ここのところ、何度も科学的な内容から離れた記事を書いています。 今回も聖書について調べたことを交えて書きます。
新約聖書、旧約聖書に登場する人物の「話したこと、聞いたこと、行ったこと」は忠実に聖書に記されているのかどうかは、気になるところです。 管理人は信者でなく、研究者でもないのですけれど、聖書が宗教書に見えませんでした。 登場人物の見聞きしたことを脚色して宗教色を強くする書き換えが行われたのではないかと疑っています。 そこで同様の疑問を持つ方がいるかどうか調べてみました。
佐倉哲という方のサイト佐倉哲エッセイ集にキリスト教における「聖書の間違い」を詳細に検証されています。ここでは、佐倉氏が検証した旧約聖書(モーセ五書の5番目の書である申命記)について「聖書は書き換えられたか」の一部を引用します。
聖書が信頼できる神の権威をもった書であることを説得するために、長い間、保守的クリスチャンが提示してきた根拠の一つに、「内証」(internal evidence)と呼ばれるものがあります。考古学的発見などのように聖書外のものが聖書の信頼性を証する場合を「外証」(external evidence)といいますが、聖書自身がその信頼性を証する場合を「内証」いうのです。彼らが「五書」のモーセ著作説にこだわる最大の理由は、おそらく、彼らの聖書信仰の根拠の一つとなっているこの「内証」と関係があるのです。
この内証の考え方に依れば、聖書のある一書の内容が、聖書の他の著者によって権威ある神の言葉として引用あるいは言及されているとき、その書は信頼できるとされます。とくに、イエス自身の言葉の中に引用あるいは言及されている書は、特別に信頼できる権威ある書であるとされています。
聖書の無謬性を証すための方法として内証(internal evidence)が用いられると佐倉氏は述べています。聖書は完全であって、それ自身が無謬であることを証明しているということのようです。
申命記を検証した佐倉氏は、次のように矛盾を指摘しています。
- 申命記はモーセが記した。
- モーセはヨルダン川の東側モアブの地で死んだ。
- モーセの最後の言葉はモアブの地で語られた。
- 申命記の作者はモーセの語った場所をしばしば「ヨルダン川の向こう側」と記述している。
モーセは申命記において、自身が行き着けなかったカナンの地から東を望んで「ヨルダン川の向こう側」と表現していると指摘しています。これはあり得ないことです。少なくとも申命記の一部はモーセ以外の者が(モーセの死後)ヨルダン川の西側、カナンの地において書いたということになります。佐倉氏は自身の結論として聖書は書き換えられたとして、その理由を
聖書が信頼すべき神の権威を持つ書である、という信仰を守ろうとしたためであると考えざるを得ません。いわば、「聖書には一切の誤謬がない」という聖書信仰が、聖書に間違いがないように、聖書そのものを書き換えさせたわけです。もし、聖書がこのように、わたしたちの手に届くまでの過程において、信仰的動機に駆られて、きわめて人間的な意図で神の言葉にふさわしいように書き換えられているという事実があるとすると、わたしたちが手にする聖書を、無邪気に、「いかなる誤謬も含まない、永遠の神の言葉である」、などとは言えないことになります。聖書は、数多くの信仰者の手によって書かれ伝えられてきたものだからです。
と述べています。 佐倉氏は聖書の間違いの意味するところとして結論を
聖書の記述には多数の間違いが含まれており、聖書はいわゆる<神の言葉>ではありえない、ということです。したがって、聖書は真理の根拠にも権威にもなり得ません。
と記しています。
さて、管理人は、5月18日に弧理論の考え方は旧約聖書の「ある」に近いと記しました。 弧理論(Ark Theory)の考え方では、3次元物理空間(M軸)に直交するエネルギー軸(E軸)上にある実体が積分を伴う回転投影により、M軸上に質量mを持つ物体として現れます。
