量子場 と岡潔の云った空間

前回の記事で電磁気現象と岡潔による「2つの心」との関係を示しました。今回の記事では、 量子場 の模型と岡潔が「空間」について述べたこととの関連について記します。

 

2020年1月21日の記事「自然 >( 時間・空間 )」において、(自然科学者が)研究の対象としている(と思っている)自然は、自然科学の模型である(時間・空間)より大きいことを示しました。

なぜなら、自然科学は循環であり、ネットワークであり、孤立系だからです。 それ以前に、そもそも言葉は閉じている(”言語規範”でサイト内を検索ください。)のですから、意識を通し言葉で言える第1の心 自体が孤立系です。ですから、数学を含む言葉で言える(記述できる)自然科学が孤立系であることは自明のことなのです。だから、自然をあらかじめ定義することは不可能です。

因みに孤立系とは、外のない内のことです。

図1 については、”山崎弁栄”でサイト内を検索ください。

 

以下、復習です。2019年12月2日の記事に「 量子場 を説明する簡単な模型」を記しました。

図2 出典:A Children’s Picture-book Introduction to Quantum Field Theory

この記事では、量子場を説明するに、図2の模型で説明される 量子場 より管理人が考案した二層型の渦模型(スターラー)の方がより量子場を理解しやすいという内容でした。

写真1 自作のスターラー

自作スターラーに石油ストーブに使う灯油(比重0.61)と着色した水を入れて二層型のスターラーを作りました。写真1を逆さにしてできたのが下図です。

gif 1 逆さの渦

gif 2 渦によりできる粒

ここで、比重の小さい灯油を(A)とします。比重の大きい青い水を(B)とします。gif2をよく見ると、上の層であるAの領域にできるのは(B)の粒であり、下の層である(B)の領域にできるのは(A)の粒です。これが量子場にできる正と負の素粒子に例えられます。

図3 量子場 は互いに規定し合うことにより成り立つ言語規範と同じ。だから孤立系。

ところで、二層型のスターラーにおいて渦がない場合を考えますと、 量子場 は何も存在しない境界面であると言えます。

 

さて、本題です。

自然科学の模型である(時間・空間)の空間について、数学者岡潔は、講演録「情の発見」、「【5】情の特色」において次のように述べています。

情は分かつべからざる全体である。やはり部分として分かつべからざる全体である。無量のそういう部分がある。情の中には時間も空間もありません。時はありますが時間という計量的なものは無い。また、空間は量的に質的にありませんが、時については2種類、2つですね。過去と現在、それだけですが、新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される。そういう意味で未来は無い。

後半のの現在、過去、未来については、これまで相当考えてきました。ここでは、空間について、特筆すべきことが述べられています。 岡潔は”空間は量的に質的にありません”と述べています。これは、図2の”A Children’s Picture-book Introduction to Quantum Field Theory”では到底説明できません。

ただし、管理人は、自然科学者が「わけることによりわかる(はず)」として追い求めてきた結果が 量子場 であり、素なる領域だと理解しています。これは岡潔が述べている空間と同じだと考えています。「空間をわけることにより求めた素なる領域=量子場」です。そうならば、岡潔の言葉である「空間」を量子場に置き換えます。

「量子場は量的に質的にありません。」

これは写真1とgifに示した境界面と同じです。境界面には何もありません。管理人が考案した二層型のスターラーは、”空間=素なる領域= 量子場 ”をうまく説明できます。

 

では、(A)と(B)の境界あるいは、 量子場 とは何でしょうか。弧理論の観点から説明します。

下は弧理論の全体を示す図です。

図4 E軸(別の次元軸)上にあるアとワが大宇宙の中心

弧理論では、図4を「カミ」と呼びます。「カミ」の仕組みと働きを書き下します。

(ア)と(ワ)はつながり、(ウ)をもたらし、(ウ)よりヒトを生じさせる。ヒトは(ア)のもの。

別の次元軸にある2つの大宇宙の中心である(ア)と(ワ)はつながることによって、(ウ)をもたらします。弧理論で云うところの「別の次元軸からの投影による」のです。これにより(ウ)がもたらされます。これが前述の境界面です。(空間は量的に質的にないと説明される。)境界面にもたらされるのが「ウ」です。「ウ」とは渦のです。粒子は渦によってもたらされます。投影元がアとワの2つあるから空間として認識されます。(ただし、その前に、ウズによる物質がなければなりませんが。) そして、(ウ)よりヒトを生じさせます。だから、ヒトは投影元である大宇宙の中心(ア)のものなのです。

 

これは、人間の心の本体である”タマ:第2の心”が大宇宙の中心(ア)から来たりて、生命維持の欲求である”シヰ”とつながり、タマ+シヰとなり、これに地上の物質が結びついて人間になるという説明と合致します。

 

で、大宇宙の中心である(ア)と(ワ)は、M軸(岡潔の云う物質的自然、物質空間、物質軸)にも投影されて、(アワ)つまり、宇宙の大規模構造(泡構造)になると思われます。アとワは、大規模構造を構成していると考えられている暗黒物質と暗黒エネルギーに対応すると考えています。今のところ、どちらがアであるか、ワであるかわかっていません。ともかく、すべては別の次元軸からの投影による映像です。

写真2 出展:大きなスケールが、極小の世界に影響する!銀河中心巨大ブラックホールと大規模構造の奇妙なユニゾン

これで素なる領域である 量子場 と宇宙の大規模構造との関係が「カミの仕組み」を通して無理なくつながります。

 

