シラス・ウシハク  シラスは「領る」ではない 「知る」である

前回、自然科学の限界は、<分かる>と<知る>の違いにあると述べました。 <知る>の根拠となるのは、G・アダムスキーによる「想念は伝わる」という特性を元にしています。

想念が伝わる具体例を挙げます。 3年ほど前に、某週刊誌のみだしに「ユーミン {音楽の神様が降りなくなった}」というのがありました。 ユーミンこと松任谷由実氏は、数多くのヒット曲を生み出したシンガーソングライターです。 その彼女の作曲過程が前回ご紹介したクラシック作曲家の宮川彬良氏と、恐らくは同様の手法を用いていることかと推測します。

また、ポール・マッカートニーによる「Yesterday」、並びにサザンオールスターズの桑田佳祐氏による「いとしのエリー」の2曲に関しては、まったく同じエピソードを読んだ記憶があります。(以下、ソースは失念)  『ある日、とても良い曲(メロディー)ができたとメンバー(ポールはビートルズ、桑田はサザン)に曲を聴いてもらったけれど、できた曲があまりに自然で素晴らしいので「既に知られている名曲を知らずにコピー(あるいは真似てしまった)のかも知れない」ということで、あらゆる楽曲を調べまくったけれど、見つけることはできなかったので安心した。』 というお話でした。 つまり、ご紹介したエピソードにおける「過程」は、ほぼ似通ったものであり、音楽理論を駆使して「捻り出した」ものでは無いだろうというのが管理人の考えです。

私たちは、音楽家などをはじめとする芸術家の活動や技術者・科学者のアイディア・閃きを「創造性」なる言葉で一括りにします。 しかしならがら、これらの活動は、明らかに「分けるによる分かる」ではなくて、「知る」によっていることがわかります。

 

先般より、ヲシテ文献に記されている縄文哲学について考察を続けてきました。その過程において「天皇によるシラス統治」と、その他の国々による「ウシハク統治」を知りました。 以下の考察は「オロモルフ」さんのホームページにある論考の一つ、明治憲法第一条「万世一系と統治」を参考にしています。

 

ウシハクについて。 ウシ(主)+ハク(着)で、そのものの主人として身につけるの意があります。ハクは、例えばズボンを履く、靴下を履くというように、身につける、そのものを所有、あるいは領有する意味になります。直接的な支配のことをウシハクといいます。

シラスについて。一般的な国学あるいは辞書では、シラスは<シル>の尊敬語です。

シルには二つの意味があります。

甲) 領/領有する/支配する/統治する     乙) 知/知る/知識を持つ/認識する

(白川静:字訓)によれば、「しる[知]」の意味は次の通りです。

心にさとり、理解することをいう。「わかる」は分別することによってその異同を知ることであるのに対して、「知る」は全体的に所有すること、「領る」ことによってその全体を把握することをいう。「領る」ことは尊貴の人のなすところであるから、「令知」という敬語的な形の語がある。

後半の「領る」が甲)の意味であり、その尊敬語が<シラス>であるということです。 シルの変化は恐らく、 シル→シラス→シラシメス→シロシメス ではないかと思われます。 ですから、シラス=「天皇による統治」とは甲)による解釈となります。 辞書によれば、

「ウシハク」は直接的支配を意味し、「シラス」は高度で政治的・宗教的支配を表し、「シル」はより高次の統治の仕方を言う語である。領にその両訓がある。

とされます。ウシハクより高次の統治の仕方というのは、まったくの意味不明です。別のサイトによれば、天皇の徳による統治とありましたけれど、歴代天皇の何をもって徳があるのか不明です。(勿論、天皇が世界の平和と国民の安寧を日々祈られていることに敬意を持っています。)

