弧理論の考え方との比較(縄文哲学・宇宙哲学・日月神示etc)

弧理論の考え方に辿り着くまで、これまでの経緯を簡単に記した上で、他と比較して似ていることを示したいと思います。

数学者岡潔は、自然科学は間違っているとして、「時間に問題がある」と述べました。この手がかりを元に考察した結果、我々が観念的に持っている「時間というのは存在しない」ことが分かりました。何故なら「時間は運動から求め、運動は時間から求めている」からです。我々がやっていることは、時計と呼ぶ装置の運動と対象物の運動を比較しているだけで、そこに時間は存在しません。 その上で、「時間とは、過ぎ行く運動の記憶、あるいは記録である」と結論づけました。右リンク「時間とは何か」を参照ください。

また、岡潔は顕微鏡などを使ってもよいが最後は、「肉体に備わった五感で分かるものでないといけない」と述べました。 先頃、発表された「重力波の検出」というトピックも100年あまり前に行われたマイケルソン・モーレーの実験を大規模に行ったものです。 五感で分かるのは、

五感でわかるスケール

図1

に示す赤い括弧で括った範囲であって、あらゆる素粒子も重力波も到底この範囲にありません。宇宙の構造や原子殻内部の様子を知る必要はあるのでしょうけれど、本質的な問題として「五感で分かる範囲を越えている」のだと認識しています。自然科学者は、宇宙自然のことを「分けることによって分かる」と思い込んでいる所が誤りだと気付くべきです。ここに自然科学の限界があると考えます。 語弊はありますが、究極的にはどうでもよいのです。 「分けるによる分かる」に代えて「シル:知る」を提唱しています。過去記事を参照ください。

時間に問題があるということは、基本物理量である時間[T]は使えないことになります。 我々がエネルギーとする物理量の持つ次元は、[ML^2T^(-2)]です。かみ砕くと(質量×面積×(時間の)加速度)とでもいう物理量ですからエネルギーとは「物体の運動」を時間という存在しない観念で表したに過ぎないことが分かります。存在するのは物体の質量と、その位置と位置の変化、即ち運動だけです

岡潔は、「どうすればよい」という解決策を用意していなかったようです。では、どうするのかが問題です。 いつも引用するある科学者は、次のように解決策を示しました、

物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる側面に過ぎない。

ある科学者は、アインシュタインの特殊相対性理論にでてくるE=mc^2の式が示す内容の意味について、アインシュタインが誤って解釈したと述べました。  彼の言葉に出てくる一つの実体が持つエネルギーを「時間を含まない真のエネルギー(E軸)だと理解した上で、3次元物理空間を一次元に代表しM軸としました。このE-M軸平面という本来、時間を含まない4次元空間を2次元平面に置き換えたのが

物質(結果)に実体(原因)

図2

です。これが弧理論の考え方です。 E軸上に実体があり、この実体が持つ(時間を含まない)真のエネルギー値は、M軸に投影されることによって物体の質量となります。同時に位置が定まります。 そして、3次元物理空間内において、物体が運動するとき

20140421運動の状態

図3

のように、投影角が変化し、実体の持つ真のエネルギー値の変化分(E2-E’)が物体の運動として現れます。

現在の技術において、電子を単独で閉じ込めることが出来るようです。 勿論のこと、単独の電子は波の性質を表しますが、仮に電子が観測者に対して静止した状態(図2の様に投影角が90度)のとき観測者の視点をE軸上の実体に置くならば、

物質(結果)に実体(原因)

図4

の右図に示すように、実体の持つ(真の)静止エネルギーE2を半径とする円になります。実体から見るとM軸は、曲線に見えるということです。逆に言えば3次元物理空間に居る我々からすると、E軸上の実体は、3次元空間内で位置を特定できないということです。(3次元物理空間に直交するのがE軸であると定義したのですから当然です。)

 

ところで、過去の記事に、次の5つのことは全部同一のことを示していると記しました。

  1. 大本や日月神示にある○+点=ス(身魂)
  2. ヲシテ文献にある ○+点=ア アモト アウワ タマシヰ 縄文哲学
  3. 聖書ヤハウェ 在りて在りたる者 αでありω →無始無終 無辺
  4. 宇宙哲学 宇宙の意識(因)と結果(物質は結果である) 想念
  5. 弧理論(Ark Theory)の考え方 E-M軸平面 物質科学モデル

改めて記しますと

1. 大本教と日月神示では自動書記により数字あるいは記号で書かれた文字に「○+チョン」があります。これを「」と読みます。 日月神示では「○」が身体で あり、点がであるとしています。現代は身体である「○」だけがあり「魂」が無い状態であって、○に点を入れる必要があるとされています。これを身魂とい います。

2.ヲシテ文献には、五七調の「アワのウタ」があります。特に文字「」の形が○+点であって、アで始まる用例が非常に多いです。(アメ、アマ、アモト、アウワなどすべて宇宙を意味します。) ○に点の「ア」を漢字で示すならば宇宙と表現してよいと思います。

3.聖書に登場するヤハウェは、自らを「在りて在りたる者」あるいは「αでありω」としています。他とは異なる表現ですけれど、言い換えるならば無始無終かつ無辺とでも表現できます。

4.G・ アダムスキーによれば宇宙哲学では、まず宇宙の意識があり、それが全ての原因である。この「因」から物質ができ人が出来ているといいます。物質は結果であ り、人は結果だということです。 そして、宇宙の意識(因)から2つのマインドができます。ソウルマインドセンスマインドです。ソウルマインドが心の本 体で、センスマインドが五感にある「感覚器官の心」です。 (因)と2つのマインドを「想念」が結んでいます。 当然のこと物質は結果ですので、原子単位で想念は「在る」ということになります。ちょっと受け入れがたいですけれど理論的にはそうなります。

5.弧理論(Ark Theory)の考え方は、上に示した図2,3,4です。

こうしてみますと5.の弧理論の考え方は、1.の日月神示にある

丸に点

図5

と同じですし、2.のヲシテ文献に出てくる「ア」の文字は、図5右に同じです。

kotsuma図6 こちらより拝借

1.日月神示 2.縄文哲学 5.弧理論の考え方 は、全く同じ形をしています。 弧理論の考え方は、宇宙に最初も終わりもありません。かつ投影された物体が存在する所が宇宙ですので、自然科学が示すところの宇宙の外という意味不明の概念もありません。 つまり、1.2.5.に加えて3.の聖書に登場するヤハウェ「在りて在りたる者」={無始無終かつ無辺}も同じと考えてよいようです。

4.のG・アダムスキーが残した宇宙哲学のキモは、【宇宙は「宇宙の意識(因)とソウルマインドとセンスマインド」の3つから出来ている】でした。 これは、2.の縄文哲学に驚くほど似ています。 縄文哲学の骨格は、アモト(宇宙の中心)とタマ+シヰで出来ており、丁度、宇宙哲学の3つと同じ形をしています。    総合すると1~5は皆同じものを示していると考えてよいようです。

 

