弧理論(Ark Theory)は、研究対象である
と
の解釈からきています。 弧理論の考え方とは、写真1と図1から得られる宇宙の解釈です。
管理人は、キリスト教徒でもイスラム教徒でもユダヤ教徒でもありませし、聖書の研究者でもありません。 聖書は世界で最も読まれている本ですから、管理人も聖書の有名な言葉を少し知っているだけです。
弧理論の考え方、つまり写真1と図1についての解釈の仕方について学び初めてすぐから、聖書との強い結びつきに気付きました。 研究を始めたのが2010年で、2011年6月ころには解釈の手法に大きな誤りがないと見当がつきました。 それで理論と実験の研究を続ける中で気付いたことを
聖書「初めに言葉ありき」は、「弧理論のE軸上の実体は全情報を持っている」に等しい。
ヨハネの福音書14章2節にあるイエスの言葉「住まいはたくさんある」は比喩ではないようだ。
の記事にまとめました。
久保田八郎氏が主催した日本GAPの会誌UFO contactee には、ジョージ・アダムスキーからの情報としてアダムスキーがコンタクトしたオーソンは、イエスだったと記されています。 しかしがなら、その根拠は示されていませんでしたのでイエスともノーとも判断できませんでした。
聖書の何カ所かが弧理論の考え方に等しいか、あるいは近いに過ぎませんけれど、管理人にとっては、十分な根拠と見てよいと考えました。 つまり、新約聖書と旧約聖書のいずれもが、写真1と図1のもたらされたものと同根だろうということです。 ただし、聖書全体が同根かどうかはわかりません。
余談です。 それと、なぜか管理人には、旧約聖書、新約聖書のいずれも宗教書には見えないでいます。 上記3本の過去記事は、いずれも科学的な内容であって、スピリチュアルや宗教ではありません。 そこには、
- 宇宙が無始無終であり、かつ無辺であることは聖書の「ある」に近いこと
- 3次元物理空間に直交するE軸上にある実体が「投影されて出来る宇宙のすべての陽子中性子電子にかかる組み合わせ情報をE軸上の実体が保持していること」が聖書の言葉に等しいこと
- イエスの言葉はどうも比喩ではなく「宇宙には人が住める場所が多くある」らしいこと
というかなり具体的合理的な内容が書かれています。つまり、聖書の記述のある部分には、宇宙の実態が書かれていると解釈出来るということです。
これは不思議なことです。何故なら現代物理学(素粒子物理学、宇宙物理学など)においては、宇宙は
ビッグバンに始まり、膨張を続けて、その大きさは130億光年だとされています。 つまり、有始有終かつ有辺だということですから、聖書の記述に反しているということになるからです。 もしキリスト教徒の宇宙物理学者がいたとするならば、自己矛盾ということになります。
それと、図1は宇宙の構造を記したもので「宇宙の外」について一切描かれていません。一方の図2では宇宙は「どこ」に存在しているのか不明です。 人が宇宙を入れる超宇宙なるものを創造しなければ図2は描けないと思うのです。人はいつから神を超えたのでしょうか。
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二重反転と三重反転に水銀の乗り上げですが、引力でしょうか重力でしょうか いずれかが無くなってしまったのでは、と思っているのですがいかがでしょうか。これから実検を重ねればいずれは正体がわかるでしょうが 非常に興味深く拝見致しております。
ありがとうございます。自分の中では結論が出ていません。
公表していないのですが、5/26日に水銀の乗り上げが起きる二重反転型単極誘導モーターについて、全体の重さを電子天秤(max2000g 0.01g単位)で計りました。 電圧電流を変えて3回計りました。乗り上げが起きましたけれど全体の重さに変化はありませんでした。(0.01g以下)使った水銀は329gで(最大0.37v30A、6秒間通電)でした。
https://www.arktheory.com/wp-ark/wp-content/uploads/CIMG1752.jpg
電子天秤は磁気の影響を受けますので、上皿から約15cm嵩上げした状態で実験しました。給電ケーブルはハンダ吸い取り線です。
