随分昔のこと、どこかで読んだお話です。確か日本人が書いたと記憶していますが、未だに引っかかっています。曖昧ですが記します。
自然科学分野の研究者であるA氏(天文学だったか、物理学だったか?)は、平日は研究に取り組んでいます。 A氏は敬虔なクリスチャンで信仰を持っています。日曜日になると家族とともに教会へ礼拝に出かけ、神に祈りを捧げます。 神が宇宙を創ったと信じるA氏ですが、仕事として取り組む研究対象が宇宙のことなのですから奇妙なことです。
一般に研究とは、研究対象を客観視せねばなりません。研究にあたるA氏の頭の中において、彼自身を宇宙の外に置いているはずです。しかし、同時に彼は宇宙を神が創ったと信じています。 彼自身も神が創ったということを彼自身が受け入れているのですから何かが変なのです。
話の書き手である作者は、A氏の存在に何か分裂的なものを見て、奇妙だという意味のことを書いていた記憶があります。 管理人自身、何かを考えるとき常に”分析的”です。分けることにより分かるということは、紛れもない事実です。 しかしながら、宇宙について考えるときは、どうも分析的手法が通じないように思えるのです。 そこで、「神が宇宙を創った」という前提で、そのメリット・デメリットについて考えます。
「神が宇宙を創った」とするとき、2つの場合が考えられますので検討します。他の場合があるのかどうか見当つきません。
の(1)において、神は、神の内に宇宙を創ったと想定します。神(イ)は、宇宙(ア)と(ウ)の領域になります。 図1(1) 宇宙の森羅万象は、神の表れであり、八百万の神、極端に言えば「全部一緒」です。ただ、我々には(ウ)の領域について、知り得ることはありません。
次に、右の(2)において、神(イ)は外に宇宙(ア)を創ったと想定します。 図1(2) 宇宙(ア)の全ては、神(イ)が創ったのであり、現象の中に神をみることは、ほとんどないと思われます。ただ歴史上の偉人たちは、彼らの研究に神をみていたようです。(科学者と信仰を参照) ただし、一般の信仰とは異なるように思います。科学者は、最大限の努力の末に神を褒め称えているのであって、単に救済を求めるものではありません。
それぞれの場合のメリット・デメリットについて。 (1)は「何でもあり」で至極都合がよいです。どこか日本的なものを感じます。
(2)について、メリットから。
- 自己と他を「分ける」ことによって、「分かる」理解が進む。
- 神との「契約」という行為により、「法」の概念が根付く。
- 契約により、倫理・道徳が行われる。
自然・宇宙を理解しようとする行動は、太古からあるでしょうが、「分ける」ことにより、合理的に理解しようとする基本的な行動原理が明確になります。そして、同じ神を信仰する者同士の間で「憲法・法律」あるいは商いなどによる「契約」行為の習慣が根付くと考えられます。さらに、同じ神を信仰する者同士において、倫理・道徳などが行われ社会に秩序がもたらされます。
ただし、これら整然と秩序だった社会は、未だ完成していないことは周知のことです。
(2)について、デメリットです。
- 神と契約したという選民の意識が潜在的にある。
- 同じ神と契約した者の間のみ、商いなどによる「契約行為」が履行される。
- 同じ神と契約した者の間のみ、「法」による取り決めが履行される。
- 神との契約があるから、倫理・道徳が保たれる。
- 神から宇宙・自然に対しての信託を受けたと解釈して、自然に対して破壊・簒奪の自由があると解釈する。
- 極端な場合、己が神に等しいと解釈して行動する。
随分と荒い考察なのですが、どこか分裂的で傲慢であることは納得できます。 しかしながら、図1の(1)において、(ウ)の領域は、我々の与り知り得ないことですから、結局は宇宙に対する我々の側の姿勢の問題だということです。
図1の(1)だとしますと、理解の進捗度合いは比較的に遅いだろうと予想されますし、社会学者である小室直樹の言うとおり「何者にもなり得ない」日本人という特徴が出てくるのではないかと考えます。
図1の(2)だとしますと、理解の進捗度合いは速いと思われますが、分析的であると同時に分裂的になるという自己矛盾を抱えているように感じます。これが冒頭ご紹介した自然科学者A氏のお話に感じる違和感なのだろうと思います。
分析的(分裂的)にある自分と、統合感のある宇宙(図1の1)の間にせめぎ合いを抱えているのが現代の日本人なのではないだろうか、というのが結論めいた答えです。
ただ、日本的なるものは、天(アマ)と神(カミ)なのであって、西洋的な「神」とは異なるのかも知れません。 それでも尚、日本人の日本的なるものとして現れる倫理観と道徳の高さはいずれから生じているのだろうか疑問です。(ご承知のとおり、日本的なるものは絶滅の危機に瀕しています。)
これまでご紹介したとおり、
- G・アダムスキーによる宇宙哲学(因+マインド)
- 弧理論の考え方(E軸上の実体を原因とし、M軸に投影された物体を結果とする)
- 日月神示(原因である”ゝ”と結果である”○”)
- ホツマツタヱ:縄文哲学による魂(タマ+シイ)
- 「在りて在りたる者」との相関
の5つは、いずれも無始無終であるとともに無辺である点において、同一と考えてよいようです。これら5つは、いずれも宇宙の外という概念を含んでいません。
ただし、2.弧理論の考え方は、物理現象を説明するためのモデルです。他の4つ(哲学的産物)とは根本的に異なります。 どう折り合いを付けるのかが大きな問題です。
宇宙の構造を示す「弧理論の考え方」に、我々の精神活動をどのように組み込むかが問題です。言い換えるならば、
宇宙と我(ワレ)の統合はあり得るのでしょうか?
