人類は、いつ 平和 を見つけることができるレベルに達するのか

ある科学者は地球の 平和 について次のように述べています。

数百世代の間、地球人は” 平和 ・平和”と叫んできましたが平和はありませんでした。彼らの最も知的で教育を受けた男女の多くは、平和のための研究に自分たちの一生をささげてきました。そのことは、全く馬鹿らしいと思われるとしても、数百万の人々が、周期的に起こる戦争において、”すべての戦争を終わらせるために”戦って死んでいきました。彼らはどんな直接的な試みによっても平和は決して達成されはしないという単純な事実をまだ理解できていないようです。たとえ、どこを探せばいいかをだれかが知っているとしても、掘ってゆけば得られるような金でもなく、まだすぐ手に入る宝物でもありえません。『平和は単に、人と人、人種と人種、国と国、それに全ての人々の間の完全な理解と、カミとして地球人に知られている、あまねく広がる力と英知の副産物として自動的に得られるものです。』そのような理解が存在しているときには、平和を探すとか平和のために働く必要はありません。平和は自動的に存在します。しかし、これが理解されるまでは、どんな努力も成功はなしえません。
完全な理解は依然として地球人の達しているレベルを超えている一方、理解いのいくつかの位相は、私たちの達してるレベルをも依然として超えていますので、人が 平和 を見つけることができるということは、それが理解できるレベルに達しているときだけのことなのです。

彼は、私たち人類が平和を見つけることができるのは、それが理解できるレベルに達するときだけと言います。「それ」とは何なのでしょうか? 「それ」が全ての人々の間に完全に浸透する必要があると言います。

彼の前後の説明から3つの科学であると考えます。3つの科学とは(精神科学・弧理論による社会科学)、そして、物質科学です。それぞれヲシテ文献のミクサタカラに例えています。つまり、ミクサタカラは(タマ:精神科学、カガミ:社会科学、ツルギ:物質科学)です。その内2つまでわかってきました。タマ:精神科学とカガミ:社会科学です。

タマ:精神科学とカガミ:社会科学は、我々のおかれた自然とは、どのようなものなのかを理解する基礎です。その理解の深さと浸透が世界の 平和 に直結するということになります。そう考えます。これまで「(多くの人が)戦争を終わらせるために”戦って死んでいった”」ことは紛れもない歴史的事実です。これは自己矛盾です。これまで何度も記事にしてきた「心が病む」、「考え方が不健康」ということと同じだと感じます。

ずいぶん前に「正義を唱える人たちを信じない」旨の記事を書いた記憶があります。何故ならどちらの側にも彼らなりの正義があるからです。かつて、敵国と認定した相手に大量破壊兵器があるとイチャモンを付け、”我に正義あり”を叫んで戦争を仕掛けた大統領がいました。2020米大統領選の状況を見ても同じです。不正をやる方もダメですが、正義を盾に戦うのも合わせ鏡です。どうしてもどちらかに加担したくなります。ある科学者は、どちらでもないと言っているのです。

ある科学者は、「理解が存在しているときには、平和を探すとか平和のために働く必要はありません。平和は自動的に存在」すると言いました。

2020年の現在、3つの科学:ミクサタカラ(タマ:精神科学、カガミ:社会科学、ツルギ:物質科学)の内、2つの科学の概要は(ほぼ)わかっています。ただ、3つめの科学であるツルギ:物質科学(の基礎)がわかっていませんので、説得力がありません。早くなんとかしたいものです。


一つ気付いたことがあります。

完全な理解は依然として地球人の達しているレベルを超えている一方、理解いのいくつかの位相は、私たちの達してるレベルをも依然として超えています

地球には既に「理解のいくつか」は存在していると述べています。彼らより優れた部分が地球には存在しているということです。この話は1950年のことですから、その当時ヲシテ文献は、再発見されていませんでした。これは面白です。日本以外にも存在する可能性はありますが、一つの国として続いたのは日本だけですから、他にある可能性は薄いです。参考まで。2020年9月4日「日本語 の話者がいなくなれば、人類は滅びる


 

2020米大統領選の状況について。それにしても何故これほどリベラル派の連中は馬鹿なのでしょう。「無理を通せば道理引っ込む」です。唯物主義者は、自然を完全に理解し、掌握したと信じ切っているような気がします。自身が完璧だと信じるならば、自身が神にでもなったような気になるのでしょうか?

