学校教育のテストにおける問題には、必ず正解とそれ以外があります。 テストでは如何に素早く正解を選択し、それ以外を思考の外に追いやるかが問われます。(時間制限がありますから。) このとき排除された選択肢に何ら思考を傾けることはしません。
ところが現実には、正解があるとは限りませんし、テスト問題よりはるかに選択肢があります。そもそも問題の有無さえもわかりませんし、例え問題意識を持っても解への方向(方策)がわかりません。
ですから、教育の程度が高い人ほど(自身が)選択肢から外したことにについて、興味を持ちませんし関心もありません。 従って切り捨てられた事項に対して、何らかの真実が潜んでいるかも知れないという想像もしません。切り捨てた者に対して冷酷です。
よって、教育レベルの高い人ほど、陰謀論・都市伝説を一笑にふした上で、嘲笑の対象にします。そこで思考を停止します。正解と思う方向へ思考を集中します。
陰謀論・都市伝説は、「存在する」からこそ嘲笑できるのです。宇宙において「無」であるものに対して嘲笑さえできません。 教育を受けた人ほど、非論理的な非科学的なものに対して「何らかの存在の意義があるかも知れない」ということに思い至らないのです。 これこそ支配者にとって都合のよい人物像です。 ゼロか1にしか考えが至らない人物像が理想なのです。仮に”1”が正解ならばゼロは切り捨てたのですから、ゼロに存在の意味を見いだすことは絶対にありません。 ですが現実の事象には、そのようなことはまずありません。実に複雑です。
ですから教育とは、支配者にとって都合のよい人物を選び出すシステムです。
ご褒美は形代(かたしろ)であるお金です。(願いを込めて川に流してください。)
追記 現代に於ける「市民」とローマ時代に於ける市民とは異なります。ローマ時代の奴隷と比べると、日常自らの衣食住を自力で稼がねばならなくなったのが「現代の市民」です。現代の市民は、奴隷より条件が悪いようです。奴隷ならご主人が衣食住を与えてくれますから。代わりに市民には、自らが奴隷であることを気付かせないように配慮が必要です。
さらに追記20160928
「早く結論を言え!」と急かす上司に誰でもうんざりしたことがあるでしょう。彼も私も「市民」という奴隷です。
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