質問 インチとセンチメートル どっちが正しい?

あるいは、「フィートとメートルどちらが正しいですか?」でもよいです。勿論、そんな質問は無意味です。 単位系は、SI単位があります。学生の頃には単位系としてmskやcgsがありました。それぞれの単位系での変換をすればよいだけです。

 

直近の記事で話題にしていることは、「そんな質問は無意味だ」ということです。

  1. インチとセンチメートルはどっちが正しい?
  2. Aという宗教とBという宗教はどっちが正しい?

1.の疑問は、誰しも無意味だと即断します。むしろそんな疑問を持つことはありません。ところが、2.の疑問は2000年来の問題です。何故なのでしょう。

岡潔は自ら「人は言葉でわかっているのではない。」としながら、心の本体(第2の心)を「情」だとして、決め打ちしたのです。あくまで情は、心の仕組みと働きについての一側面でしかありません。 因みに、岡潔の情は、時の現在がわかるというものです。静止画がわかると言ってもよいです。もののあわれは、動画がわかると言ってよいです。時の過去です。動画がわかるためには現在である静止画を記憶する必要があります。これが情報(言葉)です。ですから、言葉でわかるというのは時の過去です。

 

数学を含む言葉互いに規定しあって成り立つ循環でネットワークです。管理人はこれを「外のない内」と呼んでいます。

図1 ネットワークはすべてを覆っているが、外へは決して出てない

第1の心のわかり方は「意識を通し、言葉で言える」というものでした。第1の心の”わかる”は、わけることによりわかるというものです。 その最小単位は、数学で言えば”1”です。

2進数で言えば、1とはゼロでない数であり、ゼロとは1でない数です。だから、1は決してわかりません。

言葉で言えば、音素です。音素には母音と子音がありますが、岡潔と同じ言い方をするならば、「母音の”ɑ”は決してわかりません」。参考:発音記号一覧表

言葉が形式である以上、多くの言葉があるのです。中にはエスペラント語のような人工言語もあります。

言葉(教理経典)で表現した宗教もまた外のない内ですから、宗教で表現されている神仏は、すべてを覆っていますが、外へは決して出ていないのです。各々の宗教が「これこそ、唯一無二だ」と決め打ちするのは間違いです。恐らく間違ってはいないでしょうけれど、一側面に過ぎないはずです。特に”如来”はかなり近いです。

 

前回の記事(日月神示の話)で言いたかったことです。日月神示に言う「一つの王で治める」というのは、人がわかる言葉に置き換えるという仕組み自体を「王」という呼称に置き換えたのだろうと考えます。つまり、日月神示(ひふみ神示)の述べていることは、世界中にある外のない内に過ぎない宗教のすべてを束ねた仕組みである「一つの王」をもって世界を治めるということです。

世界中の宗教にかかる優劣を比較することは無意味です。ありとあらゆる言葉宗教が出てくる仕組みと働きの根源に立ち入って、この「王」なる仕組みで治めるのです。

 

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説 | タグ: , , | コメントする

日月神示 ひふみ神示の読み方について

当サイトでは、 日月神示 (ひふみ神示)を研究の参考にしています。当初は、何故か気になる存在ではありましたが、その理由はわかりませんでした。

何となく納得したのは、「」の文字が頻出するからでした。何と394か所もあります。(ひふみ神示全文のサイトで検索しました。) 気(キ)はヲシテ文献において大変重要な言葉です。(キ)は東西南北の東(ヒガシ)であるとともに、日が昇る方角として、(キ)はパワー、エネルギーという意味があります。

岡潔の「時間という計量的なものはない」という言葉をきっかけに自然科学の問題点を調べつつ、岡潔の””は、ヲシテ文献にあるタマシヰのタマと関係あることがわかりました。まとめたのが以下です。