弧理論の考え方である図4は、E軸上の実体6種類を代表したものですので、これを詳しくしたのが

20151005E軸上の9つの実体

図7

になります。実体のABCとGHIは、位置を持ちませんので注意が必要です。実体を図4右に当てはめますと

E軸での全回転とアウワ

図8

右の様になります。 実体の3種類は上下2つの点で代表されますので、図の様に2つの円になります。重なり合った部分が我々の存在するM軸ということです。そして、この重なりあった部分がG・アダムスキーが残したネガフィルムにあった

図32ネガ

図9

に示す紡錘図形でした。  つまり、G・アダムスキーの残した宇宙哲学とネガフィルムにあった紡錘図形は、基本的に同じものだったのです。

先日来、フトマニ図について、記しましたけれど

フトマニ図

図10 フトマニ図

の中心にあるのが「アウワ」です。 ヲシテ文献では、宇宙の中心ことを「アモト」といいます。アとウとワは、図6のホツマ文字表と合致しません。図10のアウワは、それぞれが特殊文字に分類されています。「ア」は左渦巻きの「ぐるぐる」、「ワ」は右渦巻きの「ぐるぐる」、そして、中央の「ウ」は鼻のような文字です。  これまでの考察で、アウワはアモト(宇宙)をもう少し詳しくしたもののようです。

「ア」と「ワ」は、図8右に示した様に、E軸上の実体に符合しそうです。 従って図8の「ウ」が我々のM軸ということになります。

弧理論の考え方においては、宇宙の構造は

足跡

図11

の様になります。右図の上部にあるのが紡錘図形です。右下にあるのが紡錘図形の内側だけを描いたものです。 まだ、はっきりしませんけれど、拙著弧電磁気論(現弧理論)において、この左右の図形が宇宙の大規模構造だとしました。

弧理論の考え方では、宇宙の力は主に斥力」によりできています。図7左において、E軸上の実体で真のエネルギーレベルE2を持つA、B、Cと真のエネルギーレベルE1を持つ実体G、H、Iは互いに斥力を及ぼし合っているようです。そしてそれぞれの実体はM軸上に巨大な構造を作ります

電子と実体に働く斥力

図12

右の様に示すように、宇宙の約5%に過ぎない物質は残り95%ほどの暗黒物質と暗黒エネルギーと呼ばれるとらえどころのない存在がそれです。 原子(陽子、中性子、電子)から見てそれぞれの実体は、事実上の無限遠に投影されているのが宇宙の大規模構造だと考えられます。それを象徴的に描いたのが図11だということです。我々(紡錘図形=惑星・銀河系など)を2種類の大規模構造が取り巻いているという図です。

観測された構造は

ss372320d

図13

のようなものです。  少し漫画的に描いたのが

bubble

図14 こちらから拝借

です。 図8右に示しましたように、上方の実体が「ア」で、下方の実体が「ワ」であり、かつ、図11の右が「ア」で左が「ワ」に相当するのではないかと考えています。

それが、図14に「ア」と「ワ」の構造、つまりアワ(泡)構造になっているようです。 ヲシテ文献では、宇宙をアモトと呼び、アウワが宇宙の構造を示しているようです。

ある科学者は、「精神科学、社会科学、物質科学の3つの内、前の2つが基礎になる。基礎がない物質科学だけの文明は、いずれ崩壊する。」という主旨のことを述べています。 そして、基礎に立ち返ってやり直すならば、「まず、精神科学と社会科学が出てくる」と言いました。 「この3つの科学の間には、明確な分離線は引けない」と述べています。  まさに、上記のことがそれです。

ヒッグス粒子や重力波が発見、検出されても何も分かっていないと感じるのは管理人だけでしょうか?    管理人の妄想に過ぎないのですけれど、このように符合するのは面白い。あまりにもよくできています。 7000年以上に及ぶ壮大な計画の一部のようです。

追記 本来当サイトは、物質科学(弧理論:Ark Theory)の研究の為に書いておりますけれど、上記の理由により、精神科学並びに社会学の基礎と融合した内容となっております。サイトのカテゴリーも今のところ分類できない状態です。ご了承ください。

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やはり「ネコヱ」は「想念」のことだろう

弧理論の考え方において、想念は物理現象の一端を担っているのではないかと考えてきました。 E軸は3次元物理空間であるM軸に直交しており、(x,y,z,E)の4次元ですから

20140516直交するE軸

図1

のように、4つの3次元空間に分けられます。 E軸上の実体がM軸に投影されることによって

物質(結果)に実体(原因)

図2

のように、物質が質量mと位置を持って現れます。物質である我々から見てE軸上の実体は、方向も位置も分かりませんから、「無始無終」かつ「無辺」である訳です。 これは聖書でいう「在りて在りたる者」に近いです。

もし、想念が実体からM軸へ直接投影されるものならば、

20140421運動の状態

図3

のように、人体の神経繊維内にある外殻電子が移動(運動)することによって、物質が、イオン化することがあり得ます。これは神経繊維に生理的電気信号が起きることを意味します。 想念は頭に浮かぶ考えのことですから、どちらが原因か結果か分かりませんけれど、想念によって頭の中に考えが浮かぶということです。

そして、想念が実体からの投影であるならば、M軸上の我々から見て、想念はAからBへ、あるいはBからAへ伝わるものでは無いことになります。何故ならE軸上の実体は「無始無終」かつ「無辺」だからです。     以上が弧理論の考え方から得られる想念の性質です。

ところで、

動画1  「ヲシテ国学」第05講 「フトマニ」構造

において、「ミカサフミ ワカウタのアヤ」 ワ095~ について、原文は

①シカワソノ アウワハコヱノ

②ヱナナラン イヤトヨアウハ

③ネヲワケス ステニワカルル

とあります。 解説は8:30あたりから10:00にかけてです。妹君であるワカヒメさんの問いにアマテルカミさんが答える部分です。 池田氏の解説を大凡の文章にすると、次のようになります。

①ワカヒメが兄に問いました。 「(アウワ:宇宙の中心)からコヱが

②来るのですか。(源なのですか。)」 アマテルカミが応えた。「ワカヒメよ。そうではない。アウワは、

③コヱの「ネ」を分けるものではない。」  「アウワはネコヱを分けるものではない。初めから分かれていたのだ。」

アウワとは「アとウとワ」を繋げたものです。 アモトは宇宙のことで、アウワは宇宙(アモト)の構造をもう少し詳しくしたもののようです。  ネコヱは音声を分ける=48音(単音)という意味があります。  肺にためた空気を、横隔膜を収縮させて吐き出します。このとき声帯を振動させて空気の粗密波を起こします。これが音声です。  同時に我々は、何かを考えるとき、母国語で考えます。このとき空気の粗密波を出しません。この頭の中の様子をネコヱと呼んでいるようなのです。

問答に戻りますと、「コヱの「ネ」は、アウワから来るのですか」との問いに、アマテルカミさんは、「そうではありません。アウワはネコヱのネを分けるものではなくて、アウワ(宇宙の構造)が出来たときには既に分かれていたのですよ。」と応えています。

弧理論の考え方により、仮に想念が物理現象の一端を担っているならば、E軸上の実体がM軸上に投影されることによって物質としての宇宙(アウワ)が出来る前から、想念はE軸上の実体として存在したのですから、アマテルカミさんの答えと合致します。

