自然あるいは 宇宙 を理解するに最も大きな制約は「自身の 心 」にある

岡潔は、”人に 心 が2つある”というところから始めねば仕方ないと述べました。【1】2つの心

2021年から仏陀や如来について調べていて感じることは、偉人たちの遺した言葉はいずれも同じことを異なる言語で伝えているということでした。前回の記事で書いたように多数の言語があり、言語の数以上に宗教がある理由は、言葉の成り立ちにあることが原因でした。皆が何を考えているかはバラバラで、偉人たちはそれぞれの言葉で表現したにもかかわらず、伝えたかったことは皆同じなのだとわかってきました。

ところが岡潔でさえ「 心 の本体は”情”にある」と決め打ちしてしまいました。これは間違いです。在ることは確かながら、それが何かは決してわかりません

論理の帰結として「決してわからない」のです

それを言葉で言い表すと様々に表現できるのであって、「情だ!」と決めつけるのは間違いです。なかなかに難しいです。

他の資料では、 心 の本体を「タマ、Buddha、仏、覚、soul mind」などとしています。他にもあるのは当然です。何故なら言葉互いに規定しあって成り立つ循環、繰り返しだからです。だから言葉が形式だと言えるのです。

因みに、ヲシテ文献で心の本体をタマと呼びます。そして、随心としてナサケエダアワレエダがあり、2つの随心をまとめてミヤビと呼びます。これは時の時制を意味します。

  • ナサケエダ 時の現在がわかる(静止画がわかる):岡潔のに相当:何となくその趣がわかる
  • アワレエダ 時の過去がわかる(動画がわかる):本居宣長のもののあわれに相当:わけることによりわかる

2つ合わせてミヤビです。図示します。

図1 ヒトの心に備わっているナサケエダとアワレエダによって、ヒトは(運動)がわかる

当たり前ながら、(動きがわかる)ミヤビには記憶が必要です。これでヒトに社会性が生まれます。ホツマ辞典―漢字以前の世界へ 池田満著にある「ミヤビ」の項よりの考察です。

言葉は互いに規定しあって成り立つ循環でネットワークです。その結果、言葉が”外のない内”だとわかります。インターネットの模式図を見れば誰でもわかります。

図2 インターネットの網目:すべてを覆っているが、外へは決して出てない

岡潔の言った「すべてを覆っているが、外へは決して出てない。」の意味です。2つの心の内、第1の心。即ち、意識を通し言葉で言える第1の心の制約がこれです。ですから、自然や 宇宙 を観察、読み解くという行為そのものには 心 の制約があるとわかっていなければ、決して先へ進むことはできません。

ヒトに心が2つあると十分に納得・会得してからしか科学はできません。現在の自然科学ではどう考えても無理です。

 

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なぜ、「言語の数」と「 宗教の数 」はこれほどに多いのか

ネットで調べますと世界の国の数(国連加盟国数)は196か国で、世界の言語の数6900くらいのようです。また、世界の 宗教の数 確かなことは不明ですけれども、日本国内だけで181、810(宗教年鑑平成27年度版)もあるようです。

図1 出展:宗教の分布と信者の人数が一目で分かる地図

図2 出展:宗教とは(Religion)

 

これまでの考察をもとに世界に言語と 宗教の数 が多い理由をあげます。ただし、人に心が2つあることをわかっておられない方にご理解いただきにくい内容です。

  1. 言葉は互いに規定しあって成り立つ循環でネットワーク、かつ外のない内である。
  2. 人のに限界がある。(岡潔 ”情・知・意”の順に働く)
  3. 岡潔 「すべてを覆っているが、外へは決して出てない。」
  4. 言葉の持つ特性から、人は言葉でわかっているのではない。
  5. 自己という存在を否定する者はいない。
  6. 自己の存在について、在るのは確かだが、それが何かは決してわからない

世界に言語が多数あるのは、1.によります。人の知識と意識は、自然を思考するにすべてを覆っていますが、「それより外へは決して出ていません」何故なら知識と意識は外のない内だからです。つまり、人は言葉を使いますが、人は物や事を言葉でわかっているのではないということです。サイト内を「匙とスプーン」で検索ください。