ところで、2013年から2015年にかけて行った幾つかの単極誘導モーターの実験により感じた「接すると何か?」という疑問がここでも出てきます。境界とは一体何を意味するのでしょうか?わかりません。「接する」でサイト内を検索すると45個の過去記事が出てきます。疑問は、素なる領域・境界面・空間というところへ関心が移ってきます。右リンク先「実験の動画一覧」をご覧ください。実験のまとまりはないですけど、「接する」ということへの疑問を持っているという感触はおわかりいただけるかと思います。現時点で言えることは、「ウズ(渦)は、アとワが接する(つながる)ことによっている」のであって、これが物質の接するあらゆる場面で観られるのであって、それは本質的な回転運動である「回る」に現れているということです。決して「回す」ではありません。そして、重力は「回る」に関係しています。

 

余談です。

写真3 左「時間は存在しない」

昨年11月頃よりたびたび引用する、カルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」には、「(何故か)生じる」ことの疑問を書いています。p130あたりです。 第九章「時とは無知なり」より引用します。

かりにこの世界の基本的な力学において、すべての変数が同等だとすると、わたしたち人間が「時間」と呼んでいるものの正体は何なのか。腕時計はいったい何を計っているのか。絶えず前に進んで、決して後ろ向きにならないのは何なのか、なぜ後ろ向きにならないのか。この世界の基本原理に含まれず、何らかの形でただ「生じる」に過ぎないものはたくさんある。

  • 猫は宇宙の基本的な素材に含まれていない。この惑星のさまざまな場所で「生じ」繰り返し現れる複雑なものなのだ。

著者は、「時間変数を含まない数式」を作ったようです。しかし、実際は時間を光速度cに置き換えただけです。で、上の引用で著者は2つのことを誤解しています。

  1. 時間は物理量ではない。自然科学、否、第1の心自体が循環であり、何ものも説明し得ない。
  2. 人が猫が猫とわかるのは第1の心(還元主義)によるものではない。第2の心によることを知らない。

その上で、著者はこの惑星には猫が何故か「生じる」と疑問を呈しています。著者の「時間」に問題の本質があるという認識は誤りです。著者は1.を理解してなお、2.を知りません。万物は「生じる」ではなくて、カミの仕組みと働きにより「生じさせる」のです。※↓

著者は、猫が「宇宙の基本的な素材に含まれない」から、あるいは「複雑だから」何故か「生じる」と考えているのも誤解です。例えば、猫が簡単なプラスチック製のブロックでできていればよいのでしょうか。

写真4

その昔、IBMが原子レベルでの加工技術で文字を描いたというニュースを見た記憶があります。件の猫がプラスチック製のブロックではなくて、さらに簡単な原子を配列してできているものであればよいというのでしょうか。

違います。すべては映像だからです。素なる領域に宇宙のすべての情報が詰まっているというのは間違いです。だって、著者も 量子場 に猫は居ないことを認めています。 著者は岡潔の言葉を知るべきです。

 

※:その仕組みの主な現れが弧理論の核となるArkであり、別の次元軸(E軸)上にあるArkのM軸上での形状が発散トーラスです。その仕組みの本質は、(回転)運動せざるを得ないところにあります。E軸上の実体がM軸に直交の状態に戻ろうとするが故に、M軸上の映像である物質は運動せざるを得ないのです。とても難しい話です。早い話、宇宙において、”静止”は例外中の例外です。

 

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電磁気現象と 岡潔 による「2つの心」

以下はいつも引用するある科学者の言葉です。

地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる

電子の粒子であることと波動性を持つことは、量子力学の基礎です。このことを実験事実として否定する訳ではありません。 研究を始めてから最近まで、下線部分の2点について、こだわりを持って考察してきました。

数学者 岡潔 は、彼の講演録で「2つの心」について述べています。第1の心と第2の心です。その特徴を箇条書きにします。注:管理人による考察を加えています。

  1. 第1の心。ヲシテ文献で言うところの”シヰ”。生命維持の欲求。そのわかり方は、”意識を通し、言葉で言える。”ものであって、「わけることによりわかる(はず)」という還元主義による。過ぎゆく運動の記憶に基づきわかるということ。いわゆる”動画がわかる”ということ。時の過去である。
  2. 第2の心。ヲシテ文献で言うところの”タマ”。人が持つ心の本体。そのわかり方は、”意識を通さず、言葉で言えないが、しかし、何となくその趣おもむきわかる”というもの。いわゆる”静止画がわかる”ということ。時の現在である。

時の現在、即ち”静止画がわかる”からこそ、運動Pの連なりを記憶(=情報)をもとに動画がわかるのです。情報とは、”意識を通し、言葉で言える。”ものですから、過去です。 余談ながら、情報と運動Pの間には深い関係があります。

図1 第1の心は過去かつ孤立系(循環)である

また、”意識を通し、言葉で言うことができる”時間”は、時の過去で現在を含みません。第1の心によります。

この 岡潔 の述べた2つの心の内、第2の心が無ければ第1の心は存在し得ないことがわかります。静止画がわからねば動画などわかるはずはありません。冒頭のある科学者の言葉において、管理人がこだわったのは、「量子力学の基礎は、第2の心で描けない状態」だということです。これについて説明します。

