どうもE=mc^2は間違っている  エネルギー について

素粒子物理学者のやっていることは、例えば次のようなことです。

リコーダーの音をマイクで拾い、音の強さ(運動)を質量に換算している。音に質量があるなどと誰も言いません。

写真1 出典:KENJI 的 Blog

どう考えても変です。この件については、これまでに何度か取り上げていますが再度記します。

ある科学者の云った言葉を2つ引用します。

(1) 1つめ。

君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり、物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる側面に過ぎない

下線は管理人による。 数式とはE=mcのことです。 「一つの実体」というのは、別の次元軸上にあるとするものです。これについては別に説明がありますけれど省略します。図では次になります。

図1

我々のいる空間を2次元平面とすると、直交するのがE軸(エネルギー軸)です。ここで、物理学でいうエネルギーの次元解析では[ML2T-2]ですが、時間[T]を含みますので使えません。時間のマイナス二乗(加速度)が入っているので図1では、物理学での エネルギー は運動として表してE軸上の実体が持つ真のエネルギーと区別しています。上から見ると実体は質量を持つ物質と認識できますが、投影角が浅くなり運動が大きくなるにつれて質量は次元を失います。(直交から平行になる。)投影角がゼロになると質量は観測できなくて運動のみになります。これが”波”です。波は位置と質量が不定です。

(2) 2つめ。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であり、そのため進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

極微の世界では、粒子は波としての性質を持ちますが、その現れ方は確率によります。現れ方というのは「位置と質量を計測できる」ということですが、どうも落とし穴がありそうです。別に記します。

 

少し前に、「確率は結果」だと書きました。上の2つの言葉はリンクしています。図1の(弧理論の)考え方によれば、”波”は運動の一形態です。物質は運動とともに質量を計測しにくなり、位置と質量は不定になります。これが”波”です。 例えば電子は加速するにつれ電子波になります。図1の投影角がゼロになると運動のみになります。これは波であり量子化したものが光子です。光子は波であって質量は観測できないということです。

電子も素粒子ですけど、話を素粒子に戻します。素粒子物理学者は200種にも及ぶ「波」を観測し、その運動を数式:E=mcを使って質量に換算していると云うことです。これが冒頭のリコーダーの話に通じます。

 

で、落とし穴の件です。電波は電磁波です。アンテナが電波を捉えると表現しますが、厳密には誤りです。

図2

電磁波はアンテナを構成する良導体にある電子に運動(高周波電流)を起こします。高周波電流を増幅し検波して音声なり映像なりを取り出(復調)します。 電磁波を直接に捉えてはいません。ついでに云えば聴覚は音を直接捉えていません。音波は内耳の蝸牛にある有毛細胞、つまり聴覚神経内に電子の運動(電気信号)を起こします。(間違っていたらご指摘ください。)

同様に、素粒子加速器のセンサーもセンサーを構成する物質内の電子が波(素粒子)によって運動します。これを処理して(素粒子の)運動を求めます。求めた運動を質量に換算しているということです。 繰り返します。弧理論の考え方によれば、運動の一形態は波であり、波の位置と質量は不定です。運動を質量に換算するのはどうも間違っています。言い換えますと「物理学で定義されるエネルギーを質量に換算することは間違い」ということです。

冒頭のある科学者の云った「 エネルギー 」を運動に置き換えます。

物質と運動のかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。・・・・ 誤った結論に達している。つまり、物質は運動に転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質も運動も一つの実体(が持つ真のエネルギー値から)の異なる側面に過ぎない。

どうも2つの引用文について、およそ7~8年くらいは考えてきました。これでだいだいは飲み込めたようです。物理学上の定義にある エネルギー は時間を使えないので(時間を含まない)運動に置き換えることは早い段階でわかりましたけれども、運動の一形態が波であるという考えを受け入れるに相当な時間がかかりました。(ここで確率が関係してきます。) ある科学者は答えを直接云わないので大変です。教育ということの大切さがわかります。岡潔も指摘したように詰め込み教育なんて実にくだらないです。

 

