ヨハネの福音書14章2節にあるイエスの言葉「住まいがたくさんある」は、比喩ではないようだ

5年あまり弧理論(Ark Theory)の考え方をもって研究を進めてきました。その結果、過去記事に

(1) 聖書の言葉「初めに言葉ありき」は弧理論の「E軸上の実体は全情報を持っている」に等しい

(2) 弧理論の考え方は旧約聖書の「ある」に近い

と書きました。 管理人には、弧理論の研究をはじめた当初から弧理論(旧弧電磁気論)は、聖書の一部の記述に「等しい」もしくは「近い」内容を含んでおり、聖書自体に科学的内容を含んでいるのではないかと感じてきました。

同時に、弧理論についての解説で

「軌道電子に働く力」と「単極誘導に生じる力の違い」

自由電子のモデルと宇宙の構造

と書いた際に、西遊記にある「お釈迦様と孫悟空の寓話」を例えに記しました。

弧理論の考え方の基本形は

20140421静止図1

のとおりです。  3次元物理空間(M軸)に直交する別の次元軸であるE軸上にある実体が持つ真のエネルギー値E2 (注:自然科学でいうエネルギーと異なり時間を含まない。)が「積分を伴う回転投影」によって位置と質量mを持つ物体として現れます。(注:「積分を伴う回転投影」については、右リンク「第3起電力のエネルギー源についての考察」を参照ください。)

投影の角度が90度の時、「ある観測者に対して物体が静止している」ことを表し、

20140421運動の状態図2

「ある観測者に対して物体が運動している」とき投影角θをもっていることになります。このときE軸上の実体が持つ真のエネルギー値は、E2-E’減少します。減少分のエネルギーがM軸上の物体の運動になります。(注:運動も時間[T]を含まない。)

この図1、図2によりM軸に投影された物体は、弧理論による基本粒子である陽子・中性子・電子を指します

なお、弧理論では、投影角θが90度である基本粒子、つまり静止で安定なのは3種類のみです。その他の「素なる粒子」は不安定な粒子群に過ぎません。弧理論では、E軸上の実体は、全部で6種類ありますので、基本粒子を含む全ての粒子は、6種類に分類されます。但し、E軸上の6種の実体は、直接に観測することはできないと考えられます。

 

弧理論による考え方によれば、我々が宇宙の外に出るという考えは無意味です。 図1、図2によれば、投影された物質(陽子・中性子・電子)でてきた我々自身がどんなに遠くへ行っても、そこは「積分を伴う回転投影」によりできた宇宙だからです。我々にとって宇宙は無限大だということです。 弧理論によれば投影によって「質量と位置」が決まることが 宇宙の定義なのです。

saiyukite1図3

のようにお釈迦様の掌と孫悟空の両方を見渡せる位置に我々が立つことは不可能です。

ここから本題です。

新約聖書のヨハネによる福音書14章2節にはイエスの言葉として

  •  「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」

と記されています。 宗教として解釈される場合において、「天の国」と「父の家」は同一とされるようです。

過去記事(1)及び(2)に示したように、宇宙は偶然の産物などではなく、宇宙が「いつから存在し、いつまで存在し続け、いつ終わる」という意味も含まず、かつ、宇宙が「どこか特定できない大きさ」であることを考察しますと、イエスの言葉は、宗教的な比喩ではなくて、「天、即ち宇宙は、人が住むことを当然のことと」して述べられているように思えます。

重ねますと、イエスの上記の言葉は、誰もが死して天国に行けるというような抽象的・比喩的、あるいは宗教的な意味ではなく、宇宙には人が住める所が多くあると直接的に述べているようです。

注意すべきは、イエス自身について宗教的に解釈するならばグノーシス主義に陥る可能性が高まるという自覚が必要だということです。直接的に言えば、イエスを諍いのネタに使うとはもってのほかなのです。

mottenohokaP46写真1 もってのほか

 

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2010年より研究しています。
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ヨハネの福音書14章2節にあるイエスの言葉「住まいがたくさんある」は、比喩ではないようだ への17件のフィードバック

  1. 佐々木 のコメント:

