日本教は、聖書の「在りて在りたる者」の「在る」に似ている

日本人の日本的なる特質を端的に言い表した日本教について、考察しましたので記します。 管理人による解釈ですので、穴や荒いところがありそうですけれどご容赦ください。

初めに、聖書における神と人間の関係を図示します。 次に日本教を図示して比較します。

 

(1) 旧約聖書において、モーセが会ったという神は、十戒を示した上で、人間と契約を交わしました。 唯一絶対の神が上で人間は下に位置するという関係を結んだことになります。

聖書における神と人間図1

左に神と人間の関係を、右図に「神と契約した人間たちが形成する集団」を示します。 左から説明します。

神が宇宙を創ったということは、神は宇宙の中に存在するとともに、宇宙の外にも存在しうることを意味しています。 モーセに会ったとき神が宇宙の中に居たということです。そして、神と人間は契約を結んだのですから、神と人間は垂直の関係にあり垂直思考になります。

ここで、自己(私)は、己と己以外を意識的に意識し自他を分けます。分けることで分かったのです。そして、分ける行為により理解することができるようになります。 ここから二元論に至ると考えられます。宇宙のすべては、例えば善と悪、天国と地獄、右と左、上と下、資本主義と共産主義など、あらゆる物事について多分岐して考えることが基本となります。 ここで、契約を交わした者には、絶対的正義が存在しうることになります。

図1右図について、神と契約した者が集団を形成します。(破線で囲った部分) 分けることを基本とする行為によって理解し、文化文明の発達が顕著になるだろうと推測できます。 この点は”功”なのですが、”罪”もでてきます。

彼ら宗教者にある正義は、限定的なモノになります。 つまり、神との契約により持ちうる倫理、道徳は同一宗教である集団にしか適用されません。 他宗教を信じる者や他人種他民族の者たちを排除・攻撃します。 または同宗教に改宗するよう勧めるでしょう。(目的は侵略と簒奪です。) ですから宗教集団から見る外界(自然)は、克服すべき対象となります。

他人が何を考えているかどうか心の内を確かめることは出来ませんので、同じ宗教集団を構成する者の中に造反者が居ないかどうか疑心をもつことになります。やがて集団内での派閥争いが生じ、粛正や魔女狩りということが発生します。

そもそも思考が垂直ですし、自然は克服すべきと考えますので指導的立場の人間は、自らを神に置き換えうると考える様になります。 ここで神と悪魔の反転が生じます。 過去記事、聖書の中で、何故これほどまでに人を殺すのか?聖書における正義において、神は280万人も殺人を犯し、悪魔は10人でした。聖書で語られた「正義」という語の数と相関があります。  悪魔は堕落した天使だという発想はこのあたりからくるのでしょうか。 正義を声高かに叫ぶ者ほど人殺しをします。

人口削減について、ズビグニュー・ブレジンスキーは

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動画1

発癌ワクチンや、フェミニズム(コミュニティ単位である家族破壊)など人を煽動(マインドコントロール)するなどして人口を抑制する面倒なことなど必要ないと断言しています。

図1における管理人の最大の疑問は、次の通りです。

神が宇宙を創ったならば、神は宇宙の外に存在しうることになります。では、神によって創られた私たち人間が宇宙の外を思考できるということの証明が必要です。

 

宇宙物理学では、宇宙の始まりがあると論じられます。その際の物理学者の視点は明らかに宇宙の外です。数学などの(思考)道具が宇宙の外を記述するに使えるかどうかの最初の証明はどこにあるのでしょうか。

西欧文明がどこか胡散臭く、傲慢で誤魔化しを感じるのは、この点を起点としてるのではないかと感じます。 この点において、聖書に終末論があるのは理解できます。当初から矛盾を抱えて破綻すると理解できます。

 

(2) 山本七平の造語である日本教について、調べたことをまとめると

日本教図2

のようになります。 基本的に日本人は、八百万の神に囲まれて暮らす水平思考です。すべてが並列に存在すると考えます。 この考え方では、あらゆる物事が相対的です。 正義も時と場合によることをほとんど本能的に知っています。

すべてが並列に存在するということは、何でもありということです。分け隔てなく何でも取り込むことができます。 故に小室直樹氏いわく、「(日本教たる日本人は)何者にもなり得ない」とのべています。 ただ、管理人はどうしても受け付けないモノがあると思います。

自分が嫌になり自死を考えたとき、「この世が嫌になった」=「嫌なこの世なんか無くなればよい」と思考します。第3者から見れば単に自死に見えます。 言い換えれば、この世(宇宙)は自己の鏡であるといえます。 並列に存在し、自己の鏡であるという考え方は、人間中心であるといえます。

ということは、神も仏も人間の都合によるということです。日本教の人は信じたいモノを信じます。 鰯の頭も信心からということです。

自己を取り巻く集団は、神と契約をしたわけではありませんので、緩くなります。 そのような集団内では、村八分や外敵からの自衛はありますが、簒奪のための侵略や民族浄化という粛正はありません。日本人は自国民による大虐殺を経験したことがないようです。

そのような緩い集団では、突出した意見を述べるのを憚られ、所謂空気が全体を支配します。知られているように誰も責任をとりません。 実情が事実としてとおり、本当のことを言うと嫌われます。

自己と他を明確に区別しないのですから、文明の萌芽が遅れるように思えます。どちらかというと多くのモノがまぜまぜという感じです。

善くも悪くもある日本教ですけれど、穏当な部分は魅力的です。ただ、長い歴史の中で、次第に日本人から日本的なるモノが薄れてきていることは事実です。

管理人は次のことを疑問に思います。

  1. 図1の状況で、日本人が何故勤勉たり得るのか?
  2. 日本人が、どのように倫理、道徳を身につけることができたのか?
  3. 奴隷制との関連(島国において外敵からの侵略はないが)

1.について、小さな島国故に、集団生活を維持するためには、皆で平等に働かざるを得なかったのでは、と推測します。大陸では、他民族から収奪することで生活が維持できます。

2.について、小集団におけるルール(空気)により礼儀(本音と建て前)を使い分けることが倫理、道徳に繋がったか? 十七条憲法で明文化されることで意識化されたのだろうか?

3.について、小さな島国だから、外国からの侵略はなかったけれど、日本にも奴隷制があったようだ。

 

以上をまとめますと、宇宙の存在のすべてを並列に考える日本人は、弊害はあるにしても社会的に安定感があります。すべてをあるがままに、その存在を認めることは、善いことだと感じます

余談です。昔、ある施設に

inuyar102写真1

犬矢来(いぬやらい)が寄付されました。京都の町並みに見かける竹細工の装飾です。 ホールの隅に設置された犬矢来は、写真1のものより小ぶりで、置かれた当初は綺麗な緑色でした。

やがて何年か経って

inuyarai205写真2

の様に、竹の緑が抜けてきます。 施設長が、せっかくの色が抜けてしっては残念なので、綺麗な色を保つにはどうしたらよいかという事を専門家に問うたところ、「犬矢来は、色の風情を楽しむモノ。そのような考えは無粋。」と言われたそうです。

 

さて、

モーセが会った神は、自らを「在りて在りたる者」と言いました。 ところがこのように検討してみると在りて在りたる者の「在る」は、どう見ても日本教に似ていることに気付きます。

 

ここ何ヶ月か、紡錘図形の解釈と聖書の比較、日本的なるモノの象徴である日本教について調べてきました。 かなり、大雑把でぐだぐだですけれど、ようやく、結論に近づいてきました。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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