E軸上の実体が投影されることにより、M軸上に物体が位置を持ちます。 異なる表現をするとM軸、つまり宇宙において、物体はいつから、いつまで存在するかは決まらないということです。また、物体は、宇宙のどこに行こうとそこは宇宙だということです。物質で出来た私たちは宇宙の外に出るということが弧理論においてはあり得ないということです。どこかへ赴けばそこは宇宙なのです。
最も簡単にいえば、弧理論によれば宇宙は「ある」なのです。
その他の考察を交えて8月10日に新約・旧約聖書と紡錘図形・足跡は同根ではないかと記しました。
そして、図1の考え方は拙著弧電磁気論(現在の弧理論)に挙げましたとおり、G・アダムスキーにより異星人(金星人)からもたらされたという
に示される紡錘図形と
の足跡を解析することにより得た考え方です。
ここで、佐倉哲氏による「聖書の間違い」に戻ります。 聖書の成り立ちとG・アダムスキーのコンタクトをまとめると
の様になります。
- 左端に上から順に(あ)モーセが会ったという神から(え)の信者、読者。
- 真ん中が(ア)G・アダムスキーが会ったという異星人から(エ)の支持者、読者。
- それから右端は、(ア)異星人が示したとされる紡錘図形と足跡から(エ)不肖:管理人Φ、そして(オ)拙ブログをお読みいただく方となります。
(い)モーセが体験したことを記録したものが原情報で、ヘブライ語とアラム語で記されたようです。(う)それに選者(あるいは加筆者)を通して、翻訳されるとともに、2000年以上に渡り写本され印刷されることにより(え) 聖職者、信者等に届いて現在に至るわけです。
佐倉氏の検討により(う)から(え)の過程により、恣意的に選択、意訳等、あるいは書き換えが行われたと結論づけました。 当然のこと、新約聖書にも当てはまります。 キリスト教創始者はイエスではありません。 憲政史家である倉山満氏の
.
動画1 すばやく学ぼう!世界の百年 第1回
によればキリスト教を創設したのはパウロです。参考 キリスト教の創始者パウロ
図3でいえば、(う)にあたります。知られているように聖書には多くの外典があります。 先日記事にご紹介したバルナバスの福音書も偽典あるいは外典に分類されると思われます。
次に図3の真ん中、G・アダムスキーについて調べます。 G・アダムスキーは、異星人とコンタクトしたと主張し、1954年に空飛ぶ円盤実見記(Flying Saucers Have Landed)をデスモンド・レスリーとともに出版しています。 デスモンド・レスリーがカリフォルニアに住むG・アダムスキーを訪ねたときの彼の様子をジョージ・アダムスキーの思い出に細かく記しています。 一部引用します。
ジョージの欠点の一つは、報告の仕方がきわめて下手だということである。彼は目で見たままの記憶をもたないし、物事や場所の記述はかなり混乱している。これについては、かつて私と彼がいっしょに旅行したときの模様を彼が第三者に話して聞かせる際に調べたことがある。どうやら大きさ、日時、形色などは彼にさほどの印象を与えないらしい。ゆえに、たしかに彼の円盤旅行の体験記には遺憾な点が多い。だからといって彼の体験記が真実ではないというのでぽない。ただ彼は目で見える物を言葉で表現するのが困難なのだ。
図3真ん中の
- G・アダムスキーは(ア)~(イ)において、見聞きしたことを正確に記憶しない。
- G・アダムスキーは、(イ)~(ウ)に際し、しばしば聖書を引用しつつ語ることが多く、自身は宗教にしないと明言しているにもかかわらず、恐らくG・アダムスキー独自のキリスト教的なフィルターが入っている。
- 日本GAP代表久保田八郎氏は、G・アダムスキーの全面支持者である。
管理人は、UFO contacteeを通読して、G・アダムスキーが講演で「聖書を引用して語る」こと、「自身を宗教にしない」と述べていることを記憶しています。(雑誌のどの箇所か失念。)
