以前、情報に本質はないと記しました。
- 2022年8月26日 情報 に本質はない
弧理論での前提を考えます。
- 人が肉体に備わった器官でわかるのは、物と事である。
- 自然は別の次元軸からの投影による映像である。
別の次元軸を基軸(気軸)と言います。映像としての自然をM軸と言います。自然が映像ならば、その表れであるM軸上にある物と事の全ては結果に過ぎません。
図1
前提からして、次になります。
- 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。
- 物と事は互いに規定しあって成り立つ繰り返し、循環である。
- 人にとって、”物がわかる”というのが時の現在である。
- 人にとって、”事がわかる”というのが時の過去である。
- 物と事は同時に決まらない。
上記の「わかる」というのは、「何となくその趣おもむきがわかる」というのであって、岡潔の言う”情的にわかる”に相当します。”わかる”には、順があります。
- 情的にわかる
- 知的にわかる
- 意識を通してわかる
1.がなければ一切は存在しません。2.と3.をもって理解、あるいは物の理ことわりと言います。これが知識です。岡潔は情的にわかるという心を第2の心とし、下2つを第1の心としました。【4】情のメカニズムより。
自覚するといえば情の目で見極めること。知や意では自覚できない。大体、「知、知」と知を大事にする。中国人もそうだし、印度人もそうだし、西洋人だってそうです。今の教育なんかもそうだけど、知ということについて少し深く考えてみた人、あるだろうか。私はないだろうと思う。
知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。
理解というのは、その「理」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「趣」がわかるんでしょう。
松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。
それから先が知ですが、その基になる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。人は情の中に住んでいる。あなた方は今ひとつの情の状態の中にいる。その状態は言葉ではいえない。いえないけれども、こんな風な情の状態だということは銘々わかっている。
言葉ではいえない。教えられたものでもない。しかし、わかっている。これがわかるということです。だから知の根底は情にある。知というものも、その根底まで遡ると情の働きです。
つまり岡潔は、情・知・意の順に働くと言っています。話を戻します。
図1のとおり、自然が映像ならば、基(気キ)軸上にある実体が、投影されその結果が物と事として現れるということになります。それがM軸です。そして、情・知・意の順に働くということです。ですから、あらゆる情報、つまり知識は結果に過ぎません。 続きを読む
ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。