なぜ、大本神諭と日月神示に興味を持ったかについて、記します。
G・アダムスキーによれば、「ブードゥー教とコックリさんはやってはいけない」とのことです。 G・アダムスキーの宇宙哲学とテレパシーに深く影響を受けながら長らくG・アダムスキーから離れていたのは、幾つか受け入れられないことがあったからです。 その一つがブードゥー教、呪術を否定しているからでした。そもそも呪術が存在しない「無」であるならば、わざわざ否定する必要はないはずです。
最近になって、人の精神活動の原理はG・アダムスキーによるテレパシーであって、それには呪術やオカルトも含んでいるのではないかと思うようになりました。 しかし、G・アダムスキーの宇宙哲学を学ぶ人に「テレパシーも呪術も同じでチャンネルが異なるだけだ」と説明したら混乱することは必至です。 だから、ただ「やってはいけない」とのみ説明したのだろうと理解しました。
信者の方々とっては、大本神諭は100パーセントなのは当然ですけれど、一般の人にとっては興味ありませんし、どうでもよいことです。管理人にとってもこれまで興味ありませんでした。
しかし、同じ原理でチャンネルが異なるだけだとするならば、話は別です。 多くの教義教典の内には、某かの真実が含まれていてもおかしくはありません。(信仰をお持ちの方には失礼ながら。)
つまり、管理人にとってG・アダムスキーによる宇宙哲学は100ではないし(※1)、大本神諭や派生した日月神示もゼロではないし、100でもないということです。
知られていますように、大本は何百万人の信者を獲得し、戦前、2回の大弾圧を受けています。ですから、神諭や神示の核心部分に「ゼロではなくて、何かがあるのではないか」、というのが興味を持つ切っ掛けだといえます。
G・アダムスキーは「彼自身を信仰の対象にしてはいけない」という意味のことを述べたと、どこかで読んだ記憶があります。日本には現在も尚、G・アダムスキーによる宇宙哲学を学び続ける人たちがいます。はっきり言いますと、彼らはG・アダムスキーのことを丸呑みしていて、端から見ると「信仰」を持つ「信者」に見えます。G・アダムスキーが「いけない」と述べたことを真面目が故に、「やっている」としか思えないのです。
G・アダムスキーのことから何となく何十年も離れていました。離れていた頃に、大本神諭や日月神示に決して興味を持たなかったのは当然でした。
※1 G・アダムスキーによる宇宙哲学が100でないのは、理解不足によるものと思います。 例えば、テレパシー、つまり想念の送受は、動植物は言うに及ばず、石ころやはたまた原子一つに至るまで、その能力(機能?)があるとされます。 これが当時も今も実感できないのです。
しかしならが、最近、G・アダムスキーが残した紡錘図形の解釈である弧理論の考え方から、ある程度理屈が成り立ちそうです。 弧理論の考え方とは、
に示すものです。
E-M軸平面において、実体が投影されることにより物体が質量と位置をもって現れます。時間[T]を含まない真のエネルギーを別の次元軸とするのが弧理論の骨子です。 つまり、宇宙を(X,Y,Z,E)の4次元と考えるのです。このエネルギー軸(E軸)の値を真のエネルギーと呼びます。 なお、弧理論において時間[T]は存在しません。運動Pのみが存在します。時間とは、過ぎ行く運動の記憶に過ぎません。
で、一般に情報を記録、あるいは記憶するに僅かながらも必ずエネルギーが必要です。HDDの盤面のトラック・セクターの該当する位置に強磁性体のヒステリシスを利用して記録します。どれだけ磁性体を小さな区分にしたところで、必ずエネルギーが必要です。
この考えを図1に当てはめると、投影されることにより現れた、「原子(陽子、中性子、電子)は、E軸上の実体が持つ真のエネルギー値を以て、あらゆる自らの位置と運動Pによる変化並びに全ての原子の配置を記録、あるいは記憶できる」かも知れないと考えられます。 つまり、E軸上の実体は、宇宙の全物質にかかるすべての記憶を持ちうる究極の記憶装置だと考えることができるということです。