ここで思い出すのが新約聖書、ヨハネによる福音書 第1章の出だしです。

  1. 初めにに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
  2. この言は初めに神と共にあった。

この場合の神は、何を示すのか分かりませんけれど、少なくとも聖書の記述とアマテルカミさんのお考え、並びに弧理論の考え方の三者に大きな相違はないようです。 1.の言(ことば)が縄文の人たちにとってのネコヱと同じに思えます。

G・アダムスキーによる「想念は伝わる」という意味がようやく分かってきました。生物は勿論のこと、無生物どころか、無機物さえも想念を持つというのも、意識的には受け入れ難いながら、原理としてはありそうに思えます。 また、精神科学(タマ)・社会科学(カガミ)・物質科学(ツルギ)に境目がないことも頷けます。 洋の東西を問わず、時代を超えて全部一緒のことを示しているというのは、素晴らしいです。 「誰だ、世界をこんなに曲げてしまったのは!」という気持ちです。

 

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なぜ1年は12ヶ月なのか? フトマニ図 とホツマツタエから分かること

4年ほど前から素数について考えてきました。昨年末よりヲシテ文献にある縄文哲学について勉強しているのですけれど、縄文の人たちがどのような思考過程を経てきたかについて素数と関連することを記します。  昨年末に12星座と1ダースは、どうしてできたのか?素数との関係を書きました。その後の考察です。 一般に知られている事だろうながら、自らが考えた結果です。

フトマニ図図1 こちらから拝借

は、フトマニ図と呼ばれるものです。ヨソヤコヱ(48音)を円形に配置したものです。中心に特殊文字で縦に「アウワ=宇宙の構造のこと」と書かれています。 その周囲には、内側から「トホカミエヒタメ」8文字、外に「アイフヘモヲスシ」8文字が並べられ、その外側2周に残りの32文字を16文字、16文字に分けて円形に配置されています。 ネットで調べますとフトマニ図は、オカルト的な説明ばかりが目立ちます。 フトマニ図は、どうも後世のヲシテ文献研究者が作成したもののようです。 このあたりのことが

.

動画1  「ヲシテ国学」第05講「フトマニの構造」

に述べられています。

「トホカミエヒタメ」は、トコヨクニを建国されたクニトコタチさんの8人の子の名です。クニトコタチさんは、近江のアツミ(滋賀県高島市安曇川平野)を本拠地としていましたから、アツミから8方向に8名を本州から四国九州までに遣わされたのが始まりでして、東西南北を8方向に分割したという意味合いがあります。

動画では、だからといってヨソヤコヱ(48音)を方角や季節に当てはめるのは根拠がないと述べています。

図1のフトマニ図は、どうもヨソヤコヱと「方位」を念頭において作成されたようです。そこで、図1にグレゴリオ暦を重ねたのが

図2

です。 フトマニ図にグレゴリオ暦を重ねて描いたものです。だからといって季節とは関係ありません。(注:図2は、ホツマ辞典、池田満著、展望社のp262にある図からヒントを得、参考にしたものです。)

goo辞書によれば「方向/方角/方位」はそれぞれ意味や用法が異なります。図2で気になるのは、各文字がどのように配置されているかではなくて、「分割」にあります。  北に動かぬ北極星があり、東から日が昇り、西に沈むことで東西南北並びに季節が分かります。これを2分割しているのが図2の「青い線」です。 「アウワ」を中心に数列にしますと、

4・8・16・32・64・128・256・(384)・512・・・・

となります。

一方で、縄文の人たちは、天体の観測で一年が365日余りであったことを知っていました。 以下について、「ホツマ縄文日本のたから:池田満著:展望社」から引用します。

ホツマツタエ  キツのナとホムシサルアヤ の原文ホ-228

ミソフナリ イマミソヒトハ
コノヲシエ アメノメクリノ
ミムソヰエ ヨツミツワケテ
ミソヒナリ
「一年の日のめぐりは三六五日よりすこし多いぐらいの日数があります。 これを四季に分け、前中後の三節に分けると三十一日になります。」
注:本文P210、解説P214から、下線は管理人による

 

ミムソヰエ が「365日余り」のようです。そして「ミツヨツワケテ」が「四季を前中後の三節に分ける」ことです。 ホツマツタエでは、暦・季節と8人の子を8方向に遣わす方角を明確に区別しています。

図2において、グレゴリオ暦は赤い線で「四半期を三分割」しています。ホツマツタエも同じです。しかし、結果しか書いてありませんから、何故4×3=12にしたのか分かりません。

ここで一年が365日余りですから、これに近い360に注目します。これを数列にしますと、

2・3・4・5・6・8・9・10・12・24・48・60・180・270・(360)・720・・・・

となります。360から見れば、いずれの数も割り切れるからです。 2分割の場合の数列にある「256・(384)・512」では、365日余りをうまく等分できません。 その結果、四半期を3分割するという考えに至ったと思われます。

恐らくエジプト、黄河、メソポタミア、シューメル、南米などの各文明でも同じ思考過程をたどったはずです。

vaus352

図3

現代天文学では、星座は88あります。でも、星座を12としたのは、異なる地域で同じ思考過程を経たからではないでしょうか。

縄文の人たちは、時代に応じてそれぞれ目的を持っていたようです。

  1. 天体の観察から方位を求める。 → 地理把握と海洋の航行を図る
  2. 季節を知る → 農業技術、祭祀を司る
  3. 時間(月と日) → 農業技術、祭祀
  4. 時刻(時と分) → 生活の基準を決める
  5. 測地測量(角度) → 土木建築技術の向上

上の3.と5.は、並行だったかも知れません。4.は少し後かも。 5.の測地測量技術が1.や2.あるいは3.から出来てこなければ、縄文の(縄文あるいは弥生から続く古墳時代の)人たちに巨大な古墳や大規模な建築物を構築することはでないはずです。※括弧書きに訂正2017/2/16

12ヶ月、24時間、60分、60秒、360度、いずれも12を一括りとしています。それでも手指の数である10進数を基本としています。

何度も記事にしてきましたけれど、「12は2,3,4,6で割り切れるが、10は2と5でしか割り切れない」のですから、3次元空間を等しく分けるには、12進法が便利なはずだと思います。 過去に物理現象は「2π」より「360度」に馴染むと記事に書きました。 本当のところは、10進法による角度(360度)より12進法で2πを表す、

12進分度器-1

図4

例えば「100度」の方が分かりよいと思います。  図4は、12進法による分度器です。恐らく初の試みです。

 

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ブログの体裁を変更

当ブログは、WordPressを用いています。ブログの体裁を整えるのにNitrousというテーマを使ってきましたけれど、公式テーマでありませんし、更新もされませんから脆弱性があるかもと危惧してきました。

昨年10月頃に「人類史上最大の計画が存在する」ことに気付いたのを切っ掛けに、今回ブログの体裁を公式テーマであるTwenty tenに変更しました。 今は一部不具合がありますけれど、すっきりした読みやすい体裁だと思います。

尚、ヘッダー画像は、管理人が時折ウォーキングに行く某公園を撮ったものです。

IMG_1952

 