追記 どうも、図1(2)の特徴を考えていますと、
図2 こちらから拝借
西遊記の孫悟空が頭にはめている輪を思い出します。この輪は、『緊箍児(きんこじ)』というようです。 「神との契約」によってかろうじて「人」であるとも読めます。 万が一契約が解除・無効となった場合、彼らはどうなってしまうのか考え込んでしまいます。 何故なら、上記1.~5.の情報の来歴は、異星人だと考えられるからです。(4.を除く)
図3 こちらから拝借 3つの宗教で55.8%です。
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kodenjiki氏の知見と創造力には圧倒されます。人間のこの様な能力に接しますと、神の無い時代に自然を理解するのと人心の平和を願う心により知見と創造力に長けている人が神を創造したと禁じ得ません。
人間が神を創造したのです、後に続く人たちが、それを更に進化させていったのだと思います、だから人の立場により矛盾があったりするのでしょう。
アダムスキー氏の宇宙哲学も、氏の創造力の賜物です。能力ある人間の創造力には平伏すばかりです。
私は、宇宙そのものが神だと思います、自然を観察することが神の神秘を理解することと信じます。kodenjiki氏のブログを長く読ませていただきこの考えにたどり着きました。
ありがとうございます。言われる通りだと思います。人の側の事情による「哲学」だと思います。
物理現象の一つであるファラデーの単極誘導について、G・アダムスキーが残した紡錘図形を元に解析を進めてきた結果(途中で)、5つ【1.因とマインド 2.E軸M軸平面 3.日月神示のゝと○ 4.縄文哲学の魂(タマ+シイ)5.聖書の「在りて在りたる者」】の基本が同じだと気付きました。「神を考えることによる宇宙の外」に(今のところ)意味を見いだせません。弊害が目立ちます。5つとも宇宙の外という概念を含んでいません。「宇宙の外」という概念を導入したのは5.の関係者だけです。
大事なのは、5つの内、1.と2.の情報が異星人かららしいということです。
>私は、宇宙そのものが神だと思います、自然を観察することが神の神秘を理解することと信じます。
私もそう信じています。宗教にしてしまうと思考停止します。自分なりに行き着くところまで行ってそこで何かを感じれば、それが信仰なのかも知れません。縄文時代に日本的なるモノの核心があるように思います。もし3つの宗教がリセットされるならば、その人たちが目指すべきは「日本的なるモノ」の内にあるような気がします。
見えざるピンクのユニコーン、空飛ぶスパゲッティ・モンスター、最近ではベーコン教というのもあります。どれも宗教圏での無宗教・無神論に関する問題から生まれています。あるいは強化され続ける主張に対する人々の反応というか。
>宗教圏での無宗教・無神論に関する問題
個人の自由ですけれど、既存の宗教に失望・反感を持つ人が「鰯の頭」に行くのではないかと。
これまで、仏(ttps://ja.wikipedia.org/wiki/仏の一覧)について、調べませんでしたけれど、どうも神/仏は、人間の側の事情だという気がします。日本教に似ています。つまり、哲学です。「自己に重きを置くのが仏で、他に置くのが神」とでもいえそうです。仏は覚者とでもいう方で、神と違い宇宙の内外(うちそと)という概念がないように思います。不都合なことの責任を神(自己以外)に押しつけやすそうです。神と契約したと思っている人たちにとって、神より信託を受けた(と思っている)のだから、自然に対して「何をしてもよい」と傲慢になるのと反対です。自他を「分ける」ことのデメリットは、このあたりにありそうです。
宗教は舞台装置や宇宙の仕組みの記述に見えます。私にはIDIC(Infinite Diversity in Infinite Combinations)の方がわかりやすいです。
自然に対して「何かできているのか」 何かする度にエネルギーロスが生じます。でもそれはエネルギーと言えるのか。なぜ反動推進型の装置しかないのか。
原子力発電だってお湯を沸かしてタービン回しているだけです。少ない燃料で膨大なエネルギーを出すという発想に問題があるのでしょう。開放系の保存則を考えると、燃料というのが間違いです。
