数学者岡潔は、講演「(4)自然科学は間違っている」で、次のように述べています。
- 自然科学者は「分かる」と思っている。
- 顕微鏡で見るとか、工夫してもよい。しかし、最後は肉体に備わった五感で分かるものでなければいけない。
1.の「分かる」の語源は、「分ける」ですから
分ける→分かる→理解する→モノの理(ことわり)を解(かい)する→文字通り「物理」のこと→自然科学を成す ということです。
同時に、2.五感で分かるものでなければいけませんので、
図1 (五感でわかる範囲)
に示す赤い括弧の範囲になければなりません。図1の右端(極大)も左端(極小)も「五感の範囲」を越えています。
つまり、自然科学は、「これまでに知られたこと」を「分ける」ことにより理解しているのです。細分化しているだけで「パイ」自体は大きくなりません。 実際やられていることは、植物や微生物のDNAを解析し、有用と思われる遺伝子配列を特許申請するという、どこか腑に落ちない行為です。 行き止まりであることが自然科学の限界なのです。
「五感で知る」ことができるのは、古典的な範囲であることは明白です。 これを越えるには顕微鏡や望遠鏡を用いることになります。こうして「これまでに知られたこと」を蓄積してきました。 しかし、素粒子加速器や宇宙望遠鏡を駆使しても、「(五感による)知る」によって得られることの限界を迎えています。
例えば、放射線は、無味無臭ですから五感では分かりません。大量に浴びれば「火傷」として分かります。そして、大抵の場合、放射線は有害です。 仮に理論的に予言された素粒子が発見されたとします。そして、その素粒子を大量に浴びたとして、五感で分かるというレベルになれば「火傷」として認識されるでしょう。 理論と火傷との間には非常に大きな隔たりがあるということです。
ヒッグス粒子が理論通りに発見されましたが、管理人にはとても違和感があります。 ある種の放射線が五感でまったく分からないのと同様に、ヒッグス粒子もまた五感で分かるとは、とても思えないのです。
それに対して「知る」という行為に本来は制限がありません。「分かる」とまったく異なる仕組みによって我々は、「知る」ことができます。
音楽家は、活動の性格から人前で演奏することが多いです。クラシックの作曲家
写真1 こちらより拝借
宮川彬良(みやがわあきら)氏は、某TV番組で次のように述べていた記憶があります。
「自転車に乗っているときや、乗り物で移動しているときに、新しい曲のイメージが降りてくる。」
確か、こんな説明でした。音楽理論を知っている、あるいは分かっていれば名曲が書けるかというと、そのようなことはありません。 他にも似たようなエピソードが幾つもあります。
新しく「知る」というのは、このようなことをいいます。ただし、ある人が何々することを「知った」というのは、これに含まれません。 数学者岡潔は、「自然科学は自然そのものではない。絵を描くとき画用紙があるようなもの。自然科学は簡単な模型である。」と述べています。 彼の言葉から自然科学に限界があることは、明らかなのです。
自然・宇宙を「知る」には、自然科学による「分かる」より多くのことを知ることができるだろうということです。 それが「想念は伝わる」ということの意味です。
追記
結局、五感で分かる限界が自然科学の限界だということになります。 「それ以上に何がある?」とお考えの方には、創造・創作という言葉は存在しないことになります。
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