ところで、貴方はあなた自身の存在を認めているはずです。自己の存在を否定する人はいないでしょう。「わかる」というのには、2つあります。岡潔の言う2つの心です。岡潔は第1の心、第2の心と言いました。

  1. 第1の心。理解、物の理ことわり。私わたくしというもの入れなければ、決して働かない心。わけることによりわかる。還元主義。わかり方は、意識を通し言葉で言える。
  2. 第2の心。情的にわかる。何となくその趣おもむきわかるわかり方は、意識を通さず言葉で言えない。

第2の心がなければ、一切は存在しません。これが自身の存在です。この存在(岡潔の言う”情”)がなければ、一切は存在しません。ですから、在るのは確かですが、それが何かは決してわかりません。その起源がどういったもので、どこから来たのかについて、岡潔は【8】大宇宙の本体は情であるし、【10】大宇宙の中核は真情だとも言っています。

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物と事は互いに規定しあって成り立つ繰り返し( 循環 )である

これまでに考察した過程と結果を箇条書きに示します。

  1. 物質はエネルギーに転換するし逆にもなるというが、本当は一つの実体の異なる面に過ぎない。
  2. 物質と運動は一つの実体の異なる面に過ぎない。
  3. 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。(事=運動
  4. ヒトの肉体に備わった器官でわかるのはである。
  5. ヒトが聞き分けられる音の最小単位を音素という。
  6. 音素には母音と子音がある。
  7. 音素をヲシテ文献ではネコヱという。
  8. ヲシテ文献の「ヰクラ ムワタネコエワケ フソヨニカヨイ ヨソヤコヱ」は大和言葉の起源である。48音韻:アワウタは大和言葉の起源。
  9. ヰクラとは、ヒトの肉体に備わった器官でわかる物と事にかかる5つの記憶(つまり過去の出来):岡潔の第1の心に相当する。クラは蓄える働きを意味する。
  10. ムワタとは、ヒトの肉体に備わった器官でわかる物にかかる趣おもむき5種(視る・聴く・味わう・臭う・触る)と「わかる」の計6種のわかる。(つまり時の現在):岡潔の第2の心に相当する。注
  11. 5つのと10のにかかる「わかる」をそれぞれ母音と子音に振り分けたのがヨソヤコヱ(48音韻)である。
  12. ヨソヤコヱが日本語の起源である。
  13. 言葉は互いに規定しあって成り立つ循環でネットワークである。(外のない内=岡潔の言った”すべてを覆っているが、それより外へは決して出てない”)
  14. 物と事は互いに規定しあって成り立つ繰り返し( 循環 )

かなり、複雑な過程を経てますが、間を端折ると以下です。

3.の「物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない」と13.の「言葉は互いに規定しあって成り立つ循環でネットワーク(外のない内)」は、11.のヨソヤコヱにより結ばれます。だから、14.を得ます。

つまりは、「物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない」と「物と事は互いに規定しあって成り立つ繰り返し(循環)」は同じ仕組みを言い換えたに過ぎないことがわかります。日本語の起源であるヨソヤコヱは(心の仕組みと働き)を忠実に音素(母音と子音)に置き換えたのです。日本語以外の言葉との決定的違いです。 続きを読む

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なぜ 運動 は相対的なのか?

運動 の相対性。研究を始めたころからの疑問です。考えるようになったきっかけは、ある科学者の次の言葉です。

君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり、物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる側面に過ぎない。

二つの次元を持つ幾何的な平面を考えてみたまえ。この面が君の視線に対して直角をなすとき、君はそれを平面と感じる。これはその実体の物質面をあらわす。次に君がその面を九十度ほど回転させると、その面は君の視界から消えて一次元のみとなる。これはその実体のエネルギー面だ。君はその面をとり変えたわけではない。ただ観点を変えただけだ。技術的に言えば関係位置を変えたのだ。一定の物体に含まれていると思われるエネルギーの量は、一定の観測者にとって質量エネルギー軸を中心にそれがどれくらい回転したかにかかっているのだ。別な関係位置から同じ物体を見ている別な観測者は、まったく異なる量のエネルギーを見るだろう。

