自作CNCに3Dプリンターはどうだろう

研究の合間に、3Dプリンタなんかどうだろうと考えました。

以前作ったCNC(端材MDF板+Arduino uno+CNC shield+grbl controller)

写真1

には、ミニルーター(MM100)と1000mw青色レーザーがとりつけてあります。 ここにホットエンドを取り付ければ3Dプリンタにできそうです。

ヒートベッドは大きさから既製品があいませんので自作するしかないようです。 こちらを参考に

写真2

写真3

試作しようと考えました。どうも紙フェノールだと高温で反ってしまうようです。押し出しの材料にPLAを想定して、こちらを参考にすると60度くらいでよいかも知れません。ダメならガラスエポキシ基板で試そうか。

どうも自作CNCが強度不足なので、補強作業などをしながら必要な材料をポチります。

買ったのは写真1に示す様なものです。電源DC12V20A RAMPS1.4セット押し出しの部品ホットエンドドライブギアです。押し出しに使うステッピングモーターは以前買ってあった秋月のバイポーラ型モーターST-42BYH1004を取り付けました。ホットエンドと分けて取り付けるタイプです。これだとZ軸にかかる負荷は小さくて済みます。

ヒートベッドは、まだできてません。とりあえずRAMPS1.4にMarlinをインストールしてサーミスターの温度表示にて動作を確認しました。 PC側のソフトは

写真4

Pronterfaceを用いています。  次に

写真5

ジャンクのステッピングモーターを取り付けて・・・・これが動きませんでした。 調べてみたら

写真6

CNCshield3.0のモーター結線は左から「B2 B1 A1 A2」でして、RAMPS1.4のそれは左から「2B 2A 1A 1B」なのです。 これではダメです。 写真でのモータの線の色は、左から「赤 黄 橙 青」ですけれどRAMPS1.4のときには、「赤 青 橙 黄」の順に入れ替えれば動くということです。

そこで、RAMPS1.4にてgrblが動けば、コネクタ配線の順をいちいち入れ替えなくてもよいはずで、調べたところ既にありました。 Programming hex file on Mega2560というサイトです。まだArduino Mega2560にアップロードしていませんけれど、なんとかなりそうです。 これでRAMPS1.4にてCNCを動かせますし、ファームを入れ替えてヘッドを交換すれば3Dプリンタになるはずです。 でも、うまくできたとしても印刷領域は130×100×30㎜くらいなので、小さすぎます。   まあ、ここまででちょっとやる気が萎えてきています。

 

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ネコの言葉 「知識だけで分かった気になるな。目に見えないものもある」

面白い記事を読んだので一部引用します。楽しいことないかな速報より、上司『獣医はビジネス!高い薬で利益をあげろ!』→ある日、老婆「ネコを助けて」しかし急にネコが昏睡状態になり・・・・・

ネコの言葉とされる部分です。

「人間はいつも忙しない。そんなに急ぐな」
「お前は何も知らないんだな」
「知識だけで分かった気になるな。目に見えないものもある」
「目に見えないものこそ今のお前には必要だ」

 

これまで数学者岡潔の言葉を元に幾つかの考察を進めてきました。その内の一つに次のような言葉があります。講演「2つの心」【3】西洋の唯物主義から

 西洋人は五感でわからないものは無いとしか思えない。これが唯物主義です。この仮定のもとに調べてきた。それが自然科学です。そうすると、とうとう素粒子というものにいき当った。不安定な素粒子というものがあって、生まれてきてまたすぐ消えていってしまっている。無から有が生じるということは考えられない。そうすると、五感でわからないものは無いという仮定は撤回しなければならない。それで西洋の学問は、一番始めからもう一度調べ直さなければならないところへきているんです。

下線は管理人による。  岡潔は簡潔な言葉で述べていますけれども、凡人にはわかりづらいです。むしろ上記の獣医師が扱ったネコの言葉の方がしっくりきます。 確かに我々は、知識だけで分かった気になっていますけれども、目に見えないものがあると直接云ってもらった方が分かり易いです。

目に見えないものこそ必要だと感じます。それが唯物主義の元に進めた自然科学が行き着いた結果なのですから。 自然科学者たちの研究よりネコの言葉の方が余程的を射ています。