    江戸時代に仏教由来の「塵劫記」という算術書がベストセラーだったということです。昔の人は頭が良かったんですね。時間の奴隷になりつつある現代人には難しいかも。Wikiで命数法を調べると大きさの表現がたくさん出てきます。教典ではこれらの名称それぞれに説明があるようで、仏教の宇宙観は物事の見方を考えさせるようにできているのでしょう。。h**p://d.hatena.ne.jp/sessendo/20101221/p8 を読むと岡潔が道元の名を出したことがなんとなく理解できます。キリスト教と仏教は対になっている部分があり、源流を辿っていくと、件のネガの図に行き着くと感じます。

    • Φ のコメント:

      ありがとうございます。恐らく無意識に「昔より今、今より未来」が漸進的に進歩していると固定的に思っている人には、受け入れにくい点があるように思います。実際の所、中学生でもできた人がいますし、お年寄りでもまったくどうにもならない人がいるのと同じです。それぞれに考え続けることがいいです。
      リンク先を読みまして、幾つかの言葉が気になりました。
      「無始無終」・・・・は、先般の記事にしました「私はあるというもの」の「ある」と同じだと感じました。「いつからいつまで」と「どこに」が抜け落ちているのですから、「ある」は無始無終に「無辺」を兼ね備えていると考えています。(弧理論の図形と同じと解釈します。)
      「業(カルマ)」・・・・という言葉は正直嫌いです。過去記事に「エリートキツネ」について書きました。ご一読いただけますと、カルマという言葉で済ますには、もっと重みがあると感じていただけると思います。人は「言葉に縛られます」気安くカルマと言いたくないです。
      「善く逝く」とは「再び生まれ変わってこない」・・・・この考え方も嫌いです。何か厭世的であって、どうも好きになれません。もっと深い意味があるのかも知れませんけれど、今のところ理解できません。現にご住職の説教も早い話が厭世的です。何かが違うと感じています。
      >源流を辿っていくと、件のネガの図に行き着くと感じます。
      たぶん、ご指摘のとおりです。ナチスとチベット人との関係やナチスの南極基地云々UFO云々、という情報の判断はできませんけれど、卍は間違いなく弧理論の基本形です。世界何カ所かに伝わる卍は吉祥の印です。弧理論では右左関係なく吉祥なのです。それがハーケンクロイツを理由に忌み嫌われるようになりました。偶然なのか、意図的なのかわかりませんけれど、嫌われることで得をする連中がいるのかいないのか、それが誰なのか気にしています。

      • 佐々木 のコメント:

        私は宗教的な”教え”や”救い”に一切興味が無いです。ただ、科学として宇宙観を見るとなかなか面白い。

        • 佐々木 のコメント:

          エリートキツネ読みました。特にキツネの話、これは冒涜だ。全然ドラマチックでなく吐き気がします。

          • Φ のコメント:

            なるほど。どのあたりが冒涜と感じられましたでしょうか。キツネの研究に対してですか。それとも他の点ですか。
            エリートキツネのように飼い主が存在しない両替屋たちは、自らエリートキツネの様な指向性をもって血族を維持してきたと考えています。彼らは支配者ではなく、数(お金:通貨)の犠牲者ではないかと思うのですが。この研究を両替屋(金融資本家)に当てはめて考えるならば、彼らは自滅的・破壊的です。これをなんとか食い止められないかというのが目的です。

          • 佐々木 のコメント:

            キツネの研究です。かわいそうだ。たかだか人間のわがままで、種のあり方が変わるなど。狩猟時代に一緒に生きてきたオオカミやイヌとも違って、まともな会話さえ無く、最後には毛皮にされてしまう。人間の経済のための種になる。例として時々挙げられるLHCもそうです。粒子とまともな会話をしていないから、衝突時の一瞬の悲鳴を誤解して喜ぶだけで、物質が本来持つ力を引き出すに至らない。
            記事全体でΦさんが言わんとすることは理解できるとともに、別の意見もあります。飼い主=両替屋、キツネ=それ以外の人という見方。あるいは、両替屋の実体は既に無く、我々は少なからず両替屋であり、同時にキツネでもあるという見方です。行動原理を容認しているのは私達自身だから自縄自縛です。私が問題と考えるのは、互いに時間方向に急かす事が多すぎるし、それを疑問にも思わないことです。それが”エリート”であると思い込まされている。 h**p://hana.bi/2012/07/mujica-speech-nihongo/

