先日の記事、日月神示 神一厘の仕組み その概要(「ス」のミタマ と アダムスキーの紡錘図形は同じである)において、ご紹介した幾つかの宇宙観・宇宙哲学は、それぞれの出どころは異なりますが、全部同じ内容について異なる表現をしたもののようです。 今回は、聖書と現代の宇宙論を加えて考察します。 先日のまとめを再掲の上で話を進めます。
(1) ヲシテ文献の研究者である池田満氏によれば縄文哲学における魂とは、
目次
- 魂 (タマ+シイ) タマ=大宇宙の中心にある宇宙の根源から来る”心の主体”
- シイ=”欲しい、欲しい”の“シイ”であって、強いるの”シイ”、つまり、生命維持の欲求
- 魂(タマシイ)に地球の物質が集まって人体になる。命が終わると「タマ」は大宇宙の中心に帰って行き、「シイ」は地球に残る。
- 宇宙の意識(因)から「肉体の心=センスマインド(5つの感覚器官の心)」 と 「意識=ソウルマインド=(触覚:feel)」ができる。 意識=ソウルマインド
- 丸の中に点がある。 丸のことを”とくさのかんだから”(十種神宝)と呼ぶ。 丸が結果であり、真ん中の点が原因である。 現在は、丸の中に点がない状態である。 点を入れることが一厘の仕組みであるとされます。
- 「在る」わけですから、「何時から何時まで」と「場所(どこに)」を特定していません。
- 「何時から何時まで」、「何処に」が示されていない。「時間と場所が特定されていない」ということです。 つまり、「無始無終」かつ「無辺」だということです。
魂 (タマ+シイ) タマ=大宇宙の中心にある宇宙の根源から来る”心の主体”
シイ=”欲しい、欲しい”の“シイ”であって、強いるの”シイ”、つまり、生命維持の欲求
魂(タマシイ)に地球の物質が集まって人体になる。命が終わると「タマ」は大宇宙の中心に帰って行き、「シイ」は地球に残る。
出処は、池田満氏によれば古代日本、縄文文明です。
(2) G・アダムスキーによる宇宙哲学(テレパシー)では、人の成り立ちとして
宇宙の意識(因)から「肉体の心=センスマインド(5つの感覚器官の心)」 と 「意識=ソウルマインド=(触覚:feel)」ができる。 意識=ソウルマインド
とされます。 出処は、G・アダムスキーによれば異星人とされます。
池田満氏の縄文哲学における魂(タマシイ)とG・アダムスキーによる宇宙哲学での宇宙の意識(因)による2つのマインドは、ほぼ等しいと認められます。
タマ が 宇宙の(因)からくるソウルマインド(意識)
シイ が センスマインド(感覚器官の心) に対応します。
宇宙哲学を池田満氏の言葉に置き換えるならば、「宇宙の意識(因)からくるソウルマインドとセンスマインドが結びつくことで魂(タマシイ)となる。これに地球の物質が集まって人体になる」というのです。
(3) 日月神示では、
の左、「ス」の神様について、「ス」の音は、根本であって、これが根源神とされます。略すと図1右のようになり、
丸の中に点がある。 丸のことを”とくさのかんだから”(十種神宝)と呼ぶ。 丸が結果であり、真ん中の点が原因である。 現在は、丸の中に点がない状態である。 点を入れることが一厘の仕組みであるとされます。
出処は、岡本天明によれば、国常立尊とされます。
(4) 弧理論の考え方による宇宙は、
「物質はエネルギーに転換するし、その逆にもなるというが、本当は物質もエネルギーも一つの実体の異なる側面でである。」との観点から、
図2
E軸上の実体は、真のエネルギーを持ち、M軸に投影されることによって位置を伴う質量を持つ物体となります。
我々には不可視なE軸上の実体が(原因)で、M軸上にある物体が(結果)であるということです。
出処は、ダニエル・フライによれば異星人とされます。
(5) 旧約聖書に出てくる神は、モーセに問われて自身のことを「在りて在りたる者」と応えました。 過去記事において、旧約聖書の神「在りて在りたる者」の「在る」は、日本教に似ていると記しました。
「在る」わけですから、「何時から何時まで」と「場所(どこに)」を特定していません。
出処は、モーセによればヤハウェ(YHVH、YHWH、JHVH、JHWH、IHVH) だとされます。
まとめ、
(1)~(5)において、出処はそれぞれ古代日本であったり、神であったり、あるいは異星人であるなどの違いはありますが、共通するのは