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岡潔 的思考 「右の内耳」について

数学者 岡潔 について、最初の記事を書いたのは2013年10月15日『「時は金なりTime is money.」の本当の意味』というものでした。「岡潔」で検索してみますと項目数184件という結果でした。現時点での記事の総数532件からすると相当の数です。 弧理論を含む全体像がわかったのは2016年11月頃のことでした。切っ掛けは京都ヲシテの会に出席したときに教えられた”カミ”の定義からです。ヲシテ文献に関しての最初の記事は2015年9月12日「漢字伝来以前に文字は間違いなくあった。 聖徳太子と蘇我氏の功罪」ですから、岡潔の思想について考え出した時期は、ヲシテ文献について調べ始めるより2年ほど先でした。

管理人が 岡潔 の思想に関心を持つ理由がなんとなくわかってきました。この件についてのメモです。

考察の過程でヲシテ文献に示された人の心のあり方をまとめたのが次図です。

図1

図は2016年11月ですから丁度、全体像である「カミの仕組み」がわかってきた頃の図です。

管理人は若い頃にG・アダムスキーによる「テレパシー」なる本を読みました。

写真1

当時、”こんな考え方があるんだ!”という驚きがあり、大変影響を受けた記憶があります。だけれども管理人はアダムスキー原理主義者にはなりませんでした。G・アダムスキーの考えに腑に落ちない点もあったからです。この点は幸いでした。「これはこれ、あれはあれ」という姿勢は現在でも変わりません。

岡潔とヲシテ文献を同時並行で考える内に図1に示したとおりの相関があると気付いたのです。あれこれ考えて2017年と2018年にかけて弧理論を取り巻く全体像(カミの仕組み)と自然科学の問題点のそれぞれについてがだいたいわかってきました。

こういった経緯で岡潔が考えたであろう事について自分なりに考察を続けてきました。

で、本題です。 どうも、管理人の思考方法が岡潔のそれに近いというか、近づいているというか、何と表現してよいかわかりませんけれども、「究極まで(基本的なことを)究極まで簡単化して考える」という方法をとっているようです。

記事を書く際には、よく「数学者岡潔思想研究会」のサイトを利用させていただいているのですけど、先日、岡潔講演録(21)「1971年度京都産業大学講義録第11回」の「【10】 右の内耳」が気になりました。この記事にある「右の内耳に関心を集め続ける」ということの意味を貴方もわからないでしょうし、なぜ右の内耳なのか管理人もわかりません。

岡潔が”関心を集め続ける”ことを「精神統一」と言った言葉で表現したのは誤解を招くと前々回の記事で記した通りです。 実はG・アダムスキーが最も重視したのは「想念観察」でした。よく考えると岡潔が「右の内耳に関心を集め続ける」という動作というか思考方法は想念観察そのものです。 「目はつぶらずに、しかし目に入るものに興味は移らず、問題に関心を集め続ける」、そして『聞こゆるを聞き、見ゆるを聞く』というのは、まぎれもなく想念観察であり、ある科学者の云った「受信の態度」そのものです。道理で管理人のそれと似ているはずです。 ただし、右の内耳に関心を集め続けるのは、岡独自の方法であって一般的ではないようです。

そういえば、FE研究者のI氏から似たことを聞いたことがあります。I氏曰く「右の耳(右肩・右の方向?)にラップ音がある」とのことでした。これは管理人がこれまでの経験について話したことの返答でした。こういうのをラップ音というのをこのとき知りました。

どうも岡潔の述べた言葉は、途轍もなく凝縮されています。平易な言葉であるけど、噛めば噛むほどに深くて味があります。管理人は最近まで岡潔講演録の内のわずか4ページ分ほどを参考に考察を進めてきました。大量にある岡潔のほとんどをまだ読んでいません。それほどに深くて凝縮されています。ネット上の岡潔の著作に関する感想を読んで思うのは、感想のいずれも速読したように見受けられることです。大量に読み込んで簡単に感想を述べています。その感想のいずれもが薄すぎます。岡潔が自らの長い長い時間をかけて考えた結果を「さらり」と述べているので、その深さに気付かないのかも知れません。一気に読み飛ばさず気になる部分だけについてじっくり「興味を集め続け」ては如何でしょう。

そうすれば、現代が如何に奇妙で不自然な状態にあるかわかってくるはずです。過去記事に「近い未来の人たちは、我々の文明のことを(信仰の時代)と呼ぶだろう」と書いた記憶があります。お金は皆が信じているから成り立っています。皆が信じなくなった瞬間に全崩壊します。人類史上、最強最大の信仰です。世界中の宗教は、最強最大の信仰に添える「刺身のつま」でしかありません。 岡潔が当時、人類の危機を云ったのは、深く深く考えた結果です。「間違った思想の洪水」とは何だったのか考えてしまいます。立場上、云えなかったことも多かったと推察します。「【 5】 自然科学の無知