そういえば、某TV局の宇宙はこれからどうなるのか?にて村山斉氏がダークエネルギーの説明に「真空エネルギー(弾性エネルギー)」という言葉を使っていました。

管理人が研究・考察を進めているのはまさに空間そのものの性質についてです。

ついでながら、弧理論の考え方によれば、基本粒子である陽子・中性子・電子は、おそらく12種の極めて強いが到達距離の短い力合成による差分によって成り立っているのではないかと考えられます。 12種の力は引力と斥力に分けられ、それぞれが均衡を保っています。M軸に投影されることによって回転力となっているようです。 差分は、物質とその回転の他に電磁気力、2つの核力となっているようです。(差分だけが観測できる) あまりに奇妙な仮説ですが、多くの基本的な謎を説明できるものと考えます。真空だからと云って何も無いというのではありません。

 

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例えば、東京は位置であって「量」ではない 時間も同じ

前々回の記事、「位置(A)に数を附し単位を付けるのは誤り 何故なら位置は「量」ではないからの続きです。

先日、某TV番組を観ました。メンバーがスマホなしで集まれるかというものです。「都内にある大きな看板とか有名な橋とかの目印になるところへ時間内に集まる」というものです。

観ていて思い出したのが子供の頃からの疑問でした。 例えば、東京と云えば、ピンポイントで何処をいうのか?

写真1 出典:東京都庁

新宿の都庁か。それとも

写真2 出典:東京駅丸の内駅舎

東京駅なのか。 あるいは、日本の道路の起点である

写真3 出典:まち日本橋

日本橋なのか。 仮に日本橋だとすると橋のどの辺りなのだろうか?礎石?中央の橋脚部?公図に附される丈量図に対応する地面に打たれたピン? そのピンを東京と呼ぶのか?  など、今考えてもくだらないことが疑問でした。

 

これまでの考察の結果、

図1

時間とは運動の記憶でした。それは

図2

本質的に歴史年表と同じでした。

 

例えば歴史的な事件について。

写真4 出典:よど号ハイジャック事件

1970年に起きた日航機よど号のハイジャック事件を考えます。

誰でも記録を読み羽田空港という場所と年月日時刻を特定できます。 けれども事件のあった「位置」は、太陽系

図3 出典:私たちの太陽系

3番惑星の地球上であり、太陽系は銀河系の端の方に位置します。 年月日時刻は西暦0年を基準とした相対的な位置です。

ハイジャック事件があった1970年での地球と太陽系と銀河系の同じ位置に戻ってくることは絶対にありません。特定の事件について考えることはあっても、それにつれて太陽系や銀河系の位置を考えることは、まずありません。

冒頭の「東京」の位置も もの凄い速さで3次元空間を移動しています。もとの位置ではありません。

位置である東京に単位を附けることはありません。同様に時間に単位を附けることは誤りです。例えば「東京」は位置であり「量」ではないように、時間も二度と同じに戻ることがない位置であり「量」ではありません。 時間を基本物理量として扱うのは不適切です。

 

あるのは、物体の質量と運動ならびに波により引き起こされる遠隔の運動だけです。これが五感でわかるすべてだと思います。 非測定対象物が光の速さに近ければ近いほど人の五感でわからなくなります。

図4 E軸上の実体が持つ真のエネルギーは投影により質量mと運動として現れる

余分な次元軸上にある実体からの投影角が浅くなるからです。 だから時間をパラメーターに使う自然科学は近似なのです。

 

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あなたの科学にあなた自身は含まれているか?

正確に言えば、あなたの信じている科学に、あなた自身の精神は含まれていますか? あなた自身を成り立たせている精神の仕組みは含まれますか?