G・アダムスキーは、自身の体験をありのままに人に伝えることが困難でした。結果、図3真ん中の(ウ)久保田氏の個性や翻訳の過程に相まって、なお一層(エ)支持者読者にG・アダムスキーの体験や真意がうまく伝わらなかった可能性が大きいです。 彼はキリスト教信者が多いアメリカ人等にわかりやすい様、多分に宗教的な話し方にならざるを得なかったと考えます。
さて、写真1と図2はG・アダムスキーによれば異星人からもたらされたといいます。図3の右端において、不肖管理人Φが弧理論の考え方により写真1と図2を解析した結果、
紡錘図形・足跡の意味は「宇宙はある」と解釈出来ると結論づけました。 これは、図3左上のモーセが会ったという神:在りて在る者とほぼ同じであると強く感じています。
すると、次の条件
- G・アダムスキーによる異星人に会ったという主張が正しい。
- 管理人Φ(nsw495kpr8)による図形の解釈が正しい。
ならば、旧約聖書、モーセが会ったという神は本当の神や未知の何かではなくて、G・アダムスキーが会ったという異星人であったろうと推測できます。
ここで、大事なのは、モーセの(あ)→(い)→(う)→(え)の過程に起きたであろう齟齬あるいは誤謬、そして、G・アダムスキーの(ア)→(イ)→(ウ)→(エ)の過程に起きたであろう誤りは、管理人Φによる図形の解釈より誤りの入る余地(回数)が少ないということです。
G・アダムスキーの支持者は多分に宗教的です。彼らは自覚が無いようですけれど、少なくとも日本人の支持者は少なからず宗教的であると管理人は感じます。
ところで、いつも引用する「ある科学者」は、ダニエル・フライによる
にあるホワイトサンズUFO搭乗事件での宇宙人アランのことです。 ダニエル・フライは、ロケットエンジンの開発製造会社で働くエンジニアでした。 本は、ニューメキシコ州ホワイサンズにあるロケット実験場での体験であって、彼は彼の体験を技術者らしく正確に記しているとの印象を受けます。
ですから、G・アダムスキーの残した資料から科学技術的なことを述べるところが何カ所か見受けられますけれど、そのほとんどが曖昧すぎて参考になりません。 一方のダニエル・フライの記録からは極めて明確な表現によって科学的な内容を読み取ることが出来ます。
佐倉哲氏は、信仰というレベルで聖書の誤りを検証しました。 管理人はそのような聖書の無謬性を求める余り、聖書をまったく無意味だと結論づけることに賛成できません。 聖書もG・アダムスキーも「ゼロか100」という極端な判断をする必要はないと考えています。 事実、久保田氏をはじめ、GAPの会員であった人たちも一様に宗教的であり、謂わばアダムスキー教とでもいう状態にあります。ある意味頑なです。 管理人による紡錘図形の解釈も同じ要因を含んでいることに変わりありません。
ゼロか100という極端な判断でなく、不完全な人間が行うことの中に、合理的な内容が含まれているならば、体験したらしいことを(ある程度)信じても良いのではないかと考えます。 なお、写真1並びに図2にはスヴァスティカ 卍図形が含まれていますので、ナチスを連想することによって生理的な拒否が起きる人々に解析は困難かと思います。
追記
弧理論の考え方とは、
G・アダムスキーによれば写真1や図2は異星人よりもたらされたといいます。異星人が持っているであろう科学を管理人Φは、弧理論(Ark Theory)と名付けています。 そして、図形の解析から彼らが持っているであろう科学(弧理論)の考え方を概ね理解したつもりです。 そして、図形をより詳しく解析する際にこの「弧理論の考え方」を使っています。 目標は我々が独力で弧理論を習得することです。従って研究が進むにつれて「弧理論の考え方」も修正していく必要があります。
ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。