また、比較として20wの1Ωセメント抵抗10本を並列にしたダミー抵抗により大電流(最大5.6vで50A、30秒間通電)を供給した場合の給電線の温度変化によるストレスと実験機から生じる上昇気流による測定誤差がどれくらいかを確かめています。このときダミーでは秤量0.06g~0.07gマイナスでした。つまり上昇気流によって秤量がマイナスになったということです。ですから5/26の計量実験では、消費電力がダミーより小さいことから誤差は0.01g未満だと思われます。ダミーでの実験は1/15に行っています。なお、電子天秤はON後2時間ほど放置し秤量が安定後に実験しています。
結論として、水銀の乗り上げが装置の例えば接点や磁石等に対してであれば全体の重さに変化はありませんので、実験では確かめられませんでした。
ある科学者の言葉を参考に過去記事「EMAモーター Nマシン エーテルエンジン」の考察を書きました。現在あるアイディアでの実験を計画しておりますが、これは重さを計るのではありませんので、上記の解答が得られるのは先になるかと思います。
正直なところ、真っ当な学問をされた方から見たら珍妙なブログですけれど、やってみたら思わぬ現象が出るのですから現実は面白いです。やらねば出ないのです。なぜファラデーの発見から二百年近く工夫されてこなかったのか不自然さを通り越して意図を感じます。
追記 実験装置のjpgがうまく表示されないようなので、別途記事に起こします。
仏教宇宙観に呆れたのはこの方のブログでした。www.kaynotes.com/archives/6947087.html 現代語訳は http://www.sunlotus.org/tales/yasashi/001_010/yasashi07.html や http://www.mt-silver.org/BUDDHISM/b-bu.html 真ん中あたりの”微塵”の項。 この発想からすると137億年はあまりにも短いですね。
そうですね。白髪三千丈なんかはったりです。数字で表しているうちは限度があります。
反対のエピソードです。中村誠太郎著「私の歩んだ道」p7から『研究員の一人が「なんといっても、湯川先生よりオシャカさんの方が偉いと思う」と口をすべらせた。 湯川教授は、「文明の最先端の基礎科学を研究している者と、古代文化の中の偉人といえども文明ははるかにおくれた時代の人との価値が分からんのなら、研究室にいる資格がない。明日から、もう大学にへ来なくてもよろしい。」と大変な不機嫌であった。』
人は漸進的に進歩すると思い込んでいるからこのような話になると思います。読んで随分がっかりした記憶があります。
「偉い」というのがかんに障ったんでしょうか。「古代は文明が遅れている」とはつい言ってしまったようにも見えます。そこだけ見ても何にもならないと言いたかったのではないかなあ。湯川秀樹は落語を聴かなかったのでしょうか。古典に顔出す最先端、最先端の中に活きる古典というのが味わえます。
2つのもんがぶつかりゃ互いに痛えに決まってる。そんなものはそれぞれ行きたいところに行かせるのが一番だ。大抵どこ行きゃいいかわからねえから、落ち着こうてんで、その辺ぐるぐる回ってる。飲んで識る、識るために飲め。飲むほどに酔うほどに、世の造りってもんがわからぁな。と、こんな発想でどんちゃん騒ぎをするのが八や熊といった庶民。
この宇宙がコンピュータシミュレーションだという飲まずに酔っ払っているような人も居て、何がホントかわかりゃしません。
支障のない人間原理より落語の方が的を射ていると思うんですね。
うーん、どうでしょう。昔~今~未来と進歩するという固定した観念があったからではないかと思います。当然自分の方がお釈迦様より進んでいると思い込んでいたと。佐々木様の示されたリンク先の話とは別に、釈迦が弟子に原子の大きさを話して聞かせるというのをどこかで読みました。そういったことに湯川秀樹は興味がなかったのかも知れません。
>支障のない人間原理より落語の方が的を射ていると思うんですね。
洒落があります。どこか岡潔の話に通じるようにも思います。
確かに落語は面白いですね。桂枝雀が面白い。こちらのアニメが秀逸です。頭山 https://www.youtube.com/watch?v=QRGoZ633FiM