 

岡潔は【3】西洋の唯物主義にて述べました。

五感でわからないものは無いとしか思えない。これが唯物主義です。

そして、岡潔は自身の精神は五感でわかるもの以外から来ていると考え、大宇宙の本体は情であると結論しました。 管理人は岡潔の云うように大宇宙の本体が「情」であるかどうかわかりません。 しかしながら、縄文哲学の核心部分に「アワレヱダ」「ナサケヱダ」があるように、何か縄文哲学と共通するものがあると感じます。

もし、人の信じる科学に人の持つ精神が含まれていないならば、意味不明な物や事(例えば心霊現象など)に対して、その人はこう言うでしょう。「そのようなことは非科学的だ。ありえない。」

一般に、自然科学に入らない(扱えない)ことは非科学として排除します。  現に存在するありとあらゆる「物や事」について、部分を排除することが適切だとは思えません。 それらは、どうにか合理的に解釈することができるはずです。 きっとそれらが存在する何かの理由があるはずです。

何かを非科学として排除したならば、それは科学ではありません。

岡潔の述べたことについて調べていますと、一部にはトンデモに近いとみる向きもあるようです。しかしながら(五感でわかるもの以外を)排除したことにより、その論は科学ではなくなります。 岡潔が対象にしたのは人の心あるいは精神です。 人の心・精神も宇宙の内であり、五感でわかるもの以外の何かかも知れないという認識がなければ、岡潔の述べたことは、ただトンデモに感じられるということです。

岡潔は誰もが認める天才です。故に人々は岡潔の著書を読みます。しかし、岡潔の伝えたかったことの入り口に立ち止まってしまう人もいるでしょう。そのような人は唯物主義なのだろうと思います。 そして唯物主義の極致が神の数式であったりします。ですから数式を考える人たち自身の精神は数式に含まれていなさそうです。 彼らは彼ら自身(の精神)を彼らの神と同列に置くことに戸惑いがありません。

図1 出典:宇宙誕生の様子、スパコンで計算

 

縄文哲学は、縄文の人たちによる永い歴史の上にできあがった人類の「たから」です。岡潔は一代でそれに匹敵するほどの域に到達したのですからまさに天才です。

 

管理人には、岡潔が言った第2の心と第1の心は縄文哲学の「ノヲシテ」と「ノヲシテ」に比しうると感じます。 同時に

図2

弧理論の考え方による、想念の経路(1)が岡潔の第2の心で、想念の経路(2)が第1の心に相当するようです。 人の心や精神の働きは、善いも悪いも含めて、そういう仕組みの元に在ると感じます。

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位置(A)に数を附し単位を付けるのは誤り 何故なら位置は「量」ではないから

これまで、数学者岡潔の「時間」について語った言葉を起点に考察を続けてきました。岡潔【2】自然科学者の時間空間)より引用します。

時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。

人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。

時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。

が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。

 

(1)考察を続けた結果、管理人は

時間とは過ぎ行く運動の記憶(記録)である。

と結論づけました。

 

(2)時間は運動を元に作られます。 時計は

国鉄標準型時計

機械装置の運動を回転に変えて盤の中心の針を動かします。盤面を区切り、数字を割り当てます。針の位置(角度)を数に置き換えたのが時間です

今、この時計の運動を直線に置き換えます。

図1

のように、短針を直線に合わせます。時間の経過とともに文字盤は右から左方向へ転がります。こうして、1~12の数を附した数直線が得られます。 この数直線はおよそ36時間(1日半)を表しています。

ここで図1の(左右を反転した上で)縮尺を極端に大きくして、起きた出来事を書込ことにより

図2 出典:輝き始めた日本より世界史対照年表表

を得ることができます。 ご存知の通り、この歴史年表は西暦0年を基準にしたものです。

時計の運動からから得た歴史年表を観てわかるように、冒頭の考察(1)「時間とは過ぎ行く運動の記憶(記録)」というのは図2の歴史年表と本質は同じであることがわかります。

 

本題です。ここに1本の色鉛筆があります。

写真1

鉛筆の左端の位置を(A)、右端の位置を(B)とします。位置と位置の隔たりを距離または長さといいます。これに基準となる定規(モノサシ)をあてます。単位はミリメートルです。 (A)が50で(B)がだいたい222を示しています。差し引き色鉛筆の長さは172ミリメートルです。

定規を取り除きます。

写真2

そして、色鉛筆を除きます。

写真3

位置(A)と(B)が意味を持つのは量としての色鉛筆(被測定物)定規(測定基準)があったからです。 岡潔が言った「数は量のかげ」ということの意味がここにあります。

ここで、写真3と図1を比較します。 位置(A)(B)に数を附すことができるのは、定規があったからです。 同様に時計から位置を示す数直線が得られたのは、時計という機械装置の運動が位置を持つからです。 しかし、時計の場合、位置に対応する「量」は存在しません。色鉛筆やモノサシが無いのと同じです。

