先般、「弧理論によるE=mc^2の解釈と物体の運動」という記事を書きましたけれど、もう少し細かく見てみます。
いつも引用するある科学者は次のように述べています。
あなたがたの科学の急速な進歩に対する根本的な障害の一つは、科学者たちが物質とエネルギーの簡単な同一性をまだ充分に把握していない点にあります。地球の最大の思索家の一人であるアルバート・アインシュタイン教授は、ずっと以前に物質とエネルギーの同一性を量的にあらわした数式を発表しました。この式は数学的には全く正しいのだけれども、誤った結論に達しています。つまり物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなると言っていますが、実際は物質もエネルギーも一つの実体の異なる面にすぎないのです。(下線は管理人による)
One of the principal obstacles to the rapid progress of your science is that your scientists have not yet fully grasped the simple unity of matter and energy. One of your greatest thinkers, a professor, Albert Einstein, published, many years ago, the mathematical formula which described quantitatively the equivalence of matter and energy. This formula, while perfectly correct mathematically, leads to the incorrect conclusion, that matter is convertible into energy and vice versa. The truth is that matter and energy are merely different aspects of the same entity.
エネルギーとは、wikiによれば
「物体が仕事をなし得る能力」を意味したが、その後、自然科学の説明体系が変化し、熱・光・電磁気もエネルギーを持つことが知られるようになり、さらに、質量までがエネルギーの一形態である、と理解されるようになった。(下線は管理人による)
とされています。
物理学では、エネルギーの次元は[ML^2T^(-2)]です。 Mは質量です。Lは長さ(距離)ですからL^2は面積です。 Tは時間ですから、T^(-2)は「毎秒毎秒」でして、単位時間毎(速度)の変化、つまりは加速度です。
物理学でいうエネルギーを読み下すならば、wikiにあるように物体が仕事をなし得る能力、つまり質量mの物体が単位面積あたりに仕事(単位時間毎の変化)をなし得る能力と理解できます。
例えば引力のある地上で
図1 こちらから拝借
水の入ったバケツを持って立たされた場合において、その努力感があってもバケツに仕事をなした訳ではありません。ただ立っているだけでは、人が仕事をしたことになりません。 引力があろうとなかろうとバケツを動かそうとする時(加速時)と静止させようとするとき(減速時)に物理学で定義されたエネルギーが存在すると考える訳です。
様々な形態のエネルギーが存在するのですが、物理学で定義されるエネルギーを一言でいうと、「物体を動かす能力」であって、エネルギーとは運動そのものを示しています。
冒頭のある科学者の言葉、「物質もエネルギーも一つの実体の異なる面にすぎない」は、次のように理解できます。
いま、我々のいる3次元物理空間を一次元のM軸とします。M軸に直交するE軸を考えると、E-M軸平面上に実体が存在します。 実体が持つ値 E2を真のエネルギーとします。実体が持つ真のエネルギー値E2がM軸に投影されることにより質量mを持つ物体が位置を伴って現れます。
次いで、物体が運動する場合を考えます。
物体が運動するとき、実体がM軸に投影される角度θが変化すると考えます。そして投影されることによりM軸にできる線分が物体が持つ運動となります。このときの運動をPとします。(注:この運動Pは時間[T]を含みません。)
そして、ある科学者の言うエネルギーとは図3の実体が持つE2あるいはE’を示していることに気付きます。そして、物理学で定義されたエネルギーは運動Pであるということになります。 同じエネルギーという言葉を用いていますけれど、全く異なるモノだということです。 驚くことに、運動Pする物体は静止時より真のエネルギー値より低くなるのです。真のエネルギー値の変化をΔEとすると、
ΔE=E2-E’
であって、ΔEが物体の運動Pとして現れるということになります。 物理学でいうエネルギーとは実体が持つΔEが運動Pとして現れたモノです。
ある科学者は用いる言葉の定義を意図的に明示していないということになります。何故なら我々が自ら学ぶべきことだからです。
管理人自身、この違いを明示的に意識するのにとても時間が必要でした。
ここで、物理学でのエネルギー[ML^2T^(-2)]の話に戻ります。
数学者岡潔は、講演で自然科学は間違っていると述べました。 特に【2】自然科学者の時間空間において、次のように述べています。
自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。
時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。
人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。
時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。
が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。(下線は管理人による)
箇条書きにすると、自然科学者は
- 時間を表そうとすると運動を使う。
- 運動は時間に比例して起きると決めてかかっている。
- そういう時間が在ると思っている。
- そういう時間というものはわかると思っている。
さらに岡潔は言う。
- 人は時の中に住んでいる。
- 時には現在、過去、未来がある。
- 時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。
- 時の過去の属性の一つの性質を取り出して、観念化したものが時間である。
岡潔の言葉を管理人がまとめた結果
- 運動は時間から求め、時間は運動から求めている。
- 運動は時間に比例して起きると確認した科学者はいない。
- 時間とは、過ぎ行く運動の記憶、あるいは記録である。
- 従って計測した時間を現在、未来に適用できるかどうか別物である。
となりました。 特に、1番目と3番目は重要です。
私たちは動き回ることにより時の経過を感じます。 その中で時間の実在を疑いません。 しかし、岡潔の言葉を切っ掛けによく考えてみますと、時間なるモノは実在せず、動きしか存在しないことに気付きます。 図3の運動Pの記憶、あるいは記録を時間だと思い込んでいるに過ぎないのです。 ですから、1番目に示した様に、運動は時間から求め、時間は運動から求めているのです。 直接わかるものではありません。
実在しない時間を基本物理量とする物理学とは何なのでしょうか。
ここで、
E=mc^2
について考えます。左辺の次元は、[ML^2T^(-2)]です。右辺は、質量Mと光速度cの二乗です。cは光の速度ですから、次元は[LT^(-1)]です。 両辺の次元に時間[T]が入っています。
突き詰めて考えると上式は、両辺とも「運動」を記述しているに過ぎません。 何かが変だと感じます。その原因は、恐らく考察の結果である上記の1番目にあると思います。
時間が本当に実在するならば、基本物理量として扱うならば、時間を直接に実験で求めるべきです。
時間・エネルギー・お金に関する過去記事がありますので、右検索欄を使って記事をお読みいただけるとありがたいです。 ただし、同じ題材でも過去記事ほどあいまい・誤りを含みますので、ご了解ください。
追記、 物理学が運動Pの時間変化分をエネルギーと定義している以上、その合算値は常に保存するのは、当然のことのように思えます。
ブログランキングの応援と広告のクリックをお願いします。