循環路には同じエネルギーが状態を変えながら流れていると考えるのが妥当と思います。取り込み口は状態Aの、吐き出し口には状態Bがそれぞれ必要とされる構成にする。エネルギーは状態が変わっていくので、特定方向に別の作用を及ぼす。今のイメージを言葉にするとこんな感じです。
そういえば井出氏の論文も非線形起電力でしたね。モノリスの比率1:4:9のように簡易モデル化できるのかもしれません。
Star Trekですか。面白いですね。2k(4k?) BasicによるStar Trek Gameを思い出します。イスカンダルのトーフ屋も思い出します。ttp://beta-reduction.blogspot.com/2013/12/blog-post.html ←こちらは現在のもののようです。 懐かしいです。
>開放系の保存則を考えると、燃料というのが間違いです。
同感です。 ただ、おっしゃるイメージはよくわかりません。E-M軸平面「直交する2つのポテンシャル」があれば、フリーエネルギーは可能というのを記事に書いたことがあります。エッシャーの「滝」と同じです。具体的(M軸上の)仕組みはわかりませんけれど。「望ましい結果を得るために、エネルギーの流出をみる仕組みを講じればよい」と言われても、簡単にはわかりません。
>モノリスの比率
どうでしょう。清家氏のメビウス巻きと似た発想?これまでの考察で時間は存在しない。運動P_のみだとすると、回転の何か?単極誘導モーターの電源に「脈流」を用いるなどでしょうか?アイディアはあるのですが、低電圧大電流が必要ですので、まだ実験していません。FETやIGBTを用いるにしても当方の技術力が問題です。
残念ながら電流制御のパワエレは原理しか知りません。学生時にSCR調光器作ったくらいですね。
ほぼイメージの表現なので。言葉で表そうとするほど鮮明ではなくなります。いくつか混ざってます。
先日の夢は、科学者の集会所・寄り合い処に行って、2人の研究者と話すものでした。広めの和室で、赤茶の座布団に座ってまったり。玄関の靴箱の上には数種類のエネルギー利用模型が並んでいました。このシーンの前には、動脈~細胞~静脈、静脈から再び動脈へ戻す機構が図示されました。エネルギーは細胞で一方的に”消費”されるのではなく、次の経路で必要とされる状態に変化することを示していました。残念ながら起きた時には既に鮮明ではなくなっています。(肺は静脈からの血液を必要としています。後付け理解です。) 日中や夢でこのようなパターンを受け取ることが時々あります。
Φさんがエッシャーの滝と脈流を出したのは、力の伝達距離が短いことと関係があるのでは? 絵では滝部分が上から下へ、水路が下から上に流れています。この向きを逆にして考える。滝部分は下から上、水路は上から下。我々が主に利用できるのは水路の部分で、滝の部分の作用を起こすためにパルス的に入力する。
さて、自分でも何を言っているのだろうとは思います。
舟が川を下っています。これを土手から見ると、上流から下流に直線的な傾き(勾配)があり、舟が滑っていくと考える。
舟に乗ると別の視点を持てます。舟の”今・ここ”を基準とします。進行方向後方は舟からの距離に無関係に全位置が上流です。前方も同じく舟からの距離に無関係に全位置が下流です。遠くの上流地点Aと遠くの下流地点Bの間に作用があると考えると直線で表現できる。では、舟のすぐ前後に傾きをつくって動かすとしたら、次数の高い曲線で考える方が理に叶っているように思う。舟の前後に1:2:3の傾きがある場合と、1:4:9=1^2:2^2:3^2の傾きがある場合です。1:4:9は最も簡単な非線形のモデルです。それも空間の進行方向に対してです。魚の動きが局所的な非線形ではと考えます。
局所的な作用を消されずに循環させるには、到達距離以下で作用を連鎖させる必要がある。一例として、磁石は磁力線方向に空間非線形特性を持っています。
3つが直交すると電・磁・力で、これは相互変換しかできない点の作用です。これを空間方向に3点に拡張します。2つの支点と1つの作用点で非線形の関係性にする。
やはり、何を言っているのでしょうね。言葉が邪魔です。ネガの分析も組み合わせが多すぎていまいち進みません。誤差が大きくて直線にならない。
>電流制御のパワエレ
