昨年より、縄文哲学が記されたヲシテ文献について調べてきました。 その核心部分は
「①アメ(アモトまたはアメノミヲヤ) から来た ②タマ と地上の ③シヰがヲにより結びつき、シヰに物質が集まって④ヒトとなる」でした。 繋がりを記すと
・アモト → タマ+シヰ→物質(ヒト)
ということです。文献の解説によれば、アモトとの行き来により恵みを受けて、力を合わせることが「トのヲシテ」の核心だとのことです。 なお、縄文哲学において、タマ+シヰはヰクラ(5つのクラ)からできており、これがヒトのココロの本体。そしてムワタ(6つのワタ)はヒトの肉体の内訳です。 上記を書き換えますと
・アモト → ヰクラ → ムワタ(ヒトの身体)
となります。注:タマノヲのヲは省略しました。
一方で、G・アダムスキーによる宇宙哲学の核心部分は
「1.宇宙の意識(因)を源とする 2.ソウルマインド と 3.センスマインド(感覚器官の心)を介して物質である4.ヒトができている」というものでした。 繋がりを記すと
宇宙の意識(因) → ソウルマインド+センスマインド(感覚器官の心)→物質(ヒト)
ということです。 宇宙哲学の核心部分は、宇宙の意識(因)と2つのマインドの間は”想念”により結ばれているということであり、こうしてヒトは宇宙の意識(因)から学べる(シル:知る)ということです。
管理人には、①=1. ②=2. ③=3. であると見えますし、アモトとの行き来による恵みのことは、想念により結ばれていることによる(シル:知る)に等しいと思えます。
G・アダムスキーは、ポーランド系アメリカ人です。西洋人ですから自然科学的な考え方を持たざるを得ませんし、講演する相手も同様です。ですから、宇宙哲学の説明はどうしても部分に分けることになります。 センスマインド(感覚器官の心)には、五感(視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚)が対応しており、それぞれに肉体の5つの器官(目・耳・鼻・舌・手指皮膚等)がぶら下がっているというイメージになります。
同時に、G・アダムスキーは、想念は生物あるいは無生物どころか、無機物である石ころにも在ると述べています。 管理人が永年受け入れがたかった点です。 自然科学的思考を持つG・アダムスキーは、身体を部品と捉えざるを得ない状況でセンスマインド(感覚器官の心)を5つの器官として説明すると同時に、石ころなどの無機物にも想念が及ぶと説明したのですから、矛盾が生じるのは当然でした。
一方で、縄文の人たちは、多分に内観的です。これまで読んだ資料によれば、医学用語でいえば”内科的”な自己観察によって「アモト と イクラ+ムワタ+タマノヲ」に気付いたと思われます。言い換えますと、「想念は伝わる」により(シル:知る)ことができたと思われます。
一般的な解説によれば、ヰクラ+ムワタを漢字文献の「五臓+六腑」に当てはめる向きがありますけれど、これは明らかに間違いです。 ヰクラはココロの本体ですから、五臓ではあり得ません。 ムワタは内科的な身体を意味しますから、六腑でもありません。 つまり、ヒトは社会的要因から、緊張時に「手や脇の汗、手足の痺れ、心臓の鼓動の変化、胸の苦しさ、赤面、顔面の蒼白、胃痛など」様々な症状を呈します。
ムワタが(身体)であるからこそ、このような症状を含めた説明が可能なのです。 しかしながら、ヒトの思考の中心が大脳にあるという現代の知識については、縄文哲学で説明できません。 また、G・アダムスキーによるセンスマインド(感覚器官の心)も大脳との関係も、石ころとの関係もうまく説明できません。
もし、弧理論(Ark Theory)の考え方による
図1
基本形が、①E軸上の実体、④投影された物質が寄り集まってできたヒト とするならば、②タマ(ソウルマインド)と③シヰ(センスマインド)を補い、かつ想念がE軸上の実体と物質との間を繋ぐと考えるならば、弧理論の考え方によって全ては繋がるだろうと予想できます。
図2
E軸上の実体が、M軸に直接投影されることで、大脳神経繊維内にある原子の殻電子へ運動を起こすならば、つまり神経繊維に電流が流れる結果になります。 この作用は生物である必要はありません。 自然科学的思考において、思考の中心は大脳であるとされます。すると身体の各部の症状(上記の心臓の鼓動変化など)は説明できません。
結局の所、現在は仮説に過ぎない弧理論(Ark Theory)は、いままで理解不能であったココロの本体について、合理的に説明できる可能性があるように思います。
考えてみますに、図1も図2も元はといえばG・アダムスキーによる
図3
紡錘図形に端を発しています。
昨年10月に 冒頭の様に縄文哲学と宇宙哲学が、とても「似ている」どころか「ほぼ等しい」と気付いた驚きよりも、同時に永年「G・アダムスキーによる」宇宙哲学と紡錘図形は全く異なるものだと信じて疑わなかったことが、同じものだということに気付いたことが本当に驚異でした。
縄文哲学と宇宙哲学を融合させるには、弧理論の考え方を考慮に入れつつ進める必要があるようです。
縄文哲学のミクサタカラは、タマ、カガミ、ツルギです。過去記事にタマ=精神科学、カガミ=社会科学、ツルギ=物質科学に対応するそれぞれの象徴だと書きました。
ある科学者は、「まず、精神科学と社会科学が出てくる。その後物質科学が出てくる。この三つに明確な仕切りはない」と述べています。
タマ(精神科学)とカガミ(社会科学)を縄文哲学と宇宙哲学の融合を目指すことによって整備し、やがては弧理論の考え方から、タマとカガミに相応しいツルギができるのではないでしょうか。 弧理論は、ツルギの候補だと考えています。
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