図1 上段が心の本体(情:第2の心=無私の心)、下段が(第1の心:私心)時の現在と過去に対応

そして、2021年に仏教のBuddha(仏)、善導大師の”覚”と”他力”の意味がわかり、日月神示に頻出する”気づけ”という「気づきを促す」言葉が「仏教の他力の向こう側」にあたることがわかりました。

結局のところ、 日月神示 (ひふみ神示)はヲシテ文献のフトマニの流れをくむ訳ですから、日月神示はヲシテ文献に示される語句の意味合いを踏まえて読めば、ある程度わかってくるはずと考えます。過去の参考記事です。 続きを読む

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説 | タグ: , , , , , , | コメントする

宗教の限界  宗教が言葉の数ほどあること自体が限界を示している

先般の記事について。わかりにくかったので異なった言い方に代えます。

岡潔は大宇宙の本体は”情”だと言いました。【8】 いろいろ調べてみるとBuddhaや仏や覚も”気づかされる”、シラスウシハクのシラス、あるいはヲシテ文献のナサケヱダも岡潔の”情”もほぼ同じことを示していました。

図1

考えた結果、在ることは確かだが、それがどういうものか決してわからないということでした。論理的帰結として決してわからない”何かを型式である言葉で言い表そうとするから幾つもの表現ができるわけです。ですから、仏も神もあらゆる宗教は言葉で表現されますから外のない内です。

神仏もかかる宗教のいずれもすべてを覆っているが、外へは決して出ていないのです。これが 宗教の限界 です。そして、教理経典を詳しくすればするほどに、本質から遠ざかります。

言い換えると、各々が唯一無二(絶対)だと主張する宗教が言葉の数ほどもあること自体が 宗教の限界 を示しているということです。 続きを読む

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説 | タグ: | コメントする

弧理論 研究の目的と感想

2010年に研究を始めて13年目です。弧電磁気論としてスタートした研究は2013年9月に弧理論(Ark Theory)と名称を改めて現在に至ります。 弧理論について研究する目的、並びに近頃感じていることの感想をメモします。

1)弧理論研究の目的

大きく分けて2つになります。第1の目的は、戦争の動機をなくすです。管理人が考え得る人類最大の課題です。ある科学者は言います。

数百世代の間、地球人は”平和・平和”と叫んできましたが平和はありませんでした。彼らの最も知的で教育を受けた男女の多くは、平和のための研究に自分たちの一生をささげてきました。そのことは、全く馬鹿らしいと思われるとしても、数百万の人々が、周期的に起こる戦争において、”すべての戦争を終わらせるために”戦って死んでいきました。彼らはどんな直接的な試みによっても平和は決して達成されはしないという単純な事実をまだ理解できていないようです。たとえ、どこを探せばいいかをだれかが知っているとしても、掘ってゆけば得られるような金でもなく、まだすぐ手に入る宝物でもありえません。『平和は単に、人と人、人種と人種、国と国、それに全ての人々の間の完全な理解と、カミとして地球人に知られている、あまねく広がる力と英知の副産物として自動的に得られるものです。』そのような理解が存在しているときには、平和を探すとか平和のために働く必要はありません。平和は自動的に存在します。しかし、これが理解されるまでは、どんな努力も成功はなしえません。
完全な理解は依然として地球人の達しているレベルを超えている一方、理解いのいくつかの位相は、私たちの達してるレベルをも依然として超えていますので、人が平和を見つけることができるということは、それが理解できるレベルに達しているときだけのことなのです。

考えるに、現在のところある科学者の言うように、通信技術の発達により人類は”理解ができるレベル”に達していると感じます。問題は、人類が何をどのように理解するかです。別のところで、ある科学者は「(平和について)単に問題を提起するだけで解決策を与えていないからだ」と述べています。 具体的な解決策が弧理論だと考えています。

弧理論は、G・アダムスキー、ダニエル・フライの遺した資料、数学者岡潔による2つの心とその他の言葉、ヲシテ文献に示される2つの心の仕組みと働き(カミの仕組み)、Buddha、仏、覚、如来(循環)、そして、ヲシテ文献の流れをくむ日月神示(ひふみ神示)、並びにファラデーが発見した単極誘導の現象を基礎資料としています。