「何時から何時まで」、「何処に」が示されていない。「時間と場所が特定されていない」ということです。 つまり、「無始無終」かつ「無辺」だということです。
ただし、(1)(2)(3)(5)は、哲学的な内容ですけれど、(4)弧理論の考え方は物理現象を記述するためのモデルです。 自然科学というモデルは空間の他に「時間」を織り込んでるのが問題です。 問題のある自然科学を他との整合がとれた弧理論に置き換えようという目論みです。
(6) 現代、宇宙物理学において、宇宙はビッグバンによるとされます。
何処にあるか分からぬ宇宙の入れ物の中で宇宙は、点から始まり加速度的に膨張を続け、半径130億光年くらいの大きさだとされます。
極小の現象を記述する量子理論による素粒子物理学と、極大の現象を説明するとされる相対論は頗る相性が悪くて、2つをムリに結合したのがビッグバン理論です。
そこで、思い出すのが古代インドにおける宇宙観です。
(7)
半球の大地を数頭の象が支え、象を巨大な亀が支えています。全部をさらに巨大な蛇が支えているのですけれど、巨大な蛇は自身を支える仕組みを完結するために、やむなく自らの尻尾をくわえています。
現代から見ると、滑稽の一語になりますけれど、「何処に」を完結しようとする思想においては、(6)と何ら変わるところはありません。 むしろ(6)の方が「何時から何時まで」という拘りがある分、始末が悪いです。
(7)の考え方を(6)に適用すると次のようになりそうです。
現代の宇宙論では、より大きな入れ物(時空間を含む超宇宙?)に宇宙が存在すると説明するのですから、超宇宙を説明するために、さらに次元の高い超・超宇宙という入れ物が必要になります。ついでに多元宇宙の存在も認めてしまいます。
そして、超・超・超・宇宙は何処に入れるかを完結するために、やむなく自らの宇宙の中に組み込んでしまいます。 もう笑えません。
こう考えていきますと、聖書の神も日月神示の神も、すべてが、地球外の人々による支援だという気がしてきます。そして、地球に残り続ける貴重な哲学が縄文哲学であるならば、歴史に埋もれた骨(縄文哲学)にこそ地球の未来があるという気がします。日本人の内にある日本的なるものに希望を持ってよいと思います。 ただし、G・アダムスキーによれば呪術と同類と考えられる鎮魂帰神法・審神者(さにわ)などは、決して認めないと思います。
数学者岡潔は講演において、自然科学は最終的には五感でわかる必要があると述べています。
物質は、途中はいろいろ工夫してもよろしい。たとえば赤外線写真に撮るとか、たとえば電子顕微鏡で見るとか、そういう工夫をしても良い。しかし、最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない。こう思ってます。
それじゃあ、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。
五感でわからないものはないというのは、既に原始人的無知です。しかも、自分がそう仮定してるということにさえ気付かない。それについて考えるということができないというのは、実にひどい無知という外はありません。そう感じます。 (下線は管理人による)
モーセは神と契約しました。自他を分けて、自らが他と契約をする行為により、「分ける」=「分かる:理解する」ことが進むようになりました。同時に法を持つ社会を創る礎ができました。自他を分けて契約することが宇宙を理解する手助けになったことは事実です。しかし、同時に「己が神と契約した」という選民意識から「自然を所有・管理する」という傲慢さがうまれ、やがては自らを神の位置に置く人が現れたのです。
分ける行為が「理解する」の基本としか分からない人が到達するのが素粒子です。素となる粒子が何百とあることを許容して自己を省みることのない人は、岡潔が言うように原始人的無知であるといえます。
(1)から(5)は、ずべて物質に原因を求めることの愚かさに気付けと伝えています。 いつも例える万華鏡に似ています。万華鏡の構造を知っていれば当たり前ですが、知らねば複雑な仕組みを想像してしまいます。
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動画1 これ!ほんとに凄いきれいです。
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