研究を始めた当初、ドライバIC ttp://akizukidenshi.com/catalog/g/gI-06193/ を使ってハーフブリッジの回路を作りました。 フルブリッジもやってみたのですが、両方が同時にON状態になるので調整に苦労しました。
>何を言っているのでしょうね
こういうイメージがよく(出る?受ける?)ます。どう理解したものか・・。夢を分析すると数日前、幾週間か前の複数の出来事を混ぜたものだと判明することがあります。そういう夢は記憶の整理の場合があると思います。
夜中に特定のテーマに関する考察を行うことにより、少しずつ進めることができます。出たイメージとその解釈は別物ですので注意が必要です。強いはっきりしたイメージはあまり重要ではありません。 今は、精神科学と社会科学が身につかねば物質科学の進歩はあり得ないと理解しましたので、古史古伝について調べています。E-M軸平面の実体が原因で、物質が結果であるという視点に立てねば、次へ進めないと思っています。
先日、旅行の帰りに綾部市にある大本本部へお参りしました。神道系ですが鳥居はなくて本殿と拝殿がありました。二礼二拍手一礼は、明治政府が決めたことですし、大本ではどうか知りませんでしたから、「拝」のみ行いました。また、7日にヲシテ研究者の池田満氏による講習会に参加しようと思っています。参考文献を少し読みましたが、難しいです。
国之常立神(くにのとこたちのかみ)がなぜ、金神(こんじん)=祟り神として退隠させられたのか?です。どうも2世紀には、日本に景教が入ってきていたようです。ハリー山科氏は、8世紀?までにはキリスト教は日本に組み込まれたと述べています。道理で宇野正美氏のとおり、神道にユダヤの神の形式が見られる訳です。どうやら、【(来る者は拒まず)何でもありの縄文哲学と(信じる者しか救わない)契約の民との対峙】という構図が見えてきました。現状、縄文哲学は風前の灯火です。
>ネガの分析も組み合わせが多すぎて
私の中では、(運動/時間)が問題(未決定)で、時間を含むエネルギー[ML^2T^(-2)]が近似。「物質とエネルギーは、本当は一つの実体の異なる側面」。自然科学は近似だ、ということで決まりです。何よりネガの紡錘図形の解釈が他の4つにほぼ等しいのは、大きな傍証です。戸惑いはありますが、精神科学と物質科学の方向性が同じということは重要な指標です。
意識にプログラムしておけば、イメージは勝手にやってきます。夢で見る内容は身体の全細胞が会話し合い、まとめられたものだと思います。そして解釈・連想する必要も無く、直接的に回答が描かれることが多い。
宗教や造語で表現されるモノはよくわかりません。人は宗教に属するものではなく、人が宗教的属性を持っているだけです。宗教者が言う統合は、通信業界PRの「つながる」と同じ感じがします。被所属への欲求・不安を煽っています。勝手につなげるな。接続先は自分で選びたい。皆が”私”という宗教を持っています。一人一宗教、70億総哲学者になれば良い。
弧理論に関して言えば、積分回転こそが原因です。それ以前に遡って考えることはできません。EとMが異なる側面であるならば、相互変換するにはどちらも結果である必要があります。
ネガや足跡は私にとって鏡ですね。自分がなにをどのように考えるのかよくわかる。また、有限情報から構成されるただの図面です。造語を必要とする曖昧な信仰を排除した、物質科学の記述だと考えます。仕事でやっていると忘れがちですが、一般の方は回路図もプログラムも読めません。そういった特定分野の内容であることは確かです。勿論、その内容が必要とされる社会で生み出された。入り口はこの図面だけで十分です。だから、UFOや宇宙人などのオカルト系の情報は無視しています。一般に広く受け入れられているあらゆる分野の発想にこそ、必要とされるものの鍵が埋もれていると思います。
>全細胞が会話し合い、まとめられたもの 解釈・連想する必要も無く
そう思います。しかし、私の場合リラックスした状態で湧くイメージは、別途解釈する必要があります。「これは何か」と意識した瞬間、イメージの流れが途切れます。連続したイメージは「意識しないで」覚えておく必要があります。これが難しいです。
>一人一宗教、70億総哲学者
昔から自分だけの宗教観を持っていました。今は、自他をどうとらえるかという「考え方」だけが内にあります。皆が考えればよいことで、人を巻き込むなです。