          • Φ のコメント:

            >LHCもそうです。粒子とまともな会話をしていないから、衝突時の一瞬の悲鳴を誤解して喜ぶだけで、物質が本来持つ力を引き出すに至らない。
            LHCにそのような感覚をお持ちだと知り少し驚きました。確かに同意します。弧理論の考え方からすると素粒子は些末です。本来の力は斥力の一種である回転運動だと実感しています。ただ、キツネのみがかわいそうなのではないと思います。似たものに柑橘類があります。一口にミカンといっても、姿形、味香りは様々です。とても同一系統から出たと思えません。 これらもすべて人間の都合によります。恐らく人の側の問題だと感じます。といいますのも小室直樹氏曰く、神仏は日本人の都合よるのでして、西洋では神が中心ですから、事物に対しての取り組み方の違いだということになります。究極には、物質と運動に対する姿勢だと思うのです。
            >我々は少なからず両替屋であり、同時にキツネでもあるという見方です。
            同感です。飼い主がいない私たちは、自らの行為により「選択的交配」を繰り返しているのですから、その傾向によって何世代後の子孫には「生まれながらに」(一定の確率で)殺人鬼であったりするはずです。とても悲しいことですが、科学的事実でしょう。これを業(カルマ)と呼んでいいと思います。
            議論が否定的になりすぎていますけれど、同様の理由により日本人的なる形質に未来を託すことができると考えています。古来、「以和為貴」という指向を持ってきた私たちには「生まれながらに」(一定の確率で)善人であるからです。この形質は、よくない結果をもたらすこともありますけれど、もし日本的なる人が地球からいなくなったならば、戦争により人口が10分の1になって、一から文明をやり直すことになると確信しています。
            >互いに時間方向に急かす事が多すぎるし、それを疑問にも思わないことです。それが”エリート”であると思い込まされている。
            確か過去記事に書きました。刑事コロンボでの犯人である容疑者は多忙なエリートで、腕時計を見ながらコロンボに「君に5分あげよう」という場面を思い出します。

  2. takutaku のコメント:

    高校生の時、友人ととあるオカルト雑誌を元に実験をしました。トロイダル巻きとした直径15cmと10cmは二つのリング状コイルを用意して、アダムスキー形円盤のように、
    三層になるよう上下に配置し、中心に鉄心を通し、天秤に乗せて、その鉄心に下をプラス、上をマイナスとして直流を流しました。上向きの力が働くのでアダムスキー円盤に模した皿は上に上がります。しかし見掛け状、重量が0になろうが浮き上がる訳ではありません。私は学者ではありませんので、引力や重力について詳しく知り得ませんが、
    これらの力が非常に弱い力で、ナチスが完成させたとされるUFOの試作機に多数のジャイロを備えたものが存在し、斥力により、引力や重力を相殺しようとしたのも理解できると思いました。話は変わりますが、自然を探求して調べていくと、核心的なものを見つけたとき、その多くは権威ある団体やその手の団体から妨害や、レッテルを貼られ黙殺されていくように思います。

    • Φ のコメント:

      ありがとうございます。かなり前に、知人のN氏は、鉄線によるメビウス巻きトロイダルコイルに直流を流し、野菜秤にて重さの変化を観察されました。誤差の範囲を越えるものでした。当方にはN氏の実験の原理はよくわかりませんでしたけれど、今ではメビウスコイル中の電子に「加速度の時間変化」が働くことにより、重量変化があったのかも知れないと考えています。野菜秤はバネ秤なので電子天秤と異なり、純粋に物理的変位が生じていると断言できることです。
      ナチス云々は、写真が残っていますね。しかし、本当のことはわかりません。ディスインフォメーションの可能性を考慮し、記憶に留めるべきと思います。「有意な内容を含む」と判断できるまで放置したらいかがでしょうか。
      >核心的なものを見つけたとき、その多くは権威ある団体やその手の団体から妨害や、レッテルを貼られ黙殺されていくように思います。
      その場合、「陰謀論者」か「陰謀論を嘲笑する者」かのいずれの側にもなってはダメだと思います。JFK暗殺やダイアナ妃事故死などは、素直に見れば「陰謀」なのですけれど、「嘲笑される」怖じ気を感じて「思考停止」するのが常です。人々の思考停止により誰が得をするのか考えるのがカギだという気がします。