図2 出展:スピントロニクス材料研究でブレイクスルー

図2は誰の目にも(映像として)明らかです。ところが、物理学では、このような図で説明しません。電子は質点として扱われます。位置と質量を持つが大きさがありません。実験により測定した磁気モーメントを理論的に説明するに導入されたのがスピンです。電子が持つ磁気モーメントを説明するに「スピン」と呼ぶ量で理論化しています。しかし、スピンは何かがクルクル回っている訳ではないと説明されます。角運動量を表す演算子に過ぎないのです。(スピンとは何か

問題は、大きさの無い質点がスピンしているという描像です。既に述べたように心の本体は第2の心にあります。唯一、時の現在として映像がわからねば、「意識を通し、言葉で言える。動画が」わかりようありません。

突き詰めると、第1の心(シヰ)が第2の心(タマ)を押さえつけられる人のみ物理学者になるのです。

 

ある科学者は、地球の科学の持つ問題点を次のように指摘しています。

君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり、物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる側面に過ぎない

”物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式”とはE=mc2のことです。誤った解釈の元、物理学は100年以上進んでしまったということです。本当は一つの実体の異なる面に過ぎません。時間は物理量ではありませんので、エネルギーという言葉は使えません。当サイトでは時間を含んだエネルギーという用語は時間を含まない運動Pと呼んでいます。下線を運動Pに置き換えるのが正しいのです。正しくは以下です。

位置と質量を持つ物質も運動Pも一つの実体の異なる側面に過ぎない。

図3 別の次元軸を時間を含まない真のエネルギー(エネルギー面)と呼ぶ。

たとえば、電子の運動Pには、以下があります。

  • 速度(直流)、加速度(交流)、躍度(パルス)
  • 波(電磁波)、光子(ソリトン)
  • 電場、磁場
  • 確率的に現れる
  • 離散的に現れる ←4月20日追記:書き漏らし。

ある科学者の云った上の言葉を置き換えます。

電場も磁場も一つの実体の異なる面に過ぎない。

別のところで、ある科学者は、「運動する電子は周囲に磁場を持つ」と述べています。この説明は相対性理論と同じです。(特殊相対性理論:運度物体の電気力学について) しかし、ある科学者の述べていることは、相対論の結論と全く異なります。

詰まるところ、電子が粒子で波動性の二重性を持つのは、別の次元軸上にある一つの実体がM軸上に2つあるいはそれ以上の側面を持って(映像)として現れているということです。実験事実は認めるが、その仕組みは異なるということです。これがある科学者が述べた「心で描けない状態」の意味です。参考(10年以上におよぶ研究の末、電子の正確な形が明らかに)電子が真球に限りなく近いという結果は、単純に考えて物理学の前提が崩れていると思えるのです。

 

ところで、110年ほども前に何故このような行き違いが起きたのでしょうか。どうもその遠因は電磁気学の成立過程にあると思われます。何度も取り上げてきたように「回る」と「回す」は異なるのです。加速度には2種類あると考えます。ところが、数学上は「加速度がある」とのみ定義されます。これでは科学者たちは、その違いを理解できません。

電磁気現象において、同じ起電力を説明するに2つの異なる方法によって説明されるというのは実に不思議です。(電磁誘導と単極誘導) この疑問について、量子力学的にどのような理論を附しても無理があります。これまでの考察によれば、加速度には2種類あるから、起電力も2種に分かれているのです。それは「回す」と「回る」の違いです。空間に2種の(回転)運動があるからです。

図4

J・C・マクスウェルによる20の変数を持つ20の原方程式をベクトル表記に改める過程において、非対称性を削除したようです。関連する過去記事は「トム・ベアデン」でサイト内を検索ください。 また、「Tom Bearden’s Response to ARPA-E
ビールデン博士のエネルギー先端研究局への返答」が参考になります。

ここで述べたいのは、物理現象は「人の肉体に備わった五感でわかるものであって、第2の心でわかるものでなければならない」いうことです。(単純に、心の仕組みとして映像がわかるものでなければならないのです。)

ついでに云えば、 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎません。

運動Pの一種である時間を含むエネルギー情報の間には密接な関係があります。情報を蓄えるにわずかばかりのエネルギーが必要です。どうも運動Pの一形態が情報に関係するらしいです。図3は実に興味深いです。参考:二種のエントロピー

第2の心でわかるのは、どちらかというと”物”です。これが具体です。”事”はいくらでも複雑化し得ます。複雑化の行き着く先は抽象であって、あまりにも複雑化すると究極、第1の心もついて行けなくなります。そして、文明は崩壊へ向かいます。 科学は、心の仕組みと働きに関係します。これを無視した科学などあり得ません。【3】 西洋の唯物主義 どう考えても「わけることによりわかる」より前に、(何となくその趣がわかる)が来なければいけません。第1の心には、数学も含まれることは当然です。数学を使ういかなる理論も同じです。 第1の心は循環だからです。 ”循環”でサイト内を検索ください。

 

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3つのことが同時期に起きる

当ブログにおいて、これまでに書いてきたことは概ね3つあります。

  1. 自然科学の問題点。
  2. 次なる文明へのヒント→希望(自然は映像である。タマ:精神科学、カガミ:社会科学、ツルギ:物質科学で示される3つの科学を別の次元軸からの投影の仕組みに求める。)
  3. 現文明の退化プログラム(現在の文明はアポトーシスの過程に入った)