宇宙空間を進行している二個の惑星のそれぞれに一人ずつ観測者がいると仮定しよう。この惑星はいわば光速の半分の速度で動いているとする。しかしどれも等速度で平行に進行しているのだ。もし宇宙空間に他の天体が存在しないとすれば、二人の観測者は当然のことながら自分たちの惑星は 運動 エネルギーを持たないと考えるだろう。なぜなら二人の関係位置が同じエネルギー・レベルにあるからだ。そこで三番目の惑星を置いたとして、これが空間に静止しているとすれば、二人の観測者は自分たちの惑星が相関的には運動エネルギーを持たないのに、第三の惑星に関してはすさまじいエネルギーを持っていると感じるだろう。しかし実際にはどの惑星が動いているかを決定する方法はない。ただ惑星間に相対的な運動または異なるエネルギーがあると言えるだけだ。

「別な関係位置から同じ物体を見ている別な観測者は、まったく異なる量のエネルギーを見る」として、3つの惑星の運動について説明してます。その結果、「惑星間に相対的な 運動 または異なるエネルギーがある」との結論を述べています。注

この運動の相対性は誰もが認める所なのですが、自然のあらゆる現象を見るにつけ、「エネルギー保存の法則」に至るというところに納得できないで来ました。勿論、閉じた環境(孤立系)での総量は保存することに異議はありません。空間全体?で本当に保存しているのかがよくわからないのです。知られているように保存の法則は、一連の実験や観測事実のみに基づいた経験則です。例外があってもよいと考えてきました。ある科学者が言うように別の観測者から見ると「すさまじいエネルギーを持っている」のは誰もが認める所です。

運動の相対性についての解説を探してみました。北大のHPにある第8章 光と相対性理論より引用します。

人間は歩いたりすれば簡単に位置を変えられます。一方、時間に関しては別で、ある時間からある時間まで行くといったことはできません。たとえば、ある時間ごとの位置というのはありますが、時間は位置と別のものということが常識的な考え方です。

- 略 -

重力が働いていない状況をはっきりさせるためにまず、宇宙に出てみます。もちろん、実際には行けないので想像してみましょう。宇宙遊泳に友達と二人で出かけたとします。
友達を押してみると押し返されて自分も友達から離れていくでしょう。こちらから見ると友達が離れていき、友達からみるとこちらが離れていきもう2度と会えないなんていえば悲しい話となりますね。ともかくどちらが静止しているといった言い方はできません。そのため、運動というのも、誰かを基準にしてそこからのずれを問題にしているだけです。この意味ですべての運動が相対的で、絶対的に優位な人はいません。また、これはある程度実験で確かめられた仮説として、宇宙には中心がないと言えます。これはすべての人や物に対する平等の考えかたです。これを相対性と言います。

時間と位置は別のものだとの考えは当然です。位置と位置の隔たり(距離)は量ですが、角度から作る時間は量ではなく”事の質”だからです。上記の引用でも運動の相対性を説明する際の例として重力が働いていない宇宙空間に出た場合を説明しています。 続きを読む

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岡潔「時間を知ろうとするといつも 運動 を使う」 弧理論による運動P_に同じ

弧理論では運動という表現を使います。この表現について、あまり詳しくしていませんでしたので、ここに記します。

物理学では運動量のことをアルファベットのPで表します。ここで、 運動 Pと表現すると運動量と混同する誤解を招きます。 運動量は次元で言うと[MLT-1]です。しかし時間[T]は物の量ではなく、事の質でした。つまり、自然科学には物の量事の質の区別がないため、最終的に何もわからないことになると予想されます。(自然科学は間違いです。) そこで、時間の観念を含まない 運動 を表すに、運動量と区別するためPの記号にアンダーバーを付けることで、運動として運動量Pと区別しています。純粋に”物の動き”と理解してください。

ところで、岡潔は【2】自然科学者の時間空間において次のように述べています。

自然科学者は自然というものをどういうものだと考えているかということを代りに言ってやって、そして、それを検討するより仕方がない。

自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。

時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。 運動 は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。