どうも、そんな連中は「世界の人口は多すぎる。だから無能な9割の人間は不要だ。」と考えているように思います。リベラル派の連中は、その9割の内に入れられていると感じます。最後に自身が粛正される側だと気付いた時は遅いです。スターリンや毛沢東を見ればわかります。だからといって、この二人を育てた連中を血祭りに上げれば問題は解決すると考えるのは間違いです。

唯物主義(五感でわからないものはないとしか思えない。)・・・・これは強烈!

 

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自然科学 の限界

数学者の岡潔は、 自然科学 によって成り立つ現代について、次のように述べています。「【1】 このままでは人類は滅びる

今は間違った思想の洪水です。世界は間違った思想の洪水です。これから逃れなければ人類は滅びてしまう。

で、その為に思想の間違いの根本はどこにあるか、それを調べましょう。

一番怪しいと思えるのは自然科学です。

このままでは、人類は滅びるだろうというのは疑問の余地はありませんでしたけれども、現代の思想の何がどのように間違っているのか、岡潔の講演録を読んでもあまりわかりませんでした。しかし、「自然科学が一番怪しい」といいますので、これまで自然科学の問題点について調べてきました。一応、前回までの記事に記したように大凡の問題点はわかってきました。

自然科学 とはどういったものなのか、管理人なりに書き下すと次になります。


自然科学者が考える自然を物質的自然といい、自然科学者はこれを時間・空間と言った。これは簡単なモデルであり自然そのものではない。量ではない角度から作った時間を基準としていたが、20世紀に入ってからは基準を時間から光速度に置き換えた。そして、光速度を基準に物質的自然(時間・空間モデル)を既述した。しかし、光速度がわかるためには、その前に時間がわかっていなければならない。角度は物体の関係位置による。物体、あるいは物質は物質的自然の内にある。これは循環である。従って、堂々巡りである自然科学は本質的に何も説明し得ない。

図1

自然科学者はとは何かについて、近接作用を基本として、物質粒子と力を媒介する粒子にわけて既述し、最終的には”量子場”に行き着いた。物質は量子場より生じるとした。だが空間とは何かは明らかではない。 続きを読む

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自然科学 の問題点(ほぼ確定)

前回の記事で 自然科学 はどこか胡散臭いと書きました。どうにも納得できないものがあるのですが、きっちりわかってきたものを挙げます。

相対性理論は、光速度cを基準にして時間、空間、重力、質量の関係を規定しています。相対性理論は、時間・空間・重力・質量が不変な光速度に対して互いに変化するとしています。しかし、光速度[LT-1]がわかるためには、その前に時間[T]がわかっていなければなりません。しかも角度から作る時間は量ではありません。角度は量ではありません。

図1 出展:量の表しかた

結局、相対性理論は何も説明していないということです。イタリアの理論物理学者カルロ・ロヴェッリは著書「時間は存在しない」において、次のように述べています。p99から。

かりにこの世界が物でできているとしたら、それはどのようなものなのか。原子なのだろうか。しかし、原子がもっと小さな粒子で構成されていることはすでにわかっている。だったら素粒子なのか。だが素粒子は、束の間の場の揺らぎでしかないことがすでにわかっている。それでは量子場なのか。しかし量子場は、相互作用や出来事について語るための言語規範に過ぎないことがすでに明らかになっている。物理世界が物、つまり実体で構成されているとは思えない。それではうまくいかないのだ。

