ある科学者は3つの科学(精神科学・社会科学・物質科学)について述べています。これまでの考察により、精神科学と弧理論による社会科学はわかっています。ある学者の言った3つの科学を管理人により解釈すると以下になります。
- 精神科学 ・・・・2つの心の出処と仕組みと働きについての科学
- 弧理論による社会科学 ・・・・2つの心の乖離を避けることによって社会に安定をもたらす科学
- 物質科学 ・・・・2つの心から如何にして自然あるいは宇宙ができているかを探求する科学
上の2つはわかっているのですが、ある科学者によれば、 平和 を叫ぶ人はいるが、解決の方法を提示しないとも述べています。そして、地球に 平和 をもたらすには理解が必要だと説きます。 平和 と理解についての部分を(長いですが)引用します。
私たちが集めた証拠のすべてによれば、一般的な地球市民は、ある周期のあいだ、平和のための用意をしていたことを示しています。愚鈍だと思われるような人が彼らの指導者になっています。政治力または経済力の貧困さが人々を混乱させ、誤った方向に導いているように思えます。彼ら指導者は、いつも自分たちのしている事について、うまく論理のかなった誇張した弁解を行なっています。
数百世代の間、地球人は”平和・平和”と叫んできましたが平和はありませんでした。彼らの最も知的で教育を受けた男女の多くは、平和のための研究に自分たちの一生をささげてきました。そのことは、全く馬鹿らしいと思われるとしても、数百万の人々が、周期的に起こる戦争において、”すべての戦争を終わらせるために”戦って死んでいきました。彼らはどんな直接的な試みによっても平和は決して達成されはしないという単純な事実をまだ理解できていないようです。たとえ、どこを探せばいいかをだれかが知っているとしても、掘ってゆけば得られるような金でもなく、まだすぐ手に入る宝物でもありえません。『平和は単に、人と人、人種と人種、国と国、それに全ての人々の間の完全な理解と、神として地球人に知られている、あまねく広がる力と英知の副産物として自動的に得られるものです。』そのような理解が存在しているときには、平和を探すとか平和のために働く必要はありません。平和は自動的に存在します。しかし、これが理解されるまでは、どんな努力も成功はなしえません。
完全な理解は依然として地球人の達しているレベルを超えている一方、理解いのいくつかの位相は、私たちの達してるレベルをも依然として超えていますので、人が平和を見つけることができるということは、それが理解できるレベルに達しているときだけのことなのです。
一般的理解が人種または人種のグループによって達成される前に、納得されねばならないある特殊な段階があります。物理科学の分野において地球の進んだ人種は、この段階を数世代前に踏み出しました。それが彼らの技術が急速に進んだ理由です。しかし社会科学の分野では同じ歩みがなされませんでした。重要なものと考えられることさえありませんでした。その結果、私が前に述べたように、彼らはどんな社会科学も持たず、後に続く人々のあいだに惑いと疑惑の念を起こさせるような違った方向に導きがちである指導者たちの信念と態度に頼った本質的な有意義な進歩さえできなかった社会技術だけしか持っていません。
年々、国家の政治的、社会的な問題を処理したり、論争を解決したりする能力を持った国際機構を作る努力がなされました。しかしまだこれらの努力で本当に成功したものはなく、政治的な緊張をいくらかゆるめることがときどき達成されただけでした。
個々の政府はどれ一つとしてその機構に自分たちの権威者や最高の地位にある人を代表として送る気は全くなく、したがって、そのような機構には彼らの結論を履行させる本当の力は何もなく、事実、単なる諮問グループであり、その宣言は、それを命じられた人々に無視される可能性があり、また常に無視されているのです」
下線は管理人による。意味がとりにくいので箇条書きします。
- 愚鈍だと思われるような人が彼ら(地球)の指導者になっている。
- どんな直接的な試みによっても平和は決して達成されはしない。
- 人類すべての人々が(あまねく広がる力と英知)について完全に理解すれば、平和は自動的に存在する。
- 物理科学は進歩したが、どんな社会科学も持たなかった。
- 人が平和を見つけることができるということは、それが理解できるレベルに達しているときだけ。
- 個々の政府はどれ一つとしてその機構に自分たちの権威者や最高の地位にある人を代表として送る気は全くなかった。