一つ注意があります。日常生活はとても忙しいです。想念観察は、埋没すると自身を危険に晒します。散歩やウオーキング、入浴や就寝時などが適当ですけれども、街中では事故に遭う危険があります。皆が忙しすぎるため、ムリな面もあります。 一方でどこかの誰かは皆に時間の余裕ができることを嫌っています。だから皆が忙しいとも云えます。皆が自覚のないSheepleのままで居て欲しいのです。また、「小人閑居して不善を為す」とも云います。対して、岡潔の場合は環境があったからこそとも云えますが、同時に岡潔の天才は、「環境からして不善を為さなかった」という自身の努力があったからのようです。『岡潔: 「天才ですか?」 いいえ、努力の人間です』 暇だとつい怠けてしまいます。

 

追記 ちょっと面白いので掲載します。第一部は実に興味深いです。

動画1

動画2

動画3

 

追記19/01/12  ほとんどの人が冒頭で示した岡潔の云うことに興味を持てないような気がします。偉大な数学者だから何か凄いことを云っているのだろうと耳を貸すだけです。正直に云うと”己が持つ常識と照らし合わせて”、G・アダムスキーはインチキ臭いです。岡潔と同列に扱うなと云われるかも知れません。管理人は、動画に示した高野誠鮮氏のように一次情報を集められる環境も能力もありません。過去記事に情報は陳腐化すると記したことがあります。一次情報がすべてです。 ですから、管理人の環境下において何が本当なのか見極めることは極めて困難です。鵜呑みになんかできません。自分で考えるしかありません。で、直接の証拠がないならば、G・アダムスキーやダニエル・フライやヲシテ文献などなど惹かれるものから学んで、古今東西のあれこれに”共通”する何かがあれば、それらにはきっと普遍性があるはずだと考えます。岡潔は仏教思想をわかりやすく現代の言葉で解説してくれます。その他の資料とつきあわせて合理的に判断して共通する何かがあればそれは本物だと考えてよいのではと思います。 異星人やUFOが本当かどうかは後から付いてくるのだと思います。きっとそうです。UFOの破片や目撃情報などほとんど価値はありません。むしろどうでもよいことです。UFOや異星人などの話は宇宙の話などではなく、我々個々人の内なる問題なのだと感じます。

その意味で、異星人がG・アダムスキーにコンタクトした理由がわかります。G・アダムスキー:久保田八郎訳になる「空飛ぶ円盤の真相」(高文社)から一部引用します。

写真2

さて、この象形文字が私に与えられたおもな理由の一つは、地球人が欲しがっていることを宇宙人が知っていたという〝具体的な証拠〟を与えるためであった。

宇宙の兄弟たちは次の事実を認めている。すなわち地球の古代文明の歴史やその文明の哲学のなかには、彼らの遊星上で知られていて、そこに住む人々によって保たれている歴史や哲学と一致するものがあって、それが例の象形文字のなかに述べられているというのだ。
それで、ずっと以前に私に与えられたあの象形文字の完全な説明をすることは現在でも私にはできないけれども、その文字はおそらく目的を果たしたであろう。宇宙人たちは満足の意を表わしている。

「私」とはG・アダムスキーのことです。象形文字とは、G・アダムスキーが遺したネガフィルムに映っていた宇宙文字と呼ばれるものです。

写真3

2018年7月2日『弧理論 (Ark Theory)の意味するところ → 「異星人の持つ哲学」=「古代縄文人の哲学」』を参照ください。

詰まるところ、”共通の何か”をはっきりさせれば、UFOや異星人のことがわかってくるはずです。彼らの目論見はここにあります。

 

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自然科学 は捨てられる 最初は素粒子物理学から

いずれ 自然科学 は皆から見捨てられるでしょう。 ことに素粒子物理学は最初に求心力を失うでしょう。 その理由は3つあります。これらの理由は既に解説してきたことです。できるだけ簡潔に書きます。