図1の場合、モノサシが時計の運動です。運動そのものではありません。運動を位置に置き換えたものです。対応する量がありません。ですから、時間に対する単位「年月日時分秒」をつけることは不適切です。時間を基本物理量として使うことに同意できません。

岡潔が述べたように時計という機械装置の運動が位置に附した「数」(つまり時間)に比例して起きるかどうかわかりません。 何故なら、過ぎ行く運動の記憶ですから、

図3

時間を時(とき)の現在と時(とき)の未来に適用できるかどうかわからないのです。計測により得た結果は既に過去です。 「運動が時間に比例して起きるかどうか」の意味はここにあります。

こうして時計という手元にある機械装置を元にして作られた時間は、

表1

赤い括弧の内側に適用できることは確かです。 被測定物が光の速度(運動)に近い場合(図4の両端)は、疑問であると管理人は考えます。 表1の両端は、手元の時計(モノサシ)を使って光速で運動する色鉛筆を測定することに相当します。

誰もが知っていることとして、位置と運動は相対的です。それ故、運動から作られた時間も相対的であってしかるべきです。ですから歴史年表は、西暦0年を基準にしているのです。どこに基準を置いてもよい。  ビッグバンが本当なら魚の鱗や木の年輪のような宇宙絶対時を示す痕跡があるはずです。その痕跡を探すべきと過去に書きました。

 

上記について、第3者に説得力があるかどうかよくわかりません。 天才である岡潔は、熟考の末に結晶化した結論のみを簡単な言葉でサラリと述べて終わります。これが凡人である管理人にはわからないのです。本当に大変です。

 

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五感でわかる運動を用いて作られた「時間」は、五感でわかる運動にしか適用できない

前回の続きです。 7月18日の記事に次のように書きました。


岡潔が云った「数は量のかげ」について。 量の裏付けのある「数」には、単位が付きます。重さや長さは【g】や【cm】といった具合です。 ところがお金は、円・ドル・ユーロといった単位が付きますけれど、「」の裏付けがありません。株や為替など「需要と供給」という仕組みの内にお金は実際の量(物や事)に対して伸び縮みします。※これが貧富の格差を生む理由です。同じ数をやりとりする内に実物の量を掠め取る仕組みです。

同じく、時間は運動によって作られます。(岡潔【2】自然科学者の時間空間

時計は、

国鉄標準型時計

機械装置の運動を回転に変えて盤の中心の針を動かします。盤面を30度ずつ区切り、数字を割り当てます。針の位置(角度)を数に置き換えたのが時間です時計という機械装置の運動と直接の関係はありません。 時間は時分秒という単位を持ちますが、対応する量がありません。 実際に存在するのは機械等の運動だけです。


実際の時間は、日本標準時グループこちらの業務により作られます。

写真1 出典:上記

人(観測者)の五感でわかる運動を用いて作られた「時間」は、五感でわかる(被測定物の)運動に適用できます。  この場合、「観測者」は

表1

の中央(10m)付近に居ます。 しかも、この「時間」は量の裏付けがありません。大事なのは、岡潔いわく、(自然科学者は、)

運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。

ということです。 五感でわかる運動を用いて作られた時間が、五感でわかる範囲以外の運動に適用できるかどうかは、誰も検証していないのです。考えたことすらない!

これは如何に精密な数学理論であってもです。時間をパラメーターに用いている以上、極大極小の世界における運動が人(観測者)の作った時間に比例して起きるかどうかわからないからです。 きっと、量の裏付けが無い時間は、極大極小の世界の運動との間においては、伸び縮みしていることでしょう。

逆もまたいえます。 仮に素粒子の運動を元に「時間」を作ることができたならば、表1の左端に適用できるでしょう。  人の五感は、表1の赤い矢印(原子の大きさ10-10m)あたりにあります。 つまり原子時計はありですけれども、素粒子時計はできるかどうか、というところです。

 