これらの資料から「自然がE軸からの投影による映像(M軸)」だとの結論をています。これが弧理論の出発点です。

 

SPACE PEOPLEというサイトに興味深い文章があります。「与えられた宇宙文字の本当の目的」という文章です。 元ネタは、G・アダムスキー:久保田八郎訳になる「空飛ぶ円盤の真相」(高文社)です。 p75とp77から一部引用します。

写真1

さて、この象形文字が私に与えられたおもな理由の一つは、地球人が欲しがっていることを宇宙人が知っていたという〝具体的な証拠〟を与えるためであった。

宇宙の兄弟たちは次の事実を認めている。すなわち地球の古代文明の歴史やその文明の哲学のなかには、彼らの遊星上で知られていて、そこに住む人々によって保たれている歴史や哲学と一致するものがあって、それが例の象形文字のなかに述べられているというのだ。
それで、ずっと以前に私に与えられたあの象形文字の完全な説明をすることは現在でも私にはできないけれども、その文字はおそらく目的を果たしたであろう。宇宙人たちは満足の意を表わしている。

強調と下線は管理人による。「私」とはG・アダムスキーのことです。 続きを読む

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 雑感 | コメントする

宗教 間の対立は無意味 

まずは、前回の記事をお読みください。

岡潔が名付けた第2の心の出処について、「確かに在るが、それは何かは決してわからない。」ということでした。くどいようですが、論理的帰結として確かに在るけれども、論理の帰結として決してわからないのです。

言葉は互いに規定しあって成り立つ循環でネットワークです。言葉の元である音素に意味はありません。言葉は形式です。意味を持たない音素を組み合わせることにより出来上がっているから世界中に言葉があふれているのです。

如何なる 宗教 もある部分は正しいのでしょうが、たとえ、その 宗教 がすべてと思われても他にも在るのです。何故ならば、人の考えること(第1の心による教理経典)は、言葉によるからです。これが外のない内である第1の心の限界です。唯一無二の宗教、あるいは主義主張は単なる思い違いです。あるいは思い上がりなのかもしれません。

以上が言葉の数ほど宗教が存在する理由です。詰まる所、人は自ら信じたいものを信じているにすぎません。ということで、世の思想信条、 宗教 あるいは政治的対立は、シヰに基づいていると言えます。タマシヰのシヰは、欲しい欲しいのシヰで、強いるのシヰです。生命維持の欲求です。

ローマ教皇が「世界の宗教を統合しよう」と話して、統一の象徴を”クリスラム”という言葉で言い表しました。このような無責任な話はないです。

実に無責任です。仮に宗教の指導者たちに合意ができたとしても、何の合理性も理念もないところの統一などうまく行く訳がありません。 続きを読む

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説 | タグ: , , | コメントする

岡潔 の間違った点について

岡潔 は二つの点で間違っていました。一つは既出で、書き漏らし(1)がありました。 もう一つは”大宇宙の本体は情である”と、決め打ちした(2)ことです。

 

(1)まず一点目は既出です。人がわかるのはです。 岡潔 は「数は量のかげ」と言いました。物にはがあり、事にはがあります。ですから、正確には次です。

  • 数は物の量のかげ

書き漏らしたのは次です。

  • 数は事の質のかげ

には自然数、有理数、無理数、虚数などあります。理学の面で言うならば、2種類の数を物の量と事の質に使い分けねばならないはずです。しかし、実際は混同したまま進んできました。自然科学においては、物の量事の質を混同したままです。何度も書きました通り、時間は物の量ではなく、事の質です。時で言えば、時間は過去で現在を含みません。