  1. 時間は物理量ではない。
  2. 物質とエネルギーの同一性を誤解している。
  3. 物とは何かを要素還元主義で求めることはできない。

以下に解説します。

(1) 数学者岡潔は、「時間という量はない」と云いました。(【6】 数学の使えない世界) 人の五感でわかるのは「物と事(出来事)」です。には位置と重さ、即ち質量があります。位置の隔たりが距離(長さ)です。物にある長さ(あるいは面積や体積)重さとして五感でわかります。 とは、物と物あるいは人と物の関係です。「事」は量ではありません。

岡潔は「運動から時間を作る」と云いました。(【 2】 自然科学者の時間空間) 五感でわかる物の運動から時間を作るという意味です。最初、人類は地平に現れ没する太陽の光が作る影から時間を作りました。 続きを読む

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数学者岡潔の「 精神統一 」について

数学者岡潔は書籍や講演で何回か「 精神統一 」という言葉を使っています。気になるのでネットから3つ引用した上で管理人の考えを記します。以下、引用文中の下線は管理人によります。

1.岡潔講演録「岡の大脳生理」、【2】 すみれの言葉(1)より。

数学以外の景色その他が目に入ろうと、入らなかろうと、全然無関心である。私はそんなものには一切関心を持たない。つまりその時期には、完全な精神統一が行われているのである。そして色々のことがわかってくる。これが情操型の発見である。

 だから、この情操型発見のためにぜひ必要なことは、大脳前頭葉が関与しなければ決して判断できない、という癖をつけてしまうことである。でなければ、禅の臨済宗の人がしているように、景色など一切消えるのでなければ完全な精神統一はできない。学問における情操型の精神統一というのは、これに反して、景色は見えているが、それに何の関心も持たないという型のものである。

 なお、このときどんな喜びが伴うかというと、長閑な春のような感じである。

下線部分に述べていることに同意なのですが、これをもって精神統一と云っていることがどうにも理解できません。それに禅の臨済宗の僧が「景色など一切消える」よう仕向けるのは理解できません。僧の目的が何なのかわかりませんし、目的が悟りであるにしても人は具体から離れてはあり得ないことと考えます。

2.岡潔講演録、「【10】 右の内耳」より。

で、夏休み中ぐらい、右の内耳に関心を集めて、聞こゆるを聞き、見ゆるを聞きなさい。まあ、余計なことをする前に、右の内耳に関心を集めて聞こゆるを聞く、これをやりなさい。観音菩薩はこの1つの修業だけで不生不滅を悟ったのだと云われてるんだから。そう云いましたね。

 そしてこれをやれば、右の内耳に関心を集めて聞こゆるを聞く ― 関心を集めるというのは精神を統一すること。

同じく、「関心を集めて聞こゆるを聞く」にも同意なのですが、これのどこが精神統一なのか、さっぱりわかりません。 続きを読む

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数学者岡潔「 時間 という量はない」・・・ではどうするか

数学者岡潔が「 時間 は物理量ではない」と述べたところから考察を始めました。講演録【6】 数学の使えない世界を参照ください。   3年ほどかけて 時間 とはどういったものか、おおよそ理解しました。

基本物理量は「長さ(m)、質量(kg)、時間(s)」です。興味深いことに長さも質量も10進数です。時間だけが10進数ではありますが、12の倍数です時間は元々、太陽の位置(角度)に数字を割り振ったことから始まっています。たぶん、物質的自然は「別の次元軸からの投影による映像だろう」という考察結果から、物質的自然の性質として長さより角度がより重要であろうとの結果を得ています。

岡潔が指摘したように「時間は物理量ではない」ならば、どうすればよいかが問題です。ある科学者は次のように述べています。

我々の算数はいくつかの重要な関係で君たちのものと違っているからなんだ。我々の祖先は君たちと同様に最初に計算法を学んだときに十本の指を使ったんだ。

我々が君たちがやっているのと同じ十進法を基礎とした計算システムを開発したのはおきまりの結果だった。長い習慣から、その後数世代の間このシステムが使用され続けたが、十二進法を基礎としたシステムがもっとかんたんで有用で、本質的により可分性があるとわかったんだ、知ってのとおり十二は、二、三、四、六で割り切れるが十〇は二と五でしか割れないんだ。