これまでの岡潔の言葉を元にした考察により、少なくとも素粒子物理学や宇宙物理学の根拠は崩れたと考えています。 お金に関しては10年余り、時間に関しては4年余り考えてきましたけれど、本記事にておおよそ煮詰められたように感じます。論破! 尚、右ウイジェットにあるリンク1.時間とは何かについて、煮詰めた内容に至っていませんけれど、いずれ直したいと思います。

the-manuscript-of-survival-part-68日本語文のpdfに書かれている素粒子加速器実験についての一文。

非常に多くの賢い頭脳を間違った方向に向けさせている、上手に組み立てた誤魔化しのプロェクト

の意味がようやくわかりました。2012年頃より引っ掛かっていた言葉ですから、長かった。  一体何処の誰が考えたのか?気になります。

・・・・・・・・・・・・たぶん、↓こんなやつです。※獅子身中の虫というやつです。

写真2 出典:じっくりのんびりを大切に♡

 

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室内で出来て「五感でわかる実験」でなければ、次へ進むことはできない  巨大科学に人類の未来はない

自然科学の発達は、巨大科学の方向へと進んでいます。 巨大科学に人類の未来がかかっているように感じられますが、まったくの誤解です。 人は五感の内に生きているのですから、当たり前のことです。 巨大科学のほとんどが人の五感と無縁の領域を対象にしています。wikiを読んで強く感じます。 次表を参照ください。

表1

室内で簡単に再現できて、見て聞いて触って感じられる実験こそが未来へ通じるものです。でなければ、次へ行けるはずがありません。

追記 2017年7月26日

これまでにも書いたように、現代の物理学は、(1)抽象的な理論と(2)大規模な実験と(3)人の五感との間に極端な乖離があります。

(1)色量子力学と云っても「色」は無関係です。電子のスピンと云っても「何かが回転してる訳ではない」し、チャームもストレンジもフレーバーも元の意味とは何の関係もありません。管理人にはそれらが何の物理量を持っているのかさえ理解できません。このような頭の中に思い描くことが出来ない理論について、ある科学者は次のように述べています。

たとえば地球の科学者は電子が粒子、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であり、そのため進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる。

下線は管理人による。 確かに電子の粒子性と波動性は実験的事実ですけれど、ある科学者は正しく眺めれば理解が容易になるとも述べています。

(2)何兆円もの事業費と人材を投入して得られたのが、例えば

図1 出典:UTokyo Reserch

です。およそ1020倍にも拡大して、漸く五感でわかるグラフを得ています。これは確かに実験的事実です。

(3)けれども、もし素粒子を大量に浴びたならば「人の五感でわかる」のは、おそらく火傷です。

 

このように理論と理論の予言を元に行われた実験により確かめられた現象五感でわかるものとの間には、一見整合性があるように思えますが、どこかが変です。 その原因の大本が時間にあるというのが管理人の結論です。

 

最近気付いたのが上記のある科学者が述べた「心で描くことのできない状態」と数学者岡潔が述べた次の言葉が同じ意味だったことです。彼の講演録【3】五感でわかるものより

物質は、途中はいろいろ工夫してもよろしい。たとえば赤外線写真に撮るとか、たとえば電子顕微鏡で見るとか、そういう工夫をしても良い。しかし、最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない

それじゃあ、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない

五感でわからないものはないというのは、既に原始人的無知です。しかも、自分がそう仮定してるということにさえ気付かない。それについて考えるということができないというのは、実にひどい無知という外はありません。そう感じます。

下線は管理人による。  人の持つ「五感によりわかる」と同じだと感じます。 つまり、人の心に思い描けるのは、五感でわかるものだけだろうということです。 恐らく人の心は、具体的な物や事を捉えるように出来ているのだと感じます。人が五感の内に生きるというのは、そういうことです。

岡潔はまた【3】西洋の唯物主義にて次のように述べています。

西洋人は五感でわからないものは無いとしか思えない。これが唯物主義です。

数十年前に自然科学者、ことに物理学者は、単独で取り出せないクオークを物質だと認めてしまいました。  これは既に五感でわかるもの以外は無いとしか思えない自然科学が唯物主義を捨てたということです。 だから、数学により記述できる抽象的で(高尚な?)理論で記述されるものは何でもありになりました。 その原因が時間にあることは疑いようがありません。 過去記事「岡潔「数は量のかげ」 数には量に応じた単位が付く しかしお金と時間には、「量」の裏付けが無い」 を参照ください。

