしながら、図1の(1)において、(ウ)の領域は、我々の与り知り得ないことですから、結局は宇宙に対する我々の側の姿勢の問題だということです。

図1の(1)だとしますと、理解の進捗度合いは比較的に遅いだろうと予想されますし、社会学者である小室直樹の言うとおり「何者にもなり得ない」日本人という特徴が出てくるのではないかと考えます。

図1の(2)だとしますと、理解の進捗度合いは速いと思われますが、分析的であると同時に分裂的になるという自己矛盾を抱えているように感じます。これが冒頭ご紹介した自然科学者A氏のお話に感じる違和感なのだろうと思います。

分析的(分裂的)にある自分と、統合感のある宇宙(図1の1)の間にせめぎ合いを抱えているのが現代の日本人なのではないだろうか、というのが結論めいた答えです。

ただ、日本的なるものは、天(アマ)と神(カミ)なのであって、西洋的な「神」とは異なるのかも知れません。 それでも尚、日本人の日本的なるものとして現れる倫理観と道徳の高さはいずれから生じているのだろうか疑問です。(ご承知のとおり、日本的なるものは絶滅の危機に瀕しています。)

 

これまでご紹介したとおり、

  1. G・アダムスキーによる宇宙哲学(因+マインド)
  2. 弧理論の考え方(E軸上の実体を原因とし、M軸に投影された物体を結果とする)
  3. 日月神示(原因である”ゝ”と結果である”○”)
  4. ホツマツタヱ:縄文哲学による魂(タマ+シイ)
  5. 「在りて在りたる者」との相関

の5つは、いずれも無始無終であるとともに無辺である点において、同一と考えてよいようです。これら5つは、いずれも宇宙の外という概念を含んでいません

ただし、2.弧理論の考え方は、物理現象を説明するためのモデルです。他の4つ(哲学的産物)とは根本的に異なります。 どう折り合いを付けるのかが大きな問題です。

宇宙の構造を示す「弧理論の考え方」に、我々の精神活動をどのように組み込むかが問題です。言い換えるならば、

宇宙と我(ワレ)の統合はあり得るのでしょうか?

 

追記  どうも、図1(2)の特徴を考えていますと、

sonnowa111図2 こちらから拝借

西遊記の孫悟空が頭にはめている輪を思い出します。この輪は、『緊箍児(きんこじ)』というようです。 「神との契約」によってかろうじて「人」であるとも読めます。 万が一契約が解除・無効となった場合、彼らはどうなってしまうのか考え込んでしまいます。 何故なら、上記1.~5.の情報の来歴は、異星人だと考えられるからです。(4.を除く)

sekainojinkou図3 こちらから拝借    3つの宗教で55.8%です。

 

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G・アダムスキーのテレパシー(宇宙哲学)と日月神示&大本神諭について

なぜ、大本神諭と日月神示に興味を持ったかについて、記します。

G・アダムスキーによれば、「ブードゥー教とコックリさんはやってはいけない」とのことです。  G・アダムスキーの宇宙哲学とテレパシーに深く影響を受けながら長らくG・アダムスキーから離れていたのは、幾つか受け入れられないことがあったからです。 その一つがブードゥー教、呪術を否定しているからでした。そもそも呪術が存在しない「無」であるならば、わざわざ否定する必要はないはずです。

最近になって、人の精神活動の原理はG・アダムスキーによるテレパシーであって、それには呪術やオカルトも含んでいるのではないかと思うようになりました。 しかし、G・アダムスキーの宇宙哲学を学ぶ人にテレパシーも呪術も同じでチャンネルが異なるだけだ」と説明したら混乱することは必至です。  だから、ただ「やってはいけない」とのみ説明したのだろうと理解しました。

信者の方々とっては、大本神諭は100パーセントなのは当然ですけれど、一般の人にとっては興味ありませんし、どうでもよいことです。管理人にとってもこれまで興味ありませんでした。

しかし、同じ原理でチャンネルが異なるだけだとするならば、話は別です。 多くの教義教典の内には、某かの真実が含まれていてもおかしくはありません。(信仰をお持ちの方には失礼ながら。)

つまり、管理人にとってG・アダムスキーによる宇宙哲学は100ではないし(※1)、大本神諭や派生した日月神示もゼロではないし、100でもないということです。

知られていますように、大本は何百万人の信者を獲得し、戦前、2回の大弾圧を受けています。ですから、神諭や神示の核心部分に「ゼロではなくて、何かがあるのではないか」、というのが興味を持つ切っ掛けだといえます。

