研究といえば、弧理論(旧弧電磁気論)と応用である単極誘導について書き始めまして、気がつけば記事が200本を越えました。 このところ弧理論の考え方に似た聖書について調べることが続いています。
人類に最も影響を与えた本である聖書なのですが、どうしても「原罪」に突き当たります。 前回の記事で「聖書の中で一番人を殺したのは誰か」について、答えは旧約聖書の神であることを記しました。
神が人を殺すことと「原罪」とは、ちょっと結びつかないのですが、日本人に原罪は馴染みがありません。wikiによれば
原罪(げんざい、英語: original sin[1], ラテン語: peccatum originale[2])は、キリスト教内の西方教会において最も一般的な理解では、アダムとイヴから受け継がれた罪のこと。現代の西方教会においては、罪が全人類に染み渡っていて罪を不可避的にする状態の中に、全人類が誕生して来る状態を指す表現として理解される傾向がある
図2
蛇にそそのかされてアダムとイブが禁断の果実であるリンゴを食べたことから始まったとされています。 ユダヤ教とキリスト教では原罪の解釈に違いがあるようですけれど、「アダムの犯した罪が全人類に及ぶ」と理解して差し支えないと思われます。
ところがこの原罪について、日本人には受け入れがたいものです。生まれながらに罪があるというのはどうも我々には理解しがたいのです。 社会学者の小室直樹氏は
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動画1 小室直樹 宗教「日本教」
において
- ギリシアの神は人に「労働」という罰を与える。
- 日本では神自ら額に汗して働き蚕を飼う。
と述べています。
日本人は、働くことを懲罰だという認識はありません。では、この違いはどこから来たのでしょうか。
ここから管理人の推測です。過去記事にエリートキツネと闘牛士のことを書きました。 ロシアの毛皮用の養殖キツネについて、「人により懐くキツネ」を「選択的に交配」する実験を何十世代も繰り返すことにより、人にすり寄り、甘噛みをする、巻き尾をもった、垂れ耳の、白い毛のキツネが
何割も生まれるようになったのです。 その実験事実を持って幾世代も行動原理の強化を続けるのは危険だと記しました。
人にはエリートキツネのような飼い主は居ません。自らの行動は、自分の世代のみに完結するのではなくて、仮に何十世代も同じ行動を続けるならば、我が子にして「生まれながらに(ある種の)罪」を持った人が生まれてくる確率が高くなることを意味しています。 これは聖書にいう原罪と等しいものと考えます。 何十世代も奴隷に労働を押しつけてきた人の子は、当然のこと労働を罪なこと、あるいは蔑みの対象と見るはずです。
そのような人々の神だからこそ、(奴隷である)人を大量に殺すのかも知れません。 労働も倫理も道徳も絶対の神という箍(たが)がなければ「人」たり得ないのだと考えます。 タルムードはまさにこれです。一部の人間は己が神になったと勘違いしています。
はっきり言えば、日本人にしてみればアダムとイブがリンゴを食べた故事あるいは神話などどうでも良いことです。 日本教たる日本人には天照大神もYahwehも同じなのです。
ついでに。
神道には、八百万の神がいます。日本人には馴染みの宗教です。でも神道には宗教の要件たる教理・教典・教義がありません。 管理人はある神社の氏子ですけれど、見たことがありません。 恐らく日本人は、労働も倫理も道徳も何十世代か続けてきた事柄であって、言うことを聞かなければ「罰を与える絶対神」や「殺しをする怖い神」という箍(たが)が必要ないのだと感じます。 ですから、管理人には旧約聖書・新約聖書が宗教書に見えないのです。
ついでに、ついでに。
写真1は、皇后様が蚕に桑の葉を与えておられるご様子ですけれど、明治以前の天皇は仏教徒でした。皇室の菩提寺は京都の泉涌寺です。 非常に荒っぽく言えば、明治以後の神道は、「中国大陸を経由して入ってきた耶蘇教の焼き直し」のようです。謂わば、「耶蘇教を多神教にして教理教典を抜き去った宗教(和風耶蘇教)」といえるのかも知れません。
そういえば、鬼塚英昭著「天皇のロザリオ 上巻 日本キリスト教国化の策謀」を読んだとき、奇妙な倒錯感がありました。 ここにもバカボンのパパ「賛成の反対なのだ~」では済まされないがあるようです。 和風耶蘇教たる神道からキリスト教に宗旨替えさせようという訳分からん状態です。
追記2022/11/18 興味深いので貼ります。
動画2 田中英道 – 文学博士 東北大学名誉教授「秦氏ユダヤ人は日本に同化した」日本国史学会連続講演. professor – Hidemichi Tanaka Japanese-Jewish common
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楽しく拝見しています。
さまざまなお話があって気持ちがホッとします。
...で、キリスト教の「原罪」について私はアホかと思っていましたのでとても嬉しく、私の気持ちを書かせて頂きました。
あれはとても変ですね、「原罪」なんて人間にあるわけなーい。
地球上の生き物に罪だの罰だのあるわけなーい。
人間の我々が周囲の昆虫から動物から植物を見ていてどこに罪があるのか、そんなことは考えたこともないのに、自分ら人間に「罪」があるわけない。
と思いますよ、普通。
あれは洗脳。
3.11以来インターネット情報により世界の歴史自体が大嘘だったことを知って、以来約10年あれこれ考え続けました。
