少し、おさらいです。
図1 “時”の内にある中今
今年に入ってから「中今」という言葉を知りました。中今は、時の流れにあって、過去と未来の間を言います。岡潔は、時について次のように述べています。
【5】情の特色 「時はありますが時間という計量的なものは無い。また、空間は量的に質的にありませんが、時については2種類、2つですね。過去と現在、それだけですが、新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される。そういう意味で未来は無い。」
【4】情のメカニズム 『知の働きは「わかる」ということですが、そのわかるという面に対して、今の日本人は大抵「理解」するという。ところが、わかるということの一番初歩的なことは、松が松とわかり、竹が竹とわかることでしょう。松が松とわかり、竹が竹とわかるのは一体、理解ですか。全然、理解じゃないでしょう。
理解というのは、その「理」がわかる。ところが、松が松とわかり、竹が竹とわかるのは理がわかるんではないでしょう。何がわかるのかというと、その「趣」がわかるんでしょう。
松は松の趣をしているから松、竹は竹の趣をしているから竹とわかるんでしょう。趣というのは情の世界のものです。だから、わかるのは最初情的にわかる。情的にわかるから言葉というものが有り得た、形式というものが有り得た。
それから先が知ですが、その基になる情でわかるということがなかったら、一切が存在しない。』
下線は管理人による。
岡潔の言った「情でわかるということがなかったら、一切は存在しない」し、「新しい現在が古い現在に変わる。その古い現在が過去になっていくということは限りなく繰り返される。」という時の性質を図1に示しました。この白丸が岡潔の言った現在であり、中今です。
岡潔は指摘していませんが、過去は記憶によります。従って、中今は言葉で言えませんし、記憶でもありません。これがなかなかわかって頂けません。「何となく、その趣がわかる」というのがなければ、一切は存在しません。これが情です。 続きを読む →
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