Buddhaと 如来 の関係をうまく説明するに苦心しています。それで、 如来 の仕組みについて、あれこれ説明を続けています。
如来 は二元論と同じだが、価値の押しつけはない
如来は読んだ通りです。
- ~の如し、の如し、の如し・・・・
~のような、のような、のような、と続きます。具体的には次のようです。
- 善は悪の如し、悪は善の如し
- 右は左の如し、左は右の如し
- 真は偽の如し、偽は真の如し
- 男は女の如し、女は男の如し
- 天国は地獄の如し、地獄は天国の如し
- 神は悪魔の如し、悪魔は神の如し
- ・・・・
それで、気付いたのが、如来は二元論と同じだと言うことです。ただし、如来に二元論のような価値の押しつけはありません。如来の仕組みがあるだけです。そこに人格性はありません。
以下はヲシテ文献によるヒトの仕組みです。
- ヒト=タマ+シヰ+ウ(渦:物質)
タマは心の本体です。シヰは強いるのシヰでヒトが持つ欲求です。注)ヒトから何もかも剥ぎ取った心の本体、これを自己と呼んでいます。また、自己と”対”となるのが自然界であって、これをBuddhaと言います。自己の現れが自然界です。【3】西洋の唯物主義
心の働く順番
心は、岡潔が言ったように(情・知・意)の順に働きます。
詳しくは省きますけれど、ヲシテ文献によるミヤビ(ナサケヱダ+アワレヱダ)の働きにより、物と事がわかります。この部分が岡潔の”情”と本居宣長の”もののあはれ”に相当します。
物と事がわかると、物事に意味づけできます。そうして言葉で言えます。これが知です。それで物と事の価値がわかります。その結果、情的にわかり、知的にわかり、意識してわかる訳です。つまり、意識を通してわかる(言葉で言える)段階においては、既に二元論による価値の押しつけがある訳です。価値の押しつけがシヰによる訳です。
心の仕組みと働きの順は、岡潔が言った(情・知・意)ような簡単な順ではないようです。
如来には価値の押しつけがありません。価値はあくまで、人間の置かれた状況によります。貴方の上司は、そのまた上司から見たら部下です。偉いか偉くないかなどの価値の反転は日常茶飯事です。というか、価値は相対的です。
つまり、二元論は(西洋人が)「ヒトとは何か」ということがわからないままに物事を言い表したということです。如来はそういった仕組みがあると示しただけです。
- 二元論は絶対的
- 如来は相対的
ヲシテ文献の凄いところは、最初から物と事を区別して意味づけしてヨソヤコヱ:48音(アワウタ)を創っているところです。日本語の起源であるアワウタの価値観は、相対的であって、押しつけがありません。
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