「量」の裏付けが無い時間をパラメーターに使った物理量は、怪しいようです。 具体的には表1の「両端」においては、「運動が時間に比例して起きる」という前提が成り立っていないように思います。その意味で自然科学は表1の赤い括弧の内側でのみ正しい近似だろうということです。

はっきり云えば、自然科学、ことに宇宙物理学と素粒子物理学は超精密に理論付けされた信仰だと感じます。 彼らの基本とする唯物主義を逸脱して尚、信じる根拠を彼らは持ちません。あると思うからあるというのは信仰です。

管理人は、五感でわかるもの以外に何か在ると感じてきました。五感でわかるもの以外に興味があります。 だからこそ五感でわかる物や事をもっと大事にすべきだと考えています。岡潔の云う原始人的無知で居たくありません。

 

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正しいことは小さい声で言うものだ

と最近知りました。 管理人がこれまで研究・考察してきたことについて、少しは発表の場が欲しいなと考えたりしました。 けれども、管理人がやってきたことの内に真実が含まれているのなら、その真実は、現在の文明にとって「身も蓋もない」ことなのですから、やはり「小さい声」で言うべきのようです。

 

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3つの科学(精神科学・社会科学・物質科学)のE-M軸平面での位置関係について

2015年頃より、ヲシテ文献について調べるとともに、縄文哲学について学んできました。それらをまとめたのが2016年11月の記事などです。※サイト内記事を「縄文哲学」にて検索ください。

そのころ作成したのが

図1

図2 ※一部訂正あり下記

です。

一方で、ある科学者は、「宇宙における科学のすべては、3つに分類できる」として、次のように述べています。※原文は、Daniel Fry Dot Com のThe White Sands Incident にある Three Branches of Science を参照ください。日本語文はこちらです。

(1)肉体あるいは物質の科学で人間の肉体や彼が住んでいる物理空間の自然の必要性と要求を処理する分野だ。この中には、生活・安楽・安全等に必要な物資を際限なく作り出す研究はもとより、物理・化学・天文学等の主要なものがこの分野に入っている。
(2)人間関係や、その関係がよりうまく、生産的に、しかも耐えていけるような方法を処理する社会科学である。この中には社会・政治・精神分析学それに経済学の非物質的な部分などが入っている。
(3)精神科学で、人間と君たちが神といっているすべての自然にあまねく浸透し、制御する偉大なる創造のカと無限の英知との間の関係を処理する分野だ。

宇宙における科学のすべて、真実の探求と理解の追求のすべては、この三つの分野の中に入るんだ。もちろん、この三つの分野の間には明確な分離線は引けない。お互いにラップしているからだが、しかし、それらを支配する基本的な法則は全く同じものなんだ。
宇宙において文明が完全にしかも成功して発展するならば、進歩のこの三つの支流に同程度の努力と勤勉さがなされなければならない。しかしながら、まず精神科学と社会科学が出てくる。その二つの基礎がなければ物質科学の発達はありえないんだ。

下線は管理人による。

3つの科学は、図1と図2の関係(想念の経路等との対比)を吟味した結果、弧理論の基本であるE-M軸平面上に、次のように配置できます。

図3 注:半径7ですから、「ア」の値はが正しいです。誤5→6です。お詫びして訂正します。2018/01/29

訂正:想念の経路(1)において、想念の起点を「E軸上の実体」としていましたけれど、起点は「宇宙の中心」である「」に訂正します。図2の左も訂正します。

図3左側の太線で描いた紡錘図形の詳細は

図4

でした。 これを簡略化して全体(二重円)を描いたのが図3の左です。 図3右は、E-M軸平面に想念の経路(1)と(2)を書き入れたものです。紡錘図形は省略しています。

図3について、まとめると次のようになります。

想念の経路(1)は、精神科学に対応する。 想念の経路(2)は、社会科学に対応する。そして、物質科学は、E-M軸平面における紡錘図形とM軸上に投影される物質との関係に対応する。

ある科学者が指摘したように、3つの科学は図3におてい互いにラップしていて、明確に分離できません。

 