岡潔は、数について次のように述べています。

  • 自然数の1は決してわからない。

なぜ1がわからないです。10進数ではなく、0と1を使う2進数で例えます。

  • 1とはゼロでない数。ゼロとは1ではない数。

1とゼロは互いに規定しあって成り立つ循環、繰り返しです。だから、決してわかりません。10進数であれ、n進数であれ同じです。一般化すると次です。

  • 言葉は互いに規定しあって成り立つ循環、繰り返しで、ネットワーク。外のない内。

岡潔は自然科学者が考える自然について、「全てを覆っているが外へは決して出てない」と述べています。つまり、第1の心(意識を通し言葉で言える心。私わたくしという心。)は、”互いに規定しあって成り立つ循環、繰り返しで、ネットワーク”であって、外のない内である。だから、そこから一切出ていないと言ったのです。

仏教にある”如来”の意味に同じです。決してわからないものをあえて言葉にしたのが如来です。如来とは岡潔の言った第1の心を指します。詳しくは過去記事をお読みください。

如来という言葉をどこの誰が言われたのかわかりません。如来という言葉は第1の心を指しているが、示したかったのは、外のない内である第1の心のほかを示したかったのだとわかります。これを反転というか、逆というのか、裏というのかうまく言い表せません。

 

(2)間違っていた点。

岡潔は”大宇宙の本体はである”と言い切った点にあります。【7】【8】 

続きを読む

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説 | タグ: , , , , , , , | コメントする

境界空間 仮説での最大の疑問

弧理論(Ark Theory)における 境界空間 の仮説とは、宇宙の成り立ち(自然)を説明する仮説です。岡潔は物質的自然(自然科学者が考える自然:時間空間)について、次のように述べています。【2】自然科学者の時間空間より。

自然科学者は自然というものをどういうものだと考えているかということを代りに言ってやって、そして、それを検討するより仕方がない。

自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。

人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。

時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。

が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。

が、まあよろしい。ともかく初めに時間、空間というものがある、その中に物質というものがあると、こう思っています。

岡潔によれば、自然科学者は「初めに時間、空間というものがある、その中に物質というものがある」と考えています。そして、運動と時間は比例すると決めてかかっているといいます。しかし、角度から作った時間は量ではありません。何故なら角度は量ではないからです。

では、空間とは何かということです。自然科学者は空間について、自明として議論が始まっていますけれども、それではダメです。 岡潔は山崎弁栄上人の言葉をひいて、自然は心があるために映写される映像だとして、自身は”少なくとも一部は映像だと言ってよい”と肯定しています。(【3】西洋の唯物主義

 

当サイトでは、いろいろ検討すると自然は映像だと考えざる得ないという結論に至りました。 続きを読む

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説 | タグ: , , , , , | コメントする

時制と仏教の 因果

昨年より、機会があって仏教について調べてきました。調べたのは以下です。

  • 唯識
  • Buddha
  • 仏 (善導大師)
  • 覚 (善導大師)
  • 情 (岡潔)

唯識については、2021年7月7日「唯識論 は”繰り返し”になっている。だから間違い。」としました。けれども、繰り返しがあるから、即、正しくないという訳ではないようです。繰り返しが出てきたら行き止まり(抽象)だというのが正しいところです。

2021年5月12日『「仏」と善導大師の「覚」、そして 岡潔 の「情」』にある図で説明します。

図1

岡潔は「情・知・意」の順に働くとしました。まず、何となくその趣がわかり(的にわかり)、的に言い表す。(言葉で言える)そして、が働くという順です。

に相当するのが善導大師の示したであり、です。その覚は5つの器官よりきます。だから、視なのです。何となくその趣がわかり、その次にくるのが知と意です。

唯識は情あるいは仏、覚より後に来ます。言い換えると唯識とは、心の仕組みと働きわけることによりわかろうとする行為です。(言葉で言い表そうとする。)だから、繰り返しが現れるのです。