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奴隷の科学

自然科学はどこか胡散臭いと感じてきました。何より妙に複雑でわかりにくいです。おまけに各分野のつなぎが悪く、統合失調気味です。いろいろ調べた結果、歴史的に見ると少なくとも3つの点で自然科学は間違っているようです。

  1. ニュートン力学以後、時間が量ではないことに気付いた科学者がいたかも知れない。
  2. 電磁気学成立の過程で、同じ起電力を生じるに2つの異なる方法があることの意味に気付いた科学者がいたはず。(原子核発見以後。もしかしたらニコラ・テスラは気(キ)付いていたかも。)
  3. 電磁気学成立後、時間を光速度に置き換えたことによって、自然科学の発達について、軌道修正できなくなった。(量子力学も相対性理論も見当違い。力を統合できない。というより、近接作用として物質粒子と力を媒介する粒子にわけることは誤り。物と事がごちゃ混ぜ状態にある。)

上記の3点については過去記事を参照し、お調べください。

 

ところで、ローマ時代の市民は議論を通じて哲学を発達させました。当時の哲学は現代の科学全般と宗教や思想を含む総合科学とでもいうべき内容だったようです。当時の市民の生活は大多数の奴隷により維持されていました。ですから、当時の市民は現在でいうところの特権階級です。

当時の奴隷の生活は支配階級である市民が手当てしなければなりませんでした。奴隷の管理は面倒です。ですから、やがて奴隷自らが衣食住を維持するように仕向けてきたようです。それが現在の市民です。ですから、我々市民は自らの衣食住を維持すし、搾取され続ける奴隷に過ぎません。それも自覚のない奴隷です。

では、自覚のない奴隷である私たちには、現代の特権階級が知る科学と同じ科学をあてがわれているでしょうか。管理人はそうは思いません。どう考えても権力の源泉は知識・情報・知恵です。ですから特権階級が特権階級である由縁は、情報・知識・知恵の独占にあるはずです。彼らが知る科学と同じものが我々にあてがわれるはずないと考えます。情報・知識の根幹は科学です。

たぶん我々にあてがわれている自然科学は 奴隷の科学 だろうと感じます。ある科学者は次のように述べています。

我々は地球人のように時間のドレイにはならない

人類は、量ではない時間量ではないお金に(単位)を付けて、あたかも量であるように扱い、これを信じてきました。私たちは時間とお金の奴隷だということです。私たち市民は、奴隷だと気(キ)づき、奴隷のための自然科学はダメだと気(キ)付くべきだと思います。

確証はありませんけれども、超大富豪が支配階級であることは間違いないでしょうけれども、真の支配者かどうかわかりません。情報こそが支配の源泉であることを鑑みれば超大富豪が即支配者かどうかは判断できません。どこの誰かもわかりませんし、そもそもそのような支配者などいないのかも知れません。それでも、少なくとも時間とお金が権力の源泉だと信じている者など大富豪ではあっても支配者とはいえません

 

上記のお話しがどれくらい正しいのかわかりませんけれども、次の動画はとても参考になります。

動画1

動画2

 

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ベクトルポテンシャル は「別の次元軸」の存在を示している

外村彰氏による実験「電子波で見る電磁界分布」は、 ベクトルポテンシャル が物理量であることを示しました。では、ベクトルポテンシャルとは何なのかです。

数学者の岡潔は、自然科学者が考える自然を物質的自然と名付けました。自然科学者は物質的自然を研究するに時間・空間といいました。この時間・空間は簡単なモデルであり自然そのものではありません。(残念なことに、これをきちんと理解している人が少ないです。物質的自然は第1の心の特性から来るものであって、第1の心は「外のない内」です。)

自然>物質的自然

そして、角度から作った時間は量ではないことがわかっています。

では、空間とは何かということについて、岡潔は「空間は量的、質的にありません。」と述べました。「【5】 情の特色」を参照ください。 言い換えるとエーテルはないがポテンシャルはあるという状態です。管理人がこれをモデル化したのが「境界空間」です。別の次元軸上に混ざり合うことのない2種の何かが接することによってできる境界が空間として表れているという考えです。これが境界空間です。