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艮(うしとら)の金神(こんじん)と契約の箱について

前回の記事において、自然科学は縄文哲学の象徴であるミクサタカラの「ツルギの一部」であるとしました。 また、聖書に登場する契約の箱は、「契約」即ち「律法・憲法・法律など」とともに現代物質文明の根幹である「自然科学」を象徴しているとしました。

つまり、現代人の根幹にある宇宙に対する考え方「分ける」ことにより「五感で分かる」を基本としているから、複数者間での「契約行為」並びに「自然科学」が成り立つ訳です。その起点を象徴するのが契約の箱であるという解釈です。

更に、アブラハムの宗教であるユダヤ教・キリスト教・イスラム教の信者の数は、世界人口70億人の内半数を超える凡そ36億人です。この人たちは多少なりとも契約の箱に関心があるはずです。 何より日本は、憲法を根幹とする法治国であり技術立国ですから、私たちは象徴である契約の箱の立ち位置にあると考えます。視点(原点)は契約の箱に置くべきということです。

 

さて、管理人は大本教・日月神示には何らかの真実が含まれていると考えています。通常であれば、自動書記や神からのお告げの類は、「神がかりや狐憑き」としてオカルトに過ぎませんけれど、過去記事に記しましたように

想念とチャンネル

図1

「想念にはチャンネルがあり、あらゆる(I想念)と(Cチャンネル)との間には相関がない」のです。つまり、外見は「神がかり」であっても、某かの真実を伝える(想念のチャンネルが図の左寄りのもの=宇宙的な事柄)である可能性がある場合があるということです。

その理由は、同じく過去記事に記しましたように、次の5つが同一のことを示していると考えられるからです。

  1. 大本や日月神示にある○+点=ス(身魂)
  2. ヲシテ文献にある ○+点=ア アモト アウワ タマシヰ 縄文哲学
  3. 聖書ヤハウェ 在りて在りたる者 αでありω →無始無終 無辺
  4. 宇宙哲学 宇宙の意識(因)と結果(物質は結果である) 想念
  5. 弧理論(Ark Theory)の考え方 E-M軸平面 物質科学モデル

1.は 大本教と日月神示で示されたものです。2.はヲシテ文献に記された、縄文哲学の根幹です。3.は聖書の”神”とされる存在が述べたことです。4.はG・ アダムスキーによる宇宙哲学の根幹です。5.について、弧理論(Ark Theory)は、G・アダムスキーが残したネガフィルムとダニエル・フライがコンタクトした人物アランが述べた科学的な内容をまとめたものです。

管理人には、この5つが「非常に似通っている」というより「同じ」だと思えます。つまり、1.の大本や日月神示には、誰しも感じる「宇宙は単一の原理でできているのではないか」ということを実感させてくれる「某かの真実」を含んでいる、ということです。 逆に言えば、1.~5.のそれぞれ単独では、それほどの説得力を感じないのです。

で、上記を前提にしますと、次のことが言えそうです。

 

大本並びに日月神示において、「日本は世界のひな形(縮図)である。世界で起きることはまず日本で起きる」とされます。 また、「艮(うしとら)の金神(こんじん)」は「東北の祟り神」だともされます。 そして、この祟り神は国常立尊(クニトコタチノミコト)だとされます。

これまで、艮(うしとら)は、東北だということで東北地方(青森、岩手、宮城、秋田、山形、福島の6県)だとされてきました。これでは意味がわかりません。

大本並びに日月神示は、陰陽道の影響があるとされます。  陰陽道の艮(うしとら)とは24hougaku図2

の中央から見て北東の方位、丑・寅あるいは「艮」を指します。 これが鬼門です。  ここで、大事なのは絶対方位ではないということです。

例えば、滋賀県大津市坂本にある比叡山延暦寺(天台宗の本山寺院)は、

hieizan_kyoto

図3

京都御所から見て鬼門(艮)の方向にあります。 面白いことに、比叡山を挟んで近江(滋賀県)は人口10万人当たりの寺院数は全国1位です。(寺院数ランキング) 京都を中央と考えることにより見えてくるものがあります。 鬼門とは相対的な東北を意味するのです。

 

①.大本・日月神示による金神(祟り神)は、国常立尊(クニトコタチノミコト)だということですから、ヲシテ文献によるクニトコタチさんということです。 クニトコタチさんは、近江のアツミ(滋賀県高島市安曇川平野あたり)を本拠地としていたようです。

②.「契約の箱」に関して、その所在は多数の人の関心の的です。一説によればエチオピア正教会によればエチオピア北部のある町の聖所に安置してあるとのことです。 一方で、日ユ同祖論で知られるように契約の箱は、「四国徳島の剣山」に伝わるとされます。

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写真1

少なくとも、4C頃までには渡来した人たちがあり、何回にも渡り日本に入ってきたことは事実です。その中には所謂失われた十支族も居たと思われます。 徳島剣山のみならず日本各地で御神輿を担ぐお祭りが行われていることは周知のことです。何らかの関係があると見て良いように思います。

大事なのは、契約の箱が実在するかどうかではありません。 何故なら、例えば

goldmask415

写真2

のような黄金のマスクは、遺産・遺物として考古学的な意味で重要ですけれど、何かを象徴して人類普遍に影響を及ぼすものではないからです。

大事なのは、私たちの文明の根幹を「契約の箱」が象徴しているということと、日本が世界のひな形であるということです。

 

これまでのことを地図に落としますと

艮の金神と契約の箱の位置

図4

の様になります。 私たちの文明の根幹を「契約の箱」が象徴している、即ち、「契約の箱」の伝説がある四国徳島の「剣山」を中心として見るならば、トコヨクニを建国したクニトコタチさん(国常立尊)の本拠地であった近江のアツミ(滋賀県高島市安曇川平野)は、北東(艮)の鬼門であることになります。

これが何故、金神たる「祟り神」なのかは、難しいところです。 クニトコタチさんに端を発する縄文哲学を象徴するのはミクサタカラです。 ミクサタカラは、タマ(精神科学)、カガミ(社会科学)そしてツルギ(物質科学)でできています。 縄文時代のツルギとは、文字通りサカホコであり、銅剣であったようですし、象徴的には地面をならし家を建て、土地を整備し収量の多い木の実がなる樹木を植え、あるいは水路を整備し農業を営むということです。 つまり、ツルギは文化文明の礎である「科学技術=土木・建築・農業生産の技術」だったのです。(同時に人に刑罰を与える道具でした。)

古墳を建造するような豊かな国家になるにつれて、人々は富や地位や権力に群がり、大事なミクサタカラを単なる権力の象徴である「三種の神器」に貶めてしまったのです。(シル:知る)を忘れてシラスとしてしまいました。 そして、外国より入った自然科学には対抗できなかったのです。  一方で「契約の箱」に象徴される物質文明は、強力なツルギではありましたけれど、残念ながらタマ(精神科学)とカガミ(社会科学)に弱点がありました。 契約を交わした者以外は、ヒトとして扱わないという、シナや朝鮮の儒教の様な行為は、本来日本人には馴染まないのです。

