このところ実験を続けていますけれど、掲載できるものはないので、少し雑感を記します。過去記事やHPの内容と重複しますが、ご勘弁を。
私たち日本人はお世話になった方に対して感謝の意を込めて「~には大変お世話になり、『お陰様で』○○です。」と普通に話します。もう少し詳しく書くと、私たちは意識せずに 「お天道様が見ている」 から 「照らされたことによってできる」 『お陰をもって』 「生きている、あるいは生活している」 ということです。光があって陰ができることを前提にしており、「誰も見ていなければ何をしても良い」ではなくて「誰も居ないけれど後ろめたいことはしない」 「なぜならお天道様が見ているから」 ということが暗黙の内にあるから出てくる言葉なのです。単にお世話になった方(見える存在)のみを相手にしているのではなくてお天道様(見えない何か)の元に暮らしていることが大前提になっています。
(あ) G・アダムスキーはそのコンタクトを通して、宇宙哲学を説いた。宇宙哲学の骨子は「宇宙のすべての現象は目には見えない因(原因)にある」と聖書などを引用しながら言葉を尽くして人々に伝えました。
(い) 数学者岡潔は彼の講演で「自然科学は間違っている」として次のように述べました。
自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。
時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。
人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。
時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。
が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。 (下線は管理人による)
つまり、岡潔は、「運動は時間から求め、時間は運動から求めているから、自然科学者は本当の意味で時間を決定していない」との主旨を述べているのです。また、「五感でわかるもの」と題して
物質は、途中はいろいろ工夫してもよろしい。たとえば赤外線写真に撮るとか、たとえば電子顕微鏡で見るとか、そういう工夫をしても良い。しかし、最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない。こう思ってます。
それじゃあ、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。
五感でわからないものはないというのは、既に原始人的無知です。しかも、自分がそう仮定してるということにさえ気付かない。それについて考えるということができないというのは、実にひどい無知という外はありません。そう感じます。
で、そういう物質が自然を作っている。その一部分が自分の肉体である。
ところが、空間といわないで、時間、空間といいました。だから空間の中に物質があって、それが時間と共に変化するということでしょう。だから物質があれば働きが出る。それで自分の肉体とその機能とが自分である。自然科学者はこう思っています。
これはしかし、自然そのものではなくて、自然の極く簡単な模型だと、そう感じます。 (下線は管理人による)
「分かる(理解する)」の語源は「分ける」です。自然科学者は宇宙の現象・森羅万象は「分ける」ことによって「分かる」と信じ切っており、「五感でわからない」ものは「ない」としか思うことができないと、自然科学者が「自分たちには見えない何かが原因(因)で現象が起きているかも知れない」という前提を持てないでいると述べています。そして、仮定すらできない自然科学者を「原始人的無知」とまで言い切っています。 自然科学は宇宙・森羅万象そのものではくて、簡単な模型だと述べたのです。 文脈からして、岡潔は「時間」こそが自然科学という思想の問題点だと看破したのです。 ですから、自然科学において物理量のうち、質量[M]と長さ[L]以外の時間[T]を含む物理量のすべては、誤りだといえるのです。
余談になります。 でも、現実には何も不自由なく科学を応用した電気電子機械装置を利用しているではないかと言われるでしょう。 確かに日常生活には何の問題ありません。 時間とは、時(現在、過去、未来)のうち、過去の「時は過ぎゆく」という属性を取り出して、観念化したものです。 例えば100メートル走をストップウオッチで計測したとします。結果は10秒5であったとします。その計測した時間は既に「過去」なのです。計測に用いたストップウオッチも製造されるずっと以前に決められた過去の記録(基準)を以て製造されたものです。私たちは今(現在)を生きており、時の過去の属性である「時間」を「現在」と「未来」に適用できると「勝手に決めてかかっている」に過ぎないのです。 現実的には
