この何年かで、 自然 がどのようであるか(おおよそ)わかってきました。ヒントは日常生活するなかにあることが多いのは、どういう訳だろうかと気(キ)になっていました。
例えば、「空間とは何か」を説明する境界空間の仮説を説明する模型は、元をただせば水に浮かべた1円玉とアルミホイルの実験でした。
動画1
この模型から幾つか変形した模型を経たのちに境界空間の模型に至りました。
gif1 青い水と灯油による模型
何度も引き合いに出した万華鏡も元をただせば、G・アダムスキーが自然を万華鏡の仕組みに例えていたのが起源です。数学者岡潔は、山崎弁栄上人の言葉をひいて、「 自然 は心があるために映写されている映像に過ぎない」と紹介しています。岡潔講演録2つの心より【3】西洋の唯物主義
どういう訳か、共通するのは”鏡”、あるいは”映像”です。残念なことに、岡潔は映像の仕組みを考えるに至らなかったようです。 自然 科学者の多くが「本当のところは素なる時間や素なる空間に潜んでいて、とても深淵な仕組みに違いない」と考えているようです。それだと理解の困難な数学を駆使してやっと理解できるモデルになります。
どうもそうではないようです。仏教の示すところも、ヲシテ文献が示すところも、ある科学者が述べた仕組みもほとんど同じというのは、単なる偶然ではなくて、自然の仕組みは日常の観察できる範囲にあるからだと考えるのは合理的です。
図1 2つの心は各文献や史料の示すところに同じ
仮に”理解の困難な複雑さの内に深淵がある”のであれば、ごく少数の精鋭がやっと理解できるようなものになってしまいます。これではある所から先へは進めなくなります。これでは現在のような学問体系が無い時代の人たちが同じような結論に行き着くはずがありません。(逆説的に言えば、現在の物理学は間違っています。)
管理人が得た結論は、限りなくシンプルです。最初のところは、次です。
そして、言葉の仕組みである「わけることによりわかる」のではない「わかり方」として、岡潔は「情の働きによる」と言ったわけです。岡潔自身が自覚していたか否かはわかりませんけれど、その仕組みからして「決してわからない」と言っています。
2進数で言えば、1とはゼロでない数、ゼロとは1でない数です。だから、1は決してわかりません。数を含む言葉では決してわからないのです。その仕組みは、ヲシテ文献にある”カミ”とおなじでした。
このカミにフトマニのア・ウ・ワをあてはめます。
- アとワはつながり、ウをもたらし、ウよりヒトを生じさせる。ヒトハアノモノ。
ウは渦(物質)のウです。アワは宇宙の大規模構造(泡構造)にあたります。そして、アとはワではない何かです。ワとはアではない何かであって、アは決してわかりません。
- ヒトとは、ヒ、フ、ミ、ヨ、イ、ム、ナナ、ヤ、ココ、トのヒトであって、成長する存在。
ヒトはアとワの間にあって、ウ(渦:物質)でできていて、少しずつ成長する存在だということです。ウのできる仕組みとして境界空間仮説を示すgif1の模型があります。前回までの記事を参照してください。
言い切れるのは、数学を含む言葉は”互いに規定しあって成り立つ循環でネットワーク”だということです。その仕組みの特徴は「外のない内」です。岡潔が自然科学について言った「全てを覆っているが、そこから一切出ていない」という表現と同意味です。
うまく言い表せませんけれど、自然の仕組みは、”サブセット?”として日常生活の内にあるようです。日常生活のあれこれにさりげなく自然の仕組みのヒントが入っているというような感じです。それが可能なのは、「ゼロと1、アとワ、有と無、鐘と撞木、合わせ鏡、如来」のような究極にシンプルだからのようです。決して複雑で抽象的な少数のエリートにしか呑み込めない理論などではないと確信します。
だからといって、論理として科学する姿勢を放棄しません。考えの内に”繰り返し”が現れたら、”そろそろ、思考の終端だな”と考える方向を変えればよいです。とりあえず、自然が別の次元軸上にある何かの投影による映像だとすれば、循環を回避しつつ考察を続けることができます。これが弧理論の骨子です。
幸いなことに、ヲシテ文献にあるアワウタ(ヨソヤコヱ48音韻)は、日本語の基礎ですから、アとワの間にある物と事を母音と子音に適切に当てはめて考えられるのは日本語を話すヒトだけです。物と事の区別がない自然科学を超える新しい科学の創造に最適です。
図1 物を母音に事を子音に配置したアワウタ
新しい科学の出発点です。物と事(運動P)は一つの実体の異なる面に過ぎません。
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