  3. 村里英明 のコメント:

     弧理論というのは、今現在の事象をのみを表している世の中の仕組みなんでしょうか?未来の月食、日食、また月にロケットを飛ばす計画、素粒子の衝突実験等の時間を含む事象はアウトなんでしょうか?

     なんか、よく解からなくなりました、もしそうであるなら、台風予報・地震予報そして火山予報等は科学ではないという事でしょうか、その辺の考え方は弧理論ではどのように解釈したらいいのでしょうか?

    • 佐々木 のコメント:

      時間という概念は十分に有用なものですよ。
      その上で管理人のΦさんや岡潔は時間が問題だと言っています。

      ボールの自由落下を動画記録して、再生することを考えてみてください。
       記録1) 一般向けビデオカメラを使って、ボールの1[m]落下を撮影する。
       記録2) プロ向けビデオカメラを使って、ボールの1[m]落下を撮影する。
       再生1) 再生装置αで記録1の動画を1倍速再生する。
       再生2) 再生装置βで記録1の動画を1倍速再生する。
       再生3) 再生装置αで記録2の動画を1倍速再生する。
       再生4) 再生装置βで記録2の動画を1倍速再生する。

      一般向けビデオカメラとプロ向けビデオカメラは別メーカー製です。1[秒]の基準となる水晶振動子も違う部品かもしれません。
      記録1と記録2で撮影した動画は同じでしょうか。

      一般向けビデオカメラは60[フレーム/秒]、プロ向けビデオカメラは240[フレーム/秒]とします。
      プロ向けで記録した動画のフレーム数は一般向けの動画の4.00000・・・0[倍]なのでしょうか。

      再生装置αと再生装置βは別メーカー製です。
      記録1と記録2の差が無いとして、再生1~4は同じでしょうか。
      再生1~4の1[倍速]とはなんでしょうか。

      動画を再生し、コマ番号とボールの位置をプロットすると、時間の二乗に比例した式が出てきます。
      しかし、時間とは何か、重力加速度とは何か、この式では言及していません。単なる軌跡です。
      撮影に使用するカメラとは無関係に、ボールに働いている力があるとして、
      重力とは何か?、そのメカニズムはどうなっているのか? についての追究を止めているのです。

      このように時間を変数として記述する今の自然科学とは何なのか? という話です。

      • 村里英明 のコメント:

         佐々木様詳しい解説ありがとう御座いました。なるほど、今の科学は科学として存在し。その他の考え方として自然に対して時間を使わずにこの様な見方もあるんだよという事ですね。

         私は、弧理論とは時間を全て否定し、過去と今のみの自然現象を理解する理論と勘違いしていました。

        • Φ のコメント:

          横から失礼します。時間は日常大事であることに変わりありません。自然科学は
          https://www.arktheory.com/wp-ark/wp-content/uploads/8ffd2b7b9a36aaa2bc8efdd46d5dcbdc1.jpg
          表において、極大極小の世界(左右の端)では誤差が大きすぎて使い物にならないだろう。自然科学は近似だろうというのが弧理論から得た結論です。

          • 佐々木 のコメント:

            単位時間あたりの演算量を増やすことに特化したコンピュータ技術と応用数学の賜物である、超解像、撮影後ピント合わせ、秒間1兆フレームで光の動きをとらえるカメラなどは、(それらは帰納的なので方向は逆ですが、) 特定時刻に情報を織り込んでいく”時間に対する次数”という発想に近しいものがあります。

          • Φ のコメント:

            難しいですね。情報を蓄えるにわずかばかりのエネルギー(時間を含む)が必要であることに変わりありません。ピコ秒・フェムト秒での光の挙動を追求することと、時間との関係がわかりません。分解能を極限まで上げて、顕微鏡や記録技術を向上させるという発達は理解できますけれど、当方の仮説「時間を含まない真のエネルギー値を持つ実体が全情報を蓄えている」かも知れないという発想と根源的に異なるものと理解します。この仮説は物質が「ある」というだけで、背景にある実体が「全ての物質」の状態の取り得る組み合わせの全てを実現しうるということです。
            >”時間に対する次数”という発想に近しい
            うーん、どうでしょう。素なる時間という発想に達する様にも思いますが、検索しますと
            http://ameblo.jp/teru-2010/entry-11193026293.html や
            http://kyoko-np.net/2011081301.html などという記事がヒットします。(記事が正しいかどうかわかりません。)
            でも何か「分ける」ことで「わかる(はず)」というのに違和感があります。詰まるところ、これまで議論してきました(運動/時間)の比に突き当たるように思うのです。理論的に破綻するという気がします。ゼロと無限大・発散に悩まされるということです。何故なら、リンク先2件の記事のいずれも、先にお示ししました「表」
            https://www.arktheory.com/wp-ark/wp-content/uploads/8ffd2b7b9a36aaa2bc8efdd46d5dcbdc1.jpg 
            の左右の端での話題ですから。

          • 佐々木 のコメント:

            >詰まるところ、これまで議論してきました(運動/時間)の比に突き当たる
            それはそうです。 失礼しました。いくつかの言葉の扱い方が違うので別の方向に伝わったようです。
            >ameblo.jp/teru-2010/entry-11193026293.html
            >kyoko-np.net/2011081301.html
            前者はともかく。後者は虚構新聞(ジョークサイト)です。ネタとして結構面白いですが。
            前者は、脳の時間認識野が壊れた男が不連続な時間軸(時間の矢が存在しない)を移動するSFがありますね。
            1兆フレームは wired.jp/2011/12/14/「1秒1兆フレーム」で光の進行をとらえるカメラ/ です。撮影後ピントは、従来は2次元の画素値記録だったものを光ベクトル記録にできたということ。超解像はさらに無粋な説明になるので割愛します。
            これらの情報処理技術は「万華鏡の絵を細分化して、一番尤もらしい実像をつくる」ことを目的としています。だから精度や分解能が重要になってきます。これが「複数のパターンを重ねて入力して、全質量を回転させる」という(ここでは工学的な意味での)アプローチが似ていると思いました。
            上記の技術は軸はほぼ決まっていて数値の追求になり、科学は軸そのものを対象とします。さらに弧理論では軸自体も操作対象となっています。稀有です。
            「分ける」「わかる」は坂本賢三 bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784061597679 でしょうか。私は認識理論に触れた際に紹介されましたが、もはやどの棚に入れるべきなのか分類不可能な本です。”情”、”粋”、”通”がどういうものかも述べています。本質は情があり、最高に粋である、と読んで思いました。万華鏡を楽しめる通人になりたいものです。

          • Φ のコメント:

            ありがとうございます。奥が深いですね。SFの話は存じ上げませんでした。ただ、星新一、小松左京はすきですが。全般的に苦手です。wired.jp/2011/12/14/「1秒1兆フレーム」の動画は驚異的ですね。果物の静止画に超カメラからの情報を重ねたように見えます。
            >情報処理技術は「万華鏡の絵を細分化して、一番尤もらしい実像をつくる」ことを目的としています。だから精度や分解能が重要になってきます。
            >「分ける」「わかる」は坂本賢三
            これまで、何度か記事にしたことと関連します。数学者岡潔が「五感でわかるもの」として述べていることが参考になります。文字で相互に理解するのは難しいですね。岡潔が自然科学者について「原始人的無知だ」と述べていますので、この点を別途記事に起こしますのでよろしくお願い申し上げます。
            また、万華鏡の例えは、弧理論から見た「量子もつれ」の仕組みを説明する際に用いていますので過去記事を参照ください。

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