参考記事。2020年9月28日『空間 とは境界であり、そのまま「場」である。』2020年10月16日『12進数による 素粒子の周期律表 (アイディア) 』2020年10月19日『2つの 発見

一番理解しやすいモデルが次です。

写真1 人の感覚でわかる境界面は何もないがポテンシャルはある。

このモデルが示す「エーテルはないがポテンシャルはある」状態は冒頭の外村彰氏による実験を想起します。 続きを読む

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日月神示 で気になること

これまでに、 日月神示 の記事は45件あります。弧理論の考え方と、結構合致する部分があります。2018年6月14日「日月神示 ひふみ神示は、なぜ弧理論の参考になるのか?

面白いことに「ひふみ神示全文」を検索すると『気』は394カ所もあります。このことについて、研究者の方であってもほとんど注意を払いません。用例を幾つかあげると以下です。

『 気付け 気楽 気の毒 気づかん 気を失ふ 気をつけて 気もない 気が短い 気長く 気持ちよい 気配れ まぢり気(け) 』

このことは過去記事に書いているように岡潔の云った「わからないものに関心を集め続ける」ことで、「情的にわかるものを知的に言い表すことにより文化はできる」という過程、即ち、『情・知・意』の順に働くことをわかりやすく言った言葉です。それが「気(キ)付く」です。「【5】 情的にわかる、知的にわかる続きを読む

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2つの 発見

2020年を締めくくるには早いのですが、今年は2つの 発見 がありました。ついでなので、2010年に研究を始めてからここまでに気づいたことや発見をあげます。

  1. 発散トーラス・・・・井出治氏による第3起電力仮説を別の次元軸上にある実体の位相により電磁気現象として表れるとの考えの基、位相変換を行うことにより空間に表れる”力線”の形状を特定、「第3起電力のエネルギー源について」としてまとめました。基本は双極ながら片方の極が無限遠に消失しています。渦ありなのに発散ありで単極のように振る舞う距離の7乗に逆比例する力です。2011年。
  2. カミの仕組み・・・・ヲシテ文献と紡錘図形からわかりました。わかりやすく言うと、自然は別の次元軸からの投影による映像だということです。宇宙の中心は、別の次元軸上に2つあり、ここから2つの心(タマ+シヰ)が来ています。精神科学の根幹です。2016年11月8日『縄文哲学の「カミ」と弧(Ark)の関係について
  3. 自然科学は循環・・・・量ではない時間を用いた循環です。岐阜にある山崎弁栄記念館の資料から「外のない内」を知りました。自然科学は循環・ループ・ネットワークであり、外のない内です。2018年9月3日『「 わかる 」の方向性について
  4. 岡潔による第1の心は循環・・・・「意識を通し言葉で言える」という言葉自体が循環・ループ・ネットワークであり、外のない内です。これにより自然科学だけが問題なのではなくて、如何なる思想も科学も宗教も説明すればするほど抽象に至ることがわかりました。循環だから第1の心では何も説明し得ないということです。弧理論による社会科学の根幹で、2019年にわかりました。人類は、物事をより詳しくすることが文明の発達だと勘違いしています。単に抽象化しているに過ぎないことに気づいていません。2つの心の乖離が問題です。 2019年11月20日『数学者岡潔「 2つの心 」・・・頑としてわからぬ人たちが居る
  5. は一つの実体の異なる面に過ぎない。・・・・自然は映像でして、別の次元軸上にある実体の異なる面が人の感覚でわかる物と事として表れています。2020年春頃にわかりました。自然科学は物と事の区別がついていません。混同しています。自然科学のわかりにくさはここにあります。
  6. 境界空間・・・・混ざり合わない2種の液体(ex.灯油と水)の境界である2次元平面には物の量も事の質もありません。だからといってポテンシャルはあります。この境界は「エーテルはないがポテンシャルはある」という状態です。この境界平面を拡張すると境界空間になります。2020年9月28日『空間 とは境界であり、そのまま「場」である。