結局、我々の人類はどうあっても昔の習慣を破ろうと決定し、十二進法による数体系を法律としてきめた。数世代の間は数学的混乱の時代だった。これは、新しいものを受け入れることによって得られる利益をわかっていながらも、古い計算の仕方を放棄するのを拒否したり能力不足だったりすることに起因するものであった。結局、十進法による数学の教科書を廃止し、その後の出版を禁止することが必要になった。この法律は異常で多くの人によって手厳しいものだと考えられたが、それによって十二進法への転換は完遂されたんだ。

なぜ十二進法が重要なのか現在のところ、はっきりとわかっていません。さらにその先にとんでもない困難が待ち受けていることは何となくわかります。でも”時間を用いずに”長さも質量も角度も12進法にて表記し計算することによって「可分性があり有用」になるかどうかよくわかりません。一体どんな利点があるのかわかりませんけれども、自然科学の限界(時間を用いた循環論法であること)がはっきりしている以上、方向を転換するべきと認識しています。 続きを読む

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超弦理論 超ひも と人の「わかる」の間

超弦理論は、盛んに研究されているようです。

図1 出典:研究の目的

しかし、 超ひも と人とは何の関係もありません。断言できます。

これまでの考察によって人が持つ「わかる」には3つあることがわかってきました。しかし、自然科学においては、「人とは何か」という問いを置き去りにしています。過去記事『人がもつ「わかる」には3つ在る』を参照ください。記事のまとめ部分を再掲します。

  1. 第1の心・・・意識を通す。言葉で云える。わけることによりわかる。要素還元主義。
  2. 第2の心・・・意識を通さない。言葉で云えない。何となく趣おもむきわかる。情じょう。静止画がわかる。ナサケエダ
  3. 第3の心?・・・意識を通さない。言葉で云えない。何となく動きがわかる。動画がわかる。「もののあはれ」「アワレエダ」

1.と2.は、岡潔が名付けました。2.と3.の「ナサケエダ・アワレエダ」は管理人によるヲシテ哲学の解釈です。また、2.と3.の「静止画・動画」は管理人によります。

超ひも と何の関連があるのか疑問でしょう。その前に数学者岡潔の言葉から考えを進めます。「分野が違う」というのは当てはまりません。全部一緒だからです。講演録【4】情のメカニズムから一部引用します。 続きを読む

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確率 は原因ではなく結果

確率 と云えば思い出すのはサイコロやトランプです。

写真1

ここでは、弧理論から見た 確率 についてメモします。 ある科学者は確率について、2箇所で言及しています。一つ目。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は 確率波を持つ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であり、そのため進歩の唯一の方法として抽象的数学に頼らねばならなくなる。

下線は管理人による。 幾つか気になる語があります。「波動性、確率波、心で描けない、抽象的、数学」です。 二つ目は、「科学知識を求める人間を木に登るアリ」に例えて、次のように述べています。

自分では上方へ動いて動いていることがわかっていても、その視野は狭すぎて幹全体を見通せない。そのために幹を離れていることに気付かないで下方の枝の方へ移動するかもしれない。・・・  だがその枝が急に無数の小枝に分かれいていろいろな方向に葉が散らばっているために本人はまごつき始める。・・・  基本的法則がいまや分かれ始めて、反対の方向に散らばり始めていることに気付く。すると科学者は心によって受け入れられる知識の限界に近づいていることや、あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになるという結論に達する。

君たちの科学は一本の低い枝を知識という全体の樹木に替えていて、そのために科学がひどく複雑になっているんだ。そこでこの科学が実用面で応用されると、できあがった装置は手が出ないほど複雑になる

また、ある科学者はこうも述べました。

正しくながめれば基本的な真理は常にかんたんで理解が容易なのだ。だから幹の上から眺めれば枝は”枝”としてかんたんな理解の容易なものになるのだ。てっとり早く言えば、君らの科学が進歩し続けようとする場合に必要なのは、君たちがとまっている枝から幹との分岐点まで降りて、ふたたび登り始めることだ。

ある科学者が云ったことは、地球の科学は根本からやり直すことだということです。その根幹にあるのは「物質の振る舞いが確率である」という考えにあります。つまり量子力学を見直せと云うことです。

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二層型スターラー の 渦 について

以前作った「渦とサイホン」は、スターラーによる渦流の落差にサイホンを組み込んだ物で、フリーエネルギーの概念を示す目的で製作しました。次の段階として 二層型スターラー による渦流を考えました。