そもそも”何となくその趣がわかる(映像がわかる)”という説明の仕様がない何かを言葉で言い表すことなど本来的にできないものをあえて言うならば、Buddha、仏、覚、情と仮に言い表したにすぎません。それをあたかもわけることによりわかるとする唯識は間違いなのです。あくまで知は後です。岡潔の名付けた第1の心の内です。これを岡潔自身勘違いしました。(晩年、唯識に嵌ったようです。)

岡潔が言ったように「人は言葉でわかっているのではない(第2の心)」のです。言葉で言えない何かをあえて別の言い方をしたのが如来です。 続きを読む

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説 | タグ: , , , | コメントする

有限と無限  第1の心 の限界(外のない内)

手元に月刊ニュートンの別冊「ゼロと無限 素数と暗号―数学者たちを魅了してきた深奥な数 (ニュートンムック Newton別冊) 」があります。

写真1

目次写真2にある様々な”数”についての記事があります。以下は「数とは何か」です。

  • 数は(物の)のかげ・・・・岡潔
  • 数は事ののかげ・・・・管理人

岡潔は「数は量のかげ」といいました。正確には、数は物の量のかげです。”数”にはもう一種類あって、”事の質のかげ”でもあります。これは管理人の考察によります。人が五感でわかるのはです。

  • 物と事は一つの実体の異なる面に過ぎない。

で、数は元々、物の量事の質を表すために使っていたのですけれど、文明の方向として事の質を表すに重きが置かれる様になってきました。例えば、仮想通貨は”数”ですが、事の質であって量は伴いません。これまで観てきたように、事の質にかかる複雑さに際限はありません。その行き着く先は抽象です。

このような2種類ある”数”について、事の質を探求したのが冒頭の本です。目次を観ます。

写真2

「ゼロとは何か?」に始まって、素数と暗号、無限、そしてゼロと無限のQ&Aと続きます。 続きを読む

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説 | タグ: , , , | コメントする

何故、誰も 科学 を統合しようとしないのか?

手元に、”数学の大統一に挑む:エドワード・フレンケル著”という本があります。また、物理学においても自然にある4つの力を統一しようと努力が続けられてきました。

図1

ところが、 科学 の全体を俯瞰して、科学の行く末について考えている人がほとんどいません。このことについて、いつも引用するある 科学 者は次のように述べています。

我々は君の国の多くの一流科学者の精神を調べてみたんだ。大抵の場合、我々は科学者たちの精神が既成概念という鋳型で固められていることを知った。彼らは遠くまで進みすぎている。その結果遠い道のりを後もどりしなければならない。私の言う意味を比喩によってもっと優しく言ってみよう。科学知識を求める人間は木に登るアリのようなものだ。自分では上方へ動いていることがわかっていても、その視野は狭すぎて幹全体を見通せない。そのために幹を離れていることに気づかないで下方の枝の方へ移動するかもしれない。いっときは万事がうまゆく。自分ではまだ上方へ登れるし、進歩という果実を少し摘み取ることもできる。だがその枝が急に無数の小枝に分かれていろいろな方向に葉が散らばっているために本人はまごつき始める。

基本的法則は今や分かれ始めて反対の方向に散らばり始めていることに気づく。すると科学者は心によって受け入れられる 知識の限界 に近づいていることや、あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになるという結論に達する。

人類の進歩を木を上るアリに例えています。遠くまで来すぎたことを指摘しています。注意すべきは、科学者たちが”上りすぎた”のではない”遠くまで進みすぎた”ということです。アリの視野が狭すぎて木の全体を見渡せない状態であって、上へ上っているのか、はたまた横、あるいは枝の端を下っているのかもわからないと指摘しています。

図2 大きく観ると進んできた枝は10進数による文明

 

これまで参考にした資料にて考察した結果、我々が科学している”自然”は、概ね次ぎようです。

  • 自然は映像である。

続きを読む

ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。 にほんブログ村 科学ブログへ  学問・科学ランキング  
カテゴリー: 解説 | タグ: , , , , | コメントする