管理人の解釈では、契約の箱=シヰ(=センスマインド=感覚器官の心=五感で分かるの意)であり、シヰの暴走は必然だと感じます。(五感の麻痺によって、より大きな強い刺激をシヰが欲する。) このままでは、我々の文明は自滅するでしょう。 西欧の物質文明には、十分な精神科学と社会科学が存在しないからです。  図1の「想念のチャンネル」は、タマ+シヰの合成によります。タマは、ココロバ(真心)とミヤビからできています。ミヤビとは、アワレヱダ(哀れみの心)とナサケヱダ(情けの心)からなります。 自然科学を代表とする物質文明には、これらが足りないのです。

契約の箱は、(分けることにより五感で分かる)のですし、縄文哲学は(シル:知る)のですから、自然科学に馴染みすぎた人には、このことはお分かりいただけないかも知れません。これが自然科学の限界です。

五感でわかるスケール

図5

自然科学に馴染みの人たちは、「五感で分かる」と思っているのですから、悪魔崇拝や呪術はオカルトとして排除するだけです。 なぜこのような世界が現実として在るのか理解できないで居ます。人類の行為は、すべてが「想念の幅:図1のI想念」に収まり、「C想念のチャンネル」と相関しないことをご理解いただければ、納得できると思うのです。 因みに弧理論の考え方によれば、想念は物理現象である可能性があります。

縄文哲学の核であるタマ+シヰの構造と宇宙哲学を基に精神科学と社会科学が整備されるならば、より進んだツルギたる物質科学を構築できると信じています。 そうすれば、ツルギの一部である自然科学は、ツルギの全体に吸収されることになります。 これが、ある科学者が述べた「低い枝の先から分岐点まで戻り、再び登り始める」ことだと理解しています。 一言で言えば<シル:知る>は、<分けるによる五感で分かる>を包含(または包摂)するのです。 これは現代の物質文明の全否定ですから「祟り神」に相当するでしょう。

 

1.「契約の箱(Ark)の伝説が剣山」、2.「ミクサタカラのツルギの候補に挙げている弧理論が(Ark Theory)」、そして、1.と2.が地図上で艮(うしとら)の関係位置にある、というのは結構意味深だと思います。上記の内容と1.2.を対比させて考えると興味深いです。 この壮大なお話にSF〖space fantasy〗を感じます。だれがこんな計画を立てたのでしょう?

注:Wordpress の仕様変更か?図がサムネイル表示されなくなりました。 図を原寸で表示するには、マウスの右クリックにて「画像だけを表示(I)」を選択してください。

追記 図1下段に示した図について。タマ+シヰに基づく図表は、池田満著、ホツマ辞典(展望社)を参考に、管理人が宇宙哲学との比較検討をした結果を図表にしたものです。 日本ヲシテ研究所®とは関係ありません。 図1に関して、ご質問等ありましたら管理人までお願い申し上げます。

 

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自然科学は、ミクサタカラの「ツルギ」の一部分である

これまで、縄文哲学と宇宙哲学を融合させるべきだと述べてきました。 何故なら自然科学の思想は「五感でわかる」ことを「分ける」事からはじまりました。自ずと限界があるからです。

五感でわかるスケール

表1 五感で分かる範囲

限界を超えるには縄文哲学(と宇宙哲学)の<シル:知る>を学ばねばならないということです。

では、自然科学は、縄文哲学との間にどのような関係にあるのでしょうか。

これまでの考察から、(五感で)

分ける→分かる→理解する→物の理(ことわり)を解する→字面のとおり「物理」のこと→自然科学

でした。 では、「分ける」はどこからかと考えますと、どうも「契約」からきているように思われます。 言わずと知れた「神<ヤハウェ>との契約」のことです。

契約の成立には、両者の合意が必要です。 まず、「両者」を分ける必要があります。 すると

自と他を分ける → 更に「他」を分ける となります。 {己と他を分ける。すると「他」には、神とモーセ率いる民衆がある}となります。 平たく言えば「物心がつく=世の中のいろいろなことがなんとなく分かる」ということです。

で、契約とは

  1. 誰と誰が(ヤハウェとモーセ他が)
  2. 何を(十戒などを)
  3. いつから(モーセが神に会ったときから)
  4. いつまで
  5. どうする(2.を守る)

ということです。 4.については、後ほど問題になります。

ですから、ヤハウェとモーセ率いる彼らは、十戒を象徴とする諸々の「倫理、道徳、規律、規範」を「守る」ことに合意した訳です。 当然のこと、律法・憲法などによりモーセと彼らの間でのみ「秩序」が保たれることになります。

裏を返せば、契約外の人たちには、彼らの規範を適用する必要がないということです。  契約の内には、自然科学の発達とともに選民思想と差別意識や契約外の者には侵略・簒奪してもよいという考えを内包しているとみてよいようです。

地球人口約70億人の半分にあたる人たちはアブラハムの宗教を信じています。3つの宗教の間には、差別や紛争が続いています。 分けることにより互いに争うのです。 実際は、これらを利用している者たちがおりますが割愛します。

 

上記の契約を刻んだ石版とモーセの兄が持つアロンの杖、そして出エジプト後に砂漠をさまよう間、彼らに食料を供給した不思議なマナの壺

三種の神器

三種の神器

図2

納めたのが

Ark165e0

写真1

契約の箱(Ark of the Covenant)です。 箱に収めた三種の神器の内、石版はヤハウェとの契約を象徴しています。 アロンの杖は、エジプト脱出時にモーセが杖をかざすと海が割れたといわれています。また、マナの壺は前述の通りです。

結局、契約の箱には、象徴的な意味において「倫理道徳的規範となるもの」並びに暗喩として「自然科学発達の萌芽となるもの」が含まれていたことになります。 アロンの杖とマナの壺は、具体的な行為(杖を掲げる、食料を供給する)に使われたので象徴的な意味はないと判断します。

ところで、石版に刻まれた内容は、我々日本人にとってはわざわざ「神と契約しなければ守れない」内容だと思われません。失礼ながら姦淫、略奪はダメですし、殺人もダメです。しかも、契約外の人たちにはOKというのも理解できません。

多くの国は法治国家ですけれど、頭の中で何を考えようと自由なのは当然ながら、見つからなければ何をやってもよいはずがありません。

 

まとめますと、契約の箱(Ark of the Covenant)には、最小限の倫理道徳と、自然科学の基底となる考え方の2つが入っていたといえそうです。

自然科学は、人の世の生活を善くすることに役立ってきたことは、事実です。ですから、ミクサタカラのツルギに相当すると認められます。  草薙の剣は、草を薙ぎ払い人々の生活を拓く道具です。同時に、使う人たちの精神に応じた働きをします。 契約外の人たちを、草を薙ぎ払わずに殺す道具に使うのは許されないことです。

 

縄文哲学のミクサタカラは、タマ(精神科学)カガミ(社会科学)並びにツルギ(物質科学)でした。それぞれの象徴を持っていました。

ツルギは物質科学を象徴しており、縄文哲学と宇宙哲学が適正に融合されるならば、弧理論(Ark Theory)が新しい物理モデルとして物質科学、つまり新しいツルギになり得るだろうと述べました。