大きさのスケールにおいて、極微の世界(量子理論で表される素粒子の世界)と極大の世界(相対性理論による世界)を観測者から見て静止した条件で取り決めた時計を基に極微極大の世界を計測することは誤差が大きすぎて使えないのです。 残念ながら数学者岡潔は自然科学の問題点を「時間」が問題であると指摘しましたけれど、正解は何であるかを示しませんでした。
余談は続きます。いつも引用する、或る科学者は次のように述べています。
君たちの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーのかんたんな同一性をまだ十分に把握していないことだ。 地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授はずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的に表した数式を発表した。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達している。つまり物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる面にすぎないのだ。
二つの次元をもつ幾何的な平面を考えてみたまえ。この面が君の視線に対して直角をなすとき、君はそれを平面と感じる。これはその実体の物質面を表わす。次に君がその面を90度ほど回転させると、その面は君の視界から消えて一次元のみとなる。これはその実体のエネルギー面だ。君はその面を取り替えたわけではない。ただ観点を変えただけだ。技術的に言えば関係位置を変えたのだ。一定の物体に含まれていると思われるエネルギーの量は、一定の観測者にとって質量エネルギー軸を中心にそれがどれくらい回転したかにかかっているのだ。別な関係位置から同じ物体を見ている別な観測者は、全く異なる量のエネルギーを見るだろう。
図は、或る科学者の言葉を図示したものです。詳しくは右リンク先にある自然科学から弧理論へを参照ください。 3次元物理空間(M軸)に存在する私たちの実体は、M軸に直交するエネルギー軸(E軸)に存在する実体が回転を伴う積分投影によりできたものだというのが弧理論(Ark Theory)の考え方です。
図の紡錘図形について、E軸上の実体が回転を伴って積分投影される際に”弧”を描きます。これがArkです。M軸に接する”弧(Ark)”は、「距離の7条に逆比例する力」として現れます。到達距離は非常に短く強い力です。M軸上での形状はレンズ状をしています。放電現象の中にアーク放電として含まれる可能性が高いです。 詳しくは右リンク先第3起電力のエネルギー源について(考察)を参照ください。 基本形は
となります。私たちから見えないE軸上の実体は、私たちが存在するM軸に「投影」されて初めて「質量」と「位置(長さの元)」を持ちます。ですから、電子(単極F)のE軸上の実体である単極Cの「M軸上での位置は不定」です。投影されるまでは位置を特定できません。従って基本形は便宜的なものであるることに注意です。 実体である単極A、B、C及び単極H、G、Iは、上の紡錘図形のように描く方がよいです。 E軸上の実体は全部で6種類あります。で、素粒子物理学でクオークも6種あるとされています。そして、素粒子物理学ではクオークはビッグバン時のような超高エネルギー状態でないと単独で存在し得ないとされています。実際上、加速器で単独に観測できる時代はこないでしょう。なぜかクオーク6種類と弧理論によるE軸上の実体の個数が同じです。つまり、100種類を超える素粒子群を分類すると概ね6種に分けられるということです。私たちが存在する3次元物理空間(M軸)に直交する見えない存在である6種の実体を物理学者たちは6種の素粒子群として理解している可能性があるということです。まさに素粒子群は、実体が投影されてできた陰であるということです。
(う) 管理人は「弧理論の考え方」を万華鏡に例えています。
動画の万華鏡は7枚の鏡を使ったものでしょう。中に入れられたプラスチックやガラスなどの素片(素粒子群)は偶然またはある確率で落下し、美しい図を描きます。その模様は概ね7回対称を描いているのですから、素片は7種類に分類されると推測します。 というのを馬鹿げていると言われるでしょう。 本当は3枚~7枚の鏡を奇数枚、合わせて作った筒であることを誰でも知っているからです。必ずしも見える状態が構造を示している訳ではないという例です。
どこにでも居る日本人が何気に「お天道様のお陰で」とお礼を述べることにおいて、自然科学者は普通の日本人にまったく及ばないのです。G・アダムスキーが百の言葉で述べた宇宙の因を日本人は普段の生活の中に身につけているのです。 数学者岡潔が自然科学者を原始人的無知とまで語ったのは、彼が一日本人としてまったく当然の感性を以て、考察したからです。 管理人は、日本人あるいは日本人的なる感性を持った人々が地球上から居なくなったら、人類は間違いなく滅びると確信します。
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