想念の経路(1)は、記紀にある「シラス/ウシハク」の「シラス」の元である「シル:知る」です。現代人にはわかりづらいです。我々に分かり易い言葉は、日月神示に頻出する「気(キ)付く」です。日月神示には「気付けよ・気の毒」などが多用されていますし、「気(キ)が元」であるとも記されています。 気(キ)とは、ときに気持ちであり気力であり、パワー(エネルギー)でもあります。  ついでながら、ヲシテ文献においてはキはキツヲサネ(東西・中央・南北)のキです。即ちとは日が昇る東の意味もあります。その意味でキは、力なのです。  the-manuscript-of-survival-part-68日本語文には、「知っていますか、知識には活力があり、生命力もあることを」と指摘している意味がここにあります。 我々が気(キ)付くことによって、得られるものこそ重要である訳です。

2015年7月7日の記事「聖書「初めに言葉ありき」は、弧理論「E軸上の実体は全情報を持っている」に等しい」に示した様に、エントロピーとエネルギー[ML2T-2]と情報との間には密接な関係があります。 これは上記を踏まえて考えると「M軸上における物質とその運動は、情報の入れ物」だと云えそうです。 全ての知識(情報)は宇宙の中心である「」を根源として、M軸上の物質がそれを受け止める。 それ故、我々は活動できると考えると合理的です。 ではE軸上にある宇宙の中心「」が持つ「情報の元(気の元)」とは何なのか?真のエネルギーと表現できますけれども、これはまだわかりません。 人の精神の根源であることは確かです。 ※想念の経路(1)はとても細く弱いようです。

想念の経路(2)は、社会科学です。 縄文哲学では「分かつ」ですから、「分けて」「与える」です。 このうち、自然科学は「分ける」に入ります。 「五感でわかるもの以外は無いとしか思えない」唯物主義ですから、「五感でわかるもの」を「分ける」ことにより理解したとします。これが自然科学です。 ですから、五感でわかる以外の想念の働き、即ち「政治 経済 思想 信条 主義 主張、既存の宗教(神頼み)、スピリチュアル系、オカルト、トンデモ、呪術」など全てが自然科学以外に分類されます。

人と人を取り巻く「物や事」のすべてにおける想念のやりとりが社会科学の対象だと云えます。それがM軸に沿った想念の経路(2)です。  自然科学に足りないのは「与える」であることがよく理解できます。  考えてみれば、五感でわかる範囲は限られており、孤立系からくる有限を皆に分け与えることは誰でも躊躇します

図3左は、「カミ」のことです。「カミ」とは

『「ア」と「ワ」はつながり、「ウ」をもたらし、「ウ」よりヒトを生じさせる。ヒトは「ア」のもの。ヒトは「ウ」なり。』

です。 ※ただ、このような解釈が真摯に研究される方々にご迷惑をお掛けする懸念があることを自覚しています。しかしながら、世に存在する様々な事柄の本質は皆同一であろうという確信の元に考察を続けていますことをご理解ください。

因みに、経路(2)にかかる想念は強く、ときに人の五感に直接働きかけるようです。 中には「神の声を聴き啓示を受けた。そして神と契約した私は救世主だ。」という人がいます。確かに五感に強く働くようですけれど、はっきり聞こえるのと現実がそうであるかどうかは別です。難しいことです。注意が必要だと強く感じます。

本記事について。とても、必要十分かつ簡潔だと云えるものではありませんけれど、研究を始めて8年目にして到達したものです。今後、図3の内容が瓦解し御破算にせねばならない事態になることはないと思います。  図3は、管理人が到達した宇宙の姿であり、今後も図3をより詳しく理解できるように研究を続けることにより、当初の目的を達成できると考えます。

です。

 

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群盲 象を評す 自然科学の「統合失調」は意図したものか?

2015年7月のこちらの記事や2017年6月14日の「ニコラ・テスラは、宇宙の本質が「回転運動」にあると考えていたようだ」に引用したニコラ・テスラの言葉をもう一度取り上げます。  引用元:フリーエネルギー研究序説:多湖敬彦著徳間書店のp48「テスラの予言」より。

「空間はエネルギーで満たされている」

この確信をテスラは死ぬまで、一貫して持ち続けていた。例えば、千八百九十五年の発言を見てみよう。

「われわれは終わりのない空間を、想像もつかない速度で渦を巻いて回転している。すべては回転し、運動している。すべてはエネルギーである。このエネルギーを直接、手にする方法があるにちがいない」