1.について、数学者岡潔の考えから考察した結果、問題点の指摘は完了しています。2.について、2つの心の仕組みと働きを別の次元軸からの投影による映像として理解することにより、(タマ:精神科学とカガミ:社会科学)の基本的なことはわかっています。ツルギ:物質科学は、単極誘導にあることまではわかっていますが、次なるヒントがありません。 3.について、”アポトーシス”で検索すると2016年から3件ヒットします。

この3つのことが(たぶん)同時期に起きるだろうと考えます。過去記事において、最初に物理学に求心力がなくなると書きました。最近の新型コロナウイルスによる被害は「中国の某研究所職員の罹患が最初」だとの噂があります。まったく関連のない事柄であるけれど、どちらも人的要因によるものという意味において自然科学の退化であると感じます。

本当は簡単なことです。気(キ)づくのは簡単です。しかし、気づかれると困る人たちがいるのです。”神は細部に宿る”というのは大嘘です。 大量生産、大量消費して人の命より「経済を動かさねば」という脅迫は異常です。まったく異なる文明があり得ることに気づくべきです。

考えてみてください。自然が別の次元軸からの投影だとすると、岡潔が名付けた物質的自然は、いとも簡単に2倍、3倍と広がるのです。第1の心(ヲシテ文献に云うシヰ)が孤立系、循環である以上、還元主義の終端は明らかです。別の次元軸からの投影によるしかありません。物理量ではない時間も光速度も使わずに運動Pを記述する方策を考えるべきです。循環を(当面)回避するにはそうするしかありません。

 

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岡潔 が述べた「2つの心」について まとめ

昨年12月から別のことをやってました。漸く片付きそうです。研究を始めて10年が経過しようとしています。いよいよ11年目です。 ついては、数学者 岡潔 が述べた「2つの心」について、ヲシテ文献などと比較して1枚にまとめました。【1】2つの心を参照ください。

図1

解説はしませんけれど、過去記事に記したことを現時点でまとめました。この図が3つの科学(タマ:精神科学、カガミ:社会科学、ツルギ:物質科学)の内の精神科学の根幹です。この図にカガミ:社会科学のヒントが入っています。

図2

考えれば考えるほどに岡潔が述べた「自然は心を映写するための映像に過ぎない」と感じます。時間は物理量ではありませんので、時間を光速度に置き換えた相対性理論は自然科学の循環の一部に過ぎません。

図3

本当の解決には別の次元軸を考える以外にないと確信します。意識を通し言葉※1で言える循環(外のない内、ネットワーク)から逃れて発達を続けるためには、別の次元軸からの投影による映像による仕組みの解明に挑むしかありません。

※1もちろんのこと数学も含みますので、現在のいかなる理論もこの範囲(循環)を逃れることはできません。

 

管理人は、ループ量子重力理論について、図3のループを最小単位にしたように見えて仕方がありません。最小単位とは、素なる空間と素なる時間(つまり、量子場のこと)をいいます。素なる時空間に全宇宙の情報が詰まっているなどということはありません。自然は映像ですから、映像を構成する画素に全情報が詰まっているわけがありません。

 

追記 「複雑化する現代社会において、云々」と挨拶の冒頭に話されることがあります。多くは産業や経済がどうか、あるいは景気が云々という話につながります。しかし、「複雑化するとどうなるのか?なぜ、複雑化するのか?複雑化によって社会は一体どこへ向かっているのか?」などの本質を話されることはありません。本当は、経済や景気あるいは思想信条・主義主張などどうでもよいのです。

新型コロナウイルスはC国の某研究所職員が最初に発症したとの動画があります。人工ウイルスかどうかはわかりませんけれど、トンデモ論者や陰謀論などどうでもよいです。自然科学という枝葉の先端に居る物理学者たちこそ、人には心が2つある事に気(キ)付くべきです。

 

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還元主義 の終端

ある科学者は現在の科学について次のように例えました。

科学知識を求める人間は木に登るアリのようなものだ。自分では上方へ動いていることがわかっていても、その視野は狭すぎて幹全体を見通せない。そのために幹を離れていることに気づかないで下方の枝の方へ移動するかもしれない。いっときは万事がうまゆく。自分ではまだ上方へ登れるし、進歩という果実を少し摘み取ることもできる。だがその枝が急に無数の小枝に分かれていろいろな方向に葉が散らばっているために本人はまごつき始める

そして基本的法則は今や分かれ始めて反対の方向に散らばり始めていることに気づく。すると科学者は心によって受け入れられる 知識の限界 に近づいていることや、あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになるという結論に達する。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

正しく眺めれば、基本的な真理は常に簡単で理解が容易なのだ。

だから幹の上から眺めれば、枝は”枝″として簡単な、理解の容易なものになる。てっとりばやく言うと、君らの科学が進歩し続けるために必要なのは、君たがとまっている枝から枝との分岐点まで降りて、ふたたび登り始めることだ。

科学の進歩について、枝を登るアリに例えました。

図1

発達を続けるためには枝の分岐点まで降りて、再び登り始めるべきと指摘しました。これまでの考察により、自然科学の問題点はわかっています。

  1. 時間・空間という模型は自然そのものではない。
  2. 時間は物理量ではない。
  3. 時間を光速度に置き換えたのが相対論。
  4. すべての基準を光速度に置き換えても自然科学は循環である。図2 運動から時間をつくり、時間を光速度へ。光速度から時空を再定義するという循環。

