2. 物質が「わかる」ということ
物質はどのようなものか、自然科学者は探求を続けてきた。 図1 こちらから拝借 素粒子加速器を用いることによって、物質が非常に小さな構造でできていることがわかってきた。物質の探求は、量子力学の構築とともに100年あまりの歴史がある。 また、天体望遠鏡の発達とともに、宇宙の構造もわかってきた。 写真1 光点はすべて銀河系あるいは銀河団 更には、電波の届く範囲を2次元あるいは3次元構造に表現することによって 写真2 のように、宇宙の大規模構造もわかってきた。 しかしながら、岡潔によれば、「物質は、肉体に備わった五感によってわかるものでなければならない」と指摘している。 人の肉体が持つ五感とは、【視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚】の五つの感覚である。 裸眼で確認できる最も大きな構造は、 写真3 天の川銀河である。 味覚や嗅覚で確認しているのは、酸やアルカリ物質、あるいは芳香族などの分子・原子(イオン)である。 写真4 聴覚は、空気の振動を感知できる。 写真5 また、触覚で確認できるのは、1000分の1ミリ程度の厚みの差であったり、熱の温度変化あるいは紫外線などによる刺激である。 これら物質が形作る宇宙の大規模構造から、極小である素粒子の世界について、大きさ(距離)のスケールを横軸にして表にすると 表1 中村誠太郎著:「私の歩んだ道」の表1より引用者が加筆修正した のようになる。単位はメートルである。 真ん中あたり100mが人間の身長である。 右端は、宇宙の半径である1027m。 左端は超ひも理論でいわれる長さ10-35mである。 岡潔のいう「肉体に備わった五感」により「わかる」範囲は、おおよそ赤い括弧でくくった範囲となる。大きい方は、写真3で示した天の川銀河であるし、小さい方は分子・原子程度の物質である。 この赤い括弧でくくった範囲について、顕微鏡や天体望遠鏡を使うことによって、右端あるいは左端の方へ範囲を広げていったというのが数百年あまりの歴史である。 つまり、観測・測定とは五感で分かる赤い範囲内に変換する作業である。 物質の「五感でわかる範囲」の主たる部分は、赤い矢印に示したところ(分子や原子・イオン)が基本となっていることがわかる。 自然科学者は、五感でわからないものは「ない」と思っている。「ない」といっているのではなくて、「ない」としか思えない。 自然科学者は、頭の中に、「もしかしたら、観て、聴いて、触れるもの以外、宇宙(自然)に何かが潜んでいるかも知れない」という原初的な疑念すら持っていないということである。 それを確かめることをしないし、自らが「ない」と仮定していることにさえ気付いていない。 これは、原始人的無知であるという。 このような自然科学者による無知故に、表1の左右に際限なく探求を続けていることになる。この探求は、人的・経済的な理由により、限界があるのは当然である。 人類の全富の何倍かの富を素粒子加速器の建設に費やせば、究極の「素」なる粒子を取り出せるという主張は、事実上「できない」といっているのに等しい。 「実際にできない」ことを「やれば」「わかるはず」と言い張っているに過ぎない。すでに五感でわかる範囲を遙かに超えている。 では、自然科学のどこに問題があるのだろうか。 3. 問題は、[運動/時間]の比率を決定していないことによる 「時間とは何か」において、考察の結果、 時間は存在しないことが分かった。あえて定義するならば、時間とは過ぎ行く運動の記憶、あるいは記録であるとした。 そして、「運動/時間の比」が一定であると限らず、この比率をもって運動の現在と未来に適用できるかどうかはわからないと指摘した。 そして、 自然科学者は、運動は時間に比例して起きると勝手に決めてかかって、そういう時間が「ある」として、時間はわかると思い込んでいたのであった。 当然のこと自然科学者は、運動が時間に比例して起きるかどうかを確かめていなかった。(時間を直接決定した上で、運動との比率を確かめることは不可能。) 上記の問題、即ち自然科学者による宇宙(自然)の探求において、表1の左右両端で行き詰まっていることの問題点は、自然科学者が運動/時間の比率を決定していないことにある。 勿論のこと、相対性理論が問題の解決にならないことは、既に述べたことである。 量子力学の構築における100年あまりの歴史上で、最も問題となったのは、「発散の困難」であった。 杉岡氏のサイトにある「場の量子論の発散の困難の解消へ」において、相対性理論は間違っていると結論し、その論説の過程で「発散の困難」について詳しい。 これまでの考察により、杉岡氏のサイトのような難しい論理は、必要ないことに気付く。 単に「運動/時間」の比率が原因で極小世界において、数学的な困難に直面すると考えられるからである。 表1の両端、左右いずれの端において、遠くの銀河系や素粒子加速器内にある素粒子等は、ほとんど光速度で運動している。(観測者に対して) 恐らく、{運動/時間の比率}が変化しているからだろうと考えられる。 時間・空間という要素を持つ自然科学という模型を用いている限りにおいて、ずっと付きまとう問題だろう。 どのような場合において、運動/時間の分母がゼロになるのか、相対性理論を抜いて検討する必要がある。 簡単にいえば、自然科学は、表1に示した赤い括弧の範囲においては適合するが、表1の両端においては、誤差が大きくなる。 端へ行けば行くほど、極端な値が出てくるのみならず、到底、五感でわからないものとなる。いわば自然科学は近似であろう。 その意味では、自然科学は間違っているといえるし、古典的範囲において正しいともいえる。 物理現象とは何かを定義することは難しいけれど、表1の考察を考慮すると、「物理現象」が持つべき要件の一つに「人の五感で分かることという要件が含まれる」と言えそうだ。 4. まとめ 巨大な素粒子加速器により観測される粒子は、百種以上あるという。 これらを近接作用として理論づけた上で、種類分けしたのが 図2 出典:真粒子発見より である。 物質粒子が12種類、物質間に働く力を伝える粒子が4種類、そして物質に質量を与える粒子が1種類、計17種類あるとされる。あるいは分類の仕方によっては、18種類とされる。 では、表1の左端において、素粒子加速器により観測される粒子が百種類以上あり、区分すると「素」なる粒子が17種類であることの理由は何なのだろうか。 五感でわかる粒子として(陽子・中性子・電子)の3種類で十分ではないか。(表1の赤い矢印の部分) この疑問は、物質とエネルギーの本質にかかわることなので、別途考察する。 こうしてみると、自然科学の「運動は時間に比例して起きる」という前提が問題であることが理解できる。相対性理論は、杉岡氏のいうように「時間を基準に用いている」から使えない。 運動は時間から求め、時間は運動から求めている。 結局、我々の五感でわかるのは「運動」だけである。 我々が認識している「時間」は存在しないし、時間軸なる次元軸も存在しない。 自然科学は、益々「素」なる物質と「素」なる運動と「素」なる時間を追い求めている。また、「素」なる空間という要素も探求している。自然科学者は、何を求めているのだろうか。 数学者岡潔は、「自然科学は間違っている」として、自然科学は単なる思想であり、学問ですらないと論破している。 Copyrightc2015 kodenjiki.com All Rights Reserved.
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