世界は嘘だった。
宇宙や天体やNASAやアカデミズムなんかも全部嘘。
今はすっきり、ワクチンなんか物心ついて以来接種していない、病院行かない、自分で何とかする。って人生を送ってきて…ま、よかったなと今は思っています。
介護保険ケアマネジャーをしていますから高齢者・障害者と一緒に病院に行く事もありますが、医療を疑う人間は周囲に殆どいないから、何も言わずに仕事をします。「薬は少ないほど良い」「飲まないのが一番よい」「食事を考えるべき」「医者は赤の他人」と、一応話しますが、病院大好き医者大好きな人々は勝手にしますのでもう好きにさせときます。
そして、このコロナ騒動。
ともかく、宗教は嘘洗脳装置だということは、よく考えれば...考えなくても...わかるだろうと思うのだが、わからない人のほうが圧倒的に多い。
キリスト教系大学で「キリスト教学」という科目があり(東京女子大学ね)講師(牧師)が開口一番「キリストは神であります」というのを聞いて、宗教をちょっとは勉強してみようかな、と思っていた20代の無邪気な乙女の気持ちもしらけましたワ。
全員詐欺師。
自覚がないだけ。
コメントありがとうございます。
>「原罪」なんて人間にあるわけなーい。
日本教「神仏より人間の都合が優先する」といいますが、これでは何故かはわかりません。いろいろ探ると、ヲシテ文献のアワウタに行き着きます。日本人にとって、神仏も「物の初めから事の終わり」の内にあることがわかります。ですから、原罪などありません。
恐らく、大陸で熾烈な競争にある人達は、集団を維持するに強烈な粘着力を持っていなければ、絶滅するはずです。それに対する答えが原罪だとすると納得します。その行き着いた姿がイスラム教の「戒律」です。原罪から戒律で集団を維持するということです。神からの指示がなければ、集団を維持できません。
>世界は嘘だった。
本当に同意です。かなり前の記事で、この世界は「倒錯:統合失調」に感じると書きました。差別はだめですが、LGBTもBLMも本来の目的から離れて、単に利用されて逆転しているに過ぎません。何処の誰かは知りませんが、トップの連中は心を病んでいます。誘拐した幼児から若さを保つ血液製剤を作って使うとか、本当でしょうか?おぞましい。
>ワクチンなんか物心ついて以来接種していない、病院行かない、自分で何とかする。
ただし、この世界はゼロ・1ではありません。3種混合などは受けないとまずいようです。
2018年に書いた記事『高野誠鮮 氏「寛容で懐疑的な態度は絶対失ってはいけない」』のとおりです。受け付けるが、判断は個別にする態度が適切かと思います。
何せこの世界は「善は悪の如し、悪は善の如し」ですから。
>病院大好き医者大好きな人々は勝手にしますのでもう好きにさせ
藤原直哉氏「打たないと死ぬ、打てば死ぬw」です。人は自らが望むことを信じています。
私が当サイトで伝えたいのは、「そういった仕組み(自然)がある」ということです。ヒトとは、心の本体であるタマに生命維持の欲求であるシヰ、それに「物」でできた肉体が(まとわりついた)存在です。ヒトとは「ヒフミヨイムナナヤココト」のヒトですから、このような世界で経験を積んで成長する存在をヒトという訳です。単に仕組みがあるのであって、ゼロ1ではありません。この仕組みをヲシテ文献では「カミ:つながり、もたらし、生じさせる」と言います。
>宗教は嘘洗脳装置だ
確かに、そういった面は大いにあります。物と事は、常に「対」になっているという仕組みになっているとわかりました。全てが「対」になっているのです。物と事は互いに規定し合って成り立つ循環です。(言葉の仕組みですから、如何ともし難いです。)
ところが、一つだけ対になっていない存在があります。それが「自己」です。「メはヲの如し、ヲはメの如し」ではあっても、メヲト(夫婦)以前に、唯一である自己の存在に「対」はありません。敢えて言えば、自己以外全部が対になっています。即ち、自己の対は自己以外の自然全部だということです。ヒトの対は自然と言ってもよいかも知れません。それでは、不十分ですので、自己の対として創造主を仮想的に持ってきているのかも知れません。
「自己の存在理由は、創造主だと」すると「信仰」が出てきます。何せ、自己の表れであるヒトは、外のない内であり、限界がありますから。その延長上に宗教があります。
ヲシテ文献には「ヒトハアノモノ」とあります。弧理論で言うところの基軸上にある2つの中心「アとワ」のアです。しかしながら、心の本体であるタマの出所は、別なのかも知れません。何故なら、メとヲはアワの表れですから。それ以前であるタマは別だと感じます。タマと対になるのは、ヲシテ文献で唯一の存在であるアメノミヲヤのような気がします。藤原直哉氏も動画で「心が開かれた人でなければ云々。天に通じた人であるべき。」と述べています。人は物や事を言葉でわかっているのではありません。書き言葉である数学を含みます。「外のない内」に気付かない人は、傲慢そのものです。
>自覚がないだけ。
そのとおりです。最初に人に「心が2つある」ことを知るべきです。すべてはそこからです。そこからシヰは「外のない内」であるとわかり、シヰには限界があるとわかってきます。
映像ですから、宇宙に中心はありませんが、宇宙の中心は別の次元軸(基軸)上に2つあります。これをアとワと言います。自然は基軸からの投影による像だというのが弧理論の骨子です。
多元宇宙論やブラックホール、あるいはビッグバン宇宙論は、第1の心(シヰ)にある書き言葉(数学)を使った、外のない内であり「抽象」であるようです。外のない内を越えることは決して出来ません。