2.について。量ではない角度から作った時間は物理量ではありません。時間を光速度に置き換えても、その前に時間がわからねばなりません。

ここまで2018年までにわかっていました。その後、2019年に次のことがわかりました。

  1. 言葉は互いに規定し合うことにより成り立つ循環である。
  2. 循環とはネットワークであり、孤立系であり「外のない内」である。
  3. 数学者岡潔の云う第1の心(意識を通し、言葉で言える)は、循環であり孤立系であり外のない内である。
  4. 本当の「わかる」は、岡潔の云う第2の心(意識を通さず、言葉で言えないがしかし、何となくその趣おもむきがわかる)にある。これは開放形である。
  5. 岡潔の云った2つの心は、別の次元軸にその仕組みと働きがあるだろう。

2019年にわかったことは、カルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」から読み取れます。

写真1

著者は「時間とは何か」を考え続けます。第九章「時とは無知なり」より。

かりにこの世界の基本的な力学において、全ての変数が同等だとすると、わたしたち人間が「時間」と呼んでいるものの正体は何なのか。腕時計はいったい何を計っているのか。絶えず前に進んで、決して後ろ向きにならないのは何なのか。なぜ後ろ向きにならないのか。この世界の基本原理に含まれていない、というところまでは良いとして、いったいそれは何なのか?

じつは、この世界の基本原理に含まれず、何らかの形でだた「生じる」にすぎないものはたくさんある。たとえば、

  • 猫は宇宙の基本的な素材に含まれていない。この惑星のさまざまな場所で「生じ」、繰り返し現れる複雑なものなのだ。

つまり、物理学者の「物(物質)とは何か?」を探求した結果、量子場に行き着いたけれども、そこには含まれていないということです。何度も指摘したように猫も人もスプーンもオレンジも映像を構成する画素の内には存在しません

写真2 オレンジ

写真3 上記、オレンジの画像の一部

画素はその状態を変化させるだけです。量子場も同じです。第六章「この世界は、物ではなく出来事でできている」(p99)より引用します。

かりにこの世界が物でできているとしたら、それはどのようなものなのだろうか。しかし、原子がもっと小さな粒子で構成されていることはすでにわかっている。だったら素粒子なのか。だが素粒子は、束の間の場の揺らぎでしかないことがすでにわかっている。それでは量子場なのか。しかし量子場は、相互作用や出来事について語るための言語規範にすぎないことがすでに明らかになっている。物理世界が物、つまり実体で構成されているとは思えない。それではうまくいかないのだ。

著者は、”言語規範”と量子場を比較して、「同じだとわかっている」と述べています。”物”とは何かを探求した結果、互いに規定し合うことにより成り立っている言葉と同じということであって、そこには猫も人も存在しないのです。

冒頭、ある科学者が云ったことの内、分岐点がどこにあるのかはおおよそわかっています。しかし、(引き返すべき)枝の先がどこにあるのかが長らくの疑問でした。これで漸くわかりました。

第1の心、即ち「わけることによりわかる(意識を通し言葉で言えるはず)」という 還元主義 では何もわからないのですから、枝の先端が著者の到達点に等しいということです。理論物理学者たちに、これより先はありません。何もありません。 還元主義 の終端だからです。

参考まで。2018年頃からの記事をお読みいただくことを推奨します。「降りるべき分岐点」については、2017年頃からの記事が参考になります。

 

近頃、別の次元軸と基本粒子(陽子・中性子・電子)との関係を正と負の発散トーラスを組み合わせた楕円磁場から考え続けています。どう考えても単極誘導がカギであるとしか思えません。 因みに宇宙の中では、日常ありふれた”静止”という状態は例外中の例外です。楕円磁場により基本粒子は互いに回らざるを得ません。量子力学の”確率”というのは「別の次元軸にある実体の投影による結果」に過ぎないようです。(質量と運動Pは一つの実体の異なる面に過ぎない。運動Pの一形態が”波”である。位置を持つ質量と位置を持たない波の関係を取り持つのが確率である。量子の考え方は結果である。)

 

3月5日追記 いろいろ調べると、岡潔が山崎弁栄上人の言葉をひいて、「本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない。」と述べました。(【3】 西洋の唯物主義) 物や事と言葉が持つ本質的な循環を(当面)回避するにはこれしかありそうにないです。 で、人の心の仕組みと働きを含む自然が別の次元軸からの投影による映像だと考えるのが弧理論(Ark Theory)です。

ところで、これまで述べてきた「自然科学は孤立系、循環、外のない内である」は、著者の進める理論にある「ネットワーク」とたぶん同じではないかと思います。管理人には、スピンネットワーク重力理論(ループ量子重力理論)というのはわかりませんけれども、心が2つあることを知らねば、似たものであってもまったく異なる結論に至ることが不思議です。

言語規範と量子場が同じであるというなら、量子場は境界であって、映像だとしか考えられません。境界には何もありません。物は必ず「対」に生じます。過去記事「量子場を説明する簡単な模型」を参照ください。「接する」とは何なのでしょう?? たぶん物を物とのみ観ている限り解けません。映像だとすると、第2の心の仕組みと働きにかかってくるだろうと感じます。長らくある科学者の次の言葉に拘りをもってきました。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であって、そのために進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

「心で描くことのできない状態」というのは致命的です。恐らく岡潔の第2の心に関係するはずです。それは映像だからです。波も確率も原理・原則・原因・法則の類ではありません。映像と考えるならば波も確率も結果であるはずです。

 

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自然 >( 時間・空間 )