人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。

下線は管理人による。岡潔の「人は何時も運動を使います。」の運動、これが上記の運動です。

解説です。

弧理論では運動を「事」と呼んでいます。人が肉体に備わった器官でわかるのはです。図で示すと次です。 続きを読む

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物と事の間は 素数 でつながっている

普段の睡眠時間はおおよそ7時間ほどです。目覚めてから起床までの間に、これまでの考察を振り返る(復習)ことが多いです。早朝、何となく目覚めて、ぼんやりしていた時、不意に次の言葉が浮かんてきました。

  • 物と事の間は 素数 でつながっている。

弧理論の前提は、「物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。」というものでした。 別の次元軸(E軸という)が存在し、我々はE軸上にある何か実体という)が投影されることによって現れる映像M軸という)だというものです。言い換えると、自然はE軸上の実体が投影により作り出す映像だということです。

人が肉体に備わった器官でわかるのはです。弧理論では”事”を運動と呼んでいます。E-M軸を二次元平面として描くと次になります。

図1

投影角が変化することにより、物と事として現れます。あるいは次にように描けます。

図2

投影角の変化により、M軸に物と事(運動)が現れる仕組みです。

その物と事の間は 素数 でつながっているというのです。勿論、この場合の素数は12進数によります。

  • 物と事の間は12進数による素数でつながっている

現在のところ、この言葉が正しいかどうかわかりません。

 

発端は、ある科学者の言葉です。2か所ありますので続けて引用します。 続きを読む

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創造 論文と紙の違い

ここに岡潔の自筆原稿があります。数学に於ける主観的内容と客観的形式とについて(草案)の一部です。

gif1 出展:奈良女子大学岡潔文庫

用紙のサイズはB5なのかA4であったのかはわかりませんけれど、用紙に万年筆のインクで書かれた原稿のようです。

あるのは、用紙+微量のインクです。これに何の価値があるのでしょうか?ただの”用紙+インク”と論文との間には、何の違いがあるのでしょう。ずっと昔からの管理人の疑問です。

今もキーボードを打っています。液晶画面のドットに一定のパターン(文字)を並べているに過ぎない作業を行っています。PCには画面の維持に電力が必要ですけども、しかるべき操作により電磁気的な記録として保存できます。HD内には2010年に研究を始めてからの思索や実験、あるいは原稿などの資料が入っています。ただの箱であるPCと研究考察の内容との間に何の関係があるのか今もよくわかっていません。

情報とは何なのでしょうか? 当サイトでの研究を弧理論(Ark Theory)と名付けています。以下は弧理論の前提です。

  • 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。
  • 事を運動と呼ぶ。

運動の一つに情報(記憶)があります。ただの用紙と価値のある論文との間には決定的な違いがあります。その違いを岡潔は「 創造 」にあるとしました。

フランスの数学者アンリー・ポアンカレーの経験したような発見の過程を細かに自己分析している人は多くは無いようです。以下は、管理人による「 創造 とは何か。 創造 の過程」についての考察の様子がわかる過去記事です。

ヲシテ文献や岡潔や記紀あるいは仏教にある他力などの示すところ( 創造 )をまとめたのが次図です。

図1

どうも、Buddhaの意味として「(悟り)目覚めた人」とありますけれども、単に「真理、本質、実相を悟った人」というのは違うと感じます。これでは、何を真理とし、本質とは何か、実相とは何か、悟りとは何かがわかりません。 続きを読む

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弧理論 について 絵画と画材の関係

弧理論 はいったい何を目指しているのか?いったい何を伝えようとしているのか?当サイトを訪れて、記事を読まれる方は様々な経歴をお持ちのようです。ところが管理人が考えて伝えたいことを記事にしても伝わっていないと感じます。

当然のこと、記事を読まれてもその方が持つ経験と知識とその方の観方、考え方を通して読まれるわけです。これまで、万華鏡影絵、あるいは匙とスプーンなどをたとえ話として説明してきましたけれども、うまく伝わらないようです。

改めて、別のたとえ話をします。思想、主義、主張、宗教、政治理念など、人文科学社会科学、あるいは自然科学、人の活動のすべては「言葉」によります。

図1 人類の活動のすべては具体と抽象の間に入る

これを絵画に例えますと、言葉画材です。

写真1 出展:オランダ黄金時代の絵画

写真2 出展:油絵などに使うキャンバスにはどんな下地の種類があるの?