>相互変換するにはどちらも結果である
まだわかりませんけれど、「因果はめぐる糸車」という番組がありましたね。エリートキツネに強く感じます。これを人にあてはめて、恐怖を感じています。皆に理解して欲しいです。意識的に回避するしか文明の存続はあり得ないと確信しています。生まれながらにお金に執着する人の割合が今現在どれくらいかということです。
>有限情報から構成されるただの図面
おわかりのように「極限までそぎ落とした情報は数字」です。これを偶像化したのがお金です。お金は究極的には何も情報をもっていません。一方、ネガや足跡など幾つかの情報は、膨大な哲学・知識を極限まで織り込んだ(簡略化)図形です。適正な解釈がなされるならば、背景にある哲学・知識がとめどなくわき出てきます。いわば文明そのものを凝縮したようなものです。現代的な表現をすれば、知的所有権にかかかる官庁への提出文書のようなものです。含まれる情報を実際の事物に適用することで意匠や構築物・機械装置に展開でき、多くの人の利便に供されるものとなります。 こう考えると知的所有権情報をお金と交換するのは愚行にすぎないことがわかります。
>物質科学の記述 特定分野の内容 入り口はこの図面だけ オカルト系の情報は無視
拙ブログ記事に記しましたように、ネガに織り込まれた情報が物質科学に関するものだけでなく、精神科学とおそらく社会科学も含まれていることが分かってきました。本当に驚いています。
さらに驚いたことに、どうもテレパシーのシステムは、悪魔崇拝などシャーマニズムも含んでいるようなのです。まだ詳しいことを理解できていませんけれど、恐らく宇宙に善悪はなくて「選択肢」が存在するのだと思います。アダムスキーを支持する人が「宗教にしてはいけない」に反しているのは皮肉です。オカルトも「在る」ことは事実です。ですからオカルトの存在も何を意味しているのか、咀嚼しておいた方がよいと判断しています。
>広く受け入れられているあらゆる分野の発想にこそ、必要とされるものの鍵が埋もれている
まったくその通りです。普遍的な哲学にこそ核心がありそうです。 でも現実世界は、ハローウィンやクリスマス、洋画など何を見てもオカルト・魔法ばかりでうんざりです。何でも飲み込む日本人は、ハローウィンもオカルトでなくコスプレにしてしまう所が凄いです。
>「これは何か」と意識した瞬間、イメージの流れが途切れます。
これはある程度訓練できます。”私 vs 対象”という見方を止めれば良いです。
私がずっとやっている方法は、電車で可能な限りぼーっとすることです。電車が代わりに走ってくれているのだから「私は電車にとっての荷物である」として、ひたすら荷物を演じます。といっても、やることはありません。電車が走るのを応援するか、ぼーっと眺めているだけです。
そのうちパターンに何種もの様相があることがわかってきます。図形イメージ、人との会話・場所、音だけ、ふわっとした感じ、その印象の中だけに生きている(“私”がいない)、などがあります。
物理的・生理的精神作用については誰も指摘しませんけど、携帯機器をずっと使っていると感覚器官が鈍くなります。電車で携帯機器をいじるのは今後廃れていくでしょう。言い換えれば、感覚器官を麻痺させるためには飽和するほどの大量のノイズを与えることです。
>(“私”がいない)
うーん イメージが何かはこちらが判断せねばなりません。どこまでが全部かも分かりませんので、貯め込めないのです。意識的になってしまう時点で流れが止まります。これまでの経験でほとんどのイメージが無意味であることは確かです。わずかにかすかに感じることだけを元に研究の方向性を決めています。どうもかすかな印象は(シイ)からのものでは無いように思います。
>携帯機器をずっと使っていると感覚器官が鈍くなります。
確か2.4Ghzは電子レンジの周波数と同じはずです。耳元にアンテナがあるのは問題ですね。細胞の内部構造と同じくらいの波長だったはず。長時間の使用は、何か影響があると思います。常に携帯を使うようでしたら、頭から離せる有線のヘッドセットを使うべきかと。
>感覚器官を麻痺させるためには飽和するほどの大量のノイズ
そうです。3S政策を知ってから、メディアからの印象に敏感になりました。良い内容を含んでいても場面によっては、嫌悪感が出て消すことがあります。