ある人から云われました。「岡潔って、何か宗教っぽい。」 それには理由があります。

数学者岡潔は、次のように述べています。【2】自然科学者の時間空間より。

自然科学者は自然というものをどういうものだと考えているかということを代りに言ってやって、そして、それを検討するより仕方がない。

自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。

続いて、【4】自然科学と生命現象より。

ところで、自然のできるだけ簡単な模型を考えて、その中を科学するということは、知ってやってるのだとすれば確かに一つの研究方法に違いない。知らずにやってるんですけど、それでもある結果は出るだろう。そうは思います。しかし、こういう簡単な模型の中だけを調べたのでは、わかるものは物質現象だけで、生命現象はとてもわからないのではあるまいかと、こういう疑いが起こります。

自然科学者は、自然について考える際にそれを「 時間・空間 」としました。簡単な模型であって、自然そのものではありません。

自然科学者は、「自然>( 時間・空間 )」であることに気付いていません。だから、理由が付かない、わからないことは全部どこかへ押しやって「非科学的」として済ましています。詳しくすれば次になります。 「わけることによりわかる:還元主義」に当てはまらないもののすべては「彼らの考える科学の外」として思考停止するのです。

岡潔が拘った”情”というものを考察する立場について、自然科学から見れば非科学でしかないのです。次図は2016年11月ころに出しました。

図1

右上の欄がほぼ空白です。この空白部分に自然科学で扱えない非科学のすべてを押しやっています。この部分にはいわゆるオカルトや宗教あるいはスピリチュアル系などのトンデモやUFOやフリーエネルギーなども含まれています。ほとんどの人は、岡潔が何を伝えたかったのかがわからないのです。自然=自然科学の模型( 時間・空間 )だと認識している限りは、問題の存在すら気づけません。岡潔の指摘したとおり、「人は故障がなかったらなぜ見えるのか?」といった質問に自然科学は何も答えられません。

 

管理人も「自然とは何か」という疑問を持っています。岡潔も読むほどに「自然とは何か」と云わずに話しを進めていることに気付きます。「わからないこと」のすべてを自然に含めるならば、自然とは何かを定義することは不可能に思えます。 10件ほど前の記事から読んでいただければわかるとおり、「言語規範と量子場は同じ」であるならば、自然科学は「循環(ネットワーク)であり、孤立系(外のない内)」であるというのは自明のことです。ならば、自然をネットワークとしか感じられないのならば、岡潔の伝えたかった事などわかりようがありません。心は2つあるのです。

 

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自身を含まない 量子場理論 は間違っている 

研究対象とは別の位置に自身を置いて論ずることは間違っていると、かなり前に指摘しました。そういう研究は、自身を”神”の位置に置くのと同じだということです。自然科学、特に物理学に違和感を持っていたのはこの点でした。

先般より考察の参考にしている 「 時間は存在しない(カルロ・ロヴェッリ著」(以下、著者という。)から気になる部分を引用して説明します。

第九章「時とは無知なり」p130からです。

かりにこの世界の基本的な力学において、全ての変数が同等だとすると、わたしたち人間が「時間」と呼んでいるものの正体は何なのか。腕時計はいったい何を計っているのか。絶えず前に進んで、決して後ろ向きにならないのは何なのか。なぜ後ろ向きにならないのか。この世界の基本原理に含まれていない、というところまでは良いとして、いったいそれは何なのか?

じつは、この世界の基本原理に含まれず、何らかの形でだた「生じる」にすぎないものはたくさんある。たとえば、

  • 猫は宇宙の基本的な素材に含まれていない。この惑星のさまざまな場所で「生じ」、繰り返し現れる複雑なものなのだ。

著者のこの書き方だと「猫は複雑なもの」だから基本原理に含まれないとでもいいたいように読めます。それとも基本原理に含まれないから存在しないというのでしょうか。全く違います。

数学者岡潔は次のように述べています。

  1. 人の心は2つある。
  2. 第1の心のわかり方は「意識を通し、言葉で言える」。
  3. 第2の心のわかり方は「意識を通さず、言葉で言えないが、しかし、何となくその趣おもむきがわかる」。

2.に示す第1の心は、「わけることによりわかる」とする還元主義のことです。理解とか物の理ことわりといいます。「わかる」の語源は「わける」です。つまり、意識して言葉で言える物をわけることによりわかるはずだという主義、考え方です。

著者は理論物理学者です。わけることによりわかるはずだとして、物を細分化して行きました。200年以上かかって物理学者は 量子場理論 に辿り着きました。著者は「量子場は言語規範と同じであることがわかっている。」と述べています。 言語規範とは、言葉の規則・基準という意味です。

  • 規範 「単なる事実ではなく、判断・評価などの基準としてのっとるべきもの。準拠。標準。規格。」

言語学者は、言葉・言語をわけることにより、音素に辿り着きました。音素とは人が聞き分けられる言葉の最小単位です。音素に意味はありません。音素を組み合わせることによって言葉はできます。意味のない音素を互いに規定しあうことにより言葉・言語が出来上がっています。意味を与えています。

これはネットワークであり、循環です。

図1

いわば言葉は、「外のない内」であり孤立系です。

図2

人の思考、つまり「意識を通し、言葉で言える」第1の心は、循環であり孤立系であるということです。 人の思考もまた孤立系なのです。

孤立系である第1の心により「物」をわけることにより、物の最小単位を求め続けた理論物理学者である著者は、遂に(音素ならぬ)物素に辿り着いたのです。それが量子場です。ですから音素と同じく量子場に意味はありません。

 