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12進数による 素粒子の周期律表 (アイディア)

 素粒子の周期律表 に関するアイディアは、2017年12月1日の記事「 素粒子の周期律表 」にあります。その後の研究で、次のようなことがわかりました。

  1. 自然科学は、量ではない時間並びに時間を含む光速度を用いたため物と事の区別がない
  2. 人の感覚でわかるのはである。
  3. 時間は物の量ではなく、事の質である。
  4. 物質的自然は別の次元軸からの投影による映像のようだ。
  5. 物と事は、別の次元軸上にある実体の投影による映像だと考えられる。
  6. 「物は量」としてで表せる。同じく、「事は質」として数で表せる。
  7. 自然科学において、物の起源を量子場に求めた。
  8. カルロ・ロヴェッリの著書「時間は存在しない」において、「量子場は相互作用や出来事について語るための言語規範に過ぎない。」と述べている。
  9. 岡潔は「自然数の1は決してわからない」と言ったが、言語規範と同じ意味を持つ。
  10. つまり、数学を含む言葉も、素粒子を生じる量子場互いに規定し合うことにより成り立つ循環・ループ・ネットワークである。

例えば、0と1を使う2進数により「一対の粒子」を表せます。 2020年9月28日『空間 とは境界であり、そのまま「場」である。』を参照ください。

写真1

互いに規定し合うことにより成り立ちますから、「粒子の1は決してわからない」のです。つまり、1は0でない粒子であり、0は1ではない粒子です。


一方、物理学者は物の起源を量子場に求め、近接作用として物質粒子12種類と力を媒介する粒子4つ、それと質量を与える粒子1つを求めました。 続きを読む

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ノーベル物理学賞 ブラックホール研究 について

「2020年 ノーベル物理学賞 をブラックホール研究の3氏が受賞」というニュースが流れました。

イベント・ホライズン・テレスコープで撮影された、銀河M87中心の巨大ブラックホールシャドウ写真1 出展:EHT Collaboration

どうもダメです。管理人にはある疑念が常にあります。大体、次のような疑問です。

  1. 自然科学は量ではない時間を変数とした循環・ループ・ネットワークである。相対論は時間を光速度に置き換えたに過ぎない。
  2. 人が持つ2つの心の内、第1の心は、「意識を通し言葉で言える」というものである。そもそも言葉は、互いに規定し合うことにより成り立つ循環・ループ・ネットワークである。第1の心は「外のない内」である。従って、自然科学を含む如何なる科学も本質的に循環にならざるを得ない。これは第1の心の特性である。     過去記事および動画を参照のこと。:【6】数学の使えない世界より。岡潔が「自然数の1は決してわからない」と言ったのはこのこと。※↓動画2を参照。
  3. 数学は言葉と同じ、第1の心の表れであるから、数学もまた本質的に循環・外のない内である。
  4. 数学には級数がある。(発散、あるいは∞も「外のない内」であることに注意。) 級数の一つに再帰がある。その一つにフラクタルがある。
  5. つまりは、あらゆる物質的自然についての実験や観測も第1の心の内にあるとともに、自然科学の一分野である物理学理論(数学理論)もまた、第1の心の表れである。

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足踏み式脱穀機 練炭を自作する道具など

倉庫を整理したら古い農機具、道具が出てきましたので写真を撮った上で廃棄しました。

足踏み式脱穀機。ドラムの向こう側に幌を付けた状態で使います。

写真1

銘板に『最新式 全国農具共進会 最高賞杯受領 一人用 実用新案登録 登録商標 改良ロット付  チヨダ式 新国光号 株式会社 埼玉県 木屋製作所 川越市』とあります。

写真2

写真3

gif1

手前のバーを踏みながらドラムに穂をあてがって脱穀します。大豆の脱穀にも使います。通称、”ガーコン”と呼んでました。

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