過去記事に

201404224分の1に削られた

図3

弧理論によるE-M軸平面において、古典電磁気学は、①の下半分を削り、②と③は本来非対称であろうと思われるのに、②を削ってしまったと記しました。(実際には、電磁気学は赤い線分のみ) 電磁気学に限っていえば、弧理論から見て古典電磁気学は、恐らく6分の1~8分の1を占めるくらいだと考えられます。

ここに、契約の箱(Ark of the Covenant)の Ark と 弧理論(Ark Theory)の Ark は、同一です。 ですから、冒頭、ヤハウェとの契約の要件である 「4.いつまで」というのは、

縄文哲学と宇宙哲学が適正に融合されることによりタマとカガミが整備され、その後、宇宙自然の構造が弧理論の考え方によるE-M軸に近い、あるいは等しいということが示されれば、契約は満了すると考えます。 これからの時代に必要なミクサタカラができあがるだろうということです。

 

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縄文哲学と宇宙哲学の融合について

昨年より、縄文哲学が記されたヲシテ文献について調べてきました。 その核心部分は

「①アメ(アモトまたはアメノミヲヤ) から来た ②タマ と地上の ③シヰにより結びつき、シヰに物質が集まって④ヒトとなる」でした。  繋がりを記すと

・アモト → タマ+シヰ→物質(ヒト)

ということです。文献の解説によれば、アモトとの行き来により恵みを受けて、力を合わせることが「トのヲシテ」の核心だとのことです。  なお、縄文哲学において、タマ+シヰはヰクラ(5つのクラ)からできており、これがヒトのココロの本体。そしてムワタ(6つのワタ)はヒトの肉体の内訳です。  上記を書き換えますと

・アモト → ヰクラ → ムワタ(ヒトの身体)

となります。注:タマノヲのは省略しました。

一方で、G・アダムスキーによる宇宙哲学の核心部分は

「1.宇宙の意識(因)を源とする 2.ソウルマインド と 3.センスマインド(感覚器官の心)を介して物質である4.ヒトができている」というものでした。 繋がりを記すと

宇宙の意識(因) → ソウルマインド+センスマインド(感覚器官の心)→物質(ヒト)

ということです。 宇宙哲学の核心部分は、宇宙の意識(因)と2つのマインドの間は”想念”により結ばれているということであり、こうしてヒトは宇宙の意識(因)から学べる(シル:知る)ということです。

管理人には、①=1. ②=2. ③=3. であると見えますし、アモトとの行き来による恵みのことは、想念により結ばれていることによる(シル:知る)に等しいと思えます。

G・アダムスキーは、ポーランド系アメリカ人です。西洋人ですから自然科学的な考え方を持たざるを得ませんし、講演する相手も同様です。ですから、宇宙哲学の説明はどうしても部分に分けることになります。  センスマインド(感覚器官の心)には、五感(視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚)が対応しており、それぞれに肉体の5つの器官(目・耳・鼻・舌・手指皮膚等)がぶら下がっているというイメージになります。

同時に、G・アダムスキーは、想念は生物あるいは無生物どころか、無機物である石ころにも在ると述べています。 管理人が永年受け入れがたかった点です。 自然科学的思考を持つG・アダムスキーは、身体を部品と捉えざるを得ない状況でセンスマインド(感覚器官の心)を5つの器官として説明すると同時に、石ころなどの無機物にも想念が及ぶと説明したのですから、矛盾が生じるのは当然でした。

 

一方で、縄文の人たちは、多分に内観的です。これまで読んだ資料によれば、医学用語でいえば”内科的”な自己観察によって「アモト と イクラ+ムワタ+タマノヲ」に気付いたと思われます。言い換えますと、「想念は伝わる」により(シル:知る)ことができたと思われます。

一般的な解説によれば、ヰクラ+ムワタを漢字文献の「五臓+六腑」に当てはめる向きがありますけれど、これは明らかに間違いです。 ヰクラはココロの本体ですから、五臓ではあり得ません。 ムワタは内科的な身体を意味しますから、六腑でもありません。 つまり、ヒトは社会的要因から、緊張時に「手や脇の汗、手足の痺れ、心臓の鼓動の変化、胸の苦しさ、赤面、顔面の蒼白、胃痛など」様々な症状を呈します。

ムワタが(身体)であるからこそ、このような症状を含めた説明が可能なのです。 しかしながら、ヒトの思考の中心が大脳にあるという現代の知識については、縄文哲学で説明できません。 また、G・アダムスキーによるセンスマインド(感覚器官の心)も大脳との関係も、石ころとの関係もうまく説明できません。

もし、弧理論(Ark Theory)の考え方による

物質(結果)に実体(原因)

図1

基本形が、①E軸上の実体、④投影された物質が寄り集まってできたヒト とするならば、②タマ(ソウルマインド)と③シヰ(センスマインド)を補い、かつ想念がE軸上の実体と物質との間を繋ぐと考えるならば、弧理論の考え方によって全ては繋がるだろうと予想できます。

20140421運動の状態図2

E軸上の実体が、M軸に直接投影されることで、大脳神経繊維内にある原子の殻電子へ運動を起こすならば、つまり神経繊維に電流が流れる結果になります。 この作用は生物である必要はありません。 自然科学的思考において、思考の中心は大脳であるとされます。すると身体の各部の症状(上記の心臓の鼓動変化など)は説明できません。

結局の所、現在は仮説に過ぎない弧理論(Ark Theory)は、いままで理解不能であったココロの本体について、合理的に説明できる可能性があるように思います。

考えてみますに、図1も図2も元はといえばG・アダムスキーによる

図32ネガ

図3

紡錘図形に端を発しています。

昨年10月に 冒頭の様に縄文哲学と宇宙哲学が、とても「似ている」どころか「ほぼ等しい」と気付いた驚きよりも、同時に永年「G・アダムスキーによる」宇宙哲学と紡錘図形は全く異なるものだと信じて疑わなかったことが、同じものだということに気付いたことが本当に驚異でした。

縄文哲学と宇宙哲学を融合させるには、弧理論の考え方を考慮に入れつつ進める必要があるようです。

縄文哲学のミクサタカラは、タマ、カガミ、ツルギです。過去記事にタマ=精神科学、カガミ=社会科学、ツルギ=物質科学に対応するそれぞれの象徴だと書きました。

ある科学者は、「まず、精神科学と社会科学が出てくる。その後物質科学が出てくる。この三つに明確な仕切りはない」と述べています。

タマ(精神科学)とカガミ(社会科学)を縄文哲学と宇宙哲学の融合を目指すことによって整備し、やがては弧理論の考え方から、タマとカガミに相応しいツルギができるのではないでしょうか。  弧理論は、ツルギの候補だと考えています。

 

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シラス・ウシハク  シラスは「領る」ではない 「知る」である

前回、自然科学の限界は、<分かる>と<知る>の違いにあると述べました。 <知る>の根拠となるのは、G・アダムスキーによる「想念は伝わる」という特性を元にしています。

想念が伝わる具体例を挙げます。 3年ほど前に、某週刊誌のみだしに「ユーミン {音楽の神様が降りなくなった}」というのがありました。 ユーミンこと松任谷由実氏は、数多くのヒット曲を生み出したシンガーソングライターです。 その彼女の作曲過程が前回ご紹介したクラシック作曲家の宮川彬良氏と、恐らくは同様の手法を用いていることかと推測します。