著者は「猫は基本的な素材にない複雑なもの」と述べています。著者は岡潔が云った第2の心を知らないのです。猫は複雑だから存在しないというのでしょうか。

写真1

それとも、簡単であれば存在するとでも考えているのでしょうか。

写真2

数十個の単位(ブロック)でできている猫は存在するというのでしょうか。違います。写真1も写真2の中央にあるものも人は、だとわかるのです。それはわけるからわかるのではありません。意識を通し言葉で言えるようになるに、それが何であるかを何となくわかるのです。でなければ(循環であり孤立系である)言葉で言える訳がないのです。それが第2の心の働きによるのです。でなければ、月も太陽も犬も人もいません。 (注:数学を含む。数学の素なる数(数素)もまた意味はありません。岡潔は「自然数の1は決してわからない」と述べています。同じです。【6】 数学の使えない世界を参照ください。)

 

「時とは無知なり」ではなくて、著者が無知なのです。

著者は誤解しています。は現在・過去・未来からなります。著者が用いる「時」とは、この場合「時間」を意味します。これまでの考察により時間は、時の現在と未来を含みません。それがプランクの時間(10-44秒)でもです。

図3

状態(ア)において、本当にわかるのは第2の心です。岡潔によれば、情じょうの働きにより写真1が何であるかを、意識を通さずとも言葉で言えずともわかるのです。それが現在(静止画がわかる)です。それ以降が「知」の領域です。は現在と過去を橋渡ししています。「知」とは記憶であり情報です。それは過去です。それから「」が働きます。そこから初めて「あぁがいる。」とわかるのです。 ついでながら、過去記事にしたように本居宣長の「もののあはれ」は、(動画がわかる)という意味です。それには記憶が必要です。物の動きがわかるのは、過去の記憶(知)によります。

 

表題のごとく、自身(現在)を含まない 量子場理論 は間違っています。

心の仕組みと働きを抜きにして物質科学は成立しません。

著者は時間変数を含まずに 量子場理論 を作ったと云います。しかし、時間を光速度cに置きかえただけです。光速度cがわかる為には、その前に時間がわかる必要があります。時間は物体の運動からつくります。最初、人類は物体の運動にかかる角度から時間をつくりました。だから時間は10進数による12の倍数なのです。角度は量ではありません。だから時間は物理量ではありません。

 

著者の理論は、2018年にわかった「自然科学は循環である」という範囲から一歩も出ていません。

図4

自然科学が循環であり孤立系なのは、人が持つ第1の心が循環で孤立系だから当然のことなのですが、対して第2の心は開放系である(らしい)ことがわかります。第1の心のネットワーク以外です。するとこれら(孤立系、循環である自身)を含む理論を構築するには別の次元軸を考える他無いことに気(キ)付きます。 岡潔が山崎弁栄上人の言葉を引いて述べたように「自然は心があるために映写される映像に過ぎない」と完全に合致します。【3】 西洋の唯物主義を参照ください。

 

因みにビッグバン理論というのは胡散臭いのですけれど、理論にt=0を代入しても意味はないはずです。著者が気付くべきは、「現在に意味は無い」ではなくて、「理論は決定論ではない」なのです。過去記事にあるように古典物理も量子力学を基礎とする現代物理学も決定論にはなり得ません。管理人自身、3年ほど前まで古典力学は決定論だと信じていました。当たり前のこと、未来はわかりません。

追加です。著者は自然において「(あらゆる物や事が)生じる不思議」を強調しています。この点について。弧理論ではもっと積極的です。  元の定義(ヲシテ文献によるカミ)は次です。

「ア」と「ワ」はつながり、「ウ」をもたらし、「ウ」よりヒトを生じさせる

なんとなく生じるなどというものではありません。「生じさせる」のが自然なのです。その仕組みと働きを別の次元軸に求めようというのが弧理論です。過去記事を「カミ」で検索、参照ください。 これまでの考察によれば究極、「回す」と「回る」の違いに行き着きます。回る仕組みがすべてを生じさせています。自然科学の考え方では、すべてを回さねば成り立たないのです。本当は「回る」のです。加速度には2種類あります。数学的には区別がありませんので、物理学者には「生じる」という観点しかありません。宇宙において静止は、例外中の例外です。

 

追記1/15 著者の言葉を真似るならば、『は宇宙の基本的な素材に含まれていない。この惑星のさまざまな場所で「生じ」、繰り返し現れる複雑なものなのだ。』と云えます。人も車も男も女も何も存在しない。何もわからないままです。  自身を含まない理論が”統一理論”にほど遠いと気付かねばと感じます。

2018年の前半に「自然科学は循環である」とわかり、2019年には「人の思考もまた循環である※1」とわかりました。管理人の人生における最大と云ってもよいほどの研究成果です。この手の話しについて、いくらでも記事に書けますが、これまでにおおよそ網羅していますので、似た記事になります。

※1 思考とは、岡潔の云う第1の心(意識を通し、言葉で言える心)です。言葉が互いに規定しあって成り立っているのですから、思考もまた循環であり孤立系です。著者の云う「言語規範」です。循環であり孤立系であり、ネットワークに過ぎない言葉では何もわかりません。猫も人も。 循環である(数学)言語で記述された量子場もおなじです。それが量子場でも、素粒子でも、基本粒子でも同じです。互いに規定しあって成り立っているのです。では、なぜ人は猫や人であるとわかるのか?それが岡潔の云った第2の心です。意識を通さず、言葉で言えなくとも何となく猫は猫の、人は人の趣おもむきがわかるのです。第2の心がなければ、猫も人も存在しません。このように考察を続けると自然は映像だと考えざるを得なくなります。別の次元軸を考えざるを得ません。