 

岡潔は数学の分野で幾つもの「名画」を残しました。と同時に、岡潔は画材について、探求しようとした数少ない人です。当サイトは、数学者岡潔思想研究会にある岡潔講演録を参考にしています。

数学を含むあらゆる学問、大きく言えば文化・文明の基礎はにあり、心の仕組みと働きから出た言葉により、人の営みのすべてが出てくるのですから、名画より画材が大事なわけです。 続きを読む

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如来 フトマニ ヨソヤコヱ(アワウタ)はみな同じものの異なる表現に過ぎない

仏教にある如来1.ヲシテ文献にあるフトマニ2.、同じく日本語の元である大和言葉の起源になるヨソヤコヱ(48音韻:アワウタ3.)は、ともに同じ意味を含んでいます。みな同じものであり、表現が異なるだけです。 いろんな表現があるのは、言葉が形式だからです。以下、何故そうなのかについて説明します。

 

言葉は形式ですから、何かを言い表すとき、様々な呼び方が可能です。巷にあふれる商品でも商品名とは別に型番があります。別に卸や小売りなどの流通ごとそれぞれの管理番号があります。各社バラバラでは不便ですから、共通するところについての規格を統一した型番や呼び名があります。例えばJIS規格であったりします。呼び名も型番も管理番号も型式ですから、いろんな呼び方ができます。当たり前です。

過去記事に示したように、世界には多くの言葉があり、同様の理由により言葉の数ほど神仏・宗教があるわけです。

 

1.さて、仏教の如来は、 (((~の如し)の如し)の如し)の如し・・・・と表現され、決してわからない何かを意味するようです。

写真1 如来は合わせ鏡に例えられる

数学、あるいはプログラミング技法で言えば再帰(帰納)に近いです。

 

2.フトマニはヲシテ文献の一つです。ヨソヤコヱ(48音韻)を魔法陣のように配置した図がフトマニ図です。

図1 フトマニ図 中央の渦巻き(アとワの特殊文字)を含む3文字が「ア・ウ・ワ」

フトマニ図の中央にあるア・ウ・ワのア・ワについて。 「アはワの如し、ワはアの如し」と言えます。アとは何か決してわかりません。何か在ることは確かですが、仮に「ア」と呼んでいるにすぎません。言葉は形式ですから。 続きを読む

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超ひも 理論 超ひもは「如来」に同じ

岡潔の言葉をきっかけに自然科学の問題点について考察してきました。角度から作った時間は量ではありません。その時間をパラメーターとした物理学は間違いです。どうも弧理論の前提を考えると「運動と量ではない時間が比例するのは運動も角度も別の次元軸(E軸)からの投影角の現れ(比例関係にある)から」のようです。まだ、詳しくはわかりません。

図1

岡潔は、(自然科学者が対象とする自然)を物質的自然と名付けました。物質的自然は全体として、量ではない時間をパラメーターとする循環でした。

物質的自然にかかる問題は、究極のところ「物とは何か」という疑問です。その前提にあるのが「時間・空間」でした。物理学者が考える”時間”は実のところ量ではありませんし、”空間”は自明ではありませんでした。弧理論によるところの”境界空間”です。境界空間でサイト内を検索ください。

そのような物理学者たちの行き着いた理論の一つに 超ひも 理論があります。この 超ひも は仏教にある「如来」に同じです。

写真1 如来は合わせ鏡に似る

ついでながら、唯識論は誤りです。人は言葉でわかっているのではありません。

2021年7月7日 唯識論 は”繰り返し”になっている。だから間違い。

 

弧理論も究極的には繰り返しなので限界がある事は明白なのですが、当面は別の次元軸(E軸)に”因”を求めることにより、繰り返しを回避するという点で異なります。

で、「如来」という言葉を何処の誰が言いだしたのか調べてみましたけれど、わかりませんでした。しかし、先人が” 如来 ”に気付いたのは言葉の仕組みから?のようでした。2021年10月8日の記事。 続きを読む

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