また、ポール・マッカートニーによる「Yesterday」、並びにサザンオールスターズの桑田佳祐氏による「いとしのエリー」の2曲に関しては、まったく同じエピソードを読んだ記憶があります。(以下、ソースは失念)  『ある日、とても良い曲(メロディー)ができたとメンバー(ポールはビートルズ、桑田はサザン)に曲を聴いてもらったけれど、できた曲があまりに自然で素晴らしいので「既に知られている名曲を知らずにコピー(あるいは真似てしまった)のかも知れない」ということで、あらゆる楽曲を調べまくったけれど、見つけることはできなかったので安心した。』 というお話でした。 つまり、ご紹介したエピソードにおける「過程」は、ほぼ似通ったものであり、音楽理論を駆使して「捻り出した」ものでは無いだろうというのが管理人の考えです。

私たちは、音楽家などをはじめとする芸術家の活動や技術者・科学者のアイディア・閃きを「創造性」なる言葉で一括りにします。 しかしならがら、これらの活動は、明らかに「分けるによる分かる」ではなくて、「知る」によっていることがわかります。

 

先般より、ヲシテ文献に記されている縄文哲学について考察を続けてきました。その過程において「天皇によるシラス統治」と、その他の国々による「ウシハク統治」を知りました。 以下の考察は「オロモルフ」さんのホームページにある論考の一つ、明治憲法第一条「万世一系と統治」を参考にしています。

 

ウシハクについて。 ウシ(主)+ハク(着)で、そのものの主人として身につけるの意があります。ハクは、例えばズボンを履く、靴下を履くというように、身につける、そのものを所有、あるいは領有する意味になります。直接的な支配のことをウシハクといいます。

シラスについて。一般的な国学あるいは辞書では、シラスは<シル>の尊敬語です。

シルには二つの意味があります。

甲) 領/領有する/支配する/統治する     乙) 知/知る/知識を持つ/認識する

(白川静:字訓)によれば、「しる[知]」の意味は次の通りです。

心にさとり、理解することをいう。「わかる」は分別することによってその異同を知ることであるのに対して、「知る」は全体的に所有すること、「領る」ことによってその全体を把握することをいう。「領る」ことは尊貴の人のなすところであるから、「令知」という敬語的な形の語がある。

後半の「領る」が甲)の意味であり、その尊敬語が<シラス>であるということです。 シルの変化は恐らく、 シル→シラス→シラシメス→シロシメス ではないかと思われます。 ですから、シラス=「天皇による統治」とは甲)による解釈となります。 辞書によれば、

「ウシハク」は直接的支配を意味し、「シラス」は高度で政治的・宗教的支配を表し、「シル」はより高次の統治の仕方を言う語である。領にその両訓がある。

とされます。ウシハクより高次の統治の仕方というのは、まったくの意味不明です。別のサイトによれば、天皇の徳による統治とありましたけれど、歴代天皇の何をもって徳があるのか不明です。(勿論、天皇が世界の平和と国民の安寧を日々祈られていることに敬意を持っています。)

一方、ヲシテ文献に記されたクニトコタチさんやアマテルカミさんの行為は、シラスではなくて、<知る>であろうと気付きます。  最初の人であるアメノミナカヌシさんやクニトコタチさん以前においては、「アナニスミ ヒトデナシ」の状態でした。 クニトコタチさんは、人々がそれまでアナに住んでいたのを「整地し、柱を立てて茅で葺き」、「収量の多い木の実をつける品種を栽培し、備蓄」、そして「言葉を直し整えた」 そして、「それらを人々に知らせた」のです。 これらは、今で言う科学技術(農業・建築・あるいは土木技術)です。 これらをどのように<知った>のかが<シル:知る>であったはずです。それ以外に方法がありません。 この<シル>を強く受け継いでおられたのが、アマテルカミさんとトヨケさんだったろうということです。

ついでながら、クニトコタチさんやアマテルカミさんの行為の結果として、人々に慕われることによってクニができたのであって、意味不明な統治ではなかったのです。

冒頭の「想念は伝わる」ことを利用して<シル:知る>ことができるならば、必ず生活は善くなるはずです。 ヲシテ文献の解説を読んでおりますと、クニトコタチさんやアマテルカミさんは、今で言う国民全員が<シル:知る> をできるようになるべきと考えていたように思います。

古事記・日本書紀にある「シラス」のように、天皇お一人に「シル:知る」を押しつけて、<知る>を<領る>と誤解した上で、<シル>という行為を王権と考え違いをした結果、<シラス>としているように思えます。

平城京あるいは平安京の御所にある清涼殿内の東ひさしの東南に、床を漆喰で固めた「石灰の壇」がありました。古より天皇は、「石灰の壇」にて毎朝、遙拝が行われていました。 現在、皇居の宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)において三種の神器への祈りがなされているようです。 皇祖・天照大御神の御霊とされる八咫鏡は賢所に祀られています。現在では遙拝について、誤解された上で形骸化していると考えられます。

ヲシテ文献においては、ミクサタカラと呼ばれています。「タマ」と「カガミ」と「ツルギ」の三種あります。 どうもミクサタカラの「タマ」は精神科学、「カガミ」は社会科学、「ツルギ」は物質科学を象徴するもののようです。 ミクサタカラは御霊や権力の象徴ではありません。  ことに「タマ」は精神科学、つまり「トのヲシテ」の「ト」についての科学を象徴しています。 オカルトやスピリチュアル系のものではありません。 「遙拝」の真の姿は、祈祷や呪術の類などではなく、伝わる想念の受信が目的なのです。  何故なら、アメ(アメノミヲヤ)(宇宙の因)からの想念は、タマシヰのタマを通して受け取る(シル:知る)ことによってのみ新しい知恵を得ることができるからです。(タマシヰのタマは潜在意識とでも表現できます。)

どうも、弧理論(Ark Theory)の考え方によれば、想念は物理現象である可能性があります。 弧理論による「E軸上の実体が、M軸に直接投影されることによって、神経繊維内の原子殻電子に電位を生じさせる」と解釈できます。  E軸上の実体は、直接投影されることにより、想念となるならば、想念は位置を持ちません。 すると想念は、A→B あるいはB→Aへ伝搬するようなものではないと考えられます。つまり、M軸内に満遍なく存在するようなものになります。想念は無辺ということです。 (仮説の上での仮説に過ぎませんけれど。)

追記

昨日、滋賀県高島市にある中江藤樹記念館へ行ってきました。 地図

係の人から中江藤樹について一通りお伺いした後、図書室に保管されているホツマツタヱ(和仁估安聡写本)のコピーを拝見しました。 キツノナト ホムシサルアヤを探して少し感動しました。 どうも考察の結果、

ヰクラムワタ

ネコヱワケ フソヨニカヨヒ

ヨソヤコヱ コレミノウチノ

メクリヨリ ヤマイアラネハ

ナガラエリ

ネコヱが想念にあたる役割を担っているのではないかと考えているからです。前後の意味からヰクラとムワタとヲが先に分かっていないと、ネコヱに分けることができません。因果関係が成り立たないのです。 人は夢を見るのも思考するのも母国語です。例え声帯(ムワタの一部)を使って音声を発しなくても思考はできます。この声を出さない思考を縄文の人たちはネコヱと述べているのではないかということです。用例は10カ所あるようですけれど、全てを調べたわけではありません。悪しからず。