理論物理学者に聞きたいのは、「ブロックでできた”簡単な猫”ならばどうなの?」ということです。

写真2

 

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量子場 を説明する簡単な模型

前回までにご紹介したカルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」から興味深い点を読みます。

写真1

カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その6』の中で引用した子どものための量子場にかかる図を眺めていて気付いたことです。

図1 出典:A Children’s Picture-book Introduction to Quantum Field Theory

この模型では、バネを付けた小さな球が互いに連結しており、揺らぎによって量子(粒子であり波動である物性を持つ。)が生じるを模しています。

著者が本で述べていることの一つの大凡をまとめると以下になります。

  • 量子場は言語規範と同じくネットワークである。
  • 量子場の方程式は、物と物との間の関係を説明する。
  • 世界はと云うより物と物との間にある関係、即ち(出来事)により成り立っている
  • 出来事のネットワークは、より単純な出来事に分解できる。
  • 複雑な出来事は、量子場のネットワークが織りなすと考えるとうまくいく。
  • ネットワークは、「外のない世界」である。

その上で著者は云います。

わたしたちはずっと、この世界をある種の基本的な実体の観点から理解しようとしてきた。物理学はほかのどの分野よりも熱心に、それらの基本的な実体の正体をつきとめようとしてきた。だが調べれば調べるほど、そこに「在る」何かという観点ではこの世界を理解できないように思えてくる。出来事同士の関係に基づいたほうが、はるかに理解しやすそうなのだ。

著者の主張を管理人なりにまとめたのが前回までの記事です。 続きを読む

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カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その6

前々回に続いて、カルロ・ロヴェッリ著(以下、著者という。)の「 時間は存在しない 」から興味深い点を読みます。

写真1

いつも引用するある科学者の言葉から得た管理人による考察と比較して検討します。著者は、「物ではなく、出来事にある」と述べています。第六章「この世界は、物ではなく出来事でできている」より。「実体」という部分をp99より引用します。

かりにこの世界が物でできているとしたら、それはどのようなものなのだろうか。しかし、原子がもっと小さな粒子で構成されていることはすでにわかっている。だったら素粒子なのか。だが素粒子は、束の間の場の揺らぎでしかないことがすでにわかっている。それでは量子場なのか。しかし量子場は、相互作用や出来事について語るための言語規範にすぎないことがすでに明らかになっている。物理世界が物、つまり実体で構成されているとは思えない。それではうまくいかないのだ。

前回までに説明したとおり”言語規範”と量子場を比較して、「同じだとわかっている」と述べています。

  1. 言語「音素の組み合わせ」・・・・音素に意味は無い。音素の組み合わせに意味がある。
  2. 量子場「場の揺らぎ→物(素粒子等)」・・・・量子場に意味は無い。場の揺らぎにより生じる量子、その他の物質の組み合わせに意味がある。

1.と2.を対比させると同じだという意味です。その上で、物理世界がで構成されているとは思えないと述べています。ここで著者が使った「実体」とこれまで管理人が使ってきた「実体」とはまったく意味が異なります。 続きを読む

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数学者岡潔「 2つの心 」・・・頑としてわからぬ人たちが居る

数学者岡潔は、人には 2つの心 があることを説いています。ところがどういうわけかあまり詳しく解説していません。晩年になって、自身の時間が残されていないからなのかわかりませんが、先を急いでいるような感じを受けました。

岡潔を知ってから「 2つの心 」と「時間とは何か」の2点について、少しずつ考えて記事にしてきました。できるだけ具体的な例を挙げながら、第1の心と第2の心の仕組みと働きについて考えてきました。この2つのテーマを掘り下げて考える理由は、自然科学の何が問題なのかを明確にするためでした。

しかし、これまでのところ、十分わかってもらえているという実感が湧きません。その理由について考えました。

 

ほぼ全ての人たちは、岡潔の講演録なり、著書を「読んだらわかる」と思っています。ところが実は、「岡潔を読んでもわからない」のです。誰でも岡潔を読めば、「岡潔は何かを訴えている」とはわかります。それで何かわかったつもりになります。それだけです。岡潔は第1の心と第2の心のあり方を次のように述べています。【1】巻頭言より。

第1の心のわかり方はことごとく意識を通す。その内容はすべて言葉で云える。それでこれを「」という。これに反して、第2の心のわかり方は、決して意識を通さない。またその内容は、決して言葉では書けない。だからこれを「」という。しかしながら、無が根底にあるから、有が有り得るのである。東洋人はこれをずっと知っていた。日本人も少なくとも明治までは知っていた。そしてよくわかる人は、そのことが非常によくわかったのである。何でもすべて本当に大切な部分は無である。だから日本本来のよさというのは無である。ギリシャ人や欧米人は有しか知らない。無のあることを知らない。

第2の心の世界を「無」と云い、第1の心の世界を「有」と云う。真、善、美はすべてその源を無の世界に発して、有の世界へ流れこんでいる。有の世界に入って後、言葉で云えるのである。

一見、哲学的なことを述べている様な言葉です。ところが直近の記事11月1日の『カルロ・ロヴェッリ著「 時間は存在しない 」について その2』で取り上げたこと、『「今」に何の意味もない』に一致することがわかります。「今」は、「無」より出ているからです。 続きを読む

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