スピリチュアルでは、これをアカシックレコードというらしいです。 ですが、管理人はこのような手垢の付いた言葉を用いることは好みません。 過去記事にあるエリートキツネと闘牛士も考えようによっては、カルマ(業)というのかも知れませんが、簡単にそういう言葉に置き換えるのは躊躇します。
結論として、物質の基本である陽子・中性子・電子が自ら、記憶装置を持っているならば、これらで構成されている人も石も皆同じ能力(機能?)があってもおかしくないようです。
話は、逸れます。
いつも引用するある科学者は、物質科学、精神科学、社会科学について次のように述べています。
宇宙における科学のすべて、真実の探求と理解の追求のすべては、この三つの分野の中に入るんだ。もちろん、この三つの分野の間には明確な分離線は引けな い。お互いにラップしているからだが、しかし、それらを支配する基本的な法則は全く同じものなんだ。宇宙において文明が完全にしかも成功して発展するなら ば、進歩のこの三つの支流に同程度の努力と勤勉さがなされなければならない。しかしながら、まず精神科学と社会科学が出てくる。その二つの基礎がなければ 物質科学の発達はありえないんだ。 (下線は管理人による)
道理で、G・アダムスキーが残した紡錘図形を解釈していくと、精神的なこと、哲学的なことなどが出てくる訳です。3つの科学には明確な仕切りが無いのならば、順を追って理解していくしかありません。 今のところ、物質科学である弧理論の考え方を追っていくと、
- G・アダムスキーによる(因とマインド)はもちろんのこと、
- 縄文哲学の魂(タマ+シイ)や、
- 聖書の「在りて在りたる者」が出てくる(相関がある)、さらには
- 日月神示の○(結果)とゝ(原因)
などが出てくるとうことに戸惑いを持っています。 ある科学者が言うように「まず、精神科学と社会科学が出てくる。」とのことです。 管理人は、紡錘図形を解析することによって、物質科学を追い求めているにもかかわらず、精神科学が出てくるということに非常な驚きを覚えています。 きっと社会科学は、古の日本の文明に在ると直観的に分かります。 大事なことは、
「まず精神科学と社会科学が出てくる。その二つの基礎がなければ 物質科学の発達はありえない」
ということです。ある科学者がダニエル・フライに、精神科学と社会科学の基礎が必要だと述べたにもかかわらず、何故、物質科学的な内容を伝えたのかが最大の疑問でした。
何のことはありません。我々の持つ物質科学は、彼らの科学から見たら原始人レベルだったというオチでした。
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観測できるから物質科学なんではないでしょうか。
変わらないもの、変わるものを知る学問です。
朝起きて、大気の組成が変わっていることはなく、水素原子は水素原子であり続けます。
これが奇跡だと理解したのは最近です。「世界を構成するやさしさ」が全てを支えているのだ、と。
アダムスキー教は興味ないので、彼らの用語は使いませんが。
そうですね。時間[T]を含まないエネルギーとは何なんでしょうか?ダニエル・フライがいなければ、このような考えに至ることはなかったと思います。
紡錘図形がまさか、宇宙(右マンジは原子模型)を示すとともに私たちの精神活動についても示しているらしいということが私にとっての衝撃です。
アランは「まず精神科学と社会科学がでてくる」と述べていることに、昨日気付きました。物質科学としての紡錘図形を追ってきたのに!本当に困惑しています。どうしようか思案中です。
>世界を構成するやさしさ
同感です。「神が宇宙を創ったなら、なぜ悪魔が存在するのか。なぜ不完全なのか」という問答は意地悪にすぎません。モーセが会ったという者は自ら神と名乗ったのでしょうか?どうも全てが織り込み済みだったように思えます。【我々は「在る」ものを経験させてもらっているということ】を「やさしさ」と表現されるのは至極妥当だと思います。飼い主の居ない「エリートキツネ」たる地球の支配者は、自ら悔い改める時期にきているように思います。彼らもお金:通貨と時間というものの限界を知っているでしょうに。