 

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自然科学の限界 <分かる>と<知る>

数学者岡潔は、講演「(4)自然科学は間違っている」で、次のように述べています。

  1. 自然科学者は「分かる」と思っている。
  2. 顕微鏡で見るとか、工夫してもよい。しかし、最後は肉体に備わった五感で分かるものでなければいけない。

1.の「分かる」の語源は、「分ける」ですから

分ける→分かる→理解する→モノの理(ことわり)を解(かい)する→文字通り「物理」のこと→自然科学を成す ということです。

同時に、2.五感で分かるものでなければいけませんので、

五感でわかるスケール

図1 (五感でわかる範囲)

に示す赤い括弧の範囲になければなりません。図1の右端(極大)も左端(極小)も「五感の範囲」を越えています。

つまり、自然科学は、「これまでに知られたこと」を「分ける」ことにより理解しているのです。細分化しているだけで「パイ」自体は大きくなりません。 実際やられていることは、植物や微生物のDNAを解析し、有用と思われる遺伝子配列を特許申請するという、どこか腑に落ちない行為です。 行き止まりであることが自然科学の限界なのです。

「五感で知る」ことができるのは、古典的な範囲であることは明白です。 これを越えるには顕微鏡や望遠鏡を用いることになります。こうして「これまでに知られたこと」を蓄積してきました。 しかし、素粒子加速器や宇宙望遠鏡を駆使しても、「(五感による)知る」によって得られることの限界を迎えています。

例えば、放射線は、無味無臭ですから五感では分かりません。大量に浴びれば「火傷」として分かります。そして、大抵の場合、放射線は有害です。 仮に理論的に予言された素粒子が発見されたとします。そして、その素粒子を大量に浴びたとして、五感で分かるというレベルになれば「火傷」として認識されるでしょう。 理論と火傷との間には非常に大きな隔たりがあるということです。

ヒッグス粒子が理論通りに発見されましたが、管理人にはとても違和感があります。 ある種の放射線が五感でまったく分からないのと同様に、ヒッグス粒子もまた五感で分かるとは、とても思えないのです。

それに対して「知る」という行為に本来は制限がありません。「分かる」とまったく異なる仕組みによって我々は、「知る」ことができます

音楽家は、活動の性格から人前で演奏することが多いです。クラシックの作曲家

miyagawaf56 写真1 こちらより拝借

宮川彬良(みやがわあきら)氏は、某TV番組で次のように述べていた記憶があります。

「自転車に乗っているときや、乗り物で移動しているときに、新しい曲のイメージが降りてくる。」

確か、こんな説明でした。音楽理論を知っている、あるいは分かっていれば名曲が書けるかというと、そのようなことはありません。 他にも似たようなエピソードが幾つもあります。

新しく「知る」というのは、このようなことをいいます。ただし、ある人が何々することを「知った」というのは、これに含まれません。  数学者岡潔は、「自然科学は自然そのものではない。絵を描くとき画用紙があるようなもの。自然科学は簡単な模型である。」と述べています。 彼の言葉から自然科学に限界があることは、明らかなのです。

自然・宇宙を「知る」には、自然科学による「分かる」より多くのことを知ることができるだろうということです。 それが「想念は伝わる」ということの意味です。

追記

結局、五感で分かる限界が自然科学の限界だということになります。  「それ以上に何がある?」とお考えの方には、創造・創作という言葉は存在しないことになります。

 

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想念が持つチャンネルについて

過去記事、想念の仕組み(イメージの幅と事実)について、分かりにくい部分(前記記事の図4)がありましたので、もう少し考察を加えます。

図1は、想念のチャネルについて説明しています。 上段からG偶像、I想念、C想念のチャンネル、そしてTタマシヰ(2つのマインド)の均衡です。 G偶像は、仏像や宗教絵画など信仰や祈りの対象です。悪魔とルシファーは異なるのものなのか分かりません。モレク神は中東で崇拝されたもののようです。

 

想念とチャンネル

図1

偶像を用いるか、用いないかにかかわらず人は、様々なI想念を抱きます。何か敬虔な気持ちであったり、人に対する嫌悪感である場合もあります。 C想念のチャンネルは、人がどのような想念を持ったとしてもI想念とCチャンネルとの間に相関はないと考えられます。 というのも、チャンネルはTタマシヰのタマとシヰの均衡というか配分によって決まると考えられるからです。

例えば、A氏が持った想念は、「神の様な存在がA氏に語りかけた」ものとします。しかし、A氏は自己の執着が強くて「語りかけた」内容が世俗的な「出世や名誉欲を満たす」内容であるかも知れません。それはC想念のチャンネルでいえば、「」の領域に近いものといえます。A氏が持つシヰの発露が強く出た結果、「神の様な存在がA氏に語りかける」という想念を抱いたかも知れないのです。つまり、例え想念が「崇高と感じる何か」であったとしても、C想念のチャンネルが「」や「」の領域であったならば、あまり質の良くない想念である可能性があるということです。 ですから感じたI想念の内容とCチャンネルの間には相関がないのです。

ところがその仕組みを理解していませんと、神からの言葉として受け止めてしまうことになりかねません。なぜなら、シヰ(センスマインド)は、五感(視覚、聴覚他)につながった目や耳からの情報により抱く想念と区別できないからです。  抱いた想念は、肉体に備わった器官をとおして感じたものと同一だからです。  当然、I想念の内容が事実であるかどうかは分かりません。(簡単に言えば、A氏の潜在的な願望を実現したに過ぎないかも知れないのです。)

この辺のことを理解することが難しいためにG・アダムスキーは、何の説明もせずブードゥーやコックリさんなどの呪術をやってはいけない」とのみ教えたのだと思われます。

何せ、「呪術はテレパシーのチャンネルの一つだ」と説明すると混乱することは必至です。ですから彼の支持者たちが自ら気付くように仕向けたともいえそうです。

図1の一番下、Tタマシヰ(マインド)の均衡の欄について、説明文をホツマ辞典(池田満著展望社)より引用し作成しました。

グラフは、タマが破線で示した部分、シヰが実線で示した曲線です。シヰの特性は、感覚器官のそれですので、直ぐに飽和(あるいは麻痺)しますから、シヰの欲求は際限がないことを示しています。 ですから、例えば2千円のワインによる満足より「少し旨い」と感じる満足のために何十万円のワインを手に入れようとするのです。その差はほんの少しです。芸術家やタレントが、刺激がほしくて覚醒剤に手を出すのは同じ理由です。

はっきり、くっきり明るく楽しそうに現れる神様や精霊などには気をつけようというお話でした。

なお、図1最下段、「Gを映画やTVに置き換えるとI、C、Tへの影響は大きい」について、戦後GHQによる日本国民への3S政策などが行われたもことの理由や、現在のマスコミによるB層への洗脳に等しいことが理解できます。

 

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