一方、ヲシテ文献に記されたクニトコタチさんやアマテルカミさんの行為は、シラスではなくて、<知る>であろうと気付きます。  最初の人であるアメノミナカヌシさんやクニトコタチさん以前においては、「アナニスミ ヒトデナシ」の状態でした。 クニトコタチさんは、人々がそれまでアナに住んでいたのを「整地し、柱を立てて茅で葺き」、「収量の多い木の実をつける品種を栽培し、備蓄」、そして「言葉を直し整えた」 そして、「それらを人々に知らせた」のです。 これらは、今で言う科学技術(農業・建築・あるいは土木技術)です。 これらをどのように<知った>のかが<シル:知る>であったはずです。それ以外に方法がありません。 この<シル>を強く受け継いでおられたのが、アマテルカミさんとトヨケさんだったろうということです。

ついでながら、クニトコタチさんやアマテルカミさんの行為の結果として、人々に慕われることによってクニができたのであって、意味不明な統治ではなかったのです。

冒頭の「想念は伝わる」ことを利用して<シル:知る>ことができるならば、必ず生活は善くなるはずです。 ヲシテ文献の解説を読んでおりますと、クニトコタチさんやアマテルカミさんは、今で言う国民全員が<シル:知る> をできるようになるべきと考えていたように思います。

古事記・日本書紀にある「シラス」のように、天皇お一人に「シル:知る」を押しつけて、<知る>を<領る>と誤解した上で、<シル>という行為を王権と考え違いをした結果、<シラス>としているように思えます。

平城京あるいは平安京の御所にある清涼殿内の東ひさしの東南に、床を漆喰で固めた「石灰の壇」がありました。古より天皇は、「石灰の壇」にて毎朝、遙拝が行われていました。 現在、皇居の宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)において三種の神器への祈りがなされているようです。 皇祖・天照大御神の御霊とされる八咫鏡は賢所に祀られています。現在では遙拝について、誤解された上で形骸化していると考えられます。

ヲシテ文献においては、ミクサタカラと呼ばれています。「タマ」と「カガミ」と「ツルギ」の三種あります。 どうもミクサタカラの「タマ」は精神科学、「カガミ」は社会科学、「ツルギ」は物質科学を象徴するもののようです。 ミクサタカラは御霊や権力の象徴ではありません。  ことに「タマ」は精神科学、つまり「トのヲシテ」の「ト」についての科学を象徴しています。 オカルトやスピリチュアル系のものではありません。 「遙拝」の真の姿は、祈祷や呪術の類などではなく、伝わる想念の受信が目的なのです。  何故なら、アメ(アメノミヲヤ)(宇宙の因)からの想念は、タマシヰのタマを通して受け取る(シル:知る)ことによってのみ新しい知恵を得ることができるからです。(タマシヰのタマは潜在意識とでも表現できます。)

どうも、弧理論(Ark Theory)の考え方によれば、想念は物理現象である可能性があります。 弧理論による「E軸上の実体が、M軸に直接投影されることによって、神経繊維内の原子殻電子に電位を生じさせる」と解釈できます。  E軸上の実体は、直接投影されることにより、想念となるならば、想念は位置を持ちません。 すると想念は、A→B あるいはB→Aへ伝搬するようなものではないと考えられます。つまり、M軸内に満遍なく存在するようなものになります。想念は無辺ということです。 (仮説の上での仮説に過ぎませんけれど。)

追記

昨日、滋賀県高島市にある中江藤樹記念館へ行ってきました。 地図

係の人から中江藤樹について一通りお伺いした後、図書室に保管されているホツマツタヱ(和仁估安聡写本)のコピーを拝見しました。 キツノナト ホムシサルアヤを探して少し感動しました。 どうも考察の結果、

ヰクラムワタ

ネコヱワケ フソヨニカヨヒ

ヨソヤコヱ コレミノウチノ

メクリヨリ ヤマイアラネハ

ナガラエリ

ネコヱが想念にあたる役割を担っているのではないかと考えているからです。前後の意味からヰクラとムワタとヲが先に分かっていないと、ネコヱに分けることができません。因果関係が成り立たないのです。 人は夢を見るのも思考するのも母国語です。例え声帯(ムワタの一部)を使って音声を発しなくても思考はできます。この声を出さない思考を縄文の人たちはネコヱと述べているのではないかということです。用例は10カ所あるようですけれど、全てを調べたわけではありません。悪しからず。

 

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Φ について

2010年より研究しています。
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