そして千九百三十六年、八十歳の誕生日を迎えたテスラは確信を持って断言する。

「何世代もしないうちに、人類は空間の中で好きな所からエネルギーを取り出すことができるようになるだろう」

ニコラ・テスラの「すべては渦を巻いて回転し、運動している」というのは全く同感ですし、力づけられる言葉です。 同時にニコラ・テスラは、(同書より引用。)

 十八年以上の間、私はヘルツ波の理論に関する学位論文、科学レポート、記事を読んで多くの知識を吸収しようとした。しかし、それらからいつもフィクション作品のような印象しか得られなかった。

と述べています。これは一体どうしたことでしょうか。 天才ニコラ・テスラをして18年もの間学び続けた結果、ヘルツ波(横波)に関する理論が「フィクション作品のようだ」と感じていたということです。

 

管理人もいろいろ考えた中で、自然科学全体が「統合失調」の状態にあることを感じてきました。さながら「群盲象を評す

図1 出典:こちら

のようです。 物理学、化学、生物学、地球科学、天文学など、ばらばらな印象です。特に物理学の内、素粒子物理学においては、人の五感との乖離が酷いです。

 

公開プロジェクトにあるビールデン博士のエネルギー先端研究局への返答を読むと、かつて電磁気学が成立する過程において意図して歪められたことがわかります。自然科学の各分野においても同様のことがあったとしても不思議ではないように思います。

以前、拙著弧電磁気論(現弧理論)について、某氏は次のように述べました。 「何故このように多くの仮説を設けるのか?仮説は少なくシンプルでなければならない。」 当時はこれに応えることが出来ませんでした。しかし、今なら全てを統一的にかつエレガントにまとめるにはそれなりに複雑な仮説を設ける必要があることがわかります。止揚もときには必要と考えます。

ある科学者は、地球の科学と科学者たちについて次のように述べています。

我々は君の国の多くの一流科学者の精神を調べてみたんだ。大抵の場合、我々は科学者たちの精神が既成概念という鋳型で固められていることを知った。彼らは遠くまで進みすぎている。その結果、遠い道のりを後戻りしなければならない。私の言う意味を比喩によってもっとやさしく言ってみよう。科学知識を求める人間は木に登るアリのようなものだ。自分では上方へ動いていることがわかっていても、その視野は狭すぎて幹全体を見通せない。そのために幹を離れていることに気付かないで下方の枝の方へ移動するかもしれない。いっときは万事うまくゆく。自分ではまだ上方へ登れるし、進歩という果実を少し摘み取ることもできる。だがその枝が急に無数の小枝に分かれていろいろな方向に葉が散らばっているために本人はまごつき始める。同様に、知識の探求者は常に確固たるものであった。基本的法則がいまや分かれ始めて、反対の方向に散らばり始めていることに気付く。あらゆる物理的な法則は究極的には全く統計的なものになるという結論に達する。これは地下鉄の列車に乗って行くようなものだ。たぶん最後に目的地へ着くだろうが、どこへ行くのかがわからないために、同じ場所へ着くのにもっと短くて容易な方法があることを確かめることができない。

たとえば地球の科学者は電子が粒子で、波動性の二重性をもつものと定義せざるを得ない状態にある。彼らは電子は確率波をもつ粒子だということによってこれを正当化させようとしている。これは心で描くことのできない状態であり、そのため進歩の唯一の方法として抽象的な数学に頼らねばならなくなる

下線は管理人による。  既成概念に囚われることにより視野が狭くなる。その結果、科学者自身が全体のどの位置にいるか、を見通せないということです。 これは冒頭の「群盲象を評す」と同じ状態だと思います。 物質の粒子であり波である性質は、我々の感覚から離れているために、理解しがたいものです。その行き着く先が「確率により決まる統計的なものである」という考えに至ったのです。その結果、研究を進めるには「抽象的な数学」に頼る必要があったのです。

ただ、これまでの考察の結果、科学を発展させる原動力10進法による数字を用いたお金にあることがわかっています。抽象的なこと、とりわけ数学が高等で高尚であり、抽象的であることがより素晴らしいと強調されることの理由に「お金」の制度をより強固にするという側面があるという考えは、穿ち過ぎなのでしょうか?

 

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