G・アダムスキーは「彼自身を信仰の対象にしてはいけない」という意味のことを述べたと、どこかで読んだ記憶があります。日本には現在も尚、G・アダムスキーによる宇宙哲学を学び続ける人たちがいます。はっきり言いますと、彼らはG・アダムスキーのことを丸呑みしていて、端から見ると「信仰」を持つ「信者」に見えます。G・アダムスキーが「いけない」と述べたことを真面目が故に、「やっている」としか思えないのです。

G・アダムスキーのことから何となく何十年も離れていました。離れていた頃に、大本神諭や日月神示に決して興味を持たなかったのは当然でした。

 

※1 G・アダムスキーによる宇宙哲学が100でないのは、理解不足によるものと思います。 例えば、テレパシー、つまり想念の送受は、動植物は言うに及ばず、石ころやはたまた原子一つに至るまで、その能力(機能?)があるとされます。  これが当時も今も実感できないのです。

しかしならが、最近、G・アダムスキーが残した紡錘図形の解釈である弧理論の考え方から、ある程度理屈が成り立ちそうです。 弧理論の考え方とは、

物質(結果)に実体(原因)図1

に示すものです。

E-M軸平面において、実体が投影されることにより物体が質量と位置をもって現れます。時間[T]を含まない真のエネルギーを別の次元軸とするのが弧理論の骨子です。 つまり、宇宙を(X,Y,Z,E)の4次元と考えるのです。このエネルギー軸(E軸)の値を真のエネルギーと呼びます。 なお、弧理論において時間[T]は存在しません。運動のみが存在します。時間とは、過ぎ行く運動の記憶に過ぎません。

で、一般に情報を記録、あるいは記憶するに僅かながらも必ずエネルギーが必要です。HDDの盤面のトラック・セクターの該当する位置に強磁性体のヒステリシスを利用して記録します。どれだけ磁性体を小さな区分にしたところで、必ずエネルギーが必要です。

この考えを図1に当てはめると、投影されることにより現れた、「原子(陽子、中性子、電子)は、E軸上の実体が持つ真のエネルギー値を以て、あらゆる自らの位置と運動による変化並びに全ての原子の配置を記録、あるいは記憶できる」かも知れないと考えられます。 つまり、E軸上の実体は、宇宙の全物質にかかるすべての記憶を持ちうる究極の記憶装置だと考えることができるということです。

スピリチュアルでは、これをアカシックレコードというらしいです。 ですが、管理人はこのような手垢の付いた言葉を用いることは好みません。  過去記事にあるエリートキツネと闘牛士も考えようによっては、カルマ(業)というのかも知れませんが、簡単にそういう言葉に置き換えるのは躊躇します。

結論として、物質の基本である陽子・中性子・電子が自ら、記憶装置を持っているならば、これらで構成されている人も石も皆同じ能力(機能?)があってもおかしくないようです。


 

話は、逸れます。

いつも引用するある科学者は、物質科学、精神科学、社会科学について次のように述べています。

宇宙における科学のすべて、真実の探求と理解の追求のすべては、この三つの分野の中に入るんだ。もちろん、この三つの分野の間には明確な分離線は引けな い。お互いにラップしているからだが、しかし、それらを支配する基本的な法則は全く同じものなんだ。宇宙において文明が完全にしかも成功して発展するなら ば、進歩のこの三つの支流に同程度の努力と勤勉さがなされなければならない。しかしながら、まず精神科学と社会科学が出てくる。その二つの基礎がなければ 物質科学の発達はありえないんだ。 (下線は管理人による)

 

道理で、G・アダムスキーが残した紡錘図形を解釈していくと、精神的なこと、哲学的なことなどが出てくる訳です。3つの科学には明確な仕切りが無いのならば、順を追って理解していくしかありません。 今のところ、物質科学である弧理論の考え方を追っていくと、

  1. G・アダムスキーによる(因とマインド)はもちろんのこと、
  2. 縄文哲学の魂(タマ+シイ)や、
  3. 聖書の「在りて在りたる者」が出てくる(相関がある)、さらには
  4. 日月神示の○(結果)とゝ(原因)

などが出てくるとうことに戸惑いを持っています。 ある科学者が言うように「まず、精神科学と社会科学が出てくる。」とのことです。  管理人は、紡錘図形を解析することによって、物質科学を追い求めているにもかかわらず、精神科学が出てくるということに非常な驚きを覚えています。 きっと社会科学は、古の日本の文明に在ると直観的に分かります。 大事なことは、

まず精神科学と社会科学が出てくる。その二つの基礎がなければ 物質科学の発達はありえない

 

ということです。ある科学者がダニエル・フライに、精神科学と社会科学の基礎が必要だと述べたにもかかわらず、何故、物質科学的な内容を伝えたのかが最大の疑問でした

何のことはありません。我々の持つ物質科学は、彼らの科学から見たら原始人レベルだったというオチでした。

 

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カテゴリー: 雑感 | 2件のコメント