GIF1

GIF2

我々の空間を2次元平面とするとき、別の次元軸があれば、フリーエネルギーは実現可能であることを示すものです。

また、以前、別に二層型の浮沈子を作りました。

動画1
浮沈子はペットボトルの内の圧力によって浮沈しますが、GIF1、2における水面の凹凸は渦によります。

管理人の弧理論の考え方による別の次元軸の振る舞いは「二層からなる境界が渦によって凹凸する」ものと考えています。この凹凸が弧理論による真のエネルギーと定義しています。

そこで、考えたのが「 二層型スターラー による渦流」はできるかということです。これまで作れなかったのは、適当な容器が見つからなかったことによります。

まだ、製作途中ですがご紹介します。 続きを読む

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宇宙を表す数式などできない 宇宙の方程式 などありない

このままでは、宇宙を数式で表すことは原理的に不可能です。正確に云います。「数学を使って物質的自然を表現することは(このままでは)不可能だ」ということです。物質的自然とは、数学者岡潔が名付けた「自然科学者が考える自然」のことです。講演録より「【 3】 五感でわかるもの」を参照ください。 宇宙の方程式 というのはありえないことです。これまでの考察でわかったことを順に示して説明します。

(1) 人の五感でわかる物や事についてです。「わかる」とは次の通り3つあります。前々回の記事『人が持つ「 わかる 」には3つ在る』を参照ください。

  1. 第1の心・・・意識を通す。言葉で云える。わけることによりわかる。要素還元主義。
  2. 第2の心・・・意識を通さない。言葉で云えない。何となく趣おもむきがわかる。岡潔の云った情じょう。ヲシテ哲学のナサケエダに同じ。わかり易く云えば「静止画がわかる」ということ。
  3. 第3の心?・・・意識を通さない。言葉で云えない。何となく動きがわかる。「動きがわかる。もののあはれ」。ヲシテ哲学の「アワレエダ」に同じ。わかり易く云えば「動画がわかる」ということ。

人が時の中に住めるのは2.と3.があるからです。 (追記注:12/12日 ご存知の通り、物質は離散的に現れます。離散的な現象が「わかる」には、2.と3.が必要だということです。)

しかし、人は普段において、意識をし、思考をし言葉で表現できる世界に居ます。「わけることによりわかる」と考えています。特に岡潔は「西洋人は1.しか知らない」といいます。岡の講演録より「【1】2つの心」を参照ください。

(2) 匙とスプーンの譬えの通り言葉は循環です。 続きを読む

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人が持つ「 わかる 」には3つ在る

2018年8月27日の記事「なぜ 日本語 は外乱に対して堅牢なのか」についての追記にてご紹介した石川九陽著の本「日本語とはどういう言語か」の書き出しに次のようにあります。

写真1

たとえば「 わかる 」とするか、「解る」と書くか、「理解わかる」がいいか、それともいっそ「理解できる」と漢語で表すかという、煩雑と云えば煩雑、微細といえば微細な思索は、日本語においては重大な問題である。

管理人は少し前までは、「分けることにより分かる。分かるの語源は分けるだ。」というふうに書いていました。でも段々に「わかる」に統一しました。

人は物をわけることにより「 わかる 」と思っています。これを否定する人はほぼ居ません。この点に注目したのは数学者岡潔です。岡潔講演録の「心そのもの、命そのもの」にある「【1】2つの心」で次のように述べています。

人には、ここから何時も言わなきゃ仕方ない、心が2つある。心理学が対象としている心を第1の心ということにしますと、この心は前頭葉に宿っている。それから、この心はわたくしというものを入れなければ金輪際動かん心です。その代り、一旦、私というものを入れたら、「私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」と、丸で笑いカワセミのようにうるさい。

 それから、この心のわかり方は意識を通さなければ決してわからない。それから、ここまで来ればもう心理学は知らないんだけど、この心は物質的自然界の全部を覆うている。しかし、それより外へは決して出てない。物質的自然界というのは、自然科学者が研究の対象としている自然です。  略

欧米人はこの第1の心しか知らない。しかし人にはもう1つ心がある、第2の心心は2つしかないのです。1つじゃない、もう1つある、第2の心。この第2の心は頭頂葉に宿っている。この心は無私の心です。私のない心。どういう意味かと言うと、いくら入れようと思っても私というものは入れようのない心です。それから、この心のわかり方は意識を通さない、じかにわかる

岡